2001.04.30

忘れてはならない事がある!

1週間前に予測した小泉内閣がスタートした。野党がどう批判しても、新鮮な息遣いが聞こえる内閣の布陣である。期待出来ると誰しも感じるだろう。支持率が80%を超えている事に現れている。

私は前のコラムで、期待出来ないと言うコメントを出したが、実は今も変わらない。小泉氏の政策が実現出来るには、国会での承認が必要である。国会の承認の前に与党の理解と賛成が必要である。首相一人の好き勝手には実行出来ないのである。はっきり言えば、自民党の議員百数十名が所属する橋本派の協力無くしては、物事は進まないはずである。協力を求める以前に、最大派閥を守って来た橋本派にも、それなりの値打ちがある事を認めないと、小泉氏は失敗すると思う。私は橋本派が好きではないが、橋本派の大人の決断が小泉氏の登板になったのは間違いないと思っている。

小泉氏が、総裁・総理になったのは、勿論、小泉氏の改革指向が党員の共感を呼んだ訳であるが、決して忘れてはなら無いのは、党員票を県1票から、3票に増やした前執行部の英断だと思う。橋本派が主導する自民党の執行部がその英断をしなければ、私は橋本氏の勝利に終わったものだと思う。橋本派が甘く見たと言ってしまえばそれまでだが、党員票が県あたり1票ならば、今回程、党員は盛り上がらなかったろうと思うからである。

YKKに風は吹いたが、本質を見誤っては、瞬間的な風に終わってしまうだろう。改革を断行するのは、熱情だけでは志し半ばでの降板しか待っていない。橋本派を懐柔する大人の部分、したたかさが必要である事を小泉氏に強く言いたい。


[ご意見・ご感想]

[戻る]


2001.04.26

日本人の国民性

このコラムで何度か紹介している日刊メールマガジン(頑張れ社長!http://www.e-comon.co.jp/)の4月24日の記事に、『日本の識者は未来を悲観的に分析する人が評価される傾向にある』と言う表現があった。
確かにテレビに度々登場する経済評論家、政治家は、日本の将来に悲観的な人達が大半であり(その中では、ひとり竹村健一氏は、それではいけないと警鐘を鳴らしているが…)、成る程と思った。そして、私達一般国民は、そう言う評論家達を、分析的で賢く頭の切れる人々だと思っているのは事実だと思い、これは識者達に限らず、国民性ではないかと考えた。
このマガジンでは更に『リーダーとは未来を正しく予測する人ではない。明るい未来を描くことが出来る人だ』と言うメッセージで締めくくっているが、これも自民党総裁選の候補者を思い浮かべながら、全くその通りであると思った。確かに日本人は、楽観主義と言うよりも悲観主義を好む傾向にある。『備えあれば憂い無し』と言う風に、近い未来におこるであろう困難に対して準備している用意周到な人を、賢明な人、信頼が出来る人として尊敬してしまう。これは国民性と言えるだろう。
また、はっきりとものを言うよりも、婉曲表現、謙遜表現が多く用いられる。これも用意周到の現われ方の一つであり、相手に負担やブレッシャーをかけまいとする国民性なのだと思う。

この国民性は、1年に四季があり、台風があり、地震が頻発する国土で、農耕民族として数千年を生きて来た全ての日本人が持っている共通のDNAがなせる業だと思う。
そして、このDNAは、外交の拙さにも如実に現れている。国際社会でのいじめられっ子、いじめられ易い国なのである。ODAで援助する側の日本政府よりも、被援助国である中国政府の方が強いではないか。食料援助をしている北朝鮮の方が、態度が大きいではないか。中国も、北朝鮮も、アメリカと対等に渡り合っているではないか。日本外交はどう見ても、卑屈で、堂々としていない。
日本は経済力も世界第二位だし、日本の技術力が世界の人々にかなりの便利さを提供していることは、間違いの無い事実である。どう見ても日本は国際社会のなかで、立場は上のはずであるが、国際舞台の国連でも、常任理事国でも無いし、どうも軽く扱われているように思えてならない。これは決して56年前の戦争に破れた負い目からだけではないだろうと思う。元々いじめられやすい国民性、悲観主義的な、そして遠慮深い国民性にあるのではないか。

そう言えば私も、幼い頃、親兄弟から、楽観主義ぶりを再三に亘ってたしなめられ、結局はかなり用意周到の悲観主義者になったように思う。今でも、『そんな考え、甘い、甘い!』と言う声が聞こえてしまうのである。そして、親となった現在、子供の楽観主義がとても、とても心配な自分に気付くのは、私だけでは無いだろう。
DNAのお陰で、日本人社会は楽観主義者が生き難い風土である事は確かであるが、ここいらで、悪い結果を考えた対処ではなく、せめて淡々とした対処をするように心掛けてはどうかと思う。

