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No.620  2006.8.7

歎異抄に還って―第三章―B

●まえがき
この第三章は、『悪人正機章(あくにんしょうきしょう)』と称されています。「機」は、【かなめ。物事の主要な部分】を意味する漢字でもあるところから、『悪人正機』は、「悪人こそが仏様の救いの対象である」と解釈されていますが、阿弥陀仏の救いの対象は悪人であるとする考え方の源は、支邦(しな、現在の中国)の善導大師に遡りますが、それを教えの中心に据えたのは法然上人と親鸞聖人の師弟であります。

前回のコラムで、悪人とは、「十悪五逆の罪を犯した者、或いは犯さずには生きる事が出来ない者」の事であると申しました。その罪人(つみびと)を「まことに憐れだ、何としても救わねばならない」と言う誓願を立てられて仏となられたのが阿弥陀仏だと言うのが浄土門の教えだと思います。

自分は何一つ悪い事をしていない、むしろお寺で座禅にも励み、且つ社会の為にボランティア活動さえしている身であると言う自称善人は、むしろ自らが為している罪に気付いていない、自力作善の人だとするのが、浄土門での善人の捉え方ではないかと私は思います。

自分は生き物を直接的には殺生していないが、他人の手に依って殺され加工された牛の肉、豚の肉、鳥の肉、魚を美味しい美味しいと言いながら食べているのが世間で生きる我々であります。 嘘を付かずに過ごせる人も居ないでしょう。他人の悪口を一切言わない、或いは思わなくして生きられる人もまた極めて少ないと思います。

そう言う、なかなか自分では気付かない十悪五逆の罪に気付かされ、阿弥陀仏の誓願に救いを委ねるしかないと心を転換した悪人こそが、この末法の世における仏法のお目当てであると言うのが、悪人正機の考え方であります。

十悪五逆の罪を犯しながら、その罪に気付かない人は、阿弥陀仏の救いの心が届いていないと言うことであり、救われないことになりましょう。

●第三章原文
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつね(常)にいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや、と。この条、一旦そのいはれあるにに(似)たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとはひとへに他力をたのむこころ(心)か(欠)けたるあひだ(間)、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして他力をたのみたてまつれば真実報土の往生をと(遂)ぐるなり。煩悩具足のわれらはいづれの行にても生死をはな(離)るることあるべからざるをあはれ(憐)みたまひて願をおこ(起)したまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人もとも往生の正因なり。よて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおほせ(仰)さふらひ(候)き。

●白井成允師の第三章現代訳
善人でさえ往生を遂げるのだ。まして悪人はもとより往生するに決まっている。ところが世間の人々は、いつも、悪人でさえ往生する、まして善人はもとより往生するに決まっている、と云っている。この言い分は、一応道理にかなっているように思われるけれども、弥陀の本願他力を恵み賜った御思召しに違っている。その理由は、いわゆる善人、即ち自分の力で善を作(な)し、その功徳で浄土に往生しようと欲(おも)う人は、ひとえに如来の御慈悲にまかせ御力にたよる心がないのであるから、それは弥陀の本願ではない。けれども、さようの人でも、自分で善根を積もうなどという心がひっくりかえってしまって、如来の御力をたのみまいらせるときには、即ち真実報土の往生をとげるのである。煩悩という煩悩を一つも欠けることなく具えている私たちは、いかなる行を励んでも、生死を離れることが出来ないのをお憐れみくださって、必ず救うと願いたたせられた弥陀仏の御本意は、悪人を仏と成らせようというためなのであられるから、その御本意を素直に頂いて、仏の御力をたのみたてまつる悪人こそ、何にもまさった往生の正しき因(たね)なのである。だから、善人でさえも往生するのだから、まして悪人は往生するに決まっている、と仰せられたのである。

●高史明師の現代語意訳
善人でさえも、なおもって往生を遂げることが出来るのであります。そうであれば、悪人の往生は、もはや、言うまでもないことであります。これが真実でありますのに、世間の人が、いつも口にして言いますのは、「悪人でさえ往生させていただけるのです。そうであれば、善人の往生は、もっと確かなものである」と言うものであります。この世間で人が口にしている説は、いちおう、そこにそれなりの道理を備えているように見えますが、阿弥陀仏の願いの根本と、その根本と一つのものである、真実の智慧の働きの向かうところに背くのであります。なぜかといえば、自分を依り処として、自分と言える知恵と力によって善をなそう(往生の業にしよう)とする人は、いちずに阿弥陀仏の本願力におすがりするところがかけてしまいます。それ故に、阿弥陀仏の(願いと呼びかけに耳を傾けようとしないことになり)本願の慈悲からもれ落ちることになるのであります。そうではありますが、(阿弥陀仏の慈悲は、計り知れず深いものです。自力の行者であっても)その自分の力を頼りとする心を、根本ものから改めて、阿弥陀の本願におまかせ申し上げれば、阿弥陀仏の真実の智慧によって開かれた浄土に、往って生かされたいという願いを、成し遂げさせて頂くことができます。
全身が、まるごと身の煩いところの悩みである、と言ってよいような私たちは、(自分を頼りとしている限り)どのような行によっても、生と死が繰り返される迷いの世界から、逃れようはないのであります。それを憐れみくださり、一切の生きとし生けるものすべてを、平等に救い取らんと思いたたれたのが、阿弥陀仏が本願を起こされたお心の根本であってみれば、阿弥陀仏の根本の願いは、(真実の智慧に背を向け、いのちを見失ってしまう、という罪を犯している)私たち本源的悪人に、覚りを与え、真実のいのちを、恵まんとするところにこそあります。ですから、すべてを阿弥陀仏の智慧におまかせ申し上げようとする悪人こそが、往生ということでは、もっともそれに相応しい人間なのであります。それ故にこそ、善人でさえ往生できるのであれば、まして悪人においては、と仰せられているのであります。

●あとがき
私は最近の新興宗教団体に関する事件で不思議に思いますのは、かなり高学歴の若者達が、易々と引き込まれている現実です。少し理性を働かせれば、いかがわしいと感じるはずだと思われますのに、簡単に信者になっている現実に驚かされるのであります。

それらの新興宗教と比較する事自体に戸惑いを覚えますが、親鸞聖人の教えが若者達に人気が無い、振り向きもされない事が残念でなりません。しかし、考えて見ますと、自己主張・自己確立を求められながら成長した若者達が、自己を問い直し、自分が知らず知らず犯している罪悪に目覚めるはずがありません。人間の本能とも言うべき欲望を刺激して信者を獲得しようとする新興宗教の餌食になっているのは、これまた致しかた無いことであり、むしろ、これを助長して来た戦後の学校教育・家庭教育をこそ我々の年代の者が自己反省しなければならないのだと思います。

そして、悪人正機の親鸞聖人の教えを、この末法の時代に入って(1052年)やがて1000年になる現代に蘇らせる責任が、親鸞聖人の教えに縁を頂いた私達にあると思っている次第であります。


