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唯識の世界


6.唯識の根本哲学

唯識は、大乗仏教が固まってゆく中で生まれたものであり、根本は、お釈迦様の御教えから外れるものではありません。お釈迦様のお悟りの中味を検証(或いは見性)した上で想像推察して構築されたものだと思います。従いまして、仏教哲学或いは仏教心理学と申してもよいのだと思います。

前項で、唯識は仏教だと言う事を申しましたが、仏教とは?と言う事では、捉え方で、表現が異なりますが、私は、空(くう)・縁起(えんぎ)・一如(いちにょ)・無我(むが)・無常(むじょう、私は絶えなる変化と言い換えたいと思います)が仏教の根本哲学であり、それはそのまま唯識の根本哲学だと言って良いのだと思っております。

そして、空・縁起・一如・無我・無常は言葉こそ違うのですが、同じ事を見方を変えて表現しているだけだと思います。仏教である印(しるし)と言う意味で三法印と言うのがあります。諸法無我(しょほうむが)、諸行無常(しょぎょうむじょう)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)がそれです。空・縁起・一如・無我・無常は、諸法無我と諸行無常そのものであります。そして、涅槃寂静は、それを体得すると同時に開かれる境地である言って良いでしょう。結論的に申しますと、唯識は、諸法無我、諸行無常から涅槃寂静に至る道を心理学的に追求した哲学だと言っても良いのではないかと思います。

  1. 縁起だから一如且つ無常
    世の中で「縁起が悪い」と言う使い方をされる縁起は、この仏教の縁起を転用されているものですが、「物事はに依ってる」と言う意味の縁起と言う言葉であることはご承知のとおりであります。正しく言いますと「物事は様々な条件(縁)が寄り集って起るのである」と言うことです。また言い換えますと「単独で成り立ち存在し得る物事は何も無い」と言う意味が『縁起』と言う事であります。

    一番分かりやすい例としては、地球に存在するあらゆる物は、太陽が無ければ存在しないと言う事です。太陽がなければ地球が無い訳ですから当たり前のことであります。しかし当たり前のことですから、私達はその事実を忘れてしまうのでしょう。また、太陽があっても、もし空気と言うものがなければ、生き物は生きてゆくことが出来ません。空気がありましても、水が無ければこれまた私達生物は地球に存在し得ません。そして、私達人間と言うものは、植物や他の動物がいなければ食生活が成立致しません。更に、色々な美味しい食べ物が私の食卓に並ぶのは、世界中の人々、そして日本の人々の労働があって、そしてまた、自分自身がお金を稼ぐ仕事が他から与えられているからこそ美味しい食材を戴く事が出来るのであります。

    こう言う事実を知れば、私がたった一人で生きて行くことは絶対無理だと分かります。無人島に行っても、太陽・空気・水・動植物があってこその我が命であります。

    その上に、私が今日ここにこうして存在するのは、過去を遡りますと、たった500年前でも13万人の私と直接繋がる先祖夫婦がおりますから、30億年前の生命の誕生にまで遡りますと、数十億の先祖の存在があっての私だと言えます。今、私がこうして存在するのは、現在のあらゆる縁だけではなく、遠い過去も含めて、無数の縁によって始めて成り立っていると言うことが分かります。

    それは、私だけではなく、また人間だけに言えるのではなく、総ての動植物、総ての物質・物体に言える事でありますから、総ての存在同士が無関係ではないと言う意味で、一如(いちにょ)と申す訳であります。私達が歩く歩道一つ取りましても、結局は太陽・地球・水・空気・動植物が無ければ存在し得ないものである事が分かります。道端に咲く野の花も同じことであります。

    私は毎日朝夕、5キロの散歩(約1時間)を行ないますが、歩道の木々と命を交換しているような実感があります。植物は光合成によって、人間が吐き出した炭酸ガスを酸素に変えて供給してくれますから、私達は命を保つ事が出来ます。そして植物が私達の炭酸ガスから炭素を取りこんで、生育してれますから、食材にもなってくれて、私達の命を支えてくれています。

    こう考えますと、地球上の総ての存在は一如の命であることが分かると思います。

    また、縁に依って起ると言うことは、物事がお互いの作用によって変化するからであります。縁があると言うことは、異なるものが出会って、新しい何物かに変化するということであります。私達も、食物を食べて成長も致しますが老化も致します。変化がなかなか目に付かないコンクリート等も酸素と反応して、いわゆる酸化が起って、徐々に朽ちてゆきます。変化の速度はまちまちでも、この世で変化しないものはありません。

    そう言う意味で、縁起だからこそ、変化します。常に変らないと言うことが無いと言う意味で、宇宙まで含めてこの世は総て無常であります。

  2. 無常だから無我、無我だから空
    物事は総て刻々と変化するものでありますから、確かな固定した実体があるとは言えません。例えば、私と言っても、刻々と境遇が変りますから、心・気持・考え方も変ります。条件(縁)によっては正当防衛の殺人も犯すかも知れません。いや、カッとなって、たまたま出遭った人といさかいになって殺人も犯しかねません。「私はこう言う者です」とはなかなか断定は出来ません。 従いまして、変化し続けるのですから、無常であるが故に「我と断定出来る我は無い」と言う意味で無我であります。

    もっと分かりやすい説明と致しまして、H0(水)があります。水は水素原子が二つと酸素原子一つが結びついて一つの分子となったものです。しかし、ご存知のように、水は同じ液体としての水と言いましても、川の水、海の水、そして雨水や私達の飲む水道水にもなります。更に同じ水の分子H20でも、雲などの気体として水蒸気にもなりますし、固体化した氷にもなります。無常であるが故に無我と言う端的な例だと思います。

    そして、総ては変化し続け、これと断定し得るものは無いと言う意味で、総ての存在は『空(くう)』であると仏教は表現して参りました。『一切皆空(いっさいかいくう)』と言う有名な言葉であります。空と言うのは、「から」であり、何も無いように受け取れますし、「空(むな)しい」と言う言葉もありますから、否定的と言うか厭世的なニュアンスが付きまといますので、「無常」と同様に「空」と言う表現は仏教を誤解される源だと私は危惧しておりますが、物事は変化し続けると言う意味での「空」だと理解して頂きたいと思います。

  3. まとめ
    これで、空・縁起・一如・無我・無常と言う言葉は、同じ事を違う角度で表現したものである事を理解して頂けたと思いますが、これは飽くまでも、頭での理解に過ぎません。そして、普通はなかなかこの様な考え方にはなりません。何故ならないか、どうしたらこの空・縁起・一如・無我・無常と言う考え方に転回出来るのか、唯識が答えを示してくれます。

    私達はなかなか簡単に意識を転換は出来ませんが、取り敢えずは、苦難・苦悩に遭遇した時には、出来るだけ、前述の仏教の原点である空・縁起・一如・無我・無常と言う初心に還るように心掛けたいと思います。

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