2001.07.09

歎異鈔の心―第2條の3項―

本文:
念佛はまことに、浄土にむまるヽたねにてやはんべらん、地獄におつべき業にてやはんべるらん、惣じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。そのゆへは、自餘の行をはげみて、佛になるべかりける身が、念佛をまふして地獄にもおちてさふらはヾこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

背景説明:

親鸞(1173〜1262年)の晩年に日蓮(1222〜1282年)の布教活動が盛んになった。『念佛無間、禅天魔、真言亡国、律国賊』(四箇格言「しかかくげん」)と、他宗の非難を徹底させていた頃である。日蓮は『念佛をすれば地獄におちるぞ』と辻説法をして民衆を脅しかしたのである。当然親鸞の耳にも届いていたであろう。日蓮は、唯円がこの歎異鈔をまとめる1260年に「立正安国論」を著わし、浄土宗・禅宗を邪教と批判した。親鸞は、そう言う日蓮の脅しとも言うべき言葉に動揺する信者達へのもどかしさを心に秘めての、この発言と捉えて良いと思う。
親鸞の面目躍如たる、畳み掛けるような、そして敢えて誤解を恐れない大胆不敵な発言である。親鸞の人となりが良く表れているのではないかと、私の好きな箇所である。
『善人なおもて往生す、いわんや悪人においておや』と言う逆説的な、そして人々を驚かせる表現に長けた親鸞の言わば無防備だけれど、それだけに確信に満ちた表現手法に興味を抱いている。

私の解釈:

念佛が、実際に浄土に生まれる手段となるのか、或いは巷で言われているように、地獄に落ちる業かどうかは、私には一切分かりません。しかし私は、たとえお師匠の法然聖人様に騙されて念佛をして地獄に落ちたとしても、全然後悔は致しません。その訳は、他の修行をしていたら佛になったはずの私が、念佛して地獄に落ちたというのなら、騙されたと言う後悔もするかも知れませんが、どんな修行も出来ない私だから、地獄行きが決っているからです。

あとがき:

教祖と言われる人が、地獄行きが決っているから、地獄に落ちても後悔するはずがないなぞと言ったら、普通信者は離れて行くに違いない。しかし、そこを敢えて、逆説的に『地獄一定』と申されたのは、ただ念佛する事が大切であり、浄土に生まれる(往生する)為の手段としての念佛ではないのだよと信者に伝えたかったのである。『何を迷っているのか』と言いたかったのだと思う。
宗教に関心のない人々には、非常に理解し難いかも知れないが、浄土真宗の念佛は、助けて欲しいとお願いするためのものではありません。願い事を叶えてもらうための行為でもありません。交換条件付きの行為ではないと言えばよいでしょうか?誤解を生む事を覚悟で言うとしたら、生かされて生きている事に関する、大自然に対して、そして仏教の教えを始められたお釈迦様、そして法然・親鸞を含む歴々代々仏教を伝えてこられた方々への御礼・感謝の行為、しかも強制的ではなく、努力して唱えるものではなくて、自然の発露としての念佛 だと言う事を理解したいと思うのです。


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2001.07.05

無量寺を訪ねる

前回の木曜コラムで紹介した長野県塩尻市の青山俊董尼の自坊、無量寺を訪ねた。有り難い事に、仕事で訪問した会社からはタクシーで5分と言う極近いところにあった。山すそに添うように静かなたたずまいの山寺と言う感じだった。写真にあるお賽銭箱に志しを投げ入れて拝礼させて頂いた後、タクシーの運転手さんの計らいで、玄関口で付き人の方に挨拶させて頂いた。青山先生は、茶室で接客中と言う事で、残念ながらお会いする事は出来なかったので、名刺に大谷政子の息子と添え書きしてお渡しし、お寺を後にした。
タクシーの運転手さんは、たびたび青山俊董尼を駅からお寺まで乗せられた事があるらしく、俊董尼が大変忙しくされている事、最近はお疲れの様子で、昔はスタスタと上り下りされていた駅の階段も、今は手すりを頼りにされるようになったとか、地元新聞に連載文を書かれている事や、秋と春には茶会を催され、200人から300人の客が集まり大変だとか話をしてくれた。
結構全国からお客さんが訪ねて来られるらしい。
15年前から変わる事無く、我が身を削りながら法の灯火を燈され続けておられるのだなぁーと感慨無量な想いを残して、塩尻駅から『しなの22号』に乗った。

