◆ ◆ ◆ 唯識の世界 ◆ ◆ ◆
30.大随煩悩の検証―懈怠(けたい)
「懈怠」、広辞苑ではなまけ、おこたること。なおざり≠ニ説明されているのでありますが、懈怠と言う言葉は、私の胸にグッサリ突き刺さってくる響きがあります。自分の弱い心に負けて、決心を破って三日坊主に終わったこと、ついつい安易な道を選んだりした過去の事例が沢山思い出されるからでありましょう。おそらく思い出せない懈怠の方がむしろ多いのではないかとさえ思われます。
この懈怠も、直接的には他人を傷付けるものではありませんが、大いに自分を傷付け、自らを悩ますもとでありますから、大随煩悩に挙げられているのだと思います。
太田久紀師の解説:
『法相二巻抄』には、
もろもろの善事の中に怠りものうき心なり。
といわれている。善事をしないのである。おそらくは、しなければならないという気持ぐらいはあるのだろうが、実行できない。善事が実行できなければ、後退あるのみということになる。人間は生きている限り、前進か後退のどっちかである。とどまることはあり得ぬから、前進しなければ後退のみが残るということになる。
ピアノのことであったのだろうか。一週間練習を休めば誰にもわかる。三日休めば、一般の人にはわからなくても専門家にはわかる。一日の怠慢は、聴衆の誰にも気づかれなくても、本人にだけははっきりわかるというのを聞いたことがある。これはピアノに限ったことではないであろう。人生万事、きっとそうに違いない。
松尾芭蕉(1644〜1694年)に、
一歩もあとに帰る心なし。
行にしたがい心の改るは、ただ先へ行く心なれば也。 (『しろさうし』)
という語がある。俳句の修行も同じなのだ。ただ前に出ていくこと。ふだんの気構えがそこになければ俳句も上手にはならない。
人生が毎日毎日流れているものであるならば、前進していない限り、知らず知らず後退という過ちを犯していることになる。
―引用終わり
懈怠の心が良い結果を産まないことは誰しも分かっていることだと思います。しかし、ついつい懈怠の心に負けてしまうのは一体どうしてなのでしょうか。懈怠だけではなく、総ての随煩悩が苦の原因であることを承知しながら、一生を空しく過ごしてしまうのは何故でしょうか。
唯識では、無意識層の根本煩悩があるからだとして、その根本煩悩を良き種を薫習することによって智慧に変えて行こうという立場を取りますが、その為にも先ずは正しい人生の目標・目的を持つことがスタートになるのではないでしょうか。
私は、この唯識の世界に一歩足を踏み入れた方は、既におぼろげながらも「正しい人生の目標・目的」を描き終えている方々だと思います。ただ、それは飽くまでもオボロゲであって、ボヤケているのだと思われます。それは私自身がそうだからでそう思っているだけのことであります。焦点が定まれば、はっきりとした目標・目的像が現出するに違いないと思います。
ある会社から頂いた今年のカレンダー、いよいよ最後の12月の1枚となりましたが、このカレンダーには毎月、月替わりの教訓が書かれています。12月の教訓は、「金や名誉にとらわれていると、人生の目的を見失ってしまう」というものです。一見、良い教訓だと思いますが、それでは、この教訓の言う人生の目的とは何かとその解説を見ますと、社会から賛美と敬意を受けるにふさわしい実績と人格の形成≠ニあります。では、社会から敬意を受ける人格とは一体どのような人格でしょうか、これには即座に明確に答えられません。このようなボヤケた人生の目的を示されても、人間はいつの間にか懈怠に流されてしまうに違いありません。
このようなことにならないためには、自分の心の奥底から湧き上がる『人生の目的』を自分自身で掴み取らねばならないと思います。その『人生の目的』を教えてくれるのが仏法であり、唯識はその論理と方法論を示しているものだと思います。
今、ここで私が仏法の説く『人生の目的』を明確に私の言葉で表現することは敢えて致しません。それぞれの方が、仏法を学ばれ唯識を学ばれて、ご自分が見付けられて、ご自分の言葉で以って明確にして頂きたいと思うからです。
ただ、仏法の帰するところは、『人身受け難し、今己(いますで)に受く。仏法聞き難し、今己に聞く。 この身、今生(こんじょう)に度(ど)せずんば、更に何れの生(しょう)に於いてか、この身を度せん』と言う三帰依文の冒頭のお言葉にあるのだと思っております。