◆ ◆ ◆ 唯識の世界 ◆ ◆ ◆
22.随煩悩の検証―H(害(がい))
9.害(がい)
20随煩悩を確認しているところですが、人間の心を自虐的に見過ぎではないかと言う疑問を抱く方々もおられるでしょう。そういう面もなきにしもあらずですが、唯識は、私達よりも、もっともっと人間の心の真相を問い詰めています。
時分の心の奥底を徹底的に訪ねますと、残念ながらと言いますか、一番奥底にあると唯識が考える、我愛・我見・我慢・我痴の4大根本煩悩に突き当たざるを得ません。
私は自分自身、原理原則・ルール・常識には厳しい人間だと思っておりました。不法駐停車、無理な割り込みなど交通ルールを守らない車には、常に厳しい眼を向けていましたが、よくよく自分の立場を顧みますと、自分に迷惑をかける車に厳しいだけであり、自分が直接迷惑を蒙(こうむ)らない違反行為には、それ程厳しい視線を投げかけていない自分が照らし出されました。一見、ルールを大切にする人格であるように思っておりましたが、本当は、我愛から生まれ出ていた、"瞋恚(しんに、怒り)"でしかなかったのだと、反省させられたことでした。
自己の見解、主張、批判が煩悩から出ている限りは、他人から共感を得ることはないと思われます。聖徳太子は、この事を承知されて、『共に、是、凡夫のみ』(お互いに凡夫ではないか)と、感情的対立を戒められました。
太田久紀先生の説明:
『法相二巻抄』には、
人を哀しむ心なく、うたてしく情なき心なり。世の中に慈悲性もなき者と云うは此の心の増せる人なり。
人の哀しみのわからぬ<こころ>である。哀しみが分からぬから、平気で人の<こころ>を傷つけていく。慈悲の思いなどどこにもない。殺伐として、ぬくもりのない<こころ>である。
企業の厳しさとか、社会の冷たさとか、現実の社会では、人の<こころ>の哀しみに気を配ったり、同情したりするなどと言う甘っちょろい話は通用しないかもしれない。そんなことをいっていたら生存競争に負けてしまう。そういう切実感があるだろうと思う。
だが、現実がそうだから<害>は善だとはいえないのである。仏陀の眼には、<害>は決して美しくない。<害>を正統化していく世界を許されることはない。<害>は<瞋>の変形である。
―引用終わり
私は、8月11日のコラムで、小泉首相の政治手法に疑問を投げかけました。そして、彼が、家庭を持っていない事から来る、片寄った政策にも疑問を表明致しました。 一億数千万人の国家を運営するのに、一握りの弱者の事に目配りした政策を実施していては、日本と言う国家そのものが崩壊すると言う考え方があるのかも知れませんが、『人の哀しみ、庶民の哀しみ・苦しみ、自殺して行く弱者のうめき声』が聞こえないような政治家が国をリードするのは、あの60年前に、弱者である一般市民を戦争に駆り立てた当時のリーダーと差異はないように思います。
小泉さんの心の奥底には何があるのでしょうか、郵政民営化法案が、小泉さんの煩悩に囚われていない心からの政策であるならば、日本の将来は明るいものとなるに違いありません。 私は、この1ヶ月間、見守り続けたいと思います。