青山俊董尼に関して、相田みつをさんが詩を残されている。

おとこおみなの
差別越えたる
尼僧でも
やっぱり
美人のほうが
いい
みつを

解説:捨てるから美しい
私の日ごろ尊敬しているひとに<青山俊董老尼>という尼僧さんがおります。
老尼というのは尊称で、老人という意味ではなく、年齢は私よりずっと下で若い 方です。名古屋市にある、愛知専門尼僧堂の堂長をされております。
青山氏の立ち居ふるまいは美しく見事で、それだけで私は感服します。
その青山氏が、この夏お会いしたときに、
「化粧するから美しくなるのではなくて余分なものを捨てるから美しくなるので す。」という意味のことをいわれました。
それを聞きながら私は、武井哲応老師のくちぐせ、
「座禅とは、何かを身につけることではなくて、どうでもいいものを捨ててゆく ことだ。座禅して何を、どう捨てられたか?自己点検の尺度は、常に捨てること だ」ということばを思い浮かべておりました。

ダイヤモンド社「おかげさん」より


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2001.07.02

歎異鈔の心―第2條の2項―

本文:
しかるに、念佛よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をしりたるらんと、こころにくヽおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺(なんとほくれい)にも、ゆゆしき学生たち、おほく座せられてさふらうなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきては、ただ念佛して、彌陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり。

背景説明:
関東の信者達の混乱を収めるために関東に派遣された親鸞の長男善鸞は、収めるどころか、親鸞から直接聞いた奥義だと言って、念仏の効果が上がる等と言い、金品の寄付などを求めたに違いない。また、多少とも学問に親しんだ高弟の中には、本当は念仏だけでは救われない、念仏の謂れを書いた経典なども勉強しなければ、親鸞のようにはなれないのだとまことしやかに説く者もいたに違いない。そう言う関東の状況を知らされていた親鸞は、長男善鸞に関する負い目を充分感じながらも、関東から訪ねて来た信者達に、『念仏しかないのだ』と、多少皮肉を込めながら、しかし毅然として言いきった場面である。

私の解釈:

しかし、念仏の外に往生(往生については、歎異鈔について―A―往生について、をご参照下さい)出来ると言う道を知っているとか、教義を知っているはずだから、真相を知りたいと思っていらっしゃったなら、それは大きな誤りです。もし、そういう教義を知りたいと思われるのでしたら、奈良にも比叡山にも、立派な学問僧がいらっしゃいますから、それらの人々をお訪ねになり、往生出来る方法をお聞きになったらどうかと思います。私親鸞は、ただただ念仏して、阿弥陀仏に助けて頂くより他の道は無いと言う、師匠の法然上人のお言葉を信じているだけで、他には何もございません。

親鸞も師匠法然も、比叡山で中国から伝わった漢訳経典をすべて読み尽くしたらしい。恐らくは、学問上の議論をしたら、奈良仏や比叡山の高僧達を論破する位は簡単な事であったに違いないが、ただ念仏して阿弥陀仏の本願にすがり、助けて頂くと言う信心だけが、私のよるべですと、はっきりと宣言したものです。
親鸞にとっては、息子善鸞の存在は残念であり、悲しい、恥ずかしい事であった事は間違いはない。しかし、そういう事実で、ますます人間の抱える煩悩、自分の抱える愛と憎しみがはっきりと見え、念仏しかないと言う確信を深めていったに違いないと思う。


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2001.06.28

法句経(ほっくぎょう)―他人の邪曲(よこしま)を観るなかれ―

青山俊董(あおやましゅんとう)という曹洞宗の尼僧がおられる。15年前位には愛知専門尼僧堂の堂長をされており、私の母が主宰していた垂水見真会に2回ご出講頂いたと思う。その方の著書に『法の華鬘抄(けまんしょう)【法句経を味わう】』がある。私はサラリーマン時代に読んだが、昨日書庫から引っ張り出して久しぶりに読み始めた。何故か?実は今週、塩尻市に事業所があるプリンターメーカーとしては世界のトップメーカーを訪問する事になったが、実は青山俊董師は、長野県塩尻市に自坊(寺)を持っておられるからだ。時間が許せば、その無量寺というお寺を訪ねて見たい気持ちになったからである。これも歎異鈔解説中の私に読ませようと言う天の働きなのかも知れない。

