◆ ◆ ◆ 唯識の世界 ◆ ◆ ◆
13.唯識が考えている煩悩とは?−@
煩悩の認識は、仏道を歩む上で極めて大切な条件であると思います。唯識もそう考えているに違い有りません。我が煩悩に気付かずして、仏道を成就することは有り得ないと思います。私は親鸞聖人こそは、自己が抱える煩悩を徹底的に見詰められて慙愧され、そして、その反作用として、お釈迦様が至られた、無我の境地に至られたのではないかと思っています。従いまして、唯識が考える煩悩に付きまして、かなりの日数をかけて、勉強したいと思います。勉強すると言う意味は、知識として記憶するのではなしに、唯識が指摘する煩悩の一つ一つに付きまして、我が心に存在するか否かを真剣に、正直に吟味すると言う事であります。この唯識の世界を読まれている皆様は、私と一緒に、真実の自己と向き合って頂きたいと思っております。
さて、親鸞聖人はご自分の事を『煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫』と慙愧されました。具足とは、具(そな)え足(た)りているということでありますから、すべての煩悩を抱え持っている私であると表明されたお言葉であります。では煩悩には一体どのようなものがあるのでしょうか?普通、百八つの煩悩と言われ、その煩悩を消すために、除夜の鐘を百八つ鳴らしていることは一般に知られているところですが、この百八つの煩悩はさておき、ここでは、唯識が取り上げている、末那識の4つの根本煩悩、意識の6つの根本煩悩、五感(識)の20随煩悩を把握したいと思います。下図がその一覧です。
煩悩が人の言動・顔の表情に現れ、他人がその煩悩を感じ取り、本人もその煩悩に傷付くと思われるのが、20の随煩悩ですが、この随煩悩は、意識レベルの6つの根本煩悩が源となっております。そして更に無意識層の末那識の4煩悩を母体としていると唯識は考えています。従いまして、すべての煩悩は、元はと言えば、常に私の都合ばかりを優先しようとする無意識の心である『末那識』が原泉となっています。無意識層であるだけに、私達の意識によってコントロール出来ず、それこそ煩悩はこんこんと常に湧き出すのであります。そして、煩悩によって傷付いた経験は、阿頼耶識に薫習され、いよいよ悩ましい人生の深みにはまってしまうと言うのが、私達凡夫の姿であります。
この姿を『煩悩具足の凡夫』と親鸞聖人は自身の心を見詰められたのだと思われます。この煩悩具足の凡夫が凡夫から仏へと転身出来るのは、自らの汚れた心の動きから目を背けるのを止め、その正体をはっきりと認識する事からであると唯識は考えているようであります。
次回は、20の随煩悩から確認したいと思います。