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唯識の世界


34.大随煩悩の検証―不正知(ふしょうち)

今回でようやく随煩悩の最後の<不正知>に辿り着きました。よくもまぁ、煩悩を綿密に調べ尽くされたものだと、先人のご努力にただただ頭が下がります。私などは、20の随煩悩を教えて貰いながら、今、思い出して言い直して見よと言われましても、精々半分位しか思い出せないと言う、我が煩悩に関する認識不足状態であります。

この<不正知>は、まさに、私の煩悩に対する認識不足を指摘されているように思います。この認識不足は記憶力の問題ではなく、自覚の足りなさから来るものです。親鸞聖人は、ご自分を『煩悩不足の凡夫』と名乗られておられますが、所詮、親鸞聖人と私では、自己の心を問い詰める迫力からして大きく異なるのだと思わざるを得ません。

太田久紀師の解説:
『法相二巻抄』には、
    知るべきことを、あやまちて知るなり。
とある。当然、誰にでもわかるはずの道理がわからない。それが<不正知>である。
<無常><無我>、或いは<空>の自己が会得できぬことだ。自分の、あるままの姿がわからない。
<不正知>は、その智慧の開眼をくらます煩悩である。積極的に人に危害を及ぼすほどのことはない。そんなに尖鋭ではないが、染汚(ぜんま)心に偏在している。直接的に人をそこなうことはない。だが、本人自身はものの道理がわからない、蒙昧のままである。

考えてみると<不正知>という煩悩は、こわい心作用のように思われる。他の煩悩も同じで、煩悩の虜(とりこ)になっている時には、その自分の状態に気が付かない。そこが、煩悩の始末の悪い点なのであるが、<不正知>はその最たるものではないか。正しく知らないということ自体は、何の苦しみも悩みもないのではないか。そして当のご本人は、それでも知った積りになっている。積りになっているところがこわいのだ。

<不正知>を<不正知>と知れば、すでに<不正知>を乗り超えているのだが、<不正知>の状態では<不正知>だという自覚が生まれることもないし、生まれるきっかけもない。<不正知>を解決し得るのは<正知>以外にないことになる。そのきっかけは、<正知>の助けを借りることだ。後に修行とか証(さと)りの問題でこのことに取り組まねばならないのだが、煩悩の仕末の悪さ、やっかいさが実によく読み取られる一例だといえよう。

<不正知>は処理されなければならない。しかし<不正知>の煩悩が動いているうちは、<不正知>の自覚は生まれない。自覚がなければ対処の仕方も見つけるすべがない。そのあたりの矛盾が厄介なのだ。 何度も言うように、仏教の修行の最も重要な根本は、智慧を開発することである。思択力(しちゃくりき)清浄という言い方もある。清浄な思惟が重大な意味を持つ。 正知・正見が得られれば、煩悩の全部が一挙にその力を失っていく。――少なくとも<分別起>=(後天的)の煩悩は足元から突き崩されることになる。それが得られぬから、我見・辺見・邪見などが我が物顔に活動するのだ。<不正知>である限り<不正知>を知ることはない。しかもそれは処理されねばならない。

―引用終わり

さて、20の随煩悩を見て来ましたが、これら随煩悩の源は、末邦識に棲みつく4つの根本煩悩であります。我癡・我見・我慢・我愛であります。この我を無くせというのが唯識の主張だと思います。勿論、そう簡単なものではないことは、それには、<5位の修行>と言いまして、「三大阿僧祗劫(さんだいあそうぎこう)」と言う年月が必要だと言うことです。阿僧祗劫とは無限無数の年月の事ですから、その無限無数の3倍、即ち想像を絶する年月が必要だと言われています。それでも、唯識はひたすら努力せよと説くのか、努力するところに意味があると説くのか、未だ私も唯識の最終結論を知りません。

親鸞聖人は、自分のような「煩悩具足の凡夫」が自分の力で我を無くすことは到底出来るものではないと自覚されたのでしょうか、阿弥陀仏の本願に救いを求められたのだと思われますが、決して<5位の修行>が辛くて「諦め」られたのではないと思います。同じように我に苦悩された七高僧の歩みを書物を通して学ばれ、直接の師である法然上人との出会い、聖徳太子様との縁によって、阿弥陀仏の本願を確信されたのではないかと思います。この煩悩具足の凡夫と言う認識が、阿弥陀仏の本願を仰ぎ信じる心の転換が、親鸞聖人が歴史上の偉大な哲学者でもあると言われる所以ではないか、私はそう思っております。

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