法句経(ほっくぎょう)と言うお経は、お経の中でも最も古いと言われ、またお釈迦様の言葉をそのまま伝えていると言われている。
この木曜コラムの折々に、この青山俊董師の法句経の解説に、若干私の世俗的な経験を基にした想いを加えて、紹介していきたい。ご興味を持たれた方は、柏樹社(はくじゅしゃ、03−3827−8431)に出版の有無について問い合わせて下さい。

先ずは、他人の邪曲(よこしま)を観るなかれ、である。

他人の邪曲(よこしま)を
観るなかれ
他人(ひと)のこれを作し(なし)
かれの何を作さざるを
観るなかれ
ただおのれの
何を作し
何を作さざりしを
想うべし

私の現代訳:
他人の邪悪にのみ目を奪われてはいけない。そして、他人がした事、他人がしなかった事にばかり関心を持つものではない。ただただ自分が何をしたか、何をしていないかをよくよく想うべきなのだ。

私の所感:
一億総評論家と言われるように、私達は、他人の過ち・間違い・不正には厳しい。他人が何をしたか、何をしなかったかには極めて敏感である。若いうちは尚更批判的である。
自分は何も出来ないが、批判だけは一人前と言っては、言い過ぎかもしれないが、自分以外を否定しがちである。一方、自分には極めて甘いものである。
青山先生も、若い時に、燃える青雲の志しを抱いて入った仏教の道であるが、入って見れば色々と納得出来ない、慣習、しきたり、先輩後輩の秩序があったようである。その事に対して、かなり批判もされたようである。そうした中にこの法句経の言葉に出会い、頭をコツンと叩かれた想いがしたと述懐されている。
私も、幼い頃から仏教の話、仏教の世界を覗き見して、結構分かったような気持ちになっていたのだろう、未だ学生時代だったと思うが、恐れ多い事に、講師の先生の言葉使いを批判したりしていた。『あれでは、仏教から若い人が遠のくのも無理はない』と大学教授の講師に対して抗議の手紙まで出した覚えがある。今思えば恥ずかしいかぎりである。
大学を卒業して、チッソという会社に入ってから間もない時(水俣工場配属)にも、怖いもの知らずと言うしかないが、水俣病に対する経営陣の対処の仕方を痛烈に新聞批判(組合新聞で)したものである。今振り返って読んで見ても、発言内容自体は正しかったし、私の発言通りにしていればと思う位に純粋な意見であり、後悔はしないが若げの至りであった。2年後には退職せざるを得なくなり、そして現在がある。自分は大した事も出来ないのに、他を批判する事、私も強烈であった。

しかし、この法句経の言葉は、決して他を批判してはならないと言っていると考えるべきではないと思う。私も一時期、自己に厳しく他人に甘くと言っているように誤解していたが、 特に事業をしていると、色々な取引先がある事を思い知らされる。絶対に邪(よこしま)な経営者もいる。お金の支払が悪い相手もいる。だから、自己に厳しいだけでは、この世俗は渡れない事も確かである。
また、従業員も千差万別だ。陰日なた無く仕事をしてくれる人もいれば、なるべくサボりたい人も確実に存在する。
こういう人の邪(よこしま)を観るなかれと言われても、そういう訳には参りません。この観るなというのは、関わりを持つなと解釈して良いと思うのです。静かに離れると言う対処の仕方が良いと思う。時を経て、そういう風に思うようになった。


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2001.06.25

歎異鈔の心―第2條の1項―

本文:
おのおの十餘ヶ國のさかひをこえて、身命をかへりみずしてたづねきたらしめたもふ御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをとひきかんがためなり。

背景説明:
この條は、親鸞が去った後の関東で、親鸞が説く信仰について色々な考え方、受けとり方が出て混乱していた信者達の代表数名が、親鸞の本当の教えを聞き正すべく、遥々と京都の親鸞を訪ねた。この場面に立ち会ったであろう歎異鈔作者が親鸞の対応を紹介しつつ、親鸞の真実の信心を表わしたものである。