李登輝氏の訪日の問題も、『もし、これを受け容れたら、中国の反応が心配だ』と言う官邸、外務省の判断から、妙な事態を招いてしまった。台湾の病人一人が日本に治療に来るとして、すんなりと人道的立場から受入れていたら、話題にすらならなかっただろうし、よしんば中国がクレームを付けても、却って国際社会から中国が非難されただけだったかも知れないのだ。私は国際関係に詳しくないが、人と人との間の関係と同じではないかと思う。妙に気を使い過ぎて、逆に悪い結果を招く場合が多い。淡々とした対応に心掛けるべきなのだと思う事がある。日本の外交姿勢がそのものずばりではないか。
その点、海南島上空での飛行機接触事故後の、アメリカと中国の対処方法は、駆け引きなのかも知れないが、日本にはとても出来ないものである。日本がアメリカの立場なら、平謝りだったろう。えひめ丸の事故でも、反対の立場ならば、日本は平謝りに終始し、艦長を個人的に追い詰めて、自殺にまで追い込んだかも知れない。

私も能く陥るのだが、あまり他人がどう考えるかを慮(おもんばか)り過ぎて、逆に望む事とは反対の結果を招くことがある。
淡々と対処すると言う、人間関係、外交関係の在り方を、私達日本人は、そろそろ試して見るべきだと思うのだが、どうだろうか。


[ご意見・ご感想]

[戻る]


2001.04.23

それでも日本は変わらない

自民党総裁選は、予備選での小泉氏圧勝の様相を呈している。多分1週間後の日曜日は、小泉内閣の閣僚メンバーに関する論評がテレビを賑わす事だろう。
しかし、私はそうかな?と思う。小渕前首相をお陀仏さん、その死を自業自得と、応援演説で断定した田中真紀子議員を応援者として是認する小泉氏の感覚は、きっと日本を危うくする場面が直ぐに現れると思う。また、この予備選挙の今日の結果に、早々と歴史が動くと言う小泉氏のコメントを聞いて、『そうかな?』と思うのは私だけではないだろう。あの自民党が野党に下りた細川内閣の時は、政策が変わる、政治が変わると誰しも期待したが、結局は何も変わらなかった、そして、政治理念としては対極の社会党の村山首相も何も変えられないまま、自民党政治に戻ってしまっての今日である。
日本国民の想いを正確に読み取らないと、小泉内閣も失脚するのは間違いないと思う。

今回、自民党党員の過半数は、小泉氏を支持すると言う結果に終わると思うが、政治家も、日本国民の単純思考を知って、しっかりした政策を実行して欲しいと思うのは、私だけではないだろう。日本国民は、マスコミに踊らされているだけである。小泉氏に橋本氏以上の政策があるとは思えない。一対一で議論させれば、橋本氏が勝つに違いないと言うのは、小泉陣営でも頷くに違いない。
元々私は森内閣が失政したとは思わない、単にマスコミ対応を間違っただけだと私は思っている。この苦しい状況の中で、増税しないまでも、一般国民に負担が来るような政策を取ったら、日本は沈没する事は間違いない。

小泉氏に一時的な人気が集まっているが、日本を実務的に運営するのに、小泉氏独りで出来るはずが無い。小泉氏に、人心掌握力が無いと結局は、実際の結果が現れないのである。
私は小泉氏のみを批判する訳ではない。他の候補も同じく今の日本を救う事は出来ないと思う。
自民党に数十年所属した人、或いはそれと対峙している野党の旧い人達でも、もう改革は出来るはずが無いと思う。
野党・与党を問わず、50歳前後の、政官財の人間関係にしがらみの無い人が政権を担った時に初めて、日本が変わると思う。それまでは我慢の一手だろう。残念だが……。
歴史的にも、変革は若い人の力でしか出来ないのだ。


[ご意見・ご感想]

[戻る]


2001.04.19

歌手の死

三波春夫、河島英五と言う歌手二人の訃報が相次いだ。
三波さんは、『お客様は神様です』と言う名文句でも有名だが、一世を風靡した歌手で誰でも知っているだろう。
河島さんは、シンガーソングライターで、あまりテレビに出る方ではなかったし、歌手らしさもなかったので、知らない人もいるだろう。

私は、河島さんの歌が好きでカラオケで歌う位だったので、特に感慨がある。『野風曾』『時代遅れ』が好きだった。
『時代遅れ』の作詞も河島英五と思っていたが、阿久悠氏だったと言う事を、昨日の朝日新聞夕刊の追悼文で知った。そして、この歌に対する河島英五のポツリとした感想と、阿久悠氏の切なさが書かれていたが、男同士の何とも言えない友情が現れていて、胸が詰まった。今度、この『時代遅れ』をカラオケする時は、きっとこれまでと違う歌になりそうだ。

