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唯識の世界


14.随煩悩の検証―@

根本煩悩に付随して起きる煩悩と云うことで随煩悩と言い、全部で20種類あります。そして、その20種は下表の如く『小随煩悩』『中随煩悩』『大随煩悩』に分類されます。小・中・大と言うのは、他の煩悩との共通性が小さいとか、中ぐらいとか、大きいと云う意味で使用されており、小随煩悩は、 それ単独で働く煩悩であり、小さく弱い煩悩と云うことではなく、むしろ強烈な煩悩と云われております。

小随煩悩 いかり【忿(ふん)】、うらみ【恨(こん)】、ごまかし【覆(ふく)】、なやみ・なやませること【悩(のう)】、
ねたみ【嫉(しつ)】、ものおしみ【慳(けん)】だますこと【誑(おう)】、
へつらい【諂(てん)】、傷付けること【害(がい)】、おごり【驕(きょう)】
中随煩悩 内的無反省【無慚(むざん)】、対他的無反省【無愧(むぎ)】
大随煩悩 のぼせ【掉挙(じょうこ)】、おちこみ【昏沈(こんぢん)】、まごころのなさ【不信(ふしん)】、
おこたり【懈怠(けたい)】、いいかげんさ【放逸(ほういつ)】、ものわすれ【失念(しつねん)】、
気がちっていること【散乱(さんらん)】、正しいことを知らないこと【不正知(ふしょうち)】

これから随煩悩を一つ一つ勉強して参りたいと思いますが、知識としてではなく、自分の過去を振り帰りながら、自分の心に住み付いている随煩悩を確実に捉える縁と致したく、少し時間を掛けたいと思います。前にも申しましたが、恐らく親鸞聖人も唯識が示した随煩悩を自己を問い直すチェック項目として、比叡山の修行中に一つ一つを吟味されたのではないかと思います。そして、いよいよ救い難い自己に出遭い、救われる道を求めて悶々とされたのではなかったかと思われます。私達におきましても、現実の自己を直視するところから始めて救われる道が用意されているのではないかと思いますので、読者の方々と共に、真剣に自己と向き合いたいと思います。

さて、一つ一つの随煩悩とは何かに付きましては太田久紀先生のご著書『唯識の読み方』から説明文を引用した参考にさせて頂きますが、それに引き続きまして、私自身の煩悩を吟味しながら進めたいと思います。私達に取りまして大切なことは、私達の日常生活を送る中での自分の心の動き、しかも瞬間的な心の動きをも偽ることなく思い出すことが必要ではないかと思います。ある程度自己を見詰める心が育っていますと、湧き上がって来る随煩悩を抑制するようになります。従いまして、例えば瞬間的に湧き上がった"いかり"を直ぐ様に言動・表情に現わさない事もありますが、煩悩が消えたわけではありません。その煩悩感情は阿頼耶識に蓄積され、何時か爆発してしまうことが有り得るのだと思いますので、少しの心の動きも見過ごさないように、自己の心を掘り起こしたいと思います。

1.いかり【忿(ふん)】について
太田久紀先生の説明: 『法相二巻抄』には、
腹を立つるによりて杖を取りて人を打たんと思う程にいかる心なり

とある。つまり「いかりの爆発」だ。棒で相手を叩きつける、どなりつける、そういう激情である。その根本にあるのは<根本煩悩>の<瞋(じん、いかり)>であることはいうまでもない。<瞋>は、カッと眼をみはって睨みつけた段階での"いかり"である。まだ爆発していない。<忿>が爆発の状態である。 小川弘貫先生がよく、腹が立っても大声を出してはならない、大声を出すと手をふりあげるようになるといわれたのは、短気な御自身に言い聞かせておられたのであろうと思う。 師匠が弟子を叩くのは<忿>ではない。<忿>であってはならない。

如浄禅師(1163〜1228年、道元禅師の中国での師匠)の修行は厳しかった。激しい呵責(かしゃく)を受けることもあり、打擲(ちょうちゃく、棒で殴りつけること)されることも稀ではなかった。しかし弟子達は打たれることを悦んだという。如浄禅師が、これも教化の儀式であるから許して欲しいと述べられるのを、弟子たちは流涕(りゅうてい、涙を流すこと)して聞いたと言う。真の師が精魂を打ちこんで弟子を打擲するのは<忿>ではない。