ここで、親鸞が、京都から越後へ、そして関東を経て京都に戻った経緯に触れておきたい。
比叡山で30年近い修行と経典勉学を積んだ親鸞は、当時京都の街で信者を増やしていた法然に出会って傾倒し、自分の様な煩悩の激しい凡夫が救われる教えは念仏しかないと悟り、法然の下で、念仏の教えの流布に励んだ。しかし、庶民達への念仏信仰の浸透を心苦く思っていた旧仏教界から念仏禁止の直訴を受けた朝廷は、念仏禁止命令を出し、1207年親鸞は越後に流罪された。親鸞35歳の時である(親鸞の師匠法然は土佐へ流された。法然75歳)。4年後の1211年には流罪赦免となったが、1214年、7年間の越後の生活を終えて関東に赴いた。そして1235年までの約20年間続いた関東での布教活動を終え、親鸞一家は、京都へと戻ったのである。
一方親鸞の結婚経緯は、1203年に最初の結婚をして、翌年には長男の善鸞が生まれているが、妻子を京都に残しての流罪であった。しかし、当時は一夫多妻がゆるされていたのであろう、越後で恵信尼と結婚し、2子をもうけている。
親鸞が京都に戻った時には、善鸞は、既に30歳を超えたところであった。30年ぶりに我が子善鸞に遭った親鸞は勿論、念仏の教えを教え込んだに違いない。そして、関東から送られて来る便りによって知った関東での念仏の教えの乱れを正そうと、善鸞を関東に派遣した。 しかし善鸞は土地の祈祷師達の誘惑に負けて、親鸞とは全く異なる教えを、さも親鸞の教えであるが如く説く集団を率いる様になった。
そこで、疑念が頂点に達した親鸞の弟子達が、おかしいと血相を変えて、京都に親鸞を訪ねたと言う場面である。

私の解釈:
皆さんが、命を失うかも知れない危険が多いこのご時世に、多くの国境(くにざかい)を超えて、遥々と京都まで来られた切実な想いは、ただただ、どうすれば往生極楽出来るかと言う事を確かめに来られたものと思います。

恐らくは、いかがわしい教えを説く息子善鸞の存在の責任は親鸞にあるとして親鸞を非難する顔もあっただろうと思う。どうなってるのかと言う不信の顔があったに違いない。
親鸞には、今頃何を迷っているのかと言う歯がゆさもあっただろうが、この際しっかりと教え込もうと言う毅然とした態度で、対応した場面である。


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2001.06.21

順境と逆境

私が愛読させて頂いているメルマガ(がんばれ社長!)で、この無相庵が紹介され、この5日間で、ほぼ1000件のアクセスを頂きました。紹介文が下記の通り少々刺激的だったからだと思います。誰しも、誰の身にも起り得る辛い目の告白に興味を持って頂いたからでしょう。

「会社が6月末で倒産するかも知れない」、そんな厳しい経営の現実を、ありのままに公開しているサイトがあります。さらには仏教の話、イチロー選手活躍の背景、など独自の切り口のコラムが注目。6月危機をひとまず回避され、本当に良かったですね。

私達の人生では、誰しも良い出会いと悪い出会い、成功と失敗、チャンスとピンチ、と言う正反対の両方の目に遭います。人は苦しい目、楽しい目、悔しい目、怖い目、嬉しい目と目に遭う事により顔が造られて行くと言います。色んな目に遭いますが、年老いた時、何故か不幸な人生を歩んだ顔と幸福な人生を歩んだ顔に分かれるような気がします。出来れば、幸福な人生を歩んだ顔になりたいものですが、どのようにして分かれるでしょうか?
昔、人生に関する講演会で、『順境には一歩退き、逆境には一歩進め』と言う話を聞いた事があります。『順境(調子の良い時)では、有頂天になるなよ!逆境(不幸、不遇、ピンチの時)でも、落ち込まずに勇気を奮い立たせよ!』と言う事だと思います。これと同じ事だと思いますが、中国に『人生万事塞翁が馬』と言う故事があります。良いと思った事が実は不幸を呼ぶためのものだった、しかしその不幸も実は次の幸せが待っていたと言う物語ですが、この故事も結局は、良い時も有頂天にならず、悪い時も極端に落ち込む必要はないよ、と言いたいのだと思います。
私は、これらの戒めは、淡々とした冷静な人生を歩めと言う事ではないと思います。良い時は素直に喜び、悪い時、悲しい目に遭った時は、悲しめば良いと思います。それを否定しているのではなく、ただ過ぎるなよ!(有頂天になったり、極端に落ち込むなよ)と言う事だと解釈したいです。
幸福な人生を歩んだ顔になるには、多分、逆境の目に遭った時には極端に落ち込む事無く、そうなった自分の運命を嘆くのではなく、自分の出来る精一杯の脱出作戦に一歩踏み出す勇気を持って乗越えて来た人生にあたえられるのではないでしょうか?