阿久悠氏が河島英五の作詞をしたのは、この1曲だそうだ。ヒット曲になり、紅白歌合戦でも歌うまでになったが、『この男は、僕にはカッコ良すぎますよ』とポツリと漏らしたと言うのである。『1日2杯の酒を飲み、肴は特に拘らず……』と言う歌い出しの男のやせ我慢を詠った歌である。私も河島英五にぴったしの歌だと思っていたが、『彼は僕流の「やせがまんの美しさ」に、少しだが抵抗を抱いていたようである。彼は同じ時代遅れでも、もっと正直な、無理しない人が好きだったのかも知れない。それでも、その後もずっとこの歌を大切に歌ってくれた。いま僕は辛くて仕方がない』と言う阿久悠氏の追悼の締めくくりがあり、神戸の震災義援チャリティショーを毎年主宰してきた河島英五の男っぽさが胸に迫った。


[ご意見・ご感想]

[戻る]


2001.04.17

人間関係能力―A―

今、自民党総裁選たけなわである。昨日のテレビでは、4候補が揃って、民放・NHKとハシゴしていた。森総裁では参院選挙に勝てないからというのが総裁交代の真相らしい。日本国首相にも、というより、首相にこそ人間関係能力が求められると言って良いだろう。勿論経済知識、外交知識、安全保障に関する個々の知識、先見性、実務能力も必要であろうが、一人ですべて取り仕切る事は出来ない。各省庁を手足のように動かせるリーダーシップが必要である。サービス精神旺盛、チャレンジ精神、寛容、臨機応変、協調的と言う人間関係能力に優れた能力が求められるポジションである。

森首相にこれらの能力が無かった訳ではない。聞くところによると、番記者(常に首相の動向に注視し取材する専従担当記者)との関係に失敗したようである。首相の人間関係能力として、マスコミ対応能力を付け加える必要がある。情報化社会の現在、その優位性は否定出来ない要素だと考えねばならないかも知れない。

武家社会では、武芸だったかもしれないが、今は、『刀』の代わりに表現力としての『口』が自分を守り、攻撃する武器になっていると考え方を改めるべきなのかも知れない。プレゼンテーション能力と言うものである。
自分の能力・考えを伝える、このプレゼンテーション能力は、サービス精神旺盛、チャレンジ精神、寛容、臨機応変、協調性、実務能力と同じ位大事であると、4人の候補の受け答えを聞きながら思ったものである。

昔は、不言実行が尊ばれたものであるが、今は有言実行でなければ多くの人の共感・支持は得られない。私達は、固有技術、実務能力を磨く事と同じ位に、プレゼンテーション能力を磨く必要があると思う。


[ご意見・ご感想]

[戻る]


2001.04.12

人間関係能力―@―

前回コラムでは、プロ野球監督と人心掌握術に触れたが、人心掌握術と言うのは、人間関係能力の一つであり、リーダーの人間関係能力と定義しても良いだろう。人間関係能力と言うのは、他人と気持ち良い人間関係を構築し、延いては困った時には、相手が自分を助けてくれるような関係が構築出来るかどうかだと思う。リーダーの人間関係能力は、自分の思うままにメンバーを動かせる能力と言う事になる。
リーダーの場合は、チームのリーダーであるから、チームの目標があり、その目標を達成するために、メンバーを統率し、個々の力を発揮させる手腕と言う事になる。自ずから、メンバーとか、あるいは一般社会、家庭等での人間関係能力とは、趣を異にする。
今回は、この人間関係能力について考察したい。

社会でをうまく生き抜くかどうか、社会生活で成功するかしないかは、この人間関係能力と言う個人の能力が大きく寄与する。学力、技能とは全く無関係の能力と言って良い。個人の日常生活を左右する能力であるが、これは学校では教えてくれないし、教え難いものである。 企業での出世は、むしろ個人の技術力、知的能力よりも、この人間関係能力に負うところが大きいと断言しても良いだろう。『彼は、仕事は出来るが協調性が無いから惜しい人材だ』とは能く聞く評価だ。『人間は良いが、自分の意見と言うものが無い』と言う事も聞く。
人間関係能力とは、何か?協調性とか、お人好しと言うだけではないだろう。
この人間関係能力を考える時に、直ぐに頭に浮かぶのは、人間関係能力に劣っている人々の存在である。
職場でも、学校でも、或いはある集まりでも、必ずと言っていい程、嫌われ者がいる。周囲に毒を撒き散らすと言うか、不愉快な気持ちにさせる者がいるものだ。その共通点は、下記のようになるだろう。