煩悩であるかそうでないかを見分けるポイントにあるのは、<我(が)>の有無である。師の与える三十棒(厳しい叱責と言う意味)が<忿>でないのは、それが<無我>だからである。<忿>の打擲は許されない。

私が中学の頃には、よく上級生に叩かれた。鉄拳制裁は日常茶飯のことであった。もっともあの頃は、叩く方も、叩かれる方もちゃんと作法を心得ていたから怪我をすることはなかった。今それを思い出してみても、そのうち何回かの鉄拳は「ありがたい」というと言い過ぎかも知れぬが、そんな気持で懐かしく思い出される。叩かれてよかったな、あの先輩はどうしているかなと思う。ああいうのは、きっと叩いた上級生の気持が純粋であったのだろう。思い出してみて、あまり愉快でない鉄拳は、<こころ>の片隅にリンチめいた<忿>の私情がひそんでいたのであろうかと思う。

私自身も人を叩いたことがある。そして今なお、相すまぬことをしたと悔恨の思いの忘れられぬ例が幾つかある。自分で私情を感じるからである。正義感に燃えて何かひたむきになっている時など、知らず知らず正義の名のもとに<忿>煩悩を満足させていることもないとはいえない。
―引用終わり

私は表面的には穏やかに見られることが多いようですが、本当は短気でセッカチだと自認しています。自分がカッとなる時、自分では義憤に燃えてと思っていますが、よくよく我が心の底を思い起こしますと、私の"怒り"は、自分の思い通りにならないことに対する苛立ちであり、末那識の持つ我愛・我慢・我癡・我見すべてを原泉としていると思わざるを得ません。勿論、世の中には法律を守らない人、他人にかかる迷惑を一向に気にする様子のない人も確かに存在致しますが、私の場合、よくよく自己の心の底を訊ねますと、法律を守らないことに腹立てていると云うよりも、無意識層にある自己中心の心から発していることに思い至ります。その証拠に、瞬間的にカッとします。法律を守らないことに腹立てるのであれば、恐らく、他人の行為を見たときから、腹立てるまでにはしばらくは間があると思うからです。

上記の考察は、多くは車を運転している時を思い起こしてのことでありますが、私は趣味のスポーツとしてテニスをしていますが、テニス倶楽部でテニスの練習試合をしている時でさえ、瞬間的にカッとする時があります。私はある程度腕に自信を持っていますから、ラインを狙って配球することが多いのですが、そのボールがラインの上か中か外かの判定で、相手が私の判定と異なるジャッジをした場合(通常の練習試合は、審判は就かずにセルフジャッジで、ボールの受けて側の判定を優先することになっています)、私は動態視力に自信を持っていますから、「えぇっ何んで?」と瞬間的に怒りが込み上がる事がしばしばあります。たかが練習試合なのにです。負けても勝っても、別にどうと言うこともありませんのに、<忿>の煩悩が燃えあがるのです。勿論、瞬間的に激情するものの、また瞬間的に相手の判定に従う冷静さを持ち直しますが、瞬間的に怒っていることは確かであります。

また、私達夫婦はどちらかと言いますと言い争いの少ない部類だと思いますが、これまでの34年の夫婦生活を思い返しますと、数回は私の方が激情した事があります。大体は私がお酒に酔っ払っていた上での事です。酔っ払っているのを窘(たし)められたりした事に対する"怒り"です。「この俺に注意するのかぁー」と云う、無意識層にある我慢(自分は正しい、賢い、立派だと思っている心)から生じた<忿>ではなかったかと思う次第です。勿論、売り言葉に買い言葉であって、妻の方の「なんで、ここまで酔っ払わないといけないの?家族のことも考えて、しっかりしてよ!」と云う"怒り"を含んだ言葉に対して瞬間的に<忿>の煩悩が湧き上がったことは 云うまでもありませんが、ちょっとした言葉使いで、<忿>が<忿>を呼び起こすことは、どなたにも身に覚えがあることではないでしょうか。

こう我が身を振り返って参りますと、煩悩と言うのは、無意識層の末那識、阿頼耶識を原泉としていますから、瞬間的に生じるものだということが分かります。それだけにこの煩悩を吹き消すことは容易ではないと言うことでしょう。

そして、<忿>と言う煩悩を表面の言動に現わしてしまったとき、自分自身も決して満足するのではなく、逆に自分に対して嫌悪感すら感じて落込み悩ましく、不快な気持になることに気付きます。しかし、分かっていても止められないのが、この随煩悩と言うことではないでしょうか。

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