会社を経営していますと、良い時と悪い時があると聞きます。私はバブルが弾けたと言われる平成3年の年末にサラリーマンを廃業し、翌年1月22日に今の会社を設立致しましたから、失われた10年と言われる最悪の政治経済状況の中で踏ん張って来ましたから、楽な年はありませんでした。常に倒産と言う言葉と隣り合わせで、いや、追っかけられて、捉まれないように、必死で走って来たと言うのが実状ですから、良い目をした事はありません。それでも、悪い状況の中にも、極端に悪い時が3回位ありました。そして今、4回目が昨夏から始まりました。この6月末で本当に会社を閉める、即ち倒産する可能性がありました。
しかし、落ち込みはしませんでした。倒産したら、自己破産して、出直しだと決め、私の会社が世の中に必要ならば、きっと生き残るはずだ、ギリギリまで頑張ろうと開き直って来ました。一人の友人が、そうなったら私の家の和室に来なさい、家族が全員が了解してくれてるよ、と言ってくれました。新潟に住む新婚の娘も、うちに来たらええやんと関西弁で言ってくれました。自分はホームレスになっても、こたえないけれど、やはり妻にはそんな目に遭わせたくないと言う気持ちがありましたから、妻の住むところがあると言う事で、随分支えになりました。
以前のコラム(56歳の挑戦)でも申しましたが、この6月末で、主力製品(売上高の7割を占める)が中国製品に奪われる事が、昨年末に取引先から通告されていた訳です。そうなれば確実に資金難となり、2、3ヶ月で倒産です。ただ一昨年に、ある有望な技術を開発しましたので、その商品化と、主力製品の販路開拓と、この8ヶ月位はその可能性に賭けて邁進して来ました。
主力製品の販路開拓は未だ成功していません。開発技術は商品化の芽は出て来ましたものの、主力製品の穴を補うには役不足と言う状態です。しかしこの開発技術(国内外特許取得)を買いたいと言う大企業があり、いざと言う時は、ライセンス供与か、M&A(吸収・合併)での生き残れる可能性が出て来ました。そしてその上、どうも中国製品の品質が思わしく無いらしく、しばらくは主力製品も存続する事になりましたから、一先ず6月末危機は脱出したと言う訳です。
それこそ『人生万事塞翁が馬』で、これからどういう事になるかは分かりませんが、今回の教訓で、逆境においても決して落ち込む必要はないのだ、自分の出来る事を精一杯やれば良いのだ、自分の運命は、自分だけで決められるものではなく、自分の預かり知らないところに発生する色々な因と縁によって決って行くのだと言う事を実感させられました。
だから、逆境でも極端に落ち込む必要は無いと教えられた想いです。

絶好調の経験がありませんので、順境の時の戒め『有頂天になるな』と言う事を早く実体験したいものですが、その日の来るのを目標に、更に努力して行きたいと思っています。
更に56歳の挑戦が続くのです。


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2001.06.18

歎異鈔の心―第1條の3項―

この無相庵サイトをe−comon(http://www.e-comon.co.jp/でご紹介頂いた。お陰さまで、この2日間で、600件を超えるアクセスがありました。 有り難い事でした。そして、無相庵カレンダーも希望されました。誠に有り難いかぎりです。

本文:
しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念佛にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまだぐるほどの悪なきがゆへにと。云々。