  1. 顔を合わせても、挨拶をしない。勿論笑顔は出ない。
  2. 人には、自分の頼み事を平気でするが、自分は人の頼み事は、尤もな理由を付けて、先ずは断わる。
  3. すべて否定から入る。賛成・同意と言う事が無い。
  4. 意外と理屈は通っており、議論には強い。
  5. 人の欠点、欠陥の指摘は厳しく、はっきりと言う。
  6. 大体がケチである。しかし、お金にルーズな訳ではない。
  7. ルール・規則には強く頑固である。臨機応変さは全く無い。いわゆる融通は効かない。
  8. 几帳面である。従って他人を自分の縄張りに入らせない。
  9. だから、群れる事は無いし、あまり友人はいないが、極めて懇意にしている友人を一人は持っている。だから、人付き合いが悪いとは自身思っていない。
  10. 読書好きで、知識欲は旺盛、だから何でも知っているかの如く高圧的。
  11. 自分に与えられた仕事・役割は、きっちりとこなす。文句は言わせたくない。
  12. 他人を犠牲にする事はあっても、他人の犠牲になる事は、決してない。
  13. 所謂、お人好しとは対照的である。
上記の姿勢・態度からは、自己中心的、防衛的、冷徹、排他的と言う言葉が浮かぶが、そうするとこの対局となる、サービス精神旺盛、チャレンジ精神、寛容、臨機応変、協調的と言うのが、人間関係能力に優れた姿勢・態度と言えるかもしれない。
次回コラムに続く。


[ご意見・ご感想]

[戻る]


2001.04.09

プロ野球監督と人心掌握術

今年の阪神タイガースは弱くない。
今も、危ういところ、3対2で横浜ベースターズにやっと勝った。やっと、だが、昨年、一昨年と、1点差で勝ったゲームは少ない。優勝チームは1点差で勝つゲームが多い、確かデーターであるはすだ。何とか今年は頑張って優勝して貰いたい。

私は幼い頃からの巨人ファンであつて、虎ファンではないが、大学のテニス部の3年先輩が、今年のシーズン前までタイガースの球団社長をしていた関係で、2年間は即席タイガースファンであったからと言うだけではない。野村監督が3年連続最下位に終ってタイガースを去る事は、いささか残念なのである。と言うのは、人心掌握術と言うのがあって欲しいと思うからだ。ご存知の様に、野村監督はパリーグからヤクルトスワローズの監督に就任して、確か3年かけて日本一に育て上げた名監督であり、その手腕を買われて、私の先輩と共に、最下位タイガースの再建に挑戦したわけである。
多くの虎キチは、期待した、野村監督ならば、絶対に優勝させてくれると。最初の年の秋季キャンプ、春季キャンプ、シーズン開幕当初は、新庄に投手をやらせる等と話題を提供し、期待を抱かせるに充分な人心掌握術振りを発揮していた。しかし、結果は、ご覧の通りである。3年目の今年は誰も野村監督に注目していないし、多くの評論家は最下位を予想している。人心掌握術のオーソリティのように騒いでいたマスコミも、すっかり野村離れである。

私も、やはり人心掌握術って無いのかも知れないと思うようになりつつある。昔、阪急ブレーブスを3年連続日本一に導いた上田監督も、その手腕を買われて他球団を引き受けたけれど、その後リーグ優勝すら勝ち取る事はなかった。近鉄でリーグ優勝に導き、オリックスブルーウェイブの監督に就任した仰木監督も、震災の年と言う特殊状況の中での一致結束とイチローと言うスーパースター誕生と言う幸運が味方して日本一になって以来、5年間優勝から遠ざかっている。そして、昨年一昨年の野村監督である。優勝は、監督の人心掌握術によるかの様に思っていたが、たまたま優秀な選手達、そしてその選手達のピーク時に当たっただけでは無いかと思うようになって来た。あの9年連続日本一に巨人を導いた川上監督も、所詮は、王・長嶋と言う2大スター選手の絶頂時に巡り合ったからだけではないかとも、思い直しつつある。

私は、自分には人心掌握術があるとは思っていない。むしろ無い方だと思っている。それだけに、そう言う力を持っている人物に憧れがある。そして、何とかその術を身に付けたいと思って来た。人心掌握術とは何なのか?非常に興味あるテーマであるのだ。
何回もチームを優勝させ、人心掌握術に長けた監督として有名な代表として、三原修監督がいる。この監督は、西鉄ライオンズ(現在の西部ライオンズ前身)の黄金時代を築いた後、異なるセリーグのしかも前年最下位の大洋ホエールズ(現横浜ベ―スターズ)に移籍して直ぐ様リーグ優勝、しかも日本シリーズでは4連勝と言う離れ業をして日本一にしたのである。もう40年近く前の事ではあるが、三原マジックと言う言葉が生まれたように、人をマジックにかけて、自由に操れる人心掌握術の権化と言われた。
もう一人異なる球団を連続して日本一に導いた監督がいる。ヤクルトスワローズを球団創立以来最初の日本一にチームに仕上げ、翌年、西武ライオンズに移籍して直ぐに日本一のチームに仕立て上げた広岡監督である。広岡監督は、人心掌握術と言うより、選手を徹底して管理する統率力に優れた監督と言うべきかも知れない。

