◆ ◆ ◆ 唯識の世界 ◆ ◆ ◆
目次 1.もう一人の私について 2.唯識(ゆいしき)の履歴書 3.唯識と言う名の由来 4.八つの識 5.唯識と守・破・離 6.唯識の根本哲学 7.阿頼耶識が溜め込むもの 8.人生を演出する阿頼耶識 9.素質・性格と阿頼耶識の関係 10.阿頼耶識は善か悪か 11.唯識と仏性 12.煩悩の原泉―末那識 13.唯識が考えている煩悩とは?−@ 14.随煩悩の検証―@(忿) 15.随煩悩の検証―A(恨) 16.随煩悩の検証―B(覆) 17.随煩悩の検証―C(悩) 18.随煩悩の検証―D(嫉) 19.随煩悩の検証―E(慳(けん)) 20.随煩悩の検証―F(誑(おう)) 21.随煩悩の検証―G(諂(てん)) 22.随煩悩の検証―H(害(がい)) 23.随煩悩の検証―I(驕(きょう)) 24.小随煩悩の検証―まとめ 25.中随煩悩の検証―@ 26.中随煩悩の検証―A 27.大随煩悩の検証―はじめに 28.大随煩悩の検証―掉挙(じょうこ)・婚沈(こんぢん) 29.大随煩悩の検証―不信(ふしん) 30.大随煩悩の検証―懈怠(けたい) 31.大随煩悩の検証―放逸(ほういつ) 32.大随煩悩の検証―失念(しつねん) 33.大随煩悩の検証―散乱(さんらん) 34.大随煩悩の検証―不正知(ふしょうち) 35.随煩悩の検証―終わりに 36.悟りに向かう道−はじめに 37.悟りに向かう道−(1) 38.悟りに向かう道−(2) 39.悟りに向かう道−(3) 40.悟りに向かう道−(4) 41.悟りに向かう道−(5) 42.悟りに向かう道−(6) 43.悟りに向かう道−(7) 44.悟りに向かう道−(8) 45.悟りに向かう道−(9) 46.仏の道を歩む−(1) 47.仏の道を歩む−布施―(2) |
〜はじめに〜
今日2004年12月8日は、2467回目となるお釈迦様の成道会(じょうどうえ、悟りを開かれた記念日)であります。たまたま、この日に『唯識(ゆいしき)の世界』を開設することになりましたのも、何かの縁ではないかと思います。それは、唯識がお釈迦様のお悟りを深層心理学的に探求したものでもあるからです。
唯識は、科学的理性を重んじる現代人にも成る程と思わせる心理学、哲学とも言える学問でありますと共に、私達の考え方を根本的に転換させて、悟りの世界の入り口まで私達を案内し、私達に生き生きとした人生の扉を開いてくれる教えでもあります。これから皆様と共に勉強して参りたいと思います。
さて、私が"唯識(ゆいしき)"と言う言葉に初めて出会いましたのは私が未だ大学生の頃の井上善右衛門先生のご法話だったと思います。ただ、どちらかと申しますと"唯識"よりも"阿頼耶識(あらやしき)"と言う言葉の方の印象が強かったように思います。そして"阿頼耶識"は『荒屋敷』と言う"得体の知れない心"と言うニュアンスで私の"頭に刻み込まれていた"ような気が致します。
そしてその後、私は社会人となり結婚もし二人の子供も生まれて、所謂中年に差し掛かった(37歳前後)昭和57年に、『唯識学研究』(深浦正文著)の本を購入致しました。その時買い求めた動機は今明確には思い出せませんが、井上善右衛門先生のご法話に度々出て来る"唯識"と言う言葉から、お釈迦様の教えを理論的に解き明かしているのは『唯識』だと言う確信からでは無かったかと思い返しているところであります。
その考え方は今も変わっていませんが、『唯識学研究』(深浦正文著)と言う本は、あまりにも難解で、1頁を眺めて(読んでではなく)、読み進むことを断念したと言う経緯があります。それは今から20年前の事であります。
その後も、井上善右衛門先生のご法話、ご著書の中には度々"唯識"と言うこと、"阿頼耶識(あらやしき)""末那識(まなしき)"と言う言葉が出て来ており、最近は「唯識は仏教の深層心理学だ」と言う認識を持っておりましたが、前述の『唯識学研究』(深浦正文著)の難しさから来る躓き(つまづき)があったからだと思いますが、真正面からの勉強を避けて来たように思います。
ところが、先月の初め、娘婿の企業内研修の内容(リーダーシップに関するもの)に興味を持った私は、研修講師の著書を買い求めたのでありますが、たまたまその買い求めた本屋さんで、私にも分かり易く説いてくれている唯識の本が目に付き、早速購入致しました。
購入した本は、岡野守也氏の唯識のすすめ―仏教の深層心...NHKライブラリーと言うものでしたが、昔挫折した本とは全く趣きの異なったもので、本当に分かり易く、また新鮮でありました。その後も、太田久紀氏の『唯識の読み方』と言う本も一気に読み、いよいよ唯識を本格的に勉強しようと言う気になった次第であります。そして、これは私だけに止めず、仏法を求めている人々、また仏法に関心の無い一般の人々にも、人生を生きぬく上で大変役に立つものだと思いまして、この『もう一人の私との出会いー唯識の世界―』を開設することになった次第であります。
今朝(12月8日)の朝日新聞の社説に『今日は何の日?』と言うタイトルがありました。私は、一瞬、朝日新聞がお釈迦様の『成道会(じょうどうえ)』に言及するようになったかと思いましたが、全く異なっていました。12月8日は「日本がアメリカの真珠湾を攻撃し、第二次世界大戦が勃発した日」であると言う事でした。アメリカは、「リメンバーパールハーバー」と言う合言葉で、9.11と同様、アメリカ国民の殆どはこの日(アメリカ時間では、12月7日)を決して忘れないそうですが、仕掛けた日本国民は、どうやら、10人に1人位しか知らないそうであります。しかしそれも問題でありますが、12月8日がお釈迦様の成道会である事を知っている日本国民は、どうでしょう?・・・知識の幅広い朝日新聞の社説執筆者が全く忘れているところを見ますと、『12月8日はお釈迦様の成道会である事』を知っている一般国民は、1万人に1人或いはそれ以下かも知れません。
同じ12月8日と言いましても、戦争の始まった日とする人、お釈迦様の成道会とする人、或いは、誕生日の人もいるでしょうし、家族の命日の人もいるでしょう。ある夫婦にとっては大切な結婚記念日かも知れません。人夫々、12月8日の捉え方は異なります、12月8日の見方が異なります。この見方が異なると言う考え方は、物事・現象に関しましても同じ事が言えるのだとするのが唯識の根本的な考え方のようであります。 生も死も苦も悩みも、見方を変えれば、全く別のものになるのだと思います。
2004年12月8日