◆ ◆ ◆ 唯識の世界 ◆ ◆ ◆
25.中随煩悩の検証―@
随煩悩は、「小煩悩」「中随煩悩」「大随煩悩」の三つに分けられている事は、既に14項で述べました。 中随煩悩は、『無慚(むざん)』『無愧(むぎ)』の二つでありますが、この中随煩悩の単語から、私は親鸞聖人が書き残された『正像末和讃』の中で詠われている次の詩を思い出します。
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
私は、煩悩具足の凡夫(煩悩という煩悩をすべて兼ね備えた凡夫)とご自分を見詰められ、そして、上記の詩に『無慚』『無愧』と言う中随煩悩を詠み込まれたところから、親鸞聖人が唯識を詳細に勉強された事を推測しております。
太田久紀師は、この中随煩悩について、次のような説明をされています。
「中随煩悩」とは、不善の<こころに>遍在する煩悩である。「小随煩悩」は、不善そのものとして、個々に強烈な性格をもって働く煩悩であった。忿(いか)る・嫉(ねた)む・驕(おご)るなどなど、悪そのものの烈しい動きであり、それぞれ性格が鮮明であるから、恨むことと驕慢な<こころ>を持つことと一致することはない。他の「小随煩悩」との関わりは少ない。それに対して「中随煩悩」はその不善の<こころ>の働きの底に共通にみられる「心所」=心作用なのである。貪る<こころ>の底にも、嫉む<こころ>の底にも、恨んだり驕ったりする<こころ>の中にも、共通に『無慚』『無愧』の心所が見出されるのである。
『無慚』『無愧』に関する説明は次回に譲りますが、『慚愧(ざんき、或いはざんぎ)』とは、広辞苑では、「はじること」とあります。漢字辞典で調べますと、慚も愧も、同じく「恥じる」と言う漢字ですが、唯識では、何に対して恥じるかで区別しています。