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唯識の世界


1.もう一人の私について

唯識(ゆいしき)の勉強に入る前に、普通一般に考えられている「心」とか「私」について、考えて見たいと思います。

「心」と言いますと、私達は胸の辺りの奥まったところにあるように感じており、悲しい出来事を見聞き致しますと、「胸が痛むニュースだ」と言ってついつい心臓のある辺りを押えてしまうこともあるのではないでしょうか。もとよりこれは思い違いであって、生理学的には頭部にある大脳とか小脳と言う部位にある神経機関の働きが「心」そのものだと思います。

そしてその「心」そのものが「私」(或いは「自分」)であるのだと思いますが、この「私」と言うのはこれから勉強する唯識では、「意識」または単に「識(しき)」と言うことになるのだと思います。たとえば、花を見ている時、花を認識している「私」、そしてその花を美しいと考えている「私」、更に花を美しいと考えている私を見詰めているもう一人の「私」がいる事は、誰しも理解出来ると思います。これで私達の中には3人の私があるように思われます。

恐らく他の動物には、少なくとも最後の「私」つまり、花を美しいと考えている「私」を見詰めるもう一人の「私」は居ないのではないでしょうか。たとえば犬ならば、エサが目の前に出されれば、エサを認識し、食べたいと言う欲望から直ちに食べに掛かります。そのエサがいつもと異なるとか、いつもと与えられる時間がズレているとかと言う事は一切考える事はないでしょうし、ましてや、エサにガッツク自分を見詰める意識はなさそうです。

人間は犬とは明らかに違います。例として適切かどうか分かりませんが、もう一人の私が居るからこそ、犬には出来ない演技が人間には出来るのだと思います。映画やテレビドラマの俳優達は見事なまでに配役に成りすまします。これは、花を美しいと考えている私を観察するもう一人の私がいなければ出来ない技だと思います。勿論、私達自身も、日常生活では様々な場面で演技をしていると言ってよいでしょう。父親として、母親として、子供として、社長として、サラリーマンとして、場面場面で使い分けながら、知らず知らずのうちに俳優の如き演技をしている訳でありますが、これもその俳優としての私を見詰めるもう一人の私が居なければ、とても上手く立ち回れないはずであります。

「私を見詰めるもう一人の私」と言う表現を致しましたが、今日の主題の「もう一人の私」とは、この「私を見詰めるもう一人の私」ではなく、更に私達が常々には意識出来ていない「もう一人の私」です。意識していない私、「無意識の私」と言い換えられるでしょう。

さて、心の構造について近代欧米の深層心理学では,意識、つまり自我は氷山の一角であり,その下部に大きく存在する無意識との二つの世界から形成されるといわれています(フロイトの学説)。それを図示したのが海面上に浮かんだ意識と海面下の無意識でありますが、その無意識を更に二つの無意識に分けて私を分析していたのが、『唯識』であります。

これから無意識の「もう一人の私」探しの勉強を始めたいと思います。

そして、私は大脳生理学の知見を持ち合わせておりませんが、深層心理学と共に、唯識の体系が完成した西暦4世紀の頃には全く解明されていなかった遺伝子情報、DNAとの関係や人間の脳との関係を勉強しながら、唯識を現代に蘇えらせることの手助けが出来れば幸いと思います。

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