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唯識の世界


42.悟りに向かう道−(6)

 さて、第二段階の『加行位(けぎょうい)』に移りますが、太田久紀師は、資糧(しりょう)とは、「己が身を資益(しりょう)する糧(かて)」「仏道の糧」と言う意味で、『資糧位』とは、自分の向上を資(たす)けるあらゆる修行を積み重ねる段階と言われていますが、岡野守也師は、『資糧位』とは、「悟りに向かう道を旅に見立てますと、旅のための資金や食糧を準備する段階で、病気に譬えると症状を自覚し、診断を受けて納得し、ようやく治療する気になった段階だ」と説明されており、修行と言う点を強調されてはいません。そして、修行を加えて行く段階を『加行位』とされています。

全く『行』の伴わない仏道と言うものは考え難く、『修行』と言う概念が、太田師と岡野師では異なるのかも知れません。五位の修行≠ェ書かれている『唯識三十頌』と言う古典を直接確かめる必要がありますが、唯識観を深めるのが、『加行位』であると言う点は間違いないところですので、更に修行を積み加えると言う意味で『加行位』と言われている、と、一先ず、納得したいと思います。

今回は、太田久紀師の解説と共に、岡野師の解説も、一般の方には分かり易いと考えますので、下記に、ご著書『唯識のすすめ』から抜粋し転載させて頂きます。

岡野守也師の解説:
悟りへの道を旅に譬えると、思糧位で、地図・案内図はよく調べた、お金や食べ物の支度もととのった、いいリーダーにも旅仲間(善友のこと)も見付かったとなったら、あとはもう出発するしかありません。準備が出来て歩き始めると、そこから本物の旅です。どんなに準備万端ととのっていても、歩かなければ、進まない。どんなに遠くても、一歩歩くと、一歩近付いてくる。実際に出発して、どんどん歩行・実行していく、修行を加えていく段階を「加行位」といいます。『唯識三十頌』には、こうあります。

現前に少物を立てて、是唯識の性なりと謂えり。
所得有るを以ての故に、実に唯識に住するには非ず。
訳すと、唯識という思想を持つことが、唯識に即して生きることだと思っている。それでは、まだ執着があるので、実際に唯識に生きることになっていない、というのである。

理論を理解したのは、地図を見て道がわかったようなもので、それは旅に出たことではありません。ところが、仏教の学びに関して、そういう誤解をする人が多いようです。仏教の理論を知っている、漢文やサンスクリット語が読める、お経を暗記している・・・そういうことはみな、「私」が「何か」を知っていることで、ものと自我の間に分離があり、その上で知る・獲得するという関わりが出来るという形になっています。

つまり、分別知です。唯識の本質は無分別智の心になることですから、それはまだ途中の段階に過ぎません。旅は歩き出してはじめて旅なるわけで、実行を加えていかなければなりません。六波羅蜜、特に禅定という実践がなければ、悟りへの旅は始まらないのです。

太田久紀師の解説:
私たちは、言葉によってものを考えたり、自分の意志を伝達したり、ものを認識したりする。抽象的な思想や主義主張になればなるほど、その傾向が強くなるのは必然であるが、具体的なものを見たり聞いたりする場合にも、意味づけとか価値観とかを無意識のうちにからませている。からませているというよりも、意味づけや価値観によってのみ認識が成立するのである。ある条件の上に、私たちの認識というものは出来上がっているのである。

このまえ友だちが、お袈裟を入れた鞄を電車で盗まれてしまった。彼は大切なお袈裟をなくして落胆していたが、盗ったほうの人は、、どう感じただろうか。開けてみて「縁起でもない」と気味悪がって、あわててどこかに捨てたのではないだろうか。一枚の布でも、その人その人の価値観や意味づけによって全く違った対象となってしまう。決して絶対的なものではない。

私たちは鶏は「コケコッコオー」と鳴くものだと思い、鶏の鳴き声は必ずそう表記するし、必ずそう聞こえてもくる。しかし英語では「クックドゥドゥルドゥ」と鳴くことになっているし、必ずそう表記される。しかしイギリスに行って聞いてみても、私たちには「コケコッコオー」としか聞こえない。なんだ日本語で鳴いているじゃないかと思う。きっとイギリス人が聞くと、日本の鶏も「クックドゥドゥルドゥ」と鳴いているに違いない。鳥のような擬声語は、言葉の中では一番原初的なものだから、国によったり人によって変わることが最も少ないはずであるのに、ちゃんと違うのである。鶏の鳴き声を「コケコッコオー」と表わす文化的環境に育つとそう聞こえるようになり、「クックドゥドゥルドゥ」と表わす国に育つと、そうとしか聞こえなくなる。どちらが本当だとは断定できないのである。