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No.619  2006.8.3

世間と仏法―B

人間関係で日常生活が憂鬱なものになっている人は想像以上に多いと思われます。私も破綻している人間関係がありますが、日常生活で顔を合わせる機会がありませんので、苦悩にはなっておりませんが、これが、同じ家に住んでいる者同士であったり、同じ職場とか隣近所の関係であったりしますと、非常な苦痛であり、精神的な病気にさえなりかねません。

経済的な苦も非常に厳しいものでありますが、人間関係の悩みはそれ以上のものがあるかも知れません。それは、経済的な苦が自分の努力で以って抜け出せる可能性があるのに比較しまして、一度壊れた人間関係は、99.9%は元に戻り得ないと言うのが実情と考えるからであります。『覆水盆に返らず』と言う諺がありますが、これはまさにこの人間関係を表わしているものであります。

仏法を説く者が、壊れた人間関係を99.9%修復出来ないと断言するのは如何なものかと思いますが、人間関係の破綻が、自我と自我のぶつかり合い、即ち、唯識の説くところの末邦識の4大根本煩悩同士の衝突に依って生じたものである以上、この4大根本煩悩を、少なくともどちらか一方が完全に滅しない限り、修復は有り得ないからであります。

従いまして、前回と前々回で申し上げましたように、人間関係を破綻させないように、注意深く、人間関係を構築する努力を惜しまないことが何よりも大切なのであります。注意深くと言いますのは、繰り返しになりますが、相手にも自分にも4大根本煩悩があると言う現実を忘れてはならないと言うことであります。

人間の個性と個性の関係を氷と氷の関係に譬えることがあります。氷同士が衝突しますと、氷の角が砕けて欠けます。片方が水になれば、氷が砕けることが無いと説明されることがあります。理屈の上では全くその通りですが、私達はなかなか水にはなり切れるものではありません(水とは生身のままで悟りを開かれたお釈迦様のような人格を言うものであります)。

悟りを開かないとよき人間関係を維持出来ないと言うので、私達凡夫が生きて行く上で仏法はなかなか役に立ってくれないと言うことになります。そうではなくて、氷は氷のままで、お互いが水の中に一緒に居ながら、少し距離を置いて、水をクッションにしながらお互いを傷付けあわないように生きて行く、そう言う現実の智慧を仏法から学び取り生かして行きたいものだと思います。

氷が直ちに水にはなりませんが、時間が掛かろうとも何れ氷は水になりますように、私達も仏法を聞き続けることによりまして、歩みは僅かでも、仏への道を歩んでいることは間違いありません。今出遭っている人間関係をより良いものに深めるためにも、仏法に学ぶ点は多いと、私は思っております。


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No.618  2006.7.31

歎異抄に還って―第三章―A

●まえがき
この歎異抄第三章の『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつね(常)にいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや、と』は、確か、私達の頃の高校の国語教科書に出ていたと思いますが、こんな難しいものを編集者が何処まで分かって引用したのか、と今は思います。私は幼い時からこの一節に親しんでいましたので、誰よりも理解していると思っていたと記憶していますが、今考えますと、何一つ分かっていなかったはずなのに・・・と気恥ずかしい想いに駆られます。

この一節に出ている善人、悪人は、私達が日常的に使っている善人・悪人ではないと言うのが一般的な解釈のようであります。善人とは、続く文章に説明がありますところの、『自力作善のひと』であり、悪人とは、『他力をたのみたてまつる悪人』であると解釈するのが通説であります。そして『自力作善の人』とは、世のため人の為に尽くして、その善根によってお浄土へ参ろう(救われたい)とする人々の事であり、『他力をたのみたてまつる悪人』とは、「煩悩具足の我が身、罪悪深重の我が心を慙愧し、阿弥陀仏に一切をお任せする心が芽生えた人々」を指していると言うのが通常正しい理解だと聞いています。

ただ、私は少々捻(ひね)くれていまして、上述の解釈を正しいとするならば、『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』は、「自力作善の人は往生するのだから、ましてや他力をたのむ悪人は間違いなく往生する」と言うことになります。「自力作善の人は往生する」と言うのは、誰がそう言っていたのだろうかと思うのです。自力作善の人は「心を翻して他力をたのむようになれば往生出来る」と言うのが浄土門の考え方でありますから、善人を自力作善の人と解釈する事に若干の疑問を感じます。また、『かるを世のひとつね(常)にいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや』も、当時の世の中の人々が、常に「悪人が往生する、ましてや善人が往生するのは間違いない」などと言っていたのだろうかと疑問であります。当時の世の中の人々が浄土門の教えとも受け取れる「悪人往生」を常々言っているはずがありません。

従いまして、ここは、素直に、『「善いことをすれば往生出来ると言われているが、本当は、私達のような悪人が往生出来ると言うのが、浄土真宗の教えですよ」それを世の中の人々は、「悪人が往生するのだったら、善人の往生は間違いない」と逆さまに考えているに違いありません』と受け取るべきではないかと思っていますが、どうでしょうか・・・。

ただ、「善人尚以て往生す、況んや悪人をや」は、『法然上人伝記』に法然上人が語られたお言葉として記載されているようでありますから、それを歎異抄作者の唯円坊が引用されたものと思われます。従いまして、歎異抄第三章の、この『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』は、一つの重要な言葉を敢えて隠して、と言いますか、明らかな前提としてと言うべきかも知れません。善人と言う熟語の前にも、悪人と言う熟語の前にも「自力の心を翻した」と言う文言が隠されていると考えた方がよいのかも知れません。

●第三章原文
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつね(常)にいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや、と。
この条、一旦そのいはれあるにに(似)たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとはひとへに他力をたのむこころ(心)か(欠)けたるあひだ(間)、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして他力をたのみたてまつれば真実報土の往生をと(遂)ぐるなり。煩悩具足のわれらはいづれの行にても生死をはな(離)るることあるべからざるをあはれ(憐)みたまひて願をおこ(起)したまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人もとも往生の正因なり。よて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおほせ(仰)さふらひ(候)き。

●白井成允師の第三章現代訳
善人でさえ往生を遂げるのだ。まして悪人はもとより往生するに決まっている。ところが世間の人々は、いつも、悪人でさえ往生する、まして善人はもとより往生するに決まっている、と云っている。
この言い分は、一応道理にかなっているように思われるけれども、弥陀の本願他力を恵み賜った御思召しに違っている。その理由は、いわゆる善人、即ち自分の力で善を作(な)し、その功徳で浄土に往生しようと欲(おも)う人は、ひとえに如来の御慈悲にまかせ御力にたよる心がないのであるから、それは弥陀の本願ではない。けれども、さようの人でも、自分で善根を積もうなどという心がひっくりかえってしまって、如来の御力をたのみまいらせるときには、即ち真実報土の往生をとげるのである。煩悩という煩悩を一つも欠けることなく具えている私たちは、いかなる行を励んでも、生死を離れることが出来ないのをお憐れみくださって、必ず救うと願いたたせられた弥陀仏の御本意は、悪人を仏と成らせようというためなのであられるから、その御本意を素直に頂いて、仏の御力をたのみたてまつる悪人こそ、何にもまさった往生の正しき因(たね)なのである。だから、善人でさえも往生するのだから、まして悪人は往生するに決まっている、と仰せられたのである。

