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唯識の世界


3.唯識と言う名の由来

辞典で調べますと、唯は「ただ・・・だけ」、識は「対象を認識する心」と言うことですから、唯識という単語は「ただ対象を認識する心だけ」と現代語に直訳出来、「物は心を離れて存在するのではなく、物を認識する心があるから物があると思うだけだ」と言う意味と解釈出来ます。

哲学の世界に『唯心論(ゆいしんろん)』と『唯物論(ゆいぶつろん)』と言う主張がありますが、『唯識』は唯心論的な哲学だと申しても大きくは間違っていないと思います。即ち、『唯識』は、私達が目の当たりにしている総ての存在は、私達が認識しているから存在しているように見えるだけだと主張していると言ってもよいと思います。ただ、唯心論と違うところは、存在そのものを完全否定しているのではないと思われます。

『唯識のすすめ』と言う本の中で、その著者である岡野守也氏は『唯識は、確かに伝統的に唯心論的だったことは間違いないようなので、唯識はしばしば「唯心論」、或いは悪い意味での「観念論」と誤解される向きがありますけれども、私はそういうことではないと思っています。つまり、私達は色々な外側のものや他人や、すべて自分以外のものは、私の心とは関係無く存在しうるものと考えていますが、それでさえ「考えている」わけです。だから、私達の考えている心の働きと関わりの無いところで、物とか世界とか、あるとかないとかということは全く言えない。そういう事実にしっかりと目を向けていって、すべては私の心と関わりのあるもの、つながりのあるもの、そういう"縁起的なもの"だと見て、私と他人、私と世界というふうに、分離してばらばらに見る錯覚を正す、そのための一種の実践的な考え方の手続きだ、と私は捉えています』と述べられています。

このあたりの存在に関する捉え方は、唯識を理解する上でかなり重要であると思います。もっと言えば、私達が認識している存在や現象は一体何かと言うところが唯識を理解する重要ポイントだと思いますので、ここは、私達は素通りせずに追及すべきではないかと考えています。ここをまぁまぁと言うことで先に進みますと、結局は唯識の真髄に触れることは出来ないと思うからです。

デカルトと言う近代哲学の祖と呼ばれる人が、『我思う故に我あり』と言う有名な言葉を遺しておりますが、恐らく、存在とは何かと言う答えを求め求めて行き着いたところの言葉ではなかろうかと思いますが、あらゆる存在は、私が認識しているから、認識している全てが存在している。言い換えますと、わたしが認識出来ていないものは存在していない、と言うことであります。

私が死にますと、認識する私と言う存在が無くなり、全ての存在は認識されなくなりますから、全ての存在は無くなると言う論理です。しかし、そう聞かされましても、たとえば私の両親は既に亡くなっていますが、両親は亡くなっても、全ての物は存在し続けていますから、私が死んでも、やはり全ての物は存在し続けると考えるのが普通ではないでしょうか。ですから、唯識の考え方をなかなか納得出来ません。しかし、それは、私達の考え方が根本的に間違っている(錯覚している、真実を知らない)からだと唯識は説きます。ここが重要だと思われます。即ち、私達が生まれて成長する過程で、色々な科学的知識を身に付けて、それがあたかも宇宙の真実だと思い込んでいるところが問題だからであります。

宇宙の真実の一つは、私達が無くなるように、あらゆる存在も何れは無くなるからです。更に申しますと、無くなると言う考え方も間違いであり、形を変える、変化すると言う表現が正しいと言うのが唯識の説くところです。全ての存在は変化し続けているのですが、残念ながら人間には「死」というようなかなり著しい変化でなければ感じられない訳です。

日本の四季は分かりやすい変化の例だと思いますが、もう少し理解し易い変化としては、たとえば、水と言う存在があります。この水は、温度に随って、氷と言う固体にもなり、水蒸気と言う気体にもなります。川の水は、海水にもなり、雲にもなり、雨にもなり、氷河の氷にも変化致します。私達が死んだ後、全てのものが存在し続けることはあり得ない訳であり、私が今の一瞬認識出来ているものだけが、確実に存在していると言える、そう言う意味で、冒頭の「ただ対象を認識する心だけ」と言う唯識の考え方が少し理解出来るように思います。

水だけではなくて、短期聞では変化が認められないコンクリートや岩石も目には見えませんが、風化(化学的には酸化現象)が進んでいます。あらゆる存在は変化の速度は千差万別ですが、変化し続けている事は疑い様のない事実であり、真実だと思います。地球も46億年前に誕生したようですが、地球も後14億年で消滅すると言われております。宇宙にも寿命がある訳です。

考えて見ますと、私達人類は、今後も地球に存在すると考えておりますが、地球の歴史を紐解きますと、今、我が世ならぬ我が地球として好き勝手放題に地球を支配し謳歌している人類は精々数百万年の歴史しかありません、地球上に生まれた生命としては一番の新参者であります。それに引替え約2億3000万年前の三畳紀後期に現われ、恐竜の時代ともよばれるほどの大繁栄をくりひろげて6500万年前に絶滅した恐竜達の1億6千万年という支配期間は、想像を絶する長さであり、人類の支配期間とは比べるべくもありません。同じように、或いはもっと短命で人類は地球から駆逐される可能性もあります。

全ては変化し続ける事、これを仏教語では『無常』と言っておりますが、私達は説明を受けますと、頭では理解致しますが、直ぐに忘れて、現状に固執してしまいます。唯識は、この事実誤認、真実誤認からあらゆる『苦』が湧き起こっていると説き聞かせてくれ、そして、その考え方を根本的に是正する処方箋を与えてくれるものと思います。

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