背景説明:
『悪をもおそるべからず』と言う文言を含むこの項は、歎異鈔が後世において、教団の奥深く留め置かれるようになった経緯を持つた問題の箇所である。
しかし親鸞が繰り返し繰り返し強調して弟子達(親鸞は弟子と言う意識を持っていなかったから、正確には仲間達)に申し伝えたかった箇所でもあるのだ。誤解を承知で親鸞は弥陀の本願の強さを言いたかったのである。
私は、この項を読むと、当時の浄土真宗に対して、現代の新興宗教的な色彩を感じる。多分、当時の知識人、奈良の仏教界は、私達在来仏教徒が100年足らずの歴史の創価学会を見る眼差しで、当時の親鸞達の仲間を見ていたに違いない。『悪をもおそるべからず』とは何と言う邪教かと。お釈迦様が嘆くに違いないと…。

私の解釈:
直訳すれば、
本願を信じたら、もう他の善と言われる事はする必要が無い。念仏より以上の善は無いのだから。ましてや、悪を恐れる必要も無い。弥陀の本願を邪魔するような悪は、存在しないのだから
と言う事になる。

これで、1條は終了するが、この條は、本願の尊さ、そして本願を信じて念仏を唱えようと思う事が救われる第一歩と言う事を、悪をも恐れるべからずと言う大胆な言葉で宣言したものと考えたい。
一般の方々には、本願と言う概念がなかなか理解出来ないと思う。この本願を説明しても、これを信じるかどうかは、各個々人に委ねるしかないので、これは宗教の限界でもある。
私は技術系の人間であるから、少し理念的になる事を許されるならば、本願とは『私達の生きる地球、そして地球に存在する生命、ひいては大宇宙を動かす働きは、私達を含めて、すべてを正しい方向に導いているはずだ』と言う人間の想いを表わしたものと思う。根本的な願い、うまく表現したと感心する。
私は、本願を信じるか信じないかが、信仰のスタートであり、ゴールだと思う。
私は残念ながら、未だ本願に頼りきっていない。未だ自分の力に頼っていると思う。以前のコラムで申しましたが、水泳の初心者と一緒で、自分の力で浮かぼうとする、だからなかなか浮かべない。自分のすべてを水に任せたら、自然と浮くしかないのだ。しかし、なかなか海水を信用したり、プールの水に自分を任せられないのである。
任せられた時、私は本当に自由を実感するのだろうと思う。


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2001.06.14

学校の警備について

池田市の小学校で、児童並びに教師の殺傷事件があった。容疑者が精神異常かどうかは、判定を待たねばならないようだが、学校の警備の在り方が議論になっている。
大方の意見は、『幼い時から、他人に対して不審・不信を持たせるような教育の在り方は如何なものか?』と言う意見が大勢を占めているようだ。要するに『人を見たら泥棒と思え』と言う指導とは全く異なるものだ。
私も、そう言う意見を真っ向から否定はしないが、昔とは随分変わって来た社会状況・地域状況を考えると、日本の安全神話に幻想する事は如何かと思うようになっている。

大企業は、必ず正門に警備員を配し、訪問者に対して訪問目的をチェックする。私の会社にも色々な訪問者があり、本当は門前でお引き取り頂きたい人もいるから、経済が許せば、いわゆる門番が欲しいと思っている。
企業よりも、学校にこそ門番が必要な時代になったのではないか?まぁ中学校・高校には逆に怖くて侵入する者はいないだろうから、幼稚園・小学校には必要だろう。考えて見れば、あまりに無防備だったのではないか。もう、お城の門番のような厳戒体制が必要だと思う。

先生達の多くから『それでは、人を疑って掛かる人間になってしまう』と言う反論・悩みの声が聞こえるが、私は、人間の現実の有り様を知らせるべきでは無いかと思う。むしろ積極的に、大人には善い人も悪い人も厳然と存在する事を説明し、何故そうなるのかと言う考察する機会を生徒に与えたら良いと思う。そして、罪を憎んで人を憎まずと言う考えも披露すべきだろう。人間は切羽詰まって状況が整ったら、何でもしてしまう、危うい存在だと言う教育も必要だと思う。 もう、子供たちにも情報は溢れかえっているのだ。無菌状態での教育は時代に合わないようになっているのだ。自分の事は自分で守ると言う教育も必要になっていると思う。

