←HOMEPAGE

唯識の世界


28.大随煩悩の検証―掉挙(じょうこ)・婚沈(こんぢん)

掉挙(じょうこ)と言う熟語は一般的に馴染みの無いものですが、“作り”の卓は卓越の卓であり、高くおどりあがる意味であり、挙も上がると言う意味を持っていますから、掉挙(じょうこ)が「心のたかぶり」を意味することは理解出来ます。
『法相二巻抄』には、掉挙(じょうこ)を次のように説明されています。
    うごき、さわぎする心なり。

婚沈(こんぢん)も馴染みの無いものであります。実は、「こん」は女扁の漢字ではなく、りっしん扁なのです。パソコン文字にありませんので、致し方無く婚としましたが、これまた“作り”の昏(こん)には夕暮れとか暗いと言う意味がありますから、漢字の意味を調べますと、婚沈(こんぢん)が「暗く沈んだ心」であることも理解出来ます。
『法相二巻抄』には、婚沈(こんぢん)を次のように説明されています。
    しずみほれたる心なり。

以上のように、掉挙と婚沈は反対の心の状態を表すものでありますが、この煩悩自体、人を傷つけたりはしません。太田久紀師は次のように解説されています。

太田久紀師の解説:
<掉挙>も<婚沈>も、鋭く人を傷つけるわけではないが、内面的に平静な状態を失する<こころ>である。興奮するのも、沈滞するのも正心を失っていることである。<掉挙>は平静を失い、<婚沈>は智慧を失う。そして、これは仏道の修行というものが、沈滞したものであってはならぬことはもちろん、また興奮したものであってもならぬとことを<煩悩>の側からみたものと云えるようである。

絶望感や、無気力から創造されるものはない。興奮状態の修行は、無気力より何か得るところがあるかも知れないが、しかし長続きはしない。
修行は、まさに、
    平常心是道(びょうじょうしんぜどう)
でなければならぬようだ。修行は日々平凡な生活の中にある。日々平凡の中で練りあげられ鍛えあげられた修行でなければ本物にはならぬことを意味する。

―引用終わり

<掉挙>も<婚沈>も、鋭く人を傷つけるわけではありませんが、根本煩悩が小随煩悩として表層の心に現われる時は、この<掉挙>も<婚沈>が作用しているはずであります。忿(いか)りや嫉(ねた)みは、心が平静であれば、たとえ湧きあがりかかっても、それは一瞬で消えるものと思われます。他の随煩悩と大きく関わっている故に、<掉挙>も<婚沈>が大随煩悩と言われる所以(ゆえん)であります。

<掉挙>と<婚沈>を考えますとき、私はスポーツの闘いの場における心の有り方を思い浮かべました。私は幼い時からテニスをして参りました。大学や社会人の団体戦では優勝のかかった大事な試合も経験し、県の個人選手権の優勝戦も幾度か経験をしておりますが、大事な試合では、勝負に勝ちたいと言う闘争心も必要ですが、それが強すぎても駄目ですし、そうかと申しまして、冷静沈着、勝負に拘らない淡々とした心持ちでも駄目なのです。高ぶらず、沈まず、本当に微妙な心の状態になりませんと勝負には勝てません。横綱昇進がかかった大一番になると負けてしまう大関がこれまで何人かいますが、横綱になる人となれない人の差は、この大一番での心の有り様にあると思われます。

自分の技を出し切る為に集中すると言う言い方をする人もいますが、集中し過ぎても駄目だと思います。かと言って、勝負を楽しむ心でも駄目だと思います。表現が難しい心の状態ですが、それは<掉挙>を離れ<婚沈>からも離れた心境なのだと思われます。

人間としての一流も、スポーツ選手としての一流も、この心境に達した人なのだと思ったことであります。即ち、煩悩を抱えながらも煩悩に乱されない心(悟りに近い心)を持ち得た人こそ、一流の人だと言う事ではないでしょうか。

HOME      目次