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唯識の世界


10.阿頼耶識は善か悪か

種子(しゅうじ)として色々な情報が溜め込まれている阿頼耶識の本性は善なのか悪なのか、唯識はどのように考えるのかを、太田久紀氏の『唯識の読み方』から学ぼうと思います。

太田久紀氏の『唯識の読み方』からの引用:

唯識では、これは善、これは悪というように分析し分類するのを『三性分別(さんしょうふんべつ)』と云う。『分別』というのは、この場合、ものごとを分類分析していろいろな問題を考えるという意味である。『三性』とは、@善、A悪、B無記(むき)の事である。仏教では、善・悪の価値判断を、その二極に限定しないで、もう一つ『無記』という独特の性質を与えている。

では、無記とは何だろうか。無記とは「非善非悪」といわれるのだが、善でも悪でもない性質である。つまり、善か悪かというように価値的にものを分類するときに、どちらでもない性質をもう一つ別に考えて、その三に区分するわけである。

実際に私達の生活をふりかえってみても、善とも悪ともいえない部分が非常に沢山ある。「今の行為は、善悪どっちなのか」と、開き直って問い詰めていくと、窮屈で仕方が無いように思う。ぼんやりと空の雲を眺めて芝生に寝転がっているとか、悠然と南山を見るとかいうのを、いちいち、それは善の行為、それは悪の行為と決め付けられると、私のような適当な人間は息が詰まってしまう。あれかこれかという決断が深い自覚的な人生に欠かせないことを十分理解し承知した上でなおかつ、そのどっちにもいれられないぼんやりとした時間が私にとって大きな意味を持っていることを捨て難く思う。そういう余裕を認めてくれる三性分別を実に味わい深く、また有り難く思うのである。

唯識はその『無記』をさらに「有覆無記(うふくむき)」と「無覆無記(むふくむき)」の二つに分類する。"覆"とは「覆障」「覆蔽」の義といわれ、清らかな"心"の起きるのをさまたげたり、おおってしまったりするという意味だといわれる。"覆"という字は「おおう」という意味のときは、「ふ」、「くつがえす」という意味のときは「ふく」と読むのが正しいのだが、唯識では「おおう」というこの場合も「ふく」と読みならわしている。

従って、「有覆無記(うふくむき)」は無記は無記でも、汚れの匂いのする無記ということになる。近頃はやりの言葉を借りれば、灰色とでもいえるであろうか。それに対して「無覆無記(むふくむき)」の方は、全く混じりもののない純粋無垢な無記をいうのである。

では、いったい阿頼耶識は、善・悪・有覆無記・無覆無記のうちのどれなのか。唯識は人間の本性をどう捉えるのか・・・・。唯識では、阿頼耶識を無覆無記だという。つまり、善・悪どっちでもないといい、性善説・性悪説、どちらの立場もとらないのである。

過去の経験の集積であり、暴流(ぼる)のように生きている私の存在自体は、善でも悪でもないのである。私達は、それぞれ違った身体を持ち、性格や能力、嗜好や習癖など一人ひとり異なっているが、そのこと自体に善・悪をあてはめることは出来ない。酒が好きだから悪で、饅頭が好きだから善だとも、算数が出来るから善い子で、音楽が得意だから駄目だともいえない。それは、自分がなろうと思ってなったのではなく、与えられた器量だからである。

人の生きていること自体を善・悪ではっきりさせようとすることは、どうも無理だと唯識は考えるのである。

―引用終わり

どうやら、阿頼耶識自体は、善でも悪でもなく、無色透明なものと唯識は考えているようであります。そして、だからこそ、善の行為は善の種子として溜め込まれ、悪の行為は悪の種子として溜め込まれると考えているようであります。従いまして、私達の阿頼耶識には善の種子も悪の種子も混在しているのであります。そして、縁によって、善が顔を出したり、悪が顔を出したりするのでしょう。

一方、阿頼耶識は生物としての本能(生存意欲、生殖意欲など)も蔵しているのでありますが、この本能そのものも善でも悪でもないのですが、縁によりまして、他を害しても本能を満足させる人格に育ったり、環境や遭遇する状況に因りましては、犯罪とされる悪をも産み出すのが阿頼耶識ではないかと思われます。

しかし、阿頼耶識自体は善でも悪でもありませんから、私達は、これからの薫習(くんじゅう)によっては、仏様のような境涯にもなれるし、悪魔にもなってしまうというところが、唯識の根本にあるのだと思います。

私達が自ら認識出来る意識は、阿頼耶識から直接支配を受けているのではなく、これから勉強致しますところの、自分の得になること、有利になることだけを考える末那識(まなしき)と云うフィルターを通して無意識のうちに阿頼耶識に溜め込まれた種子が形を変えて出て来るものと思われます。そして、この末那識そのものも、阿頼耶識に溜め込まれた種子の有り様によって、変化するものと思われます。

無意識層、深層意識である阿頼耶識も末那識も、表層の意識を変えることによって、その有り様を変えることが出来る。唯識はそう考えているに違いありません。

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