しかし、折角人間として生まれ、将来の希望を抱きながら、幼くして命を無くした子供たちとそのご両親の方々には、お見舞いの言葉も見当たらない。せめて、この事件をキッカケに、保育所・幼稚園・小学校の警備を迷う事なく断行する事が、私達に出来る唯一の懺悔だと思う。


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2001.06.11

歎異鈔の心―第1條の2項―

本文:
弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)、煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生を助けんがための願にてまします。

背景説明:
親鸞の生きていた時代にも、世間一般の常識では、良い事をすれば、天国へ行ける、悪い事をすれば地獄行きとなっていた。宗教の世界でも、修善と言って、善行を勧めていたはずである。そう言う時代に、親鸞が『悪をも恐れるべからず』と言う大胆な発言をしたのであるから、旧仏教界の僧達は言葉の表面だけを捉えて批判し、朝廷に働きかけて法然・親鸞達を流罪に陥れたものである。
親鸞が言いたかったのは、往生出来るかどうかは、信心するかしないかだけが大切なことだと言う事である。信心とは、前の項で述べられている、『弥陀の誓願不思議に助けられて往生する』と信じ切る心である。

ここで、仏教について浄土系仏教について知識を持たれていない方々に、南無阿弥陀仏について、単なる呪い(まじない)言葉ではないと言うことをお伝えしたい。インドの古いサンスクリット語が主体で、南無は、ナマスと言うサンスクリット語を漢字で当て字してたもので、ナマスは、帰依すると言うことである。弥陀は、阿弥陀(あみだ)とも言う。インドでは、ヒマラヤの山に向かって、『アミタ』と拝んだ。『壮大で畏れ多い』と言う意味である。言い換えれば、この大宇宙を動かしている力、人間の知識では知る事の出来ない偉大な、畏れ多い力と解釈すればよいだろう。仏は、覚れる人・存在・力である。だから、南無阿弥陀仏と言うのは、『この大宇宙を動かす、私達人間には計り知る事が出来ない力に帰依致します』と言う事である。
誓願不思議に助けられてと言うのは、チッポケな自分に頼らず大宇宙を動かす力に一切を委ねてと言う事である。自我を捨ててと言う事である。

私の解釈:
弥陀の本願と言う事は、元々この宇宙を動かしている力の働いている方向性は、と言い換えられる。本願は、根本的な願いであるから、宗教的に言うと、仏様の根本的な願望は、と言う事になる。老少善悪の人を選ばれず、と言う事は、人間としての在り方・資格・階級によって差別はしないと言う事を言ったものである。勿論、貴族・武士・庶民と言う階級も関係無いし、寄付の多い・少ないも関係無い。ただ、阿弥陀仏を信じるか信じないかである。南無阿弥陀仏と言えるかどうかであると言うのである。何故か?それは、元々仏様は、私達の様な、状況によっては罪を犯してしまう、煩悩の激しい者を助けようと言う願いを持っておられるからである。

南無阿弥陀仏と言えるかどうかで思い出す先輩がいます。今は超一流会社の協和発酵の創業者とも言うべき加藤辨三郎師ですが、私が30歳頃、私の実家にも出講頂いていた関係で、一度葉書で質問した事があります。『私は、なかなか南無阿弥陀仏と唱えられません、どうすれば、素直に唱えられますか?』と。その時に頂いた葉書(今も保存していますが)に、『未だ自分を頼りにしているからだ、自分が賢いと思っているからだ』とありました。重い答えを頂いたものです。
今も勿論、完全には自分頼りの生活から脱出出来てはいませんが、少しは、大いなる大宇宙を動かす力(仏様)に敬意を表しつつある自分だと思う。


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2001.06.07

使命―天与の才能―

私など凡人はスターに憧れる。だから、プロスポーツも観戦するし、スターの唄に聞き惚れ、スターの芸に酔いしれる。本当は、自分に置き換えてスターを見ているのだ、スターを夢見ているのだと思う。心地良い時間なのだ。本当は、誰しもスターになりたいのだと思う。スターになりたいと言うよりも、自分に与えられた才能を生かし切る爽快さを求めているのだと思う。いわゆる自己実現・自己主張願望なのだ。これは人間全員持っている欲望だ。スターも犯罪者も等しく持っているのだ。ただ、スターはストレートに表現している訳だが、犯罪者は何処かで曲りくねって手段を間違えているのだと思う。犯罪者も所詮(しょせん)は、自分の存在を知って欲しい強い自己主張願望が根底にあるのだ。