●高史明師の現代語意訳
善人でさえも、なおもって往生を遂げることが出来るのであります。そうであれば、悪人の往生は、もはや、言うまでもないことであります。これが真実でありますのに、世間の人が、いつも口にして言いますのは、「悪人でさえ往生させていただけるのです。そうであれば、善人の往生は、もっと確かなものである」と言うものであります。
この世間で人が口にしている説は、いちおう、そこにそれなりの道理を備えているように見えますが、阿弥陀仏の願いの根本と、その根本と一つのものである、真実の智慧の働きの向かうところに背くものであります。なぜかといえば、自分を依り処として、自分と言える知恵と力によって善をなそう(往生の業にしよう)とする人は、いちずに阿弥陀仏の本願力におすがりするところがかけてしまいます。それ故に、阿弥陀仏の(願いと呼びかけに耳を傾けようとしないことになり)本願の慈悲からもれ落ちることになるのであります。そうではありますが、(阿弥陀仏の慈悲は、計り知れず深いものです。自力の行者であっても)その自分の力を頼りとする心を、根本から改めて、阿弥陀の本願におまかせ申し上げれば、阿弥陀仏の真実の智慧によって開かれた浄土に、往って生かされたいという願いを、成し遂げさせて頂くことができます。
全身が、まるごと身の煩いところの悩みである、と言ってよいような私たちは、(自分を頼りとしている限り)どのような行によっても、生と死が繰り返される迷いの世界から、逃れようはないのであります。それを憐れみくださり、一切の生きとし生けるものすべてを、平等に救い取らんと思いたたれたのが、阿弥陀仏が本願を起こされたお心の根本であってみれば、阿弥陀仏の根本の願いは、(真実の智慧に背を向け、いのちを見失ってしまう、という罪を犯している)私たち本源的悪人に、覚りを与え、真実のいのちを、恵まんとするところにこそあります。ですから、すべてを阿弥陀仏の智慧におまかせ申し上げようとする悪人こそが、往生ということでは、もっともそれに相応しい人間なのであります。それ故にこそ、善人でさえ往生できるのであれば、まして悪人においては、と仰せられているのであります。

●あとがき
この第三章は、「極悪非道の殺人犯も往生出来るのか?」と言う単純な疑問を起こさせる故に、また宗教が発する非常に刺激的な文言故に、有名になったのでありましょう。そして、誤解もされ、論争も巻き起こして来たことも事実であります。往生と言う事も、昔と今では多少ニュアンスが変化しているものと思いますが、往生の解釈に付きましては、別に考える事と致しまして、この節で大切なのは、悪人とはどんな人かと言う事であります。

悪人とは、やはり、世間で「あの人は悪人だ」と言う悪人も含めたものだと思います。そして、更には、自分では悪人だとは思っていない悪人も含めます。むしろ、後者の悪人の方が大多数を占めると言ってよいでしょう。仏教では、五逆十悪と申しまして、これを犯す人を極悪人と言います。十悪とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見をいいます。五逆とは、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧をいいますが、嘘(妄語)をついた事が無い人はいないはずでありますし、父母を心の中で殺した人(殺父、殺母)もきっと多いはずです。神も仏も無いと神仏を傷つけた事(出仏身血)も一度や二度ではないのではないでしょうか。 私は、五逆十悪をすべて一度ならず二度ならず犯している極悪非道の人間でありますが、多くの人も五十歩百歩ではないでしょうか。

道元禅師が、修證義で、「悪を造りながら悪に非ずと思い悪の報あるべからずと邪思惟する」と述べられて居られますが、これが悪人を見事に表わしていると思います。道元禅師のお言葉を拝借致しまして善人を表現してみますと、「人間のする事は本当の善か悪かは分からないのに、善だと思って善を行い、善の報があるはずと邪思惟する人」と言うことになりましょうか。

しかし、何れにしましても、この第三章は、他の人を頭に浮かべて読むものではなく、あくまでも、自分の深層の心と向き合わなければ、到底理解は出来ないのではないかと思うのであります。


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No.617  2006.7.27

世間と仏法―A

人間関係の崩壊は、絶交、仲間外れ、離婚、勘当、退職、引越し、様々な現象として形になって現われます。悲しく、淋しく、辛く、悔しく、恨めしい事でもあります。この様な経験は誰しも経験しているところでありますが、それは前回の『世間と仏法―@』で申し上げた、我癡(がち)・我見(かけん)・我慢(がまん)・我愛(があい)と言う4大根本煩悩を全ての人が持ち合わせているからであります(4大根本煩悩の詳細に付きましては、別のコーナー『有識の世界』をご参照下さい)。

私達は、初対面の人に接した時、そして接した直後に、その人の外見的な映像を頭の記録倉庫にデーター化して保存します。従って、再び会った時には、キチンと相手を認識出来る訳であり、親しく挨拶を交わすことが出来ます。外見と同時に、人格(人柄・性格・価値観)も同時に記録倉庫にデータ化して保存致しますが、そのデータが客観的なデータではなく、極めて主観的、即ち、我癡・我見・我慢・我愛と言うフィルターを通してデータ化されてしまうのが、問題であります。

本当を言いますならば、外見も、主観的であります。私はいつも感じるのですが、同じ人物を見た場合、妻と私とでは、外観印象が異なる場合が多々あるのです。「あの方は、女優の誰それに似ているな」と私が言いましても、「そうかなぁー、私は、違って、あのタレントに似ていると思う」と言う会話が交わされた経験が何回かあります。外見でさえ、夫々の受け取り方、データが異なっているのであります。

初対面では、大体の人々は、無意識の裡(うち)に、相手に好印象を与えるべく言動をコントロール致します。まして、相手を第一印象で気に入った場合は、更に好印象を演出致します。積極的好意を表わす場合もあります。それが、恋に発展し、結婚にまで到る場合が多いのも事実であります。その第一印象のデータ化に、上記の我癡・我見・我慢・我愛が働いており、事実と異なる像を心の中(頭脳の記憶回路)描いている事を自覚しておく必要があります。

我愛(誰よりも自分を愛する心)から、自分に好意を示す相手を過大評価してしまいます。我慢(自分を過大評価する心)から、自分は決して悪い人間と出遭わないはずだと根拠無く思い込みます。そして我見(私の思考は正しいとする心)から、自分が良しと評価した相手に疑いを持ちません。我癡(真理に暗く、愚かな心)から、出遇いそれ自体や、相手そのものにも、またその後の付き合いにも客観的な判断が下せません。 この4大根本煩悩を抱えた人間関係は、付き合いを深めて行く中で、お互いがベールを脱いて行き、お互いが描いていた像とかなり異なっている事に気付き始めると共に崩壊に向かう事も在り得るのだと思われます。

