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唯識の世界


35.随煩悩の検証―終わりに

二十随煩悩の検証をして来ましたが、煩悩とは、自分を煩わし自分を悩ませる心の作用であります。煩悩自体が苦悩そのものであります。1500年以上も前に唯識が分析・分類した煩悩は、現代人が抱えている煩悩と寸分も変わることがないように思います。科学が進歩し、生活が便利に豊かになっても、衰えるどころかむしろこの煩悩の激しさは増しているようにさえ思います。それを末法の世を五濁悪世だと大乗仏教は考えたのでしょうか。

太田久紀師は、この煩悩を手がかりとして、自己省察を深めなければならないと二十随煩悩の章を結んでいらっしゃいます。恐らく親鸞聖人も、この二十随煩悩を勉強されて、自己省察を深められた上で、ご自分の事を『煩悩具足の凡夫』と称せられたのでありましょう。

太田久紀師の解説:

これで『成唯識論』による<随煩悩>の全部をひとわたり見たことになる。<煩悩>の探求は、真剣な修行者にとっては、避けることの出来ぬ生の方向であろう。<煩悩>の種類や位置づけや相互の関係は、学派によって違う。それだけの研究で大論文が出来る位の内容があるわけであるが、ここでは整理のゆきとどいた『成唯識論』に従って来た。

<煩悩>は、善・悪という言い方をする際には、たしかに悪・不善・有覆無記(うぶくむき)の中にいれられる。善ではないのは事実である。
しかし、前に見たように、「煩わしく悩ますもの」という捉え方によって、こんなに丁寧に分析分類され説明されている。これがお前の現実の姿だぞといわぬばかりに諄々と人間のさ迷える相が示されている。そんなものは相手にする必要はないと一刀両断に切り捨てないで、前から後ろから、上から下から角度を変え視点を変えて示される人間の現実相に私は無限の暖かさを感ぜざるを得ない。

人間は弱い。人間はさ迷う。人間は哀しいのだ。仏陀でさえも、あんなに苦悶され、あんなに彷徨されたのである。「煩い悩む」ことをそれをそのまま悪としない煩悩論に人間への暖かな許しや慰めをみるのは勝手であろうか。

むろんそれに甘えてよいということではない。 鈴木正三(1579〜1655年、曹洞宗の禅僧、旗本身分から42歳に出家、愛知県生まれ)が、お前たちは自分で、どれくらいの数の<煩悩> を自覚することができるか、よく考えてみよ、自分で自分の<煩悩>をさえ数えることも出来ないで、とても仏道修行などはおぼつくまい、という意味のことを述べていたが、素手で――唯識などの手助けをかりないで、純粋な省察のみで、果たして幾つの<煩悩>を私たちはつかみ得るであろうか。

先人たちの残してくれた道標でもたよりに、己の染汚を浄化していくしかないのであろうか。 <十根本煩悩><二十随煩悩>――それらを手がかりにしてでも、己れへの省察を深めていかねばならぬのであろう。

道元禅師は、

人の心、もとより善悪なし。
善悪は、縁に随っておこる。
といわれる。
しょせん、凡夫の私たちの精神は定まらない。せいぜい、善き縁を求めねばならぬのである。

―引用終わり

煩悩を手がかりに自己省察を深める一方で、現実の世界を生きる上での智慧として、道元禅師のアドバイスは有効であります。現代語に意訳致しますと、「社会生活を営むに当っては、善き人との縁を深めて、悪い人との縁は自ら招かないことだ」と言うアドバイスだと受け取っても間違いではないと思います。そして、善い人・悪い人の峻別は、この二十随煩悩を手がかりとして自己を省察致しますならば、自ずと明らかになるものと思います。

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