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唯識の世界


29.大随煩悩の検証―不信(ふしん)

『不信』を広辞苑で調べますと、
@信義を守らないこと。いつわりのあること。不実。
A信仰心の無いこと
B信用しないこと
これらの不信の心は、自分の先入観を頼りとして、真実を見ない、或いは真実が見えないことに依るものと思います。この不信も直接的に他人を深く傷付けるものではないところから、大隋煩悩として挙げられたのだと思います。

太田久紀師の解説:
これも善の心所<信>の裏返しである。<信>は「心をして澄浄ならしむ」といわれていたのに対して、「心を穢す」「自をも穢す他をも穢す」と述べられる。 不信感を持てば、対人的な一切のきずなは切断されてしまう。手がかりがなくなってしまう。取りつく島がなくなるのだ。不信を抱くということは、相互の関係を完全に遮断することだから、軽しく持つべきものではない。彼を信じないという思いは、最後の最後まで持ってはならぬことである。

タクシーに乗る時は、運転手さんを信頼して乗る。契約書などは取り交ぜない。それで安心して乗っている。水道の水も、いちいち分析し安全を確保するなどということはない。私たちの社会は、信によって成立しているといわざるを得ない。 <不信>は、それを一切崩壊させるのである。

そして、その<不信>の最たるものは、仏陀やその教えや、その教えの示す真理性に対するものである。 世間の浮き沈みー儲かったとか損したとか、出世したとか左遷されたとか、そういう世間の体系のみを真とし、それを超越した別次元の体系などは関係ないもの、絵空事とする精神、それが最も深刻な<不信>の根源になるのであろう。

『法相二巻抄』には、次のように書かれている。
貴く目出たき事を見聞くとも、忍(認と同意)じ願う心なく、穢れに凝れる心なり。

―引用終わり

この唯識が列挙する煩悩を見渡す限りは、私は煩悩具足の凡夫であることは間違いありませんし、その上に、私の場合は、今勉強している随煩悩に、<セッカチ>、当てはまる漢字熟語を探すならば<焦燥(しょうそう)>を付け加えなければなりません。兎に角、ゆったりとした生活態度、考え方が出来ませんし、この大随煩悩が引き起こす、腹立ちがどれ程災いを起こしたか分かりません。

何故、これほどに急がねばならないのかと思う事が頻繁にあります。この<セッカチ><焦燥>が無くなれば、おそらくは、穏やかな日々になるものと思われますが、セッカチを止めようと決心した直後から、この大隋煩悩は我が意思に反して活躍します。

この<セッカチ>も、根本煩悩の『我愛』から来るものと思われます。自分で制御出来ないからこそ、この<セッカチ><焦燥>も、随煩悩に違いありません。

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