自分勝手に描いていた像と異なったにも関わらず、「裏切られた、こんな人ではなかったのに・・・」と疑心暗鬼な状態に変化し、やがてそれが相手にも伝わり、やがては4大根本煩悩同士の壮絶な争いになって互いに相手を責めにかかり、遂には人間関係崩壊へと行き着くのだと思います。

勿論、「事実誤認」「美しき誤解」によって構築された人間関係が『哀しい結末』を迎えずに、より善き人間関係に成長するためには、新しい人間関係に迎かう時に、我が4大根本煩悩を意識して、『虚像』を描かないようにする事ではないかと思う次第であります。 それが、この世を生きる上で、唯識の教えを生かすこと、仏法を世間に生かすことではないかと思うのであります。


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No.616  2006.7.24

歎異抄に還って―第三章―@

●まえがき
さて、歎異抄で最も有名な「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」と言う文言が含まれている第三章に参りました。 有名であるだけではなくて、親鸞聖人の教えの根本であり、浄土門全体に取りましても、根源的な教義を示している文言であると言ってよいと思います。

従いまして、少し、時間を掛けて、この第三章を勉強したいと思っております。善人と悪人と言う言葉が出で参りますが、私たちが普通に使用している善人とか悪人ではないようです。そのあたりをしっかり理解したいと思いますが、取り敢えず、初回の今日は、原文と、白井成允先生と高史明師の現代訳と意訳を合わせ読み頂きまして、全体を把握して頂ければと思います。

●第三章原文
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつね(常)にいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや、と。この条、一旦そのいはれあるにに(似)たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとはひとへに他力をたのむこころ(心)か(欠)けたるあひだ(間)、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして他力をたのみたてまつれば真実報土の往生をと(遂)ぐるなり。煩悩具足のわれらはいづれの行にても生死をはな(離)るることあるべからざるをあはれ(憐)みたまひて願をおこ(起)したまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人もとも往生の正因なり。よて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおほせ(仰)さふらひ(候)き。

●白井成允師の第三章現代訳
善人でさえ往生を遂げるのだ。まして悪人はもとより往生するに決まっている。ところが世間の人々は、いつも、悪人でさえ往生する、まして善人はもとより往生するに決まっている、と云っている。この言い分は、一応道理にかなっているように思われるけれども、弥陀の本願他力を恵み賜った御思召しに違っている。その理由は、いわゆる善人、即ち自分の力で善を作(な)し、その功徳で浄土に往生しようと欲(おも)う人は、ひとえに如来の御慈悲にまかせ御力にたよる心がないのであるから、それは弥陀の本願ではない。けれども、さようの人でも、自分で善根を積もうなどという心がひっくりかえってしまって、如来の御力をたのみまいらせるときには、即ち真実報土の往生をとげるのである。煩悩という煩悩を一つも欠けることなく具えている私たちは、いかなる行を励んでも、生死を離れることが出来ないのをお憐れみくださって、必ず救うと願いたたせられた弥陀仏の御本意は、悪人を仏と成らせようというためなのであられるから、その御本意を素直に頂いて、仏の御力をたのみたてまつる悪人こそ、何にもまさった往生の正しき因(たね)なのである。だから、善人でさえも往生するのだから、まして悪人は往生するに決まっている、と仰せられたのである。

●高史明師の現代語意訳
善人でさえも、なおもって往生を遂げることが出来るのであります。そうであれば、悪人の往生は、もはや、言うまでもないことであります。これが真実でありますのに、世間の人が、いつも口にして言いますのは、「悪人でさえ往生させていただけるのです。そうであれば、善人の往生は、もっと確かなものである」と言うものであります。この世間で人が口にしている説は、いちおう、そこにそれなりの道理を備えているように見えますが、阿弥陀仏の願いの根本と、その根本と一つのものである、真実の智慧の働きの向かうところに背くものであります。なぜかといえば、自分を依り処として、自分と言える知恵と力によって善をなそう(往生の業にしよう)とする人は、いちずに阿弥陀仏の本願力におすがりするところがかけてしまいます。それ故に、阿弥陀仏の(願いと呼びかけに耳を傾けようとしないことになり)本願の慈悲からもれ落ちることになるのであります。そうではありますが、(阿弥陀仏の慈悲は、計り知れず深いものです。自力の行者であっても)その自分の力を頼りとする心を、根本から改めて、阿弥陀の本願におまかせ申し上げれば、阿弥陀仏の真実の智慧によって開かれた浄土に、往って生かされたいという願いを、成し遂げさせて頂くことができます。
全身が、まるごと身の煩いところの悩みである、と言ってよいような私たちは、(自分を頼りとしている限り)どのような行によっても、生と死が繰り返される迷いの世界から、逃れようはないのであります。それを憐れみくださり、一切の生きとし生けるものすべてを、平等に救い取らんと思いたたれたのが、阿弥陀仏が本願を起こされたお心の根本であってみれば、阿弥陀仏の根本の願いは、(真実の智慧に背を向け、いのちを見失ってしまう、という罪を犯している)私たち本源的悪人に、覚りを与え、真実のいのちを、恵まんとするところにこそあります。ですから、すべてを阿弥陀仏の智慧におまかせ申し上げようとする悪人こそが、往生ということでは、もっともそれに相応しい人間なのであります。それ故にこそ、善人でさえ往生できるのであれば、まして悪人においては、と仰せられているのであります。

●あとがき
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」は、法然上人が言われたお言葉であると言うことから、この第三章と、第十条の最後が、「おほせさふらひき」となっているとの説があるようでありますが、それはそうとしても、そのお言葉を親鸞聖人が大切にされて、唯円坊始め、お弟子方におっしゃっていたと言うことでありましょう。

そういう事は、学問的には重要なことかも知れませんが、親鸞聖人のお教えの根本を知る上では関係の無いことだと思いますので、学問的な解説は、他の解説にお譲りして、私は、この第三章も親鸞聖人の真実信心を、せめて頭の中の理解でも良いと思いますので、勉強したいと思います。


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No.615  2006.7.20

世間と仏法―@

無相庵ホームページに来られる方々は、人生に何かの問題点を抱えられていらっしゃると推察致します。しかし、考えて見ますと、人生に問題を抱えて居ない人は皆無でありましょうから、無相庵に来られた方々は、何か縁が在っての事ではないかとも思うのであります。そして、我田引水と受け取られると思いますが、悩みを抱えられて、この無相庵に辿り着かれた方は、無相庵が尊いと言う事ではなくて、仏法に出遇われたことが真に尊いことだと思います。

仏教では、仏法に遇うことを、「盲亀の浮木」と言います。それは、次のように説明されています。 「盲目の亀が大海の中にすんでいた。百年に一度だけ水面に浮かび上がり、水面にただよっている一本の木の穴に入ろうとするという寓話。このことから、出会うのが容易でないこと、容易になしがたいことのたとえ。また、めったにない幸運にめぐり会うたとえにもいう。『阿含(あごん)経』『法華(ほけ)経』にある。「浮木の亀(うきぎのかめ)」「浮木に逢える一眼の亀」とも。「水母骨(くらげ)に逢う」も同じ意味。」