ヨーロッパを旅行すると、列車の踏み切りのような国境を一つ越えると、それだけで言語がまるっきり変わってしまうのを経験する。ドイツ語圏に入ると、鶏は「キケリキ」と鳴くのである。しょせん、言葉は一つの社会の約束事に過ぎないことがよくわかる。その約束事の言葉によって、ものを認識しているのである。鶏の鳴き声だけのことではなく、すべての認識がそうなのである。条件によって現出する、前に出た語で言えば<依他起性(えたきしょう)>なのである。しかし、私たちはそのことに気がつかないで、自分の認識が絶対だと暗黙裡に確信している。自分の認識の意味や成立について反省しない。それが<遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)>であるが、『加行位』では、言葉とか意味付けなどが、いろいろな条件や状態の重なり合いによって作られた因縁所生のものだということを深く観察し、体得していくのである。

ただその観察は、ここではじめて始まったわけではない。『資糧位』の<智慧行>もそうであった。<唯識観>はすでに修行の最初から始まっていたのだが、それは未熟なものだったといってよいのだと思う。『資糧位』は仏教を理解することだとその際述べたが、『加行位』に入って、真に理解されるのである。『成唯識論』の語によると、<解>から<了>あるいは<印>へ、といってよいのだと思う。

真の理解とは、頭の先でわかることではない。<こころ>の底から、膝を打ってうなずけることである。仏陀は「人生は苦だ。苦の源は己れの中にある」と言われる。そのことは聞法をしたり、経典を読んだりすれば、ある程度はわかる。しかし「人生は苦だ」と言う実感、「そのもとは自分の中にある」という覚醒、「ああ、そうであったか」という真の覚醒は、誰にでもあるものではない。体験を積み経験を深め歳をとってみなければ、本当にはわからぬということが人生にはどうもあるように思う。考えてみれば当たり前のことだ。膝を打って、ああそうだったかとわかること、それが「印」であり「了」である。 『加行位』は、その真の覚醒がはじまり、その体得が深まっていくのである。

――引用終わり

太田久紀師は、在家或いは、僧侶でありましても、世俗の中で生活している一般の民は、いわゆる仏道の修行と言うものは為し難いと考えておられるようであります。しかし、その私たちが出来る修行は、仏法を聞きながら、ただ聞くだけではなく、その聞法を、世間での経験・体験を通すことによって実践(聞・思・修)により、唯識観を深めて行くことではないかと考えて居られるようであります。

私もその通りではないかと共感しているところであります。私たちは往々にして、仏法は仏法、世間の生活は世間の生活と区切ってしまいがちであります。法話を聞いている時は、なるほど成る程と頷きながら、法話の席を離れて我が家に急ぐ時、すっかり法話のことは頭から消え去り、愚痴と怒りと貪欲の凡夫へと変身してしまうと言うのが常であります。

私も、このコラムを書いている時は、殊勝で高邁な精神でありますが、パソコンを離れますと、途端に、資金繰りが頭を占領すると言うことは日常茶飯事であり、他人事ではありません。これでは、仏法が人生のアクセサリーにしか過ぎないことになってしまいますので、これでは成らぬと反省を繰り返しています。

私は、朝夕健康の為に、ウォーキングをしております。ただ歩くだけでは続きませんので、ゴルフクラブを持って歩き、途中、誰も居ない空き地を見付けて、スイングの研究をしております。そして、精々飛んでも20メートル位のフワフワのボールを打って見ます。もう、3、4年位続けていますが、理想のスイングは勉強して理論としては知っており、実際にボールを打つ前にもその理想スイングの要点を反芻して言い聞かせて、その実行に及ぶのですが、頭で描く理想からは程遠い結果に終わってきました。頭で描いた事に体は素直に反応してくれません。これは、スポーツをやる人、芸事をやる人は理解されると思います。

しかし、極最近、かなり理想に近い姿勢とスイングとボールの軌道が出来るようになりました。ゴルフの指導書を幾ら読んでも、ビデオで有名選手のスイングを幾ら眺めても、自分が実際にクラブを握り、実際にボールを打って見ないと、理想のスイングは出来ませんし、安定した球筋は得られません。私は、ゴルフを始めて10年位になりますが、ベストスコアー80で、そこそこのレベルまでになりましたが(この5年間は、2回しかコースに出たことがありません)、思うところに飛ばす技術を習得出来ないままでした。むしろ、正しいスイングではない事は自覚しておりましたが、原因も分からず矯正出来ないままでしたが、この度は、原因がはっきりと分かり、矯正すべき要点が把握出来ました。考えて、実行し、また考えると言う修行が大切な事が分かりました。

勿論、私の習得したゴルフは、実際のゴルフコースで試してはいませんから、本当の修行ではないと考えます。悟りに向かう道の段階としては『資糧位』であり、これから、打ちっ放しゴルフ練習場に行って、本当のゴルフボールを打ち、そして、ゴルフコースに出て客観的な数字としてのスコアーを得ると言う『加行位』へと進むべきものであり、まだまだ道は遠いのでありますが、私には、そのような余裕はなく、当分は『資糧位』での最高到達点を目指すしかありません・・・。

しかし、この事から、仏法もそうなのだな、聞・思・修とは、この事だな、唯識の資糧位、加行位とはこの辺りのことを言っているのだな、と、納得した次第であります。

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