私はこのコラムで、仏教の因縁果の真理を説いた。仏教的に考えると、一人の監督が優秀と言うだけでは優勝出来ると言うものでは無いと言う事になる。勿論選手達の技術が優秀でなければならないが、それだけでは無く、いろいろな条件が重なり合って初めて優勝と言う結果となる。運もあると、言い換えても良い。だから、私が優勝と監督の人心掌握術に関係を求めるのは、仏教の因縁果に目覚めていない証拠と言われそうだが、やはり掌握術はあると思う。掌握術を身に付けただけで優勝は出来ないが、身に付けていなければ、優勝は出来ないのでは無いかと思うからだ。そして、卓越した人心掌握術を身に付けている監督程、優勝に近いと考えてしまうからだ。

私は経営者として成功したい。大成功したいと思っているが、その為の一つの術として、人心掌握術は中心的な術だと思っている。だから、その術の正体を知りたいとかねてより願っているわけである。
そういう意味では、今年横浜ベースターズの監督に就任した森監督は、あの広岡監督からチームを引き継いで、西武ライオンズの第2期黄金時代を築いた名監督である。だから私は、森監督には非常に注目している。資金力で4番バッター、エースを集めた巨人が監督能力とは別次元で連勝するのか、背水の陣の野村監督が人心掌握術を蘇らせて優勝するのか、漸く人心掌握術を身に付けたらしい王監督が、リベンジ日本一になるのか、イチローがいなくなって震災の年以来の団結力を発揮しているオリックスが6年ぶりの日本一に輝くのか、今年は面白いプロ野球シーズンである。


[ご意見・ご感想]

[戻る]


2001.04.05

仲良き事は、美しきかな

これは確か武者小路実篤氏の言葉だったと思う。色紙に書かれていた言葉だと思うが、本当にそうだと思う。

仲良い家族を見ると、微笑ましいし、やはり美しい光景ではないだろうか最近夫婦でウォーキングされているのを良く見掛けますが、談笑しながら歩いている老夫婦の姿は、本当に美しいものである。また一方、人生で幸せを感じるのは、良き人間関係にある時だと思う。誰しも幸せを求めてお金持ちになりたいとせっせせっせと働くわけであるが、それはきっと、家族で楽しい時を持ちたい、仲の良い人々と旅行がしたいとか、食事をしたいとか、スポーツを楽しみたいとか、仲良く集う事が目的であり、お金そのものが目的ではないはずです。勿論、いい家に住みたい、いい車に乗りたいと言う欲望もあるが、これも、そして、良き仲の人と楽しみたいと言う欲望が潜んでいるのではないだろうか。
反対に、人生の不幸は、悪い人間関係に遭遇してしまった時である。貧乏は我慢出来るが、悪い人間関係は耐え難い事である。体も壊す程である。現在問題になっている、いじめもその一つだ。

私も、耐え難い人間関係に陥った事は、何回かある。中学生の時、サラリーマンの時、会社を経営してからもあった。以前に住んでいた時に近隣とも経験した。 思い起こせば、必ず相手とのコミュニケーションが取れない、取りたくない、取っても同じだと言う諦めもあったように思う。

昔は、世の多くの姑と嫁の関係が取りざたされ、仲の悪い標本みたいに言われていたが、最近は、どうだろうか?多分若い嫁の力が絶大になって、姑は遠慮の塊で、仲の悪さ云々する状況にはないので無いだろうか。しかし、仲良き状態に無い事は確かである。
しかし、仲良き関係になるのは、どうも努力では無いようにも思う。殆ど初対面で決るように感じるのは私だけだろうか。テレビを見ていても、相性の良いタレントとそうでは無いタレントに瞬時に区別出来る。出来ると言うより、瞬時にしてしまうと言っても良い。多分、細胞のDNAに何千年前の過去から遭遇して来た相性についての情報が刻み込まれているに違いない。本能的感覚だから、瞬時に判断されるのだと思う。そして、多分相手も同様にDNAで判定するから、大体は、こっちがそう思えば、相手もそう思っていると言う事になるのだろう。
しかしである。このDNAに従ってしまうと、人生の不幸を掴んでしまう。他に多くの仲良き関係を持っていたとしても、一つの悪い人間関係は、すべてを凌駕してしまうのだ。

