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唯識の世界


21.随煩悩の検証―G(諂(てん))

8.諂(てん)

サラリーマンなら誰でも、この諂(へつら)い心が言動に現れた経験を持っているのではないでしょうか。私は今でもまざまざと、自分がサラリーマン時代における自分が為した諂いを思い出す事が出来ます。私を生殺与奪する人事権を持った取締役の下で働いていたことがありますが、この上司を私は全く尊敬出来ませんでした。従って、こんな上司には淡々と対応すべきであったのですが、どこか諂(へつら)い心があった事を否定出来ない自分を今も恥ずかしく思います。

尊敬していたり、好ましく思う相手に好意的な表現をしたり、態度を見せることは諂いではないでしょう。敬愛できないがしかし力関係では上の者に対して、本心に背いて敬愛の言動を取るのを諂いと言うのだと思います。

太田久紀先生の説明:
   “へつらい”である。
      『法相二巻抄』には、

人をくらまかし迷わさんが為に、異なる形をなし時に随い、事に触れて、かたましく方便を廻らして、人の心を取り、或いは我が過ちを隠す心なり。世の中に諂曲(てんごく)の人と云うは、この心の増せる人なり。
とある。

人の心を自分の方に向けさせるために“こころ”にもないことを言ったりしたりすることである。

師匠に一生懸命仕える。そうすると、師匠を大切にしているとも見え、おべっかをつかっているとも見える。一体、師匠孝行なのか、<諂(てん)>なのか。外見には分からない。その“こころ”の底に「己れ」の意識がどうあるかどうか、そこが分かれ目て゜あろう。

自らを省みて、その「己れ」がなければ、誰が何といおうとかまわない。ところがそこが哀しいところで、お世辞笑いをしてみたり、「ごもっとも、ごもっとも」と調子のよい相槌をうったりする。<諂(てん)>のために妄語や綺語の要素を重ねるのである。

根本に潜むのは、<貪(むさぼり)>と<癡(おろかさ)>である。

『摩訶止観(まかしかん)』に、
邪諂 (じゃてん)をもって身を養わざるを正命(しょうみょう、正しい生活)となし・・・
という語がある。<諂(てん)>は正しく生きることではない。しかし<諂(てん)>の最中にそれを邪命だと気がつかない。

―引用終わり

他人の諂いは見苦しいものです。しかし他人の諂いを感じて見苦しいと思うのは、自分がそう云う“諂い心”を持っているからだと思います。煩悩は、他人を評価するものではなく、自分自身の心を見詰めて厳しく問い直すべきものである事を再認識したいと思います。

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