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唯識の世界


46.仏の道を歩む−(1)

仏法信者が必ずぶち当たる壁だと思いますのが、「頭では仏法が分かったと思う、しかし,この身と心がどうも分かっていない気がする。よく言われるところの体得が出来ていない気がしてならない」と言う居心地の悪さではないかと思います。即ち、仏法を知る前と、知った後を比べて格別に生活態度や、心の平穏さが変わった気がせずに、相変わらず、お金が欲しい、人よりも出世したい、プライドを傷付けられると腹が立つ、人の身勝手さにも腹立ちが起こる、イライラする、口にこそ出さないが、愚痴もコンコンと湧き出て来ると言う、煩悩に支配されている居心地の悪さではないかと思います。

この居心地の悪さを、私は永年経験して来ていますが、時折、他の人はどうなのかなと思うこともございました。そして、他の人の批判になってしまいますが、仏法を説く人必ずしも皆が皆、お釈迦様のような人ばかりではないのも現実ではないかと思ったりして来ました。そして、思いますに、残念ながら、私と同じ様に親鸞聖人を信奉しその教えを説く人々の中に、その傾向が顕著に見受けられるように思っております。

その原因は、多分『行』に関する考え方にあるのではないかと考えております。「阿弥陀仏の救いに与(あずか)るのに自力の修行は必要ない、ただ、阿弥陀仏の誓願(本願)を信じ、念仏を称えれば、それで救われるのだ」と言う教えが独り歩きしてしまい、得手に聞いて勝手に行う仏道を歩んでしまうからではないかと考察しております。

確かに、お釈迦様も、親鸞聖人も、断食や不眠不休、そして何万回と念仏を唱える等の難行苦行は悟り開く上では無意味だと考えられていたようであります。しかし、お釈迦様は、八正道と言う、悟りを求める者が心得るべき正しいあり方をお示しにならました。そして、それを大乗仏教では、これから学ぼうとしている『六波羅蜜(ろくはらみつ、ろっぱらみつとも読む)』に言い換えたのではないかと思います。

唯識では、この六波羅蜜を悟りに至るために必要な『行』であると考えているようであります。親鸞聖人も、恐らく、この『六波羅蜜』の行をご存知でいらっしゃったと思いますし、それも大切な事だとはお考えになっておられたと思います。しかし、それでは、何故、「阿弥陀仏の本願を信じ念仏を申すことだけでよい、他に何の善行も必要なし」とおっしゃったのでしょうか。それは、飽くまでも私の私見でありますが、阿弥陀仏を信じ念仏を申す身になれば、六波羅蜜の行を自ずからしたくなるというお考えではなかったかと思われます。悟りを求めて、悟りを開くための修行としての六波羅蜜ではなく、お念仏が報恩感謝のお念仏であるように、六波羅蜜に示されている行も、報恩感謝の心から自然に行われるもの、と言うお考えではなかったかと思います。

さて、前置きが長くなりましたが、六波羅蜜の行とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六行であります。それぞれを簡単に説明させて頂いて、次回から、一つ一つ、少し私達現代の普通の生活者が為し得る行として説明して参りたいと思います。

布施    他に対して無報酬で行うサービス・親切(人のためになることをする)
持戒    仏道を歩む者が守るべきルール・生活態度
忍辱    忍耐や我慢ではなく、真理に即して他人にも自分にも善き結果を求める努力
精進    上記の三波羅蜜を始めとして仏道に励む事
禅定    正しい姿勢と静かな心を保つ事
智慧    真理に即した考えで思索する事
以上であります。

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