だから、私達は、あらゆる人と悪い関係にならないように、人との関わり合いには、充分気を配る必要がある。気を配り過ぎても配り過ぎる事はない。悪い人間関係に陥った時に消耗するエネルギーを考えれば、しれた事だと思う。


[ご意見・ご感想]

[戻る]


2001.04.02

56歳の挑戦

誰の人生においても、ここが勝負と言う挑戦の時がある。あの時は大変だった、あれを乗り越えたから今日があると言う運命を変えた挑戦もあるだろう。災害・災難もそう言える。あの神戸・淡路の大震災は多くの人々にとって、忘れられない瞬間だったし、震災を通して運命的な出会いを経験された方もいるに違いない。
入学試験も就職も転職も新たなる人生への挑戦だ。結婚も挑戦だと思う。どのカップルもスタートは幸せ一杯であるが、特に最近は離婚率も高く、成功と失敗がある。人は人生において結構多くの挑戦をするのだ。

考え過ぎか知れないが、私の挑戦には数字の『6』が絡んでいる。16歳は受験勉強真っ只中。26歳は結婚をした年である。36歳は、全身麻酔の胆嚢摘出手術を受けた、今でも横腹に15cmのメスが入った傷がくっきりと残っている。46歳は脱サラして経営者になった。そして3月8日に56歳となった今年は、これまで以上に人生を左右する挑戦の年であると言って過言ではない。
過去の挑戦は、今の時点では成功したと言って良いだろう。

16歳、高校2年生、それまで競争を知らない小学・中学生生活を送って来た呑気坊主(のんきぼうず)が初めて受験地獄と言う熾烈な競争の中に放り出された年である。周りは学区内の中学でトップクラスの者ばかりであった。カルチャーショック、焦燥感で少々ノイローゼ気味になった時期もあった。中学時代の夏休みは、宿題も最後の数日で兄弟の助けを借りてやっとの想いで仕上げていたと言う親も呆れる楽観主義者だった私も、この16歳の夏休みは、人生を賭けての受験勉強に明け暮れた(それでも兄弟姉妹から見れば、気を揉んだと言うが)。そのお陰で、何とか七帝大の一つに潜り込んだから、これは成功と挑戦だっただろう。

26歳の結婚と言う挑戦。結婚と言うのは、例え数年付き合っても、相手の事を充分知らないままに生活をスタートさせるものだ。一種の賭けと言って良い、挑戦と言うべきだ。結婚前は相性が良いと思っても、一緒に生活して、色々な場面・行事・問題が発生した時に、初めてお互いの価値観が分かり、そこで初めて一生を共にするかどうか結論付けると言う面がある。私の場合は、幸いな事に、一生を共にする方を選ぶ事が出来たのだと思っている。

36歳の胆嚢摘出手術も、今では1週間程度で退院出来ると言う医学の進歩に驚かされるが、20年前は、全身麻酔である。しかも数パーセントの死亡率があったので、手術台に向かう時は大袈裟ではあるが死を覚悟したものだった。それはまさしく挑戦であった。その胆嚢結石と言う事が分かるまで、色々体調不良が頻発して入退院を繰り返していたのが、すっかり治ったのだから、成功と言って良かろう。

46歳での脱サラが成功であったかどうかは、判定が難しいが、サラリーマン時代には管理社会にマッチ出来ずに、自分の良さ(発想力と決断実行力と思っているが、悪く言えば独断専行・猪突猛進型)を殺して殆ど20年間不完全燃焼状態であったのが、経営者になってほぼ自分の想い通りに仕事を進められた事を考えれば、取りあえず、この9年間は成功だったと言う事にしたい。震災後爆発的に人気を得たアイディア商品、口紅印鑑『ネームキッス』でマスコミの取材が殺到し、テレビにも何回か出演したのは、遠い昔のような気がする。

そして56歳。今まさに自分の人生を賭けた挑戦中である。バブルが弾けた年に会社を設立して、今年の1月で丸9年が過ぎ、10年目を迎えたところであるが、世の中の製造業と同じく、製造業の東南アジアシフトによる空洞化の波が終に我が社にもやって来たからである。
弊社の売上高の7割を占める製品のすべてが、中国に設立された日本企業に奪われる。それも、たった3ヶ月後の事である。取引先から、昨年8月に通告されて以来、色々生き残る手だてを考え努力してきたが、そう簡単には、7割減を埋め合わせる商売にありつける程、現状は甘くない。正直、今も確固たる見通しは立っていないと言って良い状態である。野球に喩えると、もし起死回生の逆転ホームランがなければ敗北と言う、ギリギリの追い詰められた瞬間である。一般サラリーマンには分からない事であるが、小さな会社の経営が行き詰まると言う事は、倒産であると言う事は勿論であるが、且つその経営者の殆どは、すべてを失い、夜逃げするか、自己破産と言う事態なのである。従って、私は今、人生における敗北者になるか敗者復活になるかどうかと言う瀬戸際である。まさに死活を賭けた挑戦の時であるが、私だけが遭遇している訳では無いと思っている。我が国の中小企業経営者の多くが、似たり寄ったりの状況である事は間違いない。私が弱音を吐く訳にはいかない。この挑戦の結果が分からない今、私は二つの事を心の支えとして踏ん張っている。

