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唯識の世界


38.悟りに向かう道−(2)

  「信」が仏道修行に入るに必要なものである事を(1)で述べましたが、信の次には、知識と智慧が必要であります。存在や認識への省察を深め、その真相を会得する修行が必要であります。本当の意味で分かることはなかなか難しいのですが、先ず理解することが大切であります。むやみやたらと修行すればよいものではないのであります。

その修行のあり方に関しまして太田久紀師の解説から学びたいと思います。

太田久紀師の解説: 修行とは、真実に向かって生きる、あるいは真実そのままに生きることであるといってよいであろう。それは、仏教に従って生き、仏教を支えとして生きることであろう。仏教に安らぎを得て生きること――他に安らぎを求めぬことであろう。権力もあるほうが良いかも知れぬし、金もあるほうがよいだろう。だが、それが<こころ>の最終的な依り所になるのではない。仏教に生きるとはそういうことだと思う。

頭の中に、いっぱい仏教の知識を持っていても、実際の生活態度は、生存競争の論理に基づき、弱肉強食の考え方だというのでは、せっかく仏教を学ぶ意味がなくなってしまう。「仏教」は知識――現実の「生き方」は権力闘争や利益追求ではいけない。

仏陀の人格を大定(だいじょう)・智・悲と表わすが、それを少しでも身につけていこうと志すのが、修行でなければならないと思う。
仏陀の言葉に「依法不依人」―――法によって人に依らざれというのがある。特定個人の主義や主張に依存するのではなく、普遍的な真理に依って生きよというのである。依るべきは人ではない、永遠不変の真理であるという確固たる信念が仏教にはある。人が法の中に消えるとでもいってよいのであろうか。

しかしながら、それはそうであっても、私達が仏教を学ぶにあたっては、少なくとも自分の内面においては、己れを少しでも法に近づける事を思うべきであろう。一歩でも、大定・智・悲の方向に専念に歩まねばならないのである。教えを学ぶ、真実に生きるとは、時には、生命をかけることでさえあるのだ。

だが、怠け者の私には、修行の話は苦手である。正直なところ、肩がこってくる。修行というものは、元来が真面目でひたむきなものだ。そうでなければならない。だから怠け者がそれを語ろうとすると、知らず知らずかまえてしまうのかも知れない。しかしまた、仏教が、私たち凡人から急に遠のいてしまうのも修行のところではないだろうかと思う。黒染めの衣に身を包んで、ひたすら修行に打ち込む人たちを見ると涙の出るような感動を覚えるのだが、実際に職場で仕事を毎日していると、そういう生活の中でも出来る修行がないものかと思う。坊さんたちの修行を否定するのではない。それを尊いと思いながら、暮らしに追われているのである。そんなものは捨てろ、捨てさえすれば何でもないことだと言われればそれまでだが、仏陀の法は、暮らしに追われている凡愚の私にも、ちゃんと及ぶものではないのであろうか。

仏陀が「汝等、比丘たち」と呼びかけられる経典もあるが、「善男子、善女人よ」と語りかけられることもある。それは仏陀の教えが坊さんだけを相手にしたものではなく、暮らしに追われている私たちにまで及ぶことの証拠だと思う。

安易な自己肯定に陥ってはならないけれども、毎日毎日、朝から晩まで、修行だ修行だ、精進だ努力だとあけくれるのでなく、喜んだり悲しんだり、泣いたり笑ったりの生活のその中で、じっくりと人生を受領していく、そういう一つの人生、一つの修行が許されないものであろうか。「真実の秋」が、どこか遠くにあるのではなく、「真実の秋」だからこそ、雲の飛ぶのにも、高い空にも、路傍の草花にも、隣の席の友だちと交わす一言にも「専念に心をこめて」今日一日を深く生きる、そういう修行が、年齢のせいだろうか、近頃は親しいものに思われてならない。

<唯識観>とは、そういう修行ではないのだろうかと思う。万法唯識・一切皆空の観察を深く内に持する人生である。家庭の中でも、バスや電車の中でも、職場の中でも、透徹した心眼を持って、どっしりと生きていく、そういう修行の人生が<唯識観>に基づく唯識の修行の一つではないのだろうか。

<資糧位> の修行は<唯識観>がその根幹であるが、その<唯識観>の究まるのが、<加行位> <通達位>である。<資糧位>が、ありとあらゆる修行を一つ一つ積み上げていく段階であったのに対して、<加行位>は、<唯識観>を集中的に究め尽くす段階である。

――引用終わり

太田久紀師が言われているように、仏教は出家者のためのみにあるのではなく、むしろ圧倒的多数の在家、即ち、私たち世俗の生活に追われ、苦悩する者の為にあると言うのが大乗仏教の考え方であろうと思います。

しかしまた、在家者だからと言って、体を使わず、頭でっかちの知識だけの取得だけで良いものではないと思います。無財の七施などの徳を積む事など、在家者で出来る事は進んでしていかねばならないことは言うまでもありません。

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