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唯識の世界


17.随煩悩の検証―C(悩)

4.悩(のう)

私達の人生は悩みの人生と言ってもよいかも知れません。先行きの結論が見えないから悩む訳であります。先行きは誰にも予測出来ませんから、これは当たり前ではあります。しかし、思った通りにゆくかどうかは別に致しまして、色々な条件・情勢から判断しまして、「恐らく、こうなるだろう」と予測出来ることもあります。そう言う場合は、悩みとはなりません。

ただ、そう言う場合は極々限られており、どうなるか分からない場合、そして思い通りに行きそうに無い場合に、悶々と思い悩むと言うのが、凡夫の私の常であります。

一般的に言う悩みの対象は多岐にわたりますが、この随煩悩で言う<悩>と言うのは、どうやら、他人を対象とした“瞋(しん、怒り)”であり、他人が自分の思い通りになりそうに無い時に現れる煩悩を“悩(のう)”と言うようであります。

太田久紀先生の説明:
『法相二巻抄』には、

腹を立て人を恨むるに依て、ひがみもとおれて心の内常になやます。
もの云うに其の言はかまびすく、けわしく、いやしく、あらくして、はらぐろく、毒々しき心なり。
と、ずいぶんていねいに説明している。

<悩>は、いうまでもなく「なやむこと」である。この根本にあるのも<瞋(しん)>で、自分の気に入らぬものへの立腹である。人は、それで悩む。気に入らぬといって、一人で腹を立て、一人で悩んでいるのである。気に入らぬことが根本にあるから八つ当たりともなる。ものを言うにも、美しい言葉が出るはずがない。荒っぽい。奥歯にもののはさまったような、下品な物言いにもなってしまう。皮肉の一つも言いたくなる。そんな状態を<悩>というのである。

悩むというのは、たいてい一人相撲だ。相手のいないところで、一人腹を立て、一人で悶々としている。腹が立って、夜眠れないというような時、よくよく考えて見ると、自分一人が興奮しているだけである。

―引用終わり

今、私には、私を悩ませる相手はいませんが、若い時には、随分と一人相撲を取っていました。相手は仕事上の上司、趣味であったテニスクラブの先輩、そして、母が亡くなってからの兄姉達と、日常接する殆どの人に対して思う通りにならない“不満・憤まん”を持っていた事を思い出します。しかし、それは今、そう言う相手が居なくなったと言う訳ではなく、私も歳を取って、多少は世の中の理屈や、因果の道理に目覚めつつあるからかも知れません。相手を責める前に、先ず自分の側に原因を求めると言う当たり前の処世術を身に付けつつあるからかも知れません。

極最近の話題ですが、昭和の名大関『貴ノ花』(二子山親方)が亡くなられ、その息子達の若貴兄弟の確執が公になり、二子山親方と貴乃花親方の間にも大きな溝が出来ていたようであります。若貴フィーバーと言われた10年前頃には理想の家族と言われた花田一家は、5年前からは、親子、夫婦、兄弟の間に悩(のう)の嵐が吹き荒れ、一家は完全に崩壊してしまったようであります。周りは二子山親方の死を関係修復の良き縁となる事を期待したでありましょうが、兄弟は昔の兄弟ではなく、別々に奥さんがおり、子どももおり、利害を異にする別の家族同士になっており、お互いが相手の立場に立つと言う心の余裕を持ち合わせていないように見受けました。

<悩>は、自分が抱く不満を相手にぶつけられない胸苦しさの現れです。そして、不満を相手にぶつけると解決出来るとも思えないまま悶々とする精神的地獄でありますが、この地獄から脱け出るには、やはり、この煩悩の涌き出る根本煩悩である、自分の我痴、我見、我慢、我愛を凝視し、仏法の智慧を戴く事でしかないと思われます。それも、若貴兄弟ともにお互いがそうならないと完全なる和解は難しいのではないかと、私の経験からそう思う次第であります。

<悩>、これは、多くの方が抱えている煩悩であり、日常生活を不快にしている煩悩であります。経済的な苦労も結構大変でありますが、<悩>は、心身を壊す煩悩であることに異を唱える方はおられないでしょう。

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