一つは、一流企業と言われている会社の多くも、こういう経営危機はあったと聞く。
ソニーも松下も会社設立時はそうだったと聞いている。社長から直接話しを聞いた、お菓子のユーハイムもギリギリの瞬間にお金を工面してくれた人があり、不渡りの危機を乗り越えたと言う。私の会社、プリンス技研が生き残る運命ならば、そして私が一人前の経営者になる運命ならば、この危機は乗り越えるはずだと言う気持ちが、今の自分を支えている。

もう一つの支えは、『運命を天に委ねて、自分が今出来る事はすべて精一杯やるだけ』と言う仏教の教え(般若心経の空と因縁果の教え)の実践をしていると言う第3者的な自覚である。
仏教の説く因縁果とは、『何事も、原因があって結果があると言う事ではなく、原因に無数の縁が働いて結果がある』と言う事である。無数の縁は、人間の思慮・想像を超えた条件と言う事である。現に今もし、弊社に『連続気泡多孔性プラスチックスの製造方法』と言う特許も無く、スポンジロールにインクを含浸したインクロールと言う印刷部品の製造技術が無ければ、将来の展望は全く無く、座して死を待つのみであったろう。しかし、これらの技術は、私の力だけで獲得出来た訳ではない。ある人との出会いがあり、しかもその上に、想像もしなかった人と人の繋がりがあって、開発に着手し、そして開発に成功する道半ばにおいても又、30年前の友人の力を偶然借りると言う不思議な縁を経て、やっと成功に至ったと言うものである。無数の人々の関わりがあっての現在である事をはっきりと認識出来るのである。
だから、これからの我が社の運命も、私の運命も、私の努力無しでは開けない事は確かであるが、私の努力だけで切り開けられるものでは無い事もまた確かなのである。現在・過去・未来にわたっての無数の人々との縁によって決ると言っても良いだろう。私は、ただ目の前の技術開発・製品開発、それに製品の販売ルート開拓に精一杯努力するだけなのである。
勿論、私と関わりのある従業員、家族、親族を不幸な目に遭わせたくないと言う責任感と言うか、意地と言うか、人間臭い感情が、この56歳の私を突き動かしている事も確かである。
この56歳の挑戦が成功に終わる事を信じて、このコラムを執筆している訳であるが、この挑戦の経過、そして私自身の揺れ動く心模様も含めて、このコラムで事実を報告しようと思う。これも又、挑戦なのである。

もう一つ災難について気付いた事がある。無相庵カレンダーで良寛さんの詠(26日)を掲げているが、災難は、災難と認識して、素直に受け容れる事が出来た瞬間、災難ではなく、挑戦になると言う事である。実は私も、昨年の7月13日に、弊社の製品に匹敵する中国製品が現れ、その製品を使用する会社が中国製品に切り替えるようだと言う情報を聞いた時、背筋が凍る想いがした。そして、目の前が真っ暗になり食欲も無くなった事を覚えている。
なんで、なんでこんなに目に遭わなければいけないのか、自分の不運を嘆き、相手の会社を怨み、中国を怨み、日本の政治、社会の仕組みすら怨んだ瞬間もあった事は確かである。しかし、直ぐに良寛さんの詠を思い出し、怨んでも文句を言っても何事も始まらない。これを課題として、精一杯取り組もうと思った瞬間、気力は漲った(みなぎった)、挑戦しようと。 災難に遭遇した事の不運を嘆いている限りは、前進はないのだと思う。病気なら治癒に向かう事はないと言う事だと思う。
誰の人生にも災難・不遇はやって来る。良寛さんは、『災難に逢う時は災難に逢うが良く候』と言っているが、誰しも災難や不遇な目には遭いたくない。しかし、遭った限りは、その災難・不遇に逢った自分の不運を嘆かず、災難・不遇をしっかりと受止めて(仏教的には、災難と仲良くなって)、冷静に乗り越えていく挑戦の生活に切り替えるべきだと、良寛さんは教えているのではないだろうか。私は未だ、この挑戦に勝った訳ではないが、何れ良寛さんの詠をもっと深い心で受止める時があるのかも知れない。


[ご意見・ご感想]

