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唯識の世界


37.悟りに向かう道−(1)

唯識は、悟りへの第一歩が「信」にあると主張しているようであります。それは太田久紀師の下記するご解説から知ることが出来ます。
このご解説の中に、『「わかっている」部分と「推測」の部分と、その両者の間にあるのが<信>なのであろう。』と言う一節がありますが、仏教を学ぼうとする最初の時点における「信」とはそのようなものかも知れません。

太田久紀師の解説:
さて、第一は<資糧位(しりょうい)>。「資糧」とは、「己が身を資益(しやく)する糧」、「仏道の糧」の意味といわれるので、自分の向上を資(たす)けるあらゆる修行を積み重ねる段階ということができる。従ってここでは、いろんな修行をしなければならない。唯識では、それを大分類三、小分類三十の項目で表わしている。それを<三階三十心>という。<三階>とは<十住><十行><十廻向>であり、それぞれが十に分かれるので、三十心になる。
<十住>は、<こころ>が仏道修行に決まって動かぬ十心で、次の通りである。

  1. 発心住  仏道への純粋な気持を起こす。(ほっしんじゅう)
  2. 治地住  身・語・意の行いを清浄にする。(ぢぢじゅう)
  3. 修行住  唯識観を深め、六波羅蜜の修行を進める。
  4. 生貴住  自分のすべてが真理の中にあることを自覚する。(しょうきじゅう)
  5. 方便住  自分の善行を自分のためにしないで、人々のために生かそうとする。
  6. 正心住  毀誉褒貶(きよほうへん)に動かされない。
  7. 不退住  後退しない。
  8. 童真住  子供のような純粋な気持を持つ。(どうしんじゅう)
  9. 法王子住 優れた智慧によって、将来法王となるような高邁な精神を持つ。
  10. 灌頂住  王位につき得るぐらいの勝徳を備える。(かんぢょうじゅう)
こういう十項目に<こころ>を注いで、<こころ>が決まっている、ふらふらしない、それが<十住>である。そしてその第一の<発心住>は、具体的には<十信>であるという。つまり<発心住>をさらに十に分類するのであるが、その<十信>とは、(1)信心(2)精進心(3)念心(4)恵心(5)定心(6)施心(7)戒心(8)護心(9)願心(10)廻向心である。その一つ一つを説明するとまた長くなるので、それはよそう。

着目したいのは、(1)信心である。つまり<資糧位>の最初が<十住>であり、<十住>の最初が<発心住>であり、<発心住>のはじめが<信心>だというこの一点、この一点を見落としてはならぬことのように思う。つまり、修行の第一歩は<信>だということだ。「発心」とは仏道に向かって純粋な気持を発(おこ)すことだが、それが具体的には<信心>であり、逆にいえば<信心>が仏道への出発の精神的内容のすべてなのである。

唯識の私達になじみやすい理由の一つに、唯識は、信仰・信心などと言う通常宗教の最初にぶつかる難問を正面にかざすことなく、知的理解を通しての道が開かれていることであると、前に述べたことがある。たしかに現代の私達にとって唯識のいいところは「わかる」話からはじまることのように思う。自分の<こころ>や認識についての反省や省察は、誰にでもわかるし、また出来ることである。
だが、その知的探求を本筋とする唯識にあっても、根幹には仏への<信>が厳然としてある。話は矛盾するかも知れないが、やはり根底にあるのは<信>である。

たとえば、仏教の本を読むということは、仏教への信頼がある。嘘八百を並べたてているのではあるまいという<信>がある。嘘八百ではあるまいというところには、知的な認識の働きが介入している。しかし、もし分かり切っておれば「あるまい」という推測はないわけだから、「あるまい」といっている限りはわかっていない部分もあることになる。「わかっている」部分と「推測」の部分と、その両者の間にあるのが<信>なのであろう。もし仏を知り尽くしていたら仏を求めることはない。もし全く知らないならば求めることもないだろう。知と、それを超えたものとが交錯し融即しあって一体となった働きが<信>なのではあるまいか。

仏とか仏教などというのを抹香臭いと感じられるならば、それをすべて「真実」「真理」という言葉におきかえていただいて結構である。名声・富・権力などの世の価値を超えた別の世界に眼を開くのが、仏陀の教説であるからだ。その根幹にあるのが<信>であり、帰依讃歎の想いである。

小林秀雄さんの「信ずることと知ること」という講演に、次のような語がある。唯識で、<信>の中に知を含めるとか、<智慧>の「智」は決断で、「慧」は簡択(けんじゃく)=えらぶことだというような教説を思い出しながら読むと、多くのことを示唆されているのではなかろうか。

僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。
信ずるという事は、諸君が諸君流に信ずることです。
知るということは、万人の如く知ることです。
人間にはこの二つの道があるのです。
知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君が知らない、そんな知り方をしてはいけない。
・・・・・・・・
信ずるということは、責任を取ることです。僕は間違っているかも知れませんよ。万人の如く考えないのだから。僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし責任は取ります。
信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。

――引用終わり

唯識が説く悟りへの道をこれから辿ろうと思いますが、私は、仏法の第一歩が「信」であると同時に、終着点、つまり悟りと言うゴールも「信」ではなかろうかと考えています。仏道を歩むにつれて「信」の内容が深まって行くのではないかと言う気がしています。

そして、この「信」は、私の努力で深まるのではなく、色々な経験と聞法によって、自然と深まって行くのだと思います。これを親鸞聖人は他力本願による信心、賜りたる信心であると受け取られたのだと思います。

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