仏教では、「人間に生まれる事は極めて稀なことである、そして、且つ仏法に遇うと言うことは、更に稀有なことである」と申しますが、私も、それはそうだと思います。しかし、仏法に出遇い、そして法話を聞き進めば、抱えている「苦悩」が即座に解消されるものではありません。本当に解消され、苦悩から解放されるには、浄土門で言う「廻心(えしん)」、禅門で言う「悟りを開く」までに到る事が必要です。しかし、そこまで到れる人は、極めて稀(まれ)であります。親鸞聖人も「難中の難」と言われております。

しかし、それでは仏法が世間を生きる人の本当の助けにはなっていないことになり、存在価値すら疑われます。この辺りの事を懸念された方の中で「苦難に処する道」とかを説かれた先生も居られます。しかし、仏教界は、世間を生き抜く方法などと言う事は、世俗過ぎて、仏法本来の救済精神から大きく外れるとして、積極的に避けられて来たのではないかと思います。

この仏教界を補完し、倫理・道徳面を売り物にして信者さんを広く集めているのが、新興宗教教団であると私は考察しています。従いまして、新興宗教教団は多くの悩める人々の駆け込み寺として、それなりの存在価値があるとも考えておりますが、それはお釈迦様のお説きになられた教えそのものでは無い、と私は思っております。

私自身、仏法に触れてから既に約50年になりますが、世間の荒波に揉まれ苦悩しながら、歩んで参りました。現在も、苦悩を抱えておりますが、苦悩を抱えながらも、希望を持って生活出来ているのは仏法のお蔭ではないか、と最近思うようになりました。

そのお蔭と言う意味に関して、これから、この木曜コラムで申し伝えたいと思います。先ずは、苦悩の大部分を占めると思われる人間関係に付いてでありますが、こじれた人間関係の修復はとても難しく、その問題は後に廻しまして、兎に角、これから人間関係で躓かない為には、人間の煩悩、自分も抱え、他人も抱えている根本煩悩をしっかりと認識することだと思います。4大根本煩悩とは、我癡・我見・我慢・我愛でありますが、この委しいところは、別のコーナー『唯識の世界』をご参照頂きたいと存じます。

この根本煩悩は、いわゆる自己の都合を最優先してしまうものであります。エゴイズムと言い換えても良いでしょう。「自分はエゴイズムではない、他人の事も考えている」と主張される方も、その考え自体が、我見・我慢を根に持っている事に気付かねばならないと思います。それ程、この根本煩悩は、根強いものであります。殆ど本能的に持っていると言っても過言ではないと思います。

人間は、他人の煩悩は目に付きやすいものであります。他人の自慢話は聞き難いものであります。「あの人の話は自慢ばっかりだ」と嫌われます。しかし、本人はそんな事に気付きません。また、人間は他人の悪口が好きです。口を開けば悪口と言う人にもよく出遭います。他人が吐く悪口は聞きたくありませんが、そう言う自分が吐く悪口には気付いていないものであります。自慢、悪口など等・・・根本煩悩を根にして花が咲く人間関係は、一歩間違えば崩壊し、敵対心・憎悪にまで発展する事は、経験に照らして見れば、十二分に理解出来るところでは無いでしょうか。私も何回かの経験を持っており、壊れて今も修復出来ていない人間関係を持っています。

今日からでもいいと思います。自分の心の底に持っている根本煩悩を知り尽くす事と、そして、今目の前に居る人、今付き合っている人も、まったく同じ根本煩悩を鏡に映すが如くに持ち合わせている事を常に忘れない。それを忘れなければ、これから人間関係で躓いたり、気まずい想いをする事は無いと断言出来ます。

親鸞聖人は、ご自分の事を『煩悩具足の凡夫』と名乗られました。『煩悩具足』とは、「煩悩と言う煩悩を何一つ欠けることなく持ち合わせている」と言うことであります。そこまで自己を見詰めなおされたのでありますが、これは、凡夫の自分が自己反省した結果ではなく、自分を超える力、即ち他力に依るものだと自覚されたのでありましたが、私たちは、取り敢えず、出来る限りの自己反省力で、自己の根本煩悩を知り尽すしかありません。その手助けの一つとして、20随煩悩と言うものも、『唯識の世界』コーナーで学んで頂ければと思います。


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No.614  2006.7.17

歎異抄に還って―第二章―完

●まえがき
昨日の日曜日の『こころの時代』での歎異抄解説(山崎龍明師)は、第三章に進まれていました。 善と悪に関する興味深いご説明があり、新たに学ばせて頂いた部分もございましたが、親鸞聖人が信心の拠り所とされている事を窺い知ることが出来ますのは、この第二章の、今日、学ぶ文節ではないかと思います。

「人に依らずに、法に依る」と言う信仰の王道を親鸞聖人が歩まれていた事が示されている重要な文節ではないかと思われます。「人に依らず」が意味するところは人の事を信用してはならないと言うことではないと思います。親鸞聖人は、事実、法然上人を阿弥陀様の化身だと考えられていましたし、深い信頼関係にあられた事もまた間違いないところでありますが、親鸞聖人がその法然上人の背後・背景に感じ取られていたのは、日本・中国・インドの六高僧を辿り、お釈迦様へと行き着き、そして最終的には無上仏とも言う私たちが眼で見ることは出来ないものの、確実に感じ取れる阿弥陀仏のお働き、即ち本願力ではなかったかと思います。そう言う観点から、第二章最終文節を読み、そして、白井成允先生、高史明師の現代意訳、現代訳をお読み頂ければ、よりご理解が深まるのではないかと存じます。

●第二章原文
おのおの十余ヶ国のさかひをこえて身命(しんみょう)をかへりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺(なんとほくれい)にもゆゝしき学生たちおほく座せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて往生の要をよくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて、信ずるよりほかに別の子細なきなり。念仏はまことに浄土にむまるゝたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまいらせて念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそすかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば釈尊の説教虚言なるべからず、仏説まことにおはしまさば善導の御釈虚言したまふべからず、善導の御釈まことならば法然のおほせそらごとならんや、法然のおほせまことならば親鸞がまふすむねまたもてむなしかるべからずさふらふ歟(か)。詮ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんともまたすてんとも、面々の御はからひなり、と。云々。

