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唯識の世界


44.悟りに向かう道−(8)

 仏法を学ぶ者としては、いわゆる悟りを開いて、世間の苦悩から解放されたいと思うものであります。悟りの世界にはどうすれば行けるのでしょうか。誰もが知りたいところでありますが、この唯識の世界で、悟りに向かう道を勉強して参りましたが、普通、通達で終わりそうなものを、唯識では『通達位』で終わらずに、更に、『修習位』『究竟位』と続きます。

果てしない感じが致しますが、禅門に『悟後の修行』と言う言葉がありますが、悟りは果てしないものだと言う事でありましょうし、また、道元禅師が、修行しているその事自体が証りそのものであると言う事を『修証一如』と言われています事と一致するのではないかと思います。

要するに、これで悟ったと言う事は、仏法には無いと言うことでありましょう。 さて、この修習位(しゅじゅうい)に関しましても、岡野先生のご説明と、太田久紀師のご解説を合わせて理解を深めたいと思います。

岡野守也師の解説:
悟りの段階を旅行に譬えていいましたが、仏の国へ行くのは、煩悩だらけ・ストレスだらけの自分の国の生活が嫌になったので、しばらく気持ちのいい外国に観光旅行に行ってくる、というのとは違います。永久移住、国籍変更するために行くのです。凡夫の国を出て、菩薩として旅行して、やっと入口にたどり着いて、それからだんだん仏の国の習慣を覚え、身に付けて、慣れてきたら仏の国の仕事のお手伝いなどもさせてもらい、やがて実力も資格も身に付けて、仏の国の国籍を取得しようということなのです。

「通達位」では、見えてきたといっても、物珍しい風景や習慣が見えているだけで、意味はよく分かっていない。もちろん身に付いていない。その国の人たちにとってごく当たり前のことを、同じようにやれといわれても、できない。観光客なら、それで別にかまわない。しかし、その国に長期滞在したいとか、まして国籍を取得したいのなら、言葉や習慣やエチケットや法律、身振りやものの感じ方まで身に付けなければなりません。それには、もう2カルパかかることになっています。「修習位」は、そういうふうに修行して身に付け習慣化していく長いプロセスです。

太田久紀師の解説:
良寛さん(1757〜1831年)に、

過莫憚改(過てば改むるに憚る莫れ)
知過必改(過ちを知らば必ず改む)
過而不改謂之過(過ちて改めざる、之を過ちと謂う)
不再過(過ちを再びせず)
欲無其過而不得(其の過ち無からんと欲すれども得ず)
という書がある。『論語』の言葉を良寛さんが並べたのである。
「ミスをしたら、なおすのをためらうな」、これが孔子の教えである。良寛さんはそれを読んで「過ちに気が付いたら必ず改めよう」と思い、二行目を書いた。しかし考えてみると、気がついていてもやめないことがしばしばある。「ああ、それこそが過ちだな」と三行目を書いた。「過ち」「過ちを改めようとしないこと」、その二つを含めて「過ちを繰り返してはならない」と自分に言い聞かせながら四行目を書く。そして、そう思いながらそれのできぬ自分に突き当たって、最後に「其の過ち無からんと欲すれども得ず」とも良寛さんは書かねばならなかった。良寛さんは<こころ>のきれいな人である。誤魔化せないひとである。

四行目までであったら、それは道徳だ。前の四行でやめていたら、良寛さんは道学者に過ぎない。良寛さんは、そこに止まれなかった。良寛さんは、もう一つ深い世界に立っている人であった。分かっていても出来ない人間の、深い<こころ>の矛盾に気のつく人であった。

わかっていながら実行できない。やめようと思いつつ、ついにまたやってしまう。そういう矛盾を私たちは持っている。そういう矛盾した自分に、私たちは一度出会わねばならない。『修習位』は、そういう矛盾した自分に立ち向かう修行の段階である。『通達位』で、すでに『空』を親証したはずであるのに、<こころ>の底でやっぱり我執をおこしたり、対象を固定化実在化したりする過ちを持ち続ける。それを清算するのが『修習位』である。

『通達位』が「仏教が証(わ)かる体験」であるとしたならば、『修習位』は「仏教が身にそなわるための修行」といえるのではあるまいか。そして、仏教が真にほんとに身についたのが、最後の『究竟位(くきょうい)』である。

――引用終わり

太田久紀師の良寛さんに関するお話から思いますことは、仏法の悟りへの道は、自力から他力へ、聖道門から浄土門を潜(くぐ)って、漸く開かれるのではないかと言うことであります。つまり、『通達位』までは自力聖道門、『修習位』からは他力浄土門の道を歩むと言う事ではないか、私はその様に唯識の考え方を受け取りました。良寛様も、晩年は『南無阿弥陀仏』を喜ばれたそうであります。

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