◆ ◆ ◆ 唯識の世界 ◆ ◆ ◆
11.唯識と仏性
大乗仏教は、お釈迦様が悟りを開かれたときに語られたと言うその感動の言葉「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」【一切の衆生は悉(ことごと)く仏性を有する】と言う基本的立場を取っています。仏性とは、仏になる可能性と言ってよいでしょう。従いまして、『一切衆生悉有仏性』とは、私達人間は、誰でもお釈迦様と同じ悟りを開く種を持ってこの世に生まれて来たと言うことであります。
しかし、唯識の立場は、少し異なるようであります。唯識には、『五姓各別説(ごしょうかくべつせつ)』と言う考え方があり、私達衆生を5段階に区別し、仏性を持たない衆生があると言う考え方をしているようであります。
五姓とは、
それぞれを簡単に説明致しますと、次のようになります。
『菩薩定姓』とは、最初からまっすぐ自利利他の菩薩を行じる人で、最も勝れた人たちであります。自分のためにではなく、他の人々ために行なうこと自体が自分の為になると考える人々であります。
『独覚定姓』とは、独りで悟りを開いてゆく人たちで、非常に勝れた素質を持っているのですが、残念ながら、自分のためだけであり、他人のことに考えが及ばない人達であります。
『声聞定姓』とは、仏の教えを聞いて一生懸命修行する真面目な人達で、やはり悟りを開く素質を持っていますが、やはり、自分のことしか考えられない人々であります。
『三乗不定姓』とは、三乗とは、菩薩・独覚・声聞のことですが、最初からそのどれかに定まっていない人々のことであります。最初は、やはり自分のために修行し、最終的には、他の人々のためにも修行する菩薩道へと転向する人々です。
これらの4種の人々は、段階的には多少の違いはありますが、すべて『仏性』を持っている人々です。しかし、5番目の『無性有情姓』は、仏の教えに耳を傾けないで、世間的な出世とか地位、財産や権力を大切なものとして、一生をその獲得のためにかけてしまう"無仏性"の人々のことであります。
唯識が、どうして『仏性を持たない衆生』の存在を認めたのか、非常に興味のあるところです。一般的な考え方を致しますと、幼い子を含めて一家皆殺しを犯す極悪非道の殺人犯や、"おれおれ詐欺"を仕事としてお年寄りから大金を奪う集団の存在を思いますと、やはり仏性を持っていない人間もいるとしか思えないのが、現実の世の中でありますから、単純に、全ての衆生に仏性がある事を認める訳には参らないようにも思います。地下鉄サリン事件、池田小学校の幼児殺人事件、ごく最近の福岡の若い女性空港職員が殺された強盗殺人事件を思い浮かべますと、大乗仏教が主張する『一切衆生悉有仏性』に疑問を挟みたくなり、すべての人間には仏性があるとは言えないと考えるのも分からない訳ではありません。
しかし、私は、唯識が無仏性の『無性有情姓』を設けた事、更に五姓各別と言う分類自体が、他人の人間性に着目して分類するのではなく、自己を顧みるときに、自分は一体どの姓に属するかと言う、仏教本来の『自己を問い直す』上での方便ではないかと思うのです。
そう言う観点に立って、自分は一体どの人種に属するかと我を顧みるとき、胸を張って、『菩薩定姓』『独覚定姓』『声聞定姓』『三乗不定姓』のどれかであるとは言えないのであります。真面目に仏教を求めているか?真面目に修行し励んでいるか?本当に悟りを求めているか?と自問自答するとき、自分は『無性有情姓』に属するのではないかという想いがするのは、私だけでしょうか。
私は、この『五姓各別説』を唯識の中に見出したとき、親鸞聖人は、きっとこの『無性有情姓』に自らの落ち着きどころを見出されたのではないかと確信しました。『無性有情姓』を「煩悩具足の凡夫」、「罪悪深重の凡夫」と言い換えられてご自分の事を慙愧された親鸞聖人が救われる縁の一つに、唯識の『無性有情姓』との出遭いがあったのではないでしょうか。仏性の無い凡夫が、どうして救われて行くかは、次の項で勉強する『末那識(まなしき)』に重要なポイントがあると思われます。