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唯識の世界


4.八つの識

唯識と言うからには、やはり唯識の「識」として何を考えているかと言うところから学びたいと思います。

仏教徒以外にも知られている『般若心経』と言うお経の中に、「無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」と言う箇所があります。唯識の識は全部で8識を考えておりますが、その最初の6識が、般若心経の中にある「眼耳鼻舌身意」(げんにびぜつしんい)であります。即ち、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識であります。

そして、それぞれが何を認識・識別するかと申しますと、前述の般若心経の「色声香味触法」(しきしょうこうみそくほう)と対応していることになります。眼は色即ち存在を、耳は声即ち音を、鼻は香即ち匂いを、舌は味を、身は触即ち物質の性質(冷たい、熱い、硬い、軟らかい等)を認識するということであります。意識が認識する"法"とは、一切の形あるものも無いものも、目の前にあるものだけではなく、過去も未来についても思考するのが、意識であります。

私達が普通に"心"と言うのは、以上の6識を総じて言うものだと思います。こう言う心の構造を既に二千年前に想定した唯識仏教に驚かされますが、唯識は更に、私達の心はこの"表層の心"だけではない、この表層の心に影響を及ぼし、また逆に表層の心が蓄積・記録と言う形で影響を与える"深層にある心"、フロイド流に言うならば、"無意識の心"の存在を提唱しております。そして、その無意識の心を更に二つに分けて、一つは末那識(まなしき)、もう一つが阿頼耶識(あらやしき)と言い、以上で唯識は八つの識を考えている事になるわけです。

末那識は、マナ識と表現される事がありますが、マナはサンスクリット語の"思量する"と言う意味の『マナス』が語源となっているそうで、何を思量するかと言えば、自分の得になること、自分を大切に思い量る心が末那識・マナ識です。無意識のうちに自分に執着していると言う喩えとして、集合写真を貰った時の行動がよく話されます。集合写真を貰ったら、誰でも先ずは自分がどう写っているかを確認します。これは、学校のクラス写真でも、家族写真でも、或いは恋人とのツーショットでも同じでしょう。これは、無意識のうちに末那識の働きが行動に表れている端的な例ですが、私達の総ての行動に同じ様に末那識が働いていると考えるのが唯識です。

阿頼耶識も、アラヤ識と表現される事がありますが、アラヤは同じくサンスクリット語の"蔵"とか"蓄える"と言う意味の『アーラヤ』が語源だそうです。参考までに、有名なヒマラヤは雪と言う意味の「ヒマ」と「アーラヤ」が結び付いた名詞で、雪の蔵、と言う意味で『ヒマラヤ』と名付けられたようです。阿頼耶識が何を蓄えているかと言いますと、身口意(しんくい)と言う私達が経験した総ての事を記録して蓄えていると考えます。過去の記録と言いますと、私達がこの世に生まれる前、現代人に解り易く言うならば、DNAの遺伝子に情報として生命が生まれた30億年前からの記録も含めて、蓄えていると、唯識は考えます。従いまして、本能もそうですし、生まれつきの性格、素質も含むと考えます。現代では、DNAは30億文字分の情報を記録出来る、2メートルの長い紐(細さは、2ナノメーター)と言われていますから、阿頼耶識はDNAとか遺伝子に深く関係していると考えてもよいと思いますが、DNAも遺伝子の存在も分からなかった二千年前に、よくも想像したものと思わずにはいられません。

末那識と阿頼耶識を想定した唯識の深い洞察のもう一つは、前述で少し触れましたが、私達の言動のみならず、思考・意志の総てが阿頼耶識に記録されると共に、逆に私達の言動・思考・意志に阿頼耶識と末那識からの情報が影響していると言うことです。この考え方を表にしたのが、別表です。阿頼耶識が眼識に影響を与えている事は実感出来ると思います。同じものを見ても、人によって見方が変わる例として、同じ人物を見ても、私は女優の吉永小百合に似ていると言っても、妻は全然似ていないと言う場合があります。同じ芸術品を見た時、妻は素晴らしいと言うけれど、私にはそう感じられない場合もあります。夫々の阿頼耶識に蓄えられているものが異なっているから、認識が異なるのだと思います。私が認識している吉永小百合と妻の認識している吉永小百合は異なるとも言える訳です。

この唯識の考え方の源には、ものの見方を変えるには阿頼耶識に蓄えられている内容を変えなければ、ものの見方は変わらないことを示していると同時に、たとえば仏(ほとけ)様の種を限りなく植え込んで行けば、私達の心はやがては仏の心に転換し、行為も思考も仏様のものに転換すると言う考え方があるのだろうと思います。浄土真宗で聞法を重ねることを進めるのも、だだひたすら坐禅を提唱する曹洞禅も、坐禅しつつ徹底して疑え、自己とは何かを突き止めよと説く臨済禅も、心理学的考察をしてみますと、何れも阿頼耶識の転換を目指しているのではないかと思われます。

以上、唯識の八つの識を勉強致しましたが、総ての識は、私達の『悩』の中で起る現象・働きであろうと思われます。下記の悩の構造図は、現代の大脳生理学が唯識を現代的に開明しつつある事を示しているように思います。私達が爬虫類、旧哺乳類、新哺乳類と進化する中で、それぞれの本能総てを脳の部分部分に分けられて蓄えているのだと言うことだと思いますが、それらを含め、総称して阿頼耶識と言うことではないかと考察出来ます。




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