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唯識の世界


19.随煩悩の検証―E(慳(けん))

6.慳(けん)

慳(けん)は、“おしむ” と訓読みします。慳貪(けんどん、惜しみ貪る)という熟語がありますから、根本煩悩の『貪(とん、むさぼり)』を原泉としていることは明らかであります。人に物を贈る時、ご馳走する時、“物惜しみ”する心が皆無とは言えません。何処かに損得勘定と損得感情が潜んでいることを、私は否定出来ません。

この損得勘定を無くしてしまえば、恐らく自己の経済生活は破綻に至るでありましょうから、一概に、この<慳>煩悩を否定することは出来ません。独り身の良寛和尚が、泥棒に入られて詠った『どろぼうに 取り残されし 窓の月』という歌を読む心境は、我々娑婆に生活する者には到底至れるものではありません。

しかし、自己の<慳>煩悩を見詰めて慙愧する心境には至らなければ、人間に生まれた所詮は無いと言うのが、唯識が目指す世界であろうと思うのです。

太田久紀先生の説明:
『法相二巻抄』には、

財宝に耽着(たんじゃく)して人に施す心なく、いよいよたくわえんとのみ思う心なり。
とある。ものおしみ。人間のケチ根性である。根本にあるのが、<貪>であることはあきらかだ。

『法相二巻抄』には、財宝のみがあげられているが、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』には「財と法とに」耽着すると書かれており、人間のケチは物だけではなく、仏の教えについてさえもそうだと指摘されている。仏の教えに対して<慳>であるというのは、ちょっと分かり難いが、私なども、もったいぶることがある。率直にありのまま言ってしまったのでは、なんとなく、有り難味が薄れてしまうように思い、無用なかっこうづけをする。おしんでいるのだ。

また、種本を隠すという手も使う。何かもっと深遠なものが実はあるのだと思わせる。そうすると、なんとなく自分に権威ができ、偉そうに見えるに違いないなどと思う。

弟子に技術や法を教えぬというのも、<慳>の場合があるのではあるまいか。世の物事には親切に、何もかも丁寧に教えるのが、良いとばかり言えぬこともある。永年の体験を通して会得した法は、どんな言語をもってしても伝えることはできず、弟子が、自ら証得する以外にすべのないものはたくさんある。

弟子は師匠の法を盗むのだといわれる。あるいは、この世のすべてがそうであるといえるかもしれない。そのために師匠は、わざと法を教えぬことがある。それは<慳>ではなく、弟子への親切であろう。 しかし、<慳>のあることも、あるのではあるまいか。物を与えるのが、おしくて仕方がないように、教えをさえも、凡夫は惜しむのである。

口伝・秘伝・門外不出・室内などという言葉があり、実際に、そうしなければ人に伝え得ぬもののあるのは事実だが、その場合、底に<慳>煩悩があってはならない。 仏陀の教えに秘密はないのである。しかし、宗教とか仏法といわれる分野は、それが、具体的に眼に見えぬものであるが故に、神秘性が尊重されやすい。そして<慳>煩悩が巾をきかしやすい傾向を持っている。

盤珪禅師(1622〜1693年)は、「不生禅(ふしょうぜん)」を唱えられた。語録は極めて平明である。そうすると、「あまりにお示しが軽すぎたのではありますまいか」という質問や意見が出されている。盤珪さんは、むろん、教えに隠し事はないのだと教えられるが、神秘を求める気持が私達にはあり、それを逆用すれば、<慳>煩悩を正統化できぬわけではない。

これは、仏法のことだけではあるまい。仕事についても、技術についても、人生の奥義についても同じである。

―引用終わり

禅門には、教外別伝 不立文字 以心伝心という言葉を使います。言葉で教えを伝えることは出来ない、それがお釈迦様の教えだ、お釈迦様の至られた心境だと言う意味だと思いますが、これは、決して法を伝えるのに物惜しみしているのではない事は明らかであります。

浄土門に、それにぴったりと当て嵌まる言葉は見当たりませんが、『自信教人信(じしんきょうにんしん)』が近いものと思われます。しかし、法話をお聞きしていて、なかなか核心をついたお話が聞けないと思うことが度々ございました。肝心なところをお聞かせ頂けないと思ったものですが、これは、ご講師方が物惜しみされているのではなく、ご講師方は言葉を尽くされて、私達に法を説いておられるのですが、受け取る私の側が至らぬところがあったのだと、今思い返しているところであります。

そのあたりのことを大田先生が言われているのだろうな、と思ったことであります。

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