● 白井成允師の第一章現代訳
あなたがたがはるばる関東からこの地まで、十余ヶ国の境を越えて生命がけになって尋ねておいでになられた御志は、ただただ往生極楽の道を問い聞かれんためである。ところが、もしも私が念仏を申す以外に往生の道を知っており、また往生の法文などをも知っておるのだろう、その深い消息をはっきり知りたい、などと思っておられるのならば、それは大きな誤りである。もしそう思っておられるのならば、奈良や叡山にも優れた学者たちが多くおられるのであるから、その方々にもお会いなされて往生の大切な点をよくよくお聞きになるがよい。この私親鸞は、ただ念仏申して阿弥陀仏にたすけていただきなされよ、とありがたい師匠のお言葉をいただいて、そのままに信じているばかりであって、その外になんの格別の訳もないのである。念仏はまことに浄土に生まれる因なのであろうか、また地獄におつべき業なのであろうか、すべて知っていないのだ。たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄におちたとしても決して後悔はしえないだろう。何故かといえば、念仏以外の行をはげみ修めれば仏になれたはずの者が、念仏したために地獄におちたのだということであるのならば、それこそだまされたという後悔もおこることであろうが、この親鸞はどんな行をはげんだからとてたすかるみこみのない身なので、どうしても地獄より他にゆきどころがないのだから。阿弥陀仏の本願が真実であらせられるならば、釈尊のお説きくだされた教えが虚言であるはずはない。釈尊の御教えが真実であらせられるならば。善導大師の御釈に虚言をもうされるはずがない。善導の御釈が真実であるならば、法然上人の仰せがどうしてそらごとであり得よう。法然上人の仰せが真実であるならば、この親鸞のもうす所もまた虚しいことではないであろうかと思われる。要するところ、愚かな私の信心はこのとおりである。このうえは、念仏をもうして本願をお信じなさろうとも、また念仏をおすてになさろうとも、どちらでもあなた方ごめいめいがお考えどおりになさるがよろしい、と、云々。

● 高史明師の現代語意訳
あなた方が十余か国の境を越えて、(この京都まで)命がけで訪ねてこられたところの御こころざしは、ひとえに往生極楽の道を、問い聞かんがためであると、思います。そこで言うわけでありますが(この私、親鸞が)、念仏とは別にある往生のみちを知っており、また、往生のための呪文や、仏法を説く文章などを知っているのではないかと、こころ密かに考えておられるのでしたら、それは大きな誤りです。もしそのように考えておられるのでしたら、奈良の都や叡山には、優れた学者の方々が、多くおいでになることですから、その方々にこそお会いになられて、往生にかかわってあるもっとも大切な点を、よくよくお聞きになるとよいと思われます。
(この私)親鸞においては、ただ念仏して、阿弥陀仏にお助けいただくがよいと言われた、よき人(法然上人)のお言葉をいただき、それを信じるのみであって、他にこれと言う理由があるわけではありません。念仏は、まことに阿弥陀仏のみ国に生まれさせていただける種なのでありましょうか、それとも、地獄に堕ちる業(行為)なのでありましょうか、全くもって(私の)知るところではないのであります。(私は)たとえ、法然上人にだまされ、誘われて念仏を称えたことから、地獄に堕ちることになったとしても、決して後悔することはありません。そのわけは(念仏ではない)その他の修行に励めば仏になったであろうはずの身が、念仏を称えたばかりに地獄に堕ちてしまったというのでありますれば、だまされた誘われたと言う後悔もありまょうが、(この私は)どのような行も修め難い身でありますから、いずれにしても、地獄は(私の)しかと定まった住みかなのであります。
阿弥陀仏の、(一切の生きとし生けるものすべてを、平等にお助けくださるという)根本願が、真実であらせられるならば、釈尊の説教が、空言であろうはずがありません。釈尊の教えが真実であらせられるものならば、善導大師の御釈(『観無量寿経』についての解釈)に偽りがあろうはずがありません。善導大師のご註釈が真実を明かしているのでありますれば、法然上人のお言葉にどうして偽りがありましょうか。法然上人のお言葉が真実ならば、親鸞の申していることも、またもって空言であろうはずはないのであります。つまるところ、これが愚かな私における信心であります。
このうえは、南無阿弥陀仏の真実をいただいて、これを信じあげることにいたしましようとも、また、捨てましょうとも、それはあなた方のお考え次第です。ということでありました。

● あとがき
最後に、「この上は、念仏をとりて、信じ奉らんとも、また捨てんとも、面々の御はからいなり」と云われたとのことでありますが、聞き様によりましては、遥々関東から訪ねて来た人々にとっては、「念仏を取ろうと、念仏を捨てようとも、それはあなた方の判断であり、私は別に念仏をあなた方に強制する積りは全く持っていない」と言うのは随分冷たいお言葉であります。しかし、「往生は一人一人のしのぎなり」と云われますますように、信仰と言うのは、誰かが信じているから、私も一緒に信じると言うような集団心理により成り立つようなものではなく、一人一人が自分の心の中で決着すべきものであると思いますので、その真剣さを求められた問い掛けではなかったかと思います。「善鸞の言葉に信心が揺れ動くようでは、心許無いではないか」と言う歯痒さを感じられながらも、信仰の原点をお示しになられたものだと私は解釈したいと思います。

次章は、歎異抄の中で、一般にも有名な「善人なほもつて往生をとぐ・・・・」と言う言葉が話されているものであります。


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No.613  2006.7.13

無相庵コラムの誕生日

無相庵ホームページは、2000年7月6日に開設致しましたが、コラムは、1週間後の7月13日に第一回目のコラムを掲載させて頂きました。今日で、丸6年が経過したことになりますが、丁度、小学1年生が6年生を終え、中学に入学するまでの年月が過ぎたと言うことになりますので、少し感慨深いものがあります。

6年間(613回)、ほぼ毎週2回(月曜と木曜)のコラムを続けて来られましたのは、大きな病で床に伏すと言うことが無かったと言うことでありますし、経済危機とは言いながら、パソコンが使え、回線使用料、ホームページ開設に必要な料金を支払えて来たと言う事であります。そして、それに加えまして、やはり、公私共に厳しい状況が6年間続いていると言うことでもあるのだなと振り返っているところであります。

何も知らずに2000年7月13日のコラムを書きましたが、実はその翌日に私の会社に主要取引先から、仕事が中国に移管される可能性がある事を通告されたのでありました。実際その通り、約2年後の2002年4月には全従業員を解雇することになり、その半年後の10月には、工場も引き払い、紆余曲折はありましたものの、2004年6月末には、全ての生産機能を整理し、2005年4月には、10年間私を助けてくれた長男も別の会社に就職させて、会社事務所を自宅に移して私一人で事業再興を期しながら現在に至っております。

以前、ある読者から「無相庵様の境遇は、借金苦を除けば、とても恵まれていると思います。一戸建ての邸宅に住まわれ、夫婦仲がよく、健康で趣味のテニスや仏教哲学を楽しみ、夜は晩酌されながらおいしい料理を召し上がっておられるようです。家族の皆様も健康で立派な家庭を築かれており、可愛いお孫さんまでおいでになるのでしょう。羨ましい限りです。何を苦しまれておられるのか、私には理解できません。」と言うご意見を掲示板に頂きました。確かに、借金苦を除けば、恵まれていますが、やはり、その一つがとても重たいことも確かであります。一戸建ても、売却金額がローン残高を大きく下廻る故に売るに売れないと言うことで、年金と妻のパート代は全てローン返済に消え、当事者としては、どうしても恵まれているとは思えないというのが正直なところであります。人の境遇と言うものは、表面に現われていることだけでは窺がうことが出来ない厳しい面もございます。

