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唯識の世界


18.随煩悩の検証―D(嫉(しつ))

5.嫉(しつ)

嫉(しつ)“嫉妬(しっと)”の 嫉です。他人の幸せを素直に喜べないどころか、他人の幸せが気に入らないと言う心を人間は持ち合わせていると言うのです。「人の喜びは我が喜び、人の悲しみは我が悲しみ」とはならず、「人の喜びは我が悲しみ、人の悲しみは我が喜び」と言う浅ましい心が心の奥底に潜んでいるのだと唯識は考察します。

人の悲しみは我が悲しみとして一緒に悲しんであげる態度は取れます。人の喜びは私の喜びとして共に喜ぶ態度は取れます。しかし、我が子の一番ほどには、他人の子供の一番を喜べないのは厳然たる事実であります。そこに嫉妬心が生じていることに気付かざるを得ません。

新聞・テレビのニュースの殆どは、他の人々の不幸なニュースです。未だ2ヶ月も経過していない、あのJR西日本の脱線事故も、遺族を含む当事者以外の者にとりましては、もう悲しみの涙は出て来ません。二子山親方の死も悲しみではなく、若貴兄弟の確執報道に興味深々という状況です。人の幸せなニュースよりも、不幸なニュースに興味を持つと言う人間の煩悩を衝いて栄えているのが、マスコミ業と言えるかも知れません。

嫉、なんとなく陰湿な響きがありますが、この煩悩から眼をそらさずに、凝視せよと唯識は説くのであります。

太田久紀先生の説明: 『法相二巻抄』には、

わが身の名利を求む故に、人の栄を見聞して、深く妬ましき事に思うて安からざる心なり。物ねたみする人は此の心増せるなり。
いうまでもなく、嫉妬(しっと)である。

人が栄えようが儲けようが、自分とは関係ない。自分は自分の為すべきことを為せばよいのである。なぜ、隣をそんなに気にするのであろうか。人が栄えることは結構なことではないか。素直によろこべばよい。そうであるのに、嫉(ねた)みを持つ。

どうして人間というものは、こんなに厄介(やっかい)なものなのだろうと思う。底に潜んでいるのは、<瞋>根本煩悩である。人の幸せが、面白くない、気に入らないのである。

もちろん嫉妬にもさまざまある。男女が殺し合うようなものもある。嫉妬が煩悩だと教えられてみても、それですんなり解消するようなものではない。 しかし、唯識が教えるのは、その嫉妬が煩悩であること、自分の気に入らぬという気分が根底にあること、それをとにかく認識し自覚するということである。 嫉妬に狂う自分を、どうすることも出来ぬかもしれぬ。<こころ>にはそういう重さがある。だが、とにかくひとつの手掛かりは、まず狂える自己の実態を眼をすえて凝視することである。

―引用終わり

私がサラリーマンしていた時、同じ年齢の人がどんどん出世して行ったことがあります。非常に悔しく、妬ましく、腹立たしい想いがしたことを思い出します。自分は、上司に盾付いて、可愛がられるようなことをしていないから当然であるのに、納得出来なかったのです。そしてそんな自分に更にまた腹が立つと言う無間地獄に住んでいた自分を思い出します。

人間の心というのは矛盾するところがあります。人の幸せには嫉妬するのですが、しかし、大リーグで野茂投手が200勝達成したと言うニュースは、我が事のように嬉しく思いました。そして松井選手が怪我をしたり、不調ですと、暗い気持ちになります。昨年のイチロー選手の大記録樹立には、本当に心から嬉しく思いました。これは、他の喜びを我が喜びとする崇高な心ではなく、日本人仲間としての『我愛』と言う根本煩悩の仕業(しわざ)でしょうか。

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