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唯識の世界


47.仏の道を歩む−布施―(2)

長らく休憩しておりましたが、六波羅蜜の勉強を具体的に進めて参ろうと思います。

布施    他に対して無報酬で行うサービス・親切(人のためになることをする)
持戒    仏道を歩む者が守るべきルール・生活態度
忍辱    忍耐や我慢ではなく、真理に即して他人にも自分にも善き結果を求める努力
精進    上記の三波羅蜜を始めとして仏道に励む事
禅定    正しい姿勢と静かな心を保つ事
智慧    真理に即した考えで思索する事

今回は、六波羅蜜の第一番目の『布施』であります。一般の方は、お坊さんにお葬式や法事の時のお勤め代としてお支払いする『お布施』と言う言葉としてはよくご存知であります。しかし、この『お布施』は、貰うお坊さん側も支払う側にとりましても、本来の布施とは全く異なる使われ方がされていると言えますでしょう。お坊さんは無報酬で仏法を説くべきであり、お経を詠んでお金を貰うと言うのは、むしろ仏道から外れた行為であります(余談ではありますが、私はこの慣習が仏法を堕落させ衰退させたと残念に思っております)。在家の私達も、お坊さんに何かの対価としてお金を渡すのではなく、仏法興隆を願う心から寄進したいものであります。それが本来の『布施』だと思うからであります。

布施には、出家者(お坊さん)が一般人に仏法を説き聞かせる『法施(ほうせ)』と、お金や品物を他の人に対価を求めずに差し上げる『財施(ざいせ)』、そして、無形の施し、古いお経に『無財の七施』として示されている『無畏施(むいせ)』の三つの布施行があるとされていますが、そう言う分類は兎も角も、私達仏道を歩む者は自分が出来ることを、自分の家族、そして周りの人々、そして更に広くは社会に対しまして、見返りを求めることなく、真心込めて施(ほどこ)したいものであります。

見返りを求めず、真心込めて施したいものではありますが、「言うは易し行うは難し」であります。『陰徳(いんとく)を積む(誰もみていない処で、他の人の為に、或いは社会の為に働く)』と言う古くからの教えがありますが、ボランティアをしても、心の何処かに、他からの賞賛を得たいと言う心が宿るものであり、『陰徳を積む』事はなかなか出来ないことであります。

しかし、『布施』にせよ『陰徳を積む』にせよ、それが出来ないのは、自分自身がどれ程、多くの、数限りない『布施』を受けているかを認識出来ていないからだと思います。そして、『布施』とは真反対方向である貪(むさぼ)り求める=w貪欲(とんよく)』と言う煩悩が自己の主体となってしまっているからだと思います。

無相庵カレンダーの18日の歌『み恵みを 受くることのみ 多くして 捧ぐる心 常に貧しき』は、私の母(大谷政子)が自誡を込めて詠い遺したものでありますが、私が今こうして木曜コラムを書かせて頂くためには、過去から現在に至る無限無数の人々のお陰があっての事であります。妻と言う支え無くして私はこのコラムは書けませんし、お釈迦様が仏法に気付かれなければ、親鸞聖人もお出にはなられなかったでしょうし、親鸞聖人が日本に出現されなければ、私の母は仏法に遇うこともなく、従って私も仏法には出遇えなかったと考えられるからであります。例えば、そう言うことになりますが、それはホンの微々たる因縁をお示ししただけであり、私がこうしてパソコンを動かしてコラムを書けるには、全く別の分野の人々の技術の結集があったからであり、そうして考えて参りますと、私の一人の力で出来ていることは一つも無いことに思い至ります。

そう気付かされますと、これはもう、どんな形であれ、社会に私が出来ることをお返しするより外はないと言うことになりましょう。『布施』をさせて頂くと言うよりも、『布施』をしなければならないと言う義務感すら生じるのではないかと思われます。私は、そう言う『布施』こそが、お釈迦様が、親鸞聖人が勧められるものではないかと思っている次第であります。

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