「恵まれている事だけを数えれば良いではないか・・・、一日一日を精一杯暮らしていけば良いではないか」「成る様にしかならない、成るようになって行くものだ」と、自らを励ましたり、ある程度開き直って生活していると言う感じがしないでもありません。仏法を学べば、幾ら苦しい境遇に在っても、淡々と生きられるのではないかと思われるかも知れませんが、もし私がその様な心境になっていましたら、恐らく、仏法に学ぶ事もなくなり、このコラムを書く意欲も失せてしまうのではないかと思われます。

こうして無相庵コラムを書き続けられているのは、逆に仏様の御計らいではないか、仏法と私を結び続けておかなければと云う仏様の願いの表われではないかと思っているところであります。 今日、中学入学を果たしましたが、これからも、世間の苦難と向き合いながら、しかし、怯まず、諦めず、用意されている仏道を歩み続けて行こう、と、想いを新たにして再出発致します。


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No.612  2006.7.10

歎異抄に還って―第二章―C

●まえがき
いよいよ、親鸞聖人がご自身の信≠ノついて語られる件(くだり)になります。浄土門の信≠ニ云うよりも、仏教における信≠ニは何かを語られている場面だと言ってもよいと思います。 先ずは、「師である法然上人が『念仏を称えていれば、阿弥陀仏の救いにあずかる』とおっしゃった事を信じて、ただ念仏を称えているだけで外には何も無い」と、関東から遥々自分を訪ねて問いただしに来たお弟子さん方にがっかりさせるような事を言い放たれるのであります。

そして更に、極楽に往生する道を聞きに来た人々に、「念仏が極楽浄土に往けるのに必要な行かどうかも分からない、逆に、地獄に堕ちる事になるかも知れない」と、お弟子方にとっては大変ショックな事をいとも簡単に申されるのであります。そして、「もし法然上人に騙されて、地獄に堕ちても後悔は無い」とまで言われるのでありますが、多分、この発言は、日蓮上人が、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と他宗を非難している事を念頭に置かれてのものではないかと思われます。『無間(むげん)』とは、無間地獄(むげんじごく)の略で、「果てしない地獄、到底抜け出すことが出来ない地獄」と云ったところでありましょうが、念仏を称えれば、その無間地獄に堕ちると日蓮上人は鎌倉の辻説法などで批判していたのであります。

たとえ地獄に堕ちても後悔はしないと言う親鸞聖人のご発言は、地獄に堕ちたくなくて念仏を称えて来た人々には、実にショッキングだったと思われますが、引き続き発言されるその訳(わけ)にこそ、親鸞聖人が至られた安心(あんじん)の世界が明らかにされていると思います。

「自分は、罪が深く、悪も重く、煩悩が燃え盛っていて、自分の力ではどうにも助かり様の無い人間であり、地獄行きが決まり切っている凡夫であるから、念仏して地獄に堕ちたとしても、それは法然上人に騙されて、と言うことにはならない」と理詰めで説明されたのであります。

私は、この件(くだり)の理詰め説法に、親鸞聖人の人となりを見る想いが致します。そして、説得力を感じます。また、仏法の信心を感じまして、爽快な気持ちが致します。

●第二章原文
おのおの十余ヶ国のさかひをこえて身命(しんみょう)をかへりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺(なんとほくれい)にもゆゝしき学生たちおほく座せられてさふらふなれば、かのひとびとにもあひたてまつりて往生の要をよくよくきかるべきなり。 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて、信ずるよりほかに別の子細なきなり。念仏はまことに浄土にむまるゝたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまいらせて念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、念仏をまふして地獄にもおちてさふらはばこそすかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば釈尊の説教虚言なるべからず、仏説まことにおはしまさば善導の御釈虚言したまふべからず、善導の御釈まことならば法然のおほせそらごとならんや、法然のおほせまことならば親鸞がまふすむねまたもてむなしかるべからずさふらふ歟(か)。詮ずるところ、愚身の信心におきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんともまたすてんとも、面々の御はからひなり、と。云々。

●白井成允師の第一章現代訳
あなたがたがはるばる関東からこの地まで、十余ヶ国の境を越えて生命がけになって尋ねておいでになられた御志は、ただただ往生極楽の道を問い聞かれんためである。ところが、もしも私が念仏を申す以外に往生の道を知っており、また往生の法文などをも知っておるのだろう、その深い消息をはっきり知りたい、などと思っておられるのならば、それは大きな誤りである。もしそう思っておられるのならば、奈良や叡山にも優れた学者たちが多くおられるのであるから、その方々にもお会いなされて往生の大切な点をよくよくお聞きになるがよい。この私親鸞は、ただ念仏申して阿弥陀仏にたすけていただきなされよ、とありがたい師匠のお言葉をいただいて、そのままに信じているばかりであって、その外になんの格別の訳もないのである。念仏はまことに浄土に生まれる因なのであろうか、また地獄におつべき業なのであろうか、すべて知っていないのだ。たとえ法然上人にだまされて、念仏して地獄におちたとしても決して後悔はしえないだろう。何故かといえば、念仏以外の行をはげみ修めれば仏になれたはずの者が、念仏したために地獄におちたのだということであるのならば、それこそだまされたという後悔もおこることであろうが、この親鸞はどんな行をはげんだからとてたすかるみこみのない身なので、どうしても地獄より他にゆきどころがないのだから。阿弥陀仏の本願が真実であらせられるならば、釈尊のお説きくだされた教えが虚言であるはずはない。釈尊の御教えが真実であらせられるならば。善導大師の御釈に虚言をもうされるはずがない。善導の御釈が真実であるならば、法然上人の仰せがどうしてそらごとであり得よう。法然上人の仰せが真実であるならば、この親鸞のもうす所もまた虚しいことではないであろうかと思われる。要するところ、愚かな私の信心はこのとおりである。このうえは、念仏をもうして本願をお信じなさろうとも、また念仏をおすてになさろうとも、どちらでもあなた方ごめいめいがお考えどおりになさるがよろしい、と、云々。