一方スター達の現実も、重苦しいプレッシャーと達成時の爽快感の間を行ったり来たりしているに違いない。しかし、同じ人生である。辛くとも、達成感・爽快感のあるスターの道に憧れるのは、私だけではないだろう。少なくとも、幼年期・少年期には、自分の人生どうでも良い、別にホームレスでも良いと言うのではなく、大志を抱くはずだ、自分に期待をするはずだ。

人には夫々、他人とは差別化され、与えられた天与の才能と言うべきものがあると私は信じている。いや極最近信じるようになった。その人にしかない素質・遺伝子DNAと言った方が良いかもしれない。多くの人は、人生を賭けて(或いは、掛けて)それを探し歩いているのだと思う。そして、多くの人が見付けられないままに人生を終わっているのかも知れないと思う。短気な人、結論付けの速い人は、自殺までして自己主張・自己主張を貫くのだ。 自己実現・自己主張、人は自分が生きている証を残したいものなのだと思う。少なくとも私はそうだ。

自己主張・自己実現の体現者を最近で挙げるならば、スポーツでは、大リーガーのイチロー外野手、野茂投手、佐々木投手、女子マラソンの高橋尚子、プロ歌手では、故美空ひばり、北島三郎、細川たかし、五木ひろし等など、小室哲哉、つんくも類稀な天与の才能を感じさせる。作家にも、政治家にも、俳優にも、ニュースキャスターにも、その人ならではの才能 と素質を感じてしまう。天から与えられているとしか思えないのだ。そして、自分の直ぐ側の友人にも、特定の才能・素質に恵まれた人も結構多い。ピッタシの職業を選択しているなぁー、ピッタシの趣味に賭けているなぁー、と感じる事もちょくちょくあるものだ。

これらの人々の仲間に入るには、やはり、幼い時から自分も親も周りの人も、与えられた才能・素質を探す姿勢が必要だ。周りの人もと言うのは、指導者・先生・仲間と言う事だ。 イチローも、幼児期から少年時代に掛けての父親の献身的指導と散財と更に、オリックスブルーウェイブの仰木監督との出会いとその監督の慧眼(才能を見抜く眼力)が無ければ、大リーガーイチローは生まれていない。イチローは、仰木監督に出会う前の監督には認められず2軍生活を余儀なくされていたのである。野茂投手も、やはり球団は異なったが仰木監督にその個性を伸ばして貰ったからこそ一流大リーガー投手になったのだと思う。高橋尚子選手は言うまでもなく、小出監督との二人三脚で、日本人初のマラソン金メダリストにまでなった。自分だけの努力ではないのだ。

何が言いたいかと言えば、誰でも、その天与の才能を見付ければ、一流になれるのだと言う事である。しかし大切なのは、周りの人の協力も絶対に必要と言うことだ。一流で無いのは、自分も周りの人も、その天与の才能を見つけていないと言うか、見付ける努力をしていないからなのだ。

日本の幼年期は、学校の勉強の出来不出来で、その子のすべての能力或いは人格までをも評価してしまう傾向にある。学校で学ぶ算数・国語・理科・社会の知識は、人生に必要な知識・能力の中のホンの極一部分でしかない。
今からでも遅くは無い、自分に与えられた天与の才能を探そう。自分の子供の天与の才能を見付ける努力をしよう。少なくとも、見付ける為に協力をしてあげよう。
その天与の才能を生かし切るのが、その人の使命なのだ。使命を果たさずして人生を終わるのは、天に対して、生を与えてくれた天に対して申し訳ないではないか。

私に付いて言えば、私は小さな会社の経営者になって、少なくともサラリーマン時代よりも、生き生きとした日々を送っている。そして、息子の協力で、このコラムを書く事も生き甲斐になっている。また45年間の経歴となった趣味のテニスも、少々自信があり、自己実現の場だ。そして、何れはサービス産業を事業の中心にして、世の中の人々に感動を与えたいと言うのが自己実現願望なのだと思うようになった。そしてそれを使命なんだと考え始めているところである。


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