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唯識の世界


41.悟りに向かう道−(5)

第二段階の『加行位』に進む前に、もう一度、悟りに向かう上で最も大切な『信』について、押さえておきたいと思います。何故かと言いますと、『信仰』とか『信心』と言いますと、一般的には、どうも非科学的なイメージがあり、知識階級には敬遠されがちであって、「私はインド哲学や仏教の深層心理学と言われる唯識≠ヘ学んでいますが、仏法を信仰している訳ではありません」と言う姿勢の方をよく見受けるからであります。極最近、生化学学者である柳澤桂子氏の、病を通して学び綴られた仏法エッセーがベストセラーになっていますが、最先端学問の学者が説く知的な仏法だからと言う事で人気があるのだと思っています。

さて、『唯識』が捉えている『信』も、「根拠無く、何かを信じ込む」と云うようなものではなく、『知的』なものであります。それは、太田久紀師も力説されているところであります。師のお言葉を抜粋して、唯識が考えている『信』の知的な面を示したいと思う次第であります。

太田久紀師の解説:
 「宗教」という言葉から、すぐ連想されるのは、おそらくこの<信>という字ではないだろうか。「信仰」「信心」、それが宗教だと思う。
経典の中にも、

信は道元功徳の母。(『華厳経』)
仏法に入るには信を根本とす。(『心地観経』)
仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。(『大智度論』)
などなど、<信>が仏教の根源であることを示した言葉は無数にあるといってよいだろう。

『大乗荘厳経論』には「明信品」という一章があり、そこには「菩提とはいわゆる信なり」とさえ述べられている。<菩提>とは「證りの智慧」のことであり、あらゆる仏教の修行は<菩提>を成就するためにあるといってもよいくらいだから、<菩提>が<信>だということは、<信>が大変重要な位置におかれていることを意味する。
<菩提>は到達点、<信>は出発点だから、到達点と出発点とが別物ではないといわれていることでさえある。

『法相二巻抄』には、

世の常に信を起こすと云うはこれなり。誠の道、大乗の法を見聞して、貴くめでたき事と、深く忍び願いて清き心なり。
と述べる。まず結論的にいって、<信>とは「浄」なる<こころ>であり、「澄み清き心」だということができる。『倶舎論』では「心をして澄浄ならしむ」、それが<信>だと簡潔にその点が強調されている。根本的に<信>とは、おそらくそういうものであろう。 これは逆の場合を考えてみるとよくわかることで、もし不信感を持ってしまうと、相手のすることが、一つも信用できなくなってしまう。いうことなすこと、全部疑惑の対象になる(日本と北朝鮮の関係がまさにそのものではないかと、無相庵の譬え)。 <信>はその反対で、<信>あれば<こころ>は常に清浄であり得るわけである。

この『澄浄(ちょうじょう)』という定義の前に、唯識は、<信>が何に対しての<信>なのかを云うのである。人対人の間にもむろん<信>はあり、それが私たちの生活を支えているのはいうまでもないが、唯識にとってもっと大切なのは、<信>を<仏><真理>との関係で捉えるということである。いや、そこに<仏>を持ち出さなくともよい。自分の根源と自分とのかかわりといってもよいだろう。世の中に真理があり、万法は真理のままにある。それを確認認識することが「真実の道理あるを信ず」ということである。

さて、このことは、実はなかなか重要な<信>の一面を提示しているといわねばならない。それは<信>を、認識という知的要素を含むものとしているからである。普通<信>は、知と背反するものと考えることが多くはないであろうか。

『岩波国語辞典』を引いてみると、<信>じるとは「@それを本当だと思い込む。正しいとして疑わない。A信仰する。」の二義が記されている。おそらく私たちは、普段こんな意味に使っているのが実情であろう。この説明の中には、知的な要素はほとんどみられないといってよい。<信>といえば是非善悪の判断などを超えて、ひたすら無条件にそれを信じ込むことだと考えることはないであろうか。<信>には、むしろ理知を否定するところがありはしないだろうか。「鰯の頭も信心から」などという諺には、理知の入り込む余地はないように思う。ヨーロッパ中世のアンセルムス(1033〜1109年)という哲学者は「信仰は真理を知るためである」といい、信仰と認識を区別し、信仰を認識の為の前提としたことは有名であるが、唯識の<信>に関する考え方は、それとは少し違うようである。信があって、その知(認識)があるのではない。それかといって、知があって、そののち信があるのでもない。<信>と<知>とが一体のものとされているのである。

考えて見ればその通りであろう。<信>がなければ、そのものへの正しい認識はあり得ないし、何らかの対象への認識がないところには、<信>も生まれぬように思う。最初から疑ってかかったのでは、何ものも知ることが出来ぬように思う。仏陀を信じるということは、仏陀が示されるものものは真理であるという何らかの認識があっての上のことであろう。まるっきり疑ってかかったのでは、一言半句もわかるはずがない。自分の知性や判断を超えたものがあるという認識が、真理への<信>となるのであろう。

<信>と認識とは、一体のものであると唯識は教えるのである。このように<信>と<知>とを一体のものと考えるという性格は、唯識のみにみられるものではないらしい、中村元先生の『東洋人の思惟法』に、

インド人の考える「信」は非常に理知的なものであった。そうして単純な信は低い意義のものであり、理知的な信が高い価値がある、とインド人は考えていたのであった。
と述べられている。

言葉が文化の歴史の中で身に付けた微妙なニュアンスを、急に捨てたり無視したりすることは出来ぬであろうが、宗教は知・認識などと矛盾背反するものだという先入観のみで<信>を嫌ってはならぬと思う。<信>のないところには、知も愛も私たちのあらゆる行動もあり得ぬという、もっと深い意味があるのを考えてみなければならぬのではあるまいか。 <信>は決して知・認識よりも程度の低いものではない。むしろ、それを底から支えるものといえるかもしれない。<信>が崩壊してしまったら、人と人、人と自然をつなぐ空間はたちどころに穢れてしまうであろう。 しかも、唯識は、その<信>を真理へ向かうものとして捉えるのである。「鰯の頭」を信じるのではない。

――引用終わり

「信」は、真理に対する正しい認識とともに芽生えるものだと言うことだと思います。何が真理かを知るためには、選り好みせずに色々な立場の仏教書を読む事も大切ですし、法話を聞くことも大切だと思います。

「只管打座(しかんたざ)」と言う道元禅師の教えに従って、ただ単に座禅をするだけであるとか、「ただ念佛して」と言う浄土真宗の教えに従って、意味もなく念仏を称えるだけでは、悟りに向かう道を歩み進んでいるとは云えないのではないかと思います。

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