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唯識の世界


27.大随煩悩の検証―はじめに

大随煩悩は、次の八つに分類されています。
掉挙(じょうこ:のぼせあがり)、婚沈(こんぢん:落ち込み)、不信(ふしん:信じるべきことを信じない)、懈怠(けたい:怠り)、放逸(ほういつ:いいかげんさ)、失念(しつねん:もの忘れ)、散乱(さんらん:気が散ること)、不正知(ふしょうち:正しくない知識)

小随煩悩は、夫々が強い性格を持ち、不善(道徳に背く)そのものとして働き、中随煩悩は、小随煩悩の底に常に働いているものです。 そして大随煩悩は、特に悪と言われる程のものではありませんが、誰の心の底にも必ず宿っている煩悩であり、小随煩悩と言う具体的な形を取らせる場合もありますが、直接他人を傷つけることは無くても、我ながら情けなくなる心根と言うべき煩悩であります。

この大随煩悩に関して、岡野守也師は、次のように自戒を込めて平易に解説されています。

『我々はちょっといいことがあると、直ぐにのぼせ上がります。ちょっと悪いことがあると、また直ぐに落ち込んでしまう。本当に知るべきことを認識して素直に信じることがなかなか出来ない。自分の好きなこと、自分に都合のいいことなら熱心にするのですが、大事なことについては怠けてばかり、勝手気ままにふるまって、せっかく学んでもすぐに忘れる。この失念、もの忘れが煩悩の中に入っているのはとてもおもしろいことです。大事なこと、どうやったらよく生きられるか、真理の言葉、そういうことに出会ってせっかく学んでも、そのときは「なかなかいいお話ですね」と感動したりして聞いているのですが、もう帰り道には忘れている。そのくせ、どうでもいいこととか、昔の恨みとかはいつまでも忘れない。気晴らしについては、あれが面白いとか、こっちが美味しいとか、これが楽しいといって気が散る。いろいろなところに気が向かう。つまらないことや、どうでもいいことや、間違ったことは山ほど知っているのですが、肝心の正しいことはなかなか知らない。正しくないことはよく知っている』

煩悩を根本煩悩と随煩悩に分けて勉強しているのですが、大随煩悩の個々を学ぶ前に、煩悩に付いて復習しておきたいと思います。これも岡野守也師の説明を借りますと、分かりやすいです。

『煩悩を病気に譬えますと、随煩悩は症状にあたります。その症状が出て来るには原因・病因があるわけで、それが「根本煩悩」です。繰り返しますが、意識の上では、貪り(貪)、憤り(瞋)、愚かさ(癡)、高ぶり(慢)、疑い(疑)、誤った見方(悪見)、六つもある。そして心のもっと深いところ、深層には、さらに深い「根本煩悩」があって、それは無我ということへの無知(我癡)、自分を実体視してこだわるものの見方(我見)、自分を誇り頼ること(我慢)、自分に執着すること(我愛)の四つでした。
こう言う風に、唯識はだだ症状の判断をしたり、「対症療法」をするだけでなくて、病気の根本的な原因を掘り下げて、その上で「根本療法」をしようとするものです。体の病気の場合でも、自分が病気だと言う自覚がないと、治療する気になりません。本当はかなり症状が出ているのに、感度が鈍くてあまり感じないとか、本当は感じているのだけれども、病院に行くのが嫌いだとか、治らない病気だったらどうしようと思って不安だから見詰めたくないとか、いろいろあって、認めないということがあります。 私達が20の随煩悩のことを言われて、「いや、それはそういう心は起こらないではないけれども、たいしたことはない。私はそんなに悪い人間ではないし」と思うのは、症状は出ているのだけれども、その症状の奥には病気があるのだということを認めたがらない人に似ているかも知れません。唯識が人間の煩悩についてここまでしつこく暴き出しているのは、ただある種の哲学、或いは人間論として非常に冷徹・冷酷でリアルな人間洞察をするためとか、あるいはましてやそうやって暴き出して、人間はダメなのだと絶望させたくて、わざわざ人間の醜いところを見せようとしているのではありません。そうではなくて、まず、こんなにもひどい症状が、こんなにもたくさん出ているのだから、もう間違いなく病気だと言うことを自覚させるためなのです。だから、治療しなければいけない。治療すれば治る。こういう治療をすればよいのだということを知らせ、治療する決心をさせるために、ここまでしつこくやっている。そう受け取るとよいと思います』

私達は、何に付けましても、ついつい目的を忘れてしまいがちです。随煩悩を知る意味を再確認して、大随煩悩の勉強に入りたいと思います。

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