[戻る]


2001.03.26

般若心経の解説ー最終ー

いよいよ般若心経の解説も、今回で完結させて頂く事になりました。昨年末から始めましたから、約3ヶ月掛けたわけですが、解説をしながら、私自身が勉強させて頂いた想いです。仏教の根本的な道理・宇宙の真理である『空』、『因縁果』を改めて学ばせて頂いた想いです。

さて、最後の文節は締めくくりとしての呪文です(キリスト教のアーメンと言うお祈りの言葉とでも解釈すれば良いと思います)。サンスクリツト語での形式的な終わりの挨拶をと考えても良いと思います。

『故説般若波羅蜜多呪。即説呪曰。掲諦。掲諦。波羅掲諦。波羅僧掲諦。菩提薩婆訶。般若心経』
(こせつはんにゃはらみたじゅ。そくせつじゅわ。ぎゃてい。ぎゃてい。はらぎゃてい。はらそうぎゃてい。ぼじそわか。はんにゃしんぎょう)
本に記載されている和訳は、下記の通りです。
『故に般若波羅蜜多の呪を説く。即ち呪を説いて曰く。掲諦。掲諦。波羅掲諦。波羅僧掲諦。菩提薩婆訶。般若心経』
掲諦。掲諦。波羅掲諦。波羅僧掲諦。菩提薩婆訶。は般若の四句の呪文です。これは、梵語(サンスクリット語)の音をそのまま移したものなのです。
『ガテイ、ガテイ、パーラガテイ、パーラサンガテイ、ボージ、スバーハー』と言うものです。
お経が分かり難いと言う一つの要素として、この梵語をそのまま漢字で当て字した文言が混ざっている事があると思います。般若も、パリー語のパンニャーの音を漢字で表わしたものでした。波羅蜜多も、梵語(サンスクリット語)のパーラミターです。
何故翻訳しなかったかと言うと、多分翻訳する言葉が見付からない位に意味深いものなんだと思います。翻訳してしまえば、その深さが失われると考えたのだと思います。丁度、我が国の俳句を英訳する場合に当て嵌めますと理解出来ます。『古池や、蛙飛び込む、水の音』 と言う芭蕉の俳句をそのまま英語で表現しても、芭蕉の伝えたい心は伝わらないでしょう。 ですから、この呪文も本当はそのままで良いのですが、はやり、どんな事を祈っているのか位は知りたいものです。
掲諦(ガテイ)は、『往くことにおいて』と言う意味で、波羅掲諦(パーラガテイ)は、『向こうに往く』と言う事です。波羅僧掲諦(パーラサンガテイ)のサンガテイは、到達するとか、いっしょになる、結び付くと言う意味で、パーラサンガテイは、『凡夫が仏の世界に到達して、仏といっしょになる』と言う事になります。菩提薩婆訶(ボージ、スバーハー)の菩提(ボージ)は、何度も出て来ましたが、悟りと言う事、薩婆訶(スバーハー)は、成就、満足と言う意味で、大抵の真言(マントラ、呪文)の最後についている詞です。
まとめて現代語訳しますと、
『自分も悟りの彼岸に行った。人もまた悟りの彼岸へ行かしめた。普く一切の人を行かしめ終わった。かくてわが覚りの道は成就された。』
で、この般若心経を締めくくった訳です。

11回に分けまして、解説をして参りましたが、大乗仏教を代表し、短くまとめたこの般若心経を、専門的に勉強もしていないし、そして仏教を未だ信仰するに至っていない私が、解説する事自体、恐れ多い事でした。
宗教は、信じる事が前提です。信じないと意味がありません。
信にも色々と段階と種類があります。不信、半信、自信、確信、盲信、狂信、過信、でしょうか。
やはり確信と言う段階に至って、初めて信仰と言う事になると思います。私は、空と言う事、因縁果と言う道理は宇宙の普遍の真理と理解しています。しかし、未だ確信には至っておりません。確信と言うのは、頭での理解ではありません。法は、人から人へと受け継がれて行くものだと言われますが、やはり、信仰に至った師に出会う事無くしては、確信には至らないのではないかと思います。
良き師に出会う事、これもまた信仰において肝腎な事だと思います。

般若心経には、宗派の臭いがございません。そう言う意味では、仏教の入門経として適切だと思います。また、奥深さも備えており、このお経一つですべては言い尽くされていると思いますので、是非一度、角川文庫から出版されている『般若心経講義』(高神覚昇著)を読んで頂きたいと思います。
『空』『因縁果』、この仏教の真理は、人生を深めて行けば行くほどに、味わい深いものになって行くものだと思います。
と言う事で、この般若心経の解説を終了とさせて頂きます。


[ご意見・ご感想]

[戻る]



[HOME]