●高史明師の現代語意訳
あなた方が十余か国の境を越えて、(この京都まで)命がけで訪ねてこられたところの御こころざしは、ひとえに往生極楽の道を、問い聞かんがためであると、思います。そこで言うわけでありますが(この私、親鸞が)、念仏とは別にある往生のみちを知っており、また、往生のための呪文や、仏法を説く文章などを知っているのではないかと、こころ密かに考えておられるのでしたら、それは大きな誤りです。もしそのように考えておられるのでしたら、奈良の都や叡山には、優れた学者の方々が、多くおいでになることですから、その方々にこそお会いになられて、往生にかかわってあるもっとも大切な点を、よくよくお聞きになるとよいと思われます。
(この私)親鸞においては、ただ念仏して、阿弥陀仏にお助けいただくがよいと言われた、よき人(法然上人)のお言葉をいただき、それを信じるのみであって、他にこれと言う理由があるわけではありません。念仏は、まことに阿弥陀仏のみ国に生まれさせていただける種なのでありましょうか、それとも、地獄に堕ちる業(行為)なのでありましょうか、全くもって(私の)知るところではないのであります。(私は)たとえ、法然上人にだまされ、誘われて念仏を称えたことから、地獄に堕ちることになったとしても、決して後悔することはありません。そのわけは(念仏ではない)その他の修行に励めば仏になったであろうはずの身が、念仏を称えたばかりに地獄に堕ちてしまったというのでありますれば、だまされた誘われたと言う後悔もありまょうが、(この私は)どのような行も修め難い身でありますから、いずれにしても、地獄は(私の)しかと定まった住みかなのであります。 阿弥陀仏の、(一切の生きとし生けるものすべてを、平等にお助けくださるという)根本願が、真実であらせられるならば、釈尊の説教が、空言であろうはずがありません。釈尊の教えが真実であらせられるものならば、善導大師の御釈(『観無量寿経』についての解釈)に偽りがあろうはずがありません。善導大師のご註釈が真実を明かしているのでありますれば、法然上人のお言葉にどうして偽りがありましょうか。法然上人のお言葉が真実ならば、親鸞の申していることも、またもって空言であろうはずはないのであります。つまるところ、これが愚かな私における信心であります。 このうえは、南無阿弥陀仏の真実をいただいて、これを信じあげることにいたしましようとも、また、捨てましょうとも、それはあなた方のお考え次第です。ということでありました。

●あとがき
私達はどうしても、交換条件的に物事を考えてしまいがちであります。「念仏を称えれば幸せになるかも知れない」、「座禅を続ければ、悟りが開けるまでには至らずとも、常に平常心で居られるかも知れない」、「神様にお賽銭を差し上げれば、家族皆が健康で、商売も繁盛するかも知れない」、「ボランティア活動すれば、そのご褒美に幸せが来るかも知れない」など等、見返りを求めるのが凡夫たる所以ではないかと、自らを振り返ります。

「あの人の言う事を信じて念仏を称えたのに、一向に幸せにはなれない」と恨み言を言いたくなるのが、煩悩具足の凡夫なのだと思いますが、親鸞聖人は、「法然上人に騙されてもよい」とおっしゃいました。これは、法然上人を信じているから騙されてもよいと言うものではありません。逆に心では「騙されるはずが無い」と信じておられたのだと解釈すべきだと思います。それは、法然上人個人を崇拝して信じているという事ではなく、法然上人の背景に広がる仏法の信の世界を信じておられたからであります。

その信心に関する理詰めのご説明が、次の文節となって続いているのだと思います。


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No.611  2006.7.6

仏様の大悲の心

朝日新聞は、火曜日の朝刊の1ページを割いて、仏教の心を紹介してくれているようであります。以前のコラム(No.605 2006.6.15欲望と煩悩)も、そのページからテーマを頂いたものでありました。今週の火曜日にも、作家の高村薫さんと浄土宗の寺院「法然院」の貫主であられる梶田真章(しんしょう)さんの対話が紹介されていました。見出し言葉に「カルト真に受けた心悲しい」と「縁により善人にも悪人にも」とありましたが、その対話の中で、またまた一般の方々に、仏法に誤解が生じるのではないかと思われる、梶田貫主さんのご発言がありましたし、その主題は、仏法の、特に浄土門の教えの最も大切なところであると思いますので、今日のコラムのテーマとさせて頂く次第であります。

下記が、その問題と思われる対話部分であります。
(高村さん):
たとえば、地下鉄サリン事件の実行犯は、私から見れば悪人ではありません。彼らは善と信じてやったのですから。それよりも、いい加減な教義をたくさんの若者たちが信じ、人を無差別に殺すという結果を招いたことに対する悲しみがあります。どうしてこんな救いを信じたのか。彼らは信じたし、信じたかったのでしょう。だれが悪いというよりも、そんな救いの言葉を真に信じた人間の存在そのものに悲しみを覚えるとしかいいようがない。
(梶田貫主):
私も悲しかったです。加害者にも同情されるのが仏様の大悲ですから。
誤解されることもあるのではないかと思いました発言は、梶田貫主ご発言の中の太字箇所です。浄土宗のリーダー的立場にある貫主様でありますから、これから私が補足説明させて頂くことなどは重々ご承知の上でのご発言だとは存じますが、一般読者が仏法を誤解する源となると思い、看過出来無いと思いましたので、コラムのテーマとさせて頂く次第であります。朝日新聞と言う、一般大衆が目を通すものでありますだけに、もう少しご配慮があればとも思った次第であります。

さて、私は、仏様が殺人の被害者にも殺人した加害者にも同じ様に同情すると言うのではなく、仏様、特に浄土門の仏様である阿弥陀仏は、生きとし生きる存在すべての幸せを願われている事は間違いないと考えます。そして、本当の幸せになるために、「真理に気付けよ、目覚めよ」と言う願いを持たれ、発信し続けて下さっています。そして、それと同時に、なかなか目覚められない凡夫を憐れみ、悲しまれているのも阿弥陀仏であり、そのお心を、仏様の大悲(だいひ)と名付けているのだと思います。そして、前者の「気付けよ、目覚めよ」と言うお心は、大慈(だいじ)とも表現されます。

従いまして、この大慈・大悲の心は、全ての衆生に注がれていますところから、梶田貫主様は、加害者にも同情されると言われたのでありましょうが、どんな加害者にも同情されると言うわけでは無い、と、私は考えます。はっきり申しますならば、私は、仏様の大悲の心に気付いた加害者には同情され、何とか救いたいと願われるでありましょうが、気付かない加害者には、大悲の心が届いていない訳でありますから、仏様は悲しみを深くされながらも、同情はされない、と、私は思います。

そして、加害者が心を翻して、仏さまの大悲に気付いたならば、その時、はじめて被害者も救われのだと思います。ただ、私は仏様と人格化して申しましたが故に、気付いたら同情されて、気付かなければ同情されないと云う、何処か交換条件的なニュアンスに受け取られると思いますが、もとより、仏法における仏様と衆生は、キリスト教の神と僕(しもべ)の如き二者間の取引関係にあるのではありません。私達の心の中に起こる、意識の大転換(廻心、えしん)、カタカナで言いますと、心のコンバージョンと云うものであり、交換条件的に起こる現象ではありません。

心の転換、廻心の瞬間に付きましては、極めて微妙なニュアンスがあり、私には伝えたい半分をも表現出来る能力がございませんが、少なくとも、仏様が殺人を犯した人にも同情すると云うような単純な表現で言い表してはならない、仏法の最も根源的な主題である事を申し上げたいと思います。


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