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唯識の世界


32.大随煩悩の検証―失念(しつねん)

広辞苑を調べますと、『失念』とは「@うっかり忘れること、A心を散乱させること」とありますが、唯識の『失念』は、忘れる対象がどうやら一般に考える事とは異なるようであります。記憶力が衰えて物忘れすると言うものではなさそうであります。

京都女子大学の創設者であり、仏法者、念仏の行者であられた甲斐和里子師は、年老いてから「年を取ると、もう若い頃に覚えた事は何もかも忘れてしまいましたが、しかし不思議なことにお念仏だけは我が心に、いよいよはっきりとして来ました」というようなことをおっしゃっておられたと井上善右衛門先生からお聞きしたことがございます。今思います、これこそ失念されていない心の状態を言われたものだったと。

『失念』とは、仏法の理論や仏法の言葉を忘れたり、ましてや、世事の些細なことを忘れてしまうことではなしに、仏様を忘れないこと、生かされて生きている感謝の心を忘れないことのようであります。 太田久紀師の解説が実に懇切丁寧ですので全文を以下に転載させて頂きます。

太田久紀師の解説:

<念>は、<欲><勝解><念><定><慧>、これを<五別境>と云うが、この五別境の一つであり、「明記不忘(みょうきふもう)」という意味である。「はっきり記憶し、こころにかけて忘れぬ」意である。「念力」「念仏」「執念」などの「念」はその意味である。<失念>は当然その逆で、忘れることだ。

「忘れる」ことが、なぜ煩悩なのであろうか。記憶力の悪い私には、永年の疑問であった。記憶力が悪いということは、私にとっては、もって生まれた能力で至極当然のこと、不便ではあっても、あらためて<悪>だとか<煩悩>だとかいわれると、かえってとまどってしまう。それは<煩悩>なのだから、断捨しなければならないといわれると、立つ瀬がなくなってしまう。記憶力の悪さは、好きでそうなっているのではない。能力の問題であって、自分の意思や努力で、どうにかなるものではない。そういう意味では<無記>である。それが煩悩だといわれるならば、としをとればとるほど、記憶力は落ち<失念>の煩悩はふえていくばかりである。救いはだんだん遠くなっていく。仏教へのご縁などいただけぬことになる。

しかし、それならば周利槃特(しゅりはんどく、お釈迦様の直弟子)はどうなのだといいたくなる。周利槃特は仏弟子である。ただ記憶力はよくなかった。仏陀の教えを憶えることが何一つできなかった。 だから仲間にずいぶん迷惑をかけた。周利槃特には兄があった。兄もお釈迦さまの弟子であったが、兄のほうは秀才だったらしい。兄は、弟が仲間に迷惑をかけるのを哀しみ、弟を呼んで両親のもとに帰るように説得する。弟は尊敬する兄のいうままに泣く泣く仏陀のもとを去ろうとする。

そこを仏陀(お釈迦様)に見付かるのである。仏陀は、周利槃特を見捨てられない。 彼に一本の箒(ほうき)を与え「大地の塵を払わん、心の垢を除かん」と、ただその一句を憶えるように、お命じになる。周利槃特はその教えのままに、ひたすらその一句を唱えながら、くる日もくる日も庭の掃除に励んだ。何十日かかったのか、何年かかったのか知らない。彼は大悟し、阿羅漢果(悟りの位)を成じたといわれる。一句を憶えるのにさえ、何日もかかるような彼でさえ、大悟するのだ。

もの憶えが悪い――それが煩悩だというのは、いったいどんな意味を持っているのであろうか。<失念>を煩悩の一つとすることには、そういうもの憶え――中学生の一夜づけのような記憶力を指すものではなさそうに思うのである。

<失念>とは、仏陀の教えや、示される真理を忘れることである。そういう高貴の世界がこの世にあるということ、それを忘れることである。胸の底に、しっかり仏陀の教えを抱きしめていること。<失念>してはならないのである。<失念>さえしなければ、今はわからなくても、何かの機縁に触れることがあれば、仏陀の教えが蘇ってくるのである。「ああ、そうであったのか」と、うなづくことができるのである。 仏への方向、真理への志向を忘れぬこと、それが<正念>、それを忘れたのが<失念>である。

慈雲尊者に、
既に解了(げりょう)しても憶念せねば、法はわがものにならぬ
という語がある。
たとえ、教えを頭で理解して了解したとしても、その教えの本旨を胸にしっかり持ち続けるというその一点を忘失したのでは、教えが真に自分のものにはならぬのである。 唯識の修行には、わかるための修行と、わかってからの修行とがある。わかってからの修行は、わかってから、真に我が身に備わせる修行の方が、ずっと難しい。時間もかかるのである。

仏陀の教えは、四諦(したい)・十二因縁だ。四諦とは、苦(く)・集(じゅう)・滅(めつ)・道(どう)だ、そんなことを一生懸命、憶えることではない。むろん憶えることにこしたことはあるまいが、仏陀の人生への真摯な姿勢を、まず胸に持ち続けること――それが肝要なことであろう。

―引用終わり

仏道はたゆまず歩み続けることが大事でありますが、なかなかそうは参らないのが凡夫の悲しいところであります。苦しみに出会い、その苦から脱出したくて仏法を求める縁を頂いても、何らかの状況変化でその苦境が変化して、たまたま順境が訪れますと、あれ程求めていた仏法は必要でなくなってしまい、仏法から離れてしまうことが往々にしてございます。私自身が、過去に何度かそう言う事を繰り返して参りました。

この無相庵を訪ねて来られた方の中にも、掲示板を通してであったり、無相庵に直接メールを下さったりして一時交流をさせて頂きながら何時しか途切れてしまったと言う方が少なからず居られます。無相庵訪問を契機として、その後も仏法を求めて居られればなぁーと思っておりますが、「波の音、聞かじと思い、山篭り、苦は色変えて、松風の音」と言う古歌がありますが、私自身の経験からしましても、心の転換が無ければ、苦は形を変えて常に我が身に押し寄せて参ります。ですから、無相庵ホームページから遠退いた皆様が仏法から離れて居られなければなぁーと少々案じています。

仏法は、苦から逃れる方法や心構えを説くものではなく、一切皆苦を認識するところから、諸行無常、諸法無我の「空の世界」を観じ、縁起の道理に眼を開かせて頂き、苦は苦のままに受け止めて行ける無碍の一道を歩ませて頂ける、有り難い法を説き教えてくれるものであると思います。

無相庵に集う人々と共に、たゆまず、この道を歩んで行きたいと思う次第であります。

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