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No.380  2004.04.19

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第58条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―我はわろきと思う者なし

まえがき
人間関係を壊すのも、国と国との関係を壊すのも、「自分は間違っていない、相手が間違っている。自分は悪くない、相手が悪い」「自分が一番可愛い」と言う我執(がしゅう)があるからです。親鸞聖人が90年間の生涯のテーマとされたのも、この我執だったと思います。我執を持ち合わせないと言う人は誰一人居ませんが、問題は自分の我執に気付かないところにあります。

国会の与党と野党の論戦も、我執と我執のぶつかり合いですし、今問題になっている、イラクの混迷はアメリカの自分は正しいと言う独善から来ているものでしょうし、イスラエルとバレスチナのテロの連鎖も、どちらが正しいかと言うよりも、我執のエスカレートとも言うべき状態だと思います。

無相庵カレンダーの19日の言葉として『人の悪き事はよくよく見ゆるなり、我が悪き事は覚えざるなり』と言う御一代記聞書の第195条からの抜粋がありますが、「我は悪しと思う人なし」と言う言葉は、『聞書』には繰り返し出て参ります。それは親鸞聖人が生涯を通じて問題とされたテーマであると共に、仏法そのもののテーマであるからだと思います。

井上先生の讃解文の中にギリシャの古い諺(ことわざ)『狼の言い分でさえ聞いてやるべきだ』と言う引用がありますが、善(羊飼い)と悪(狼)は、人間の我執に基づくものだと言う事だと思いますが、現在の世界を牛耳るアメリカの独善も、無反省な我執(自分は正しい)を源(みなもと)にしていると言っても良いと思います。

こうして、私が意見を述べている心根にも、「自分が正しい」と言う想いがあることから免れ得ない事は残念な事ではありますが、事実であると言わざるを得ません。

●聞書本文
誰のともがらも、我はわろきと思う者一人としてもあるべからず。これしかしながら聖人の御罰を蒙りたるすがたなり。これによりて一人づつも心中をひるがえさずば、永き世泥梨(でいり)に深く沈むべきものなり。是れといふも何事ぞなれば、真実に仏法の底を知らざる故なり。

●現代意訳
誰でも、「自分は間違っている」と思う人は一人もいません。しかし、『「自分は間違っている」と思わない』ことは親鸞聖人が最も誡められた態度なのです。だから誰の人もその心を転換しなければ、地獄に沈むしか道はありません。何故かと言えば、この『「自分は間違っている」と思わない』と言う心は仏法の説く根本から外れているからです。

●井上善右衛門先生の讃解
人間と言う存在の最も大きな問題点は「我れよし」とする無条件な自己中心の心であると言えましょう。ギリシャの古い言葉に「狼の言い分でさえ聞いてやるべきだ」と言う諺があります。これはプラトンの対話篇にも出ているところですが、その由来は羊飼いが食事に羊の肉を食べているのを狼が見て「自分があれと同じことをしたら、どんな騒ぎになるだろう」と言ったと言うのです。人間は狼を悪獣と決めつけていますが、その底には隠れた人間中心の独善が潜んでいます。人類の文明と言うものも実はこの独善の上に築かれて来たようなものであります。

人類全体のエゴが如何にこの地上で横暴を極めていることか、ところがこのエゴと言う執我心は得手勝手な行動意思ですから、他の事は考えず己れの欲するままに総てを一方的に引き摺って行こうとする、その結果必ず住む世界の全体的統一を乱し自己矛盾を引き起こして自らを追い詰める結果になる。そして自己の墓穴を掘るところにエゴの迷妄性があるのですが、その自己矛盾を容易に気付かぬのがまたエゴの性質であります。他人事としては解っても、自分の日常生活となると容易に気付くことが出来ない。

これが更に精神的エゴとなると自分の思いを絶対的なものとして確執する、そして信念とか純粋とか言う美名のもとにいよいよ確執をつのらせて対立し、あげくの果ては対立者を抹殺する行動に出る。そして互いに自滅の道をたどることになるのです。こうした極端な事例はさておいても、われわれの日常生活の底にわれ識らず執我の心が働き続けていることは否み得ません。「我はわろきと思う者一人としてもあるべからず」と言うのは、まことに人間と言う存在の盲点をついた至言であります。

今日地球上の生態系を人間が乱している。それはやがて人類の危機を招くと警告されているのも、上述の人間の根本性格に由来するものでありますが、この危機を乗り越えるには人間の本質が180度の転向を必要とするように思われます。さらに人間の社会生活を顧みますと、集団のエゴ、個人のエゴが渦巻いています。それが関わり合い重なり合ってもつれあう。この世が娑婆(苦の忍土)であることは決して不思議ではありません。こうしたエゴの自執活動が無始よりこのかた無限相関の惰勢となって個々人の上に業を形成しているのだと反省すると、業と言う深い教えの一端を窺い知る思いがするのです。自らの業で自らが苦しむそれはまさに自己矛盾の現実相でありますが、それも具体的な一つ一つの事柄となると、そのことの因果を明確に把握する能力はわれわれにはありません。ただ業の教えを謹んで承る外はないのです。

仏法は人類が自己中心の基盤の上に築いている文明とは質を異にするものです。人間の底に宿る迷妄を照破し克服するのでなければ人間は真に救うことは出来ない。それは一度び人間通途の生き方の否定とならざるを得ません。その故に仏法は人間にとって容易なものではないのです。その第一歩が先ず「我はわろきと思う者一人としてもあるべからず」と言うのであります。

そして「これしかしながら聖人の御罰を蒙りたるすがたなり」と断言されます。ここに罰と言うのは処罰の意ではなく擯罰(ひんばつ)の意味です。擯と言う字は「斥ける」と言う意味ですから、擯罰とは「斥け厭い誡める」と言うことになります。親鸞聖人が最も厳しく誡め、その迷いに陥ることを強く斥けておられるその当の悲しむべき過ちを犯しているのが「我はわろきと思わぬ」その心であります。
この事は仏法の世界からどうしても現れて来ざるを得ない人間の根本問題であり、執我を照らす光寿二無量の照耀に浴するところに必ず開かれて来る反省と自覚であります。

●あとがき
争いの根源に我執がある事は間違いありませんが、我執は向上心を生み出し、我執があるからこそ、人類の科学は進歩してきました。私は我執そのものは決して解消出来るものでは無いと思う一方、我執そのものが悪いのではなく、我が我執に気付かずに、人の意見を聞かずに独善的に物事を進める無反省こそが問題だと思います。私達は誰しも、他人から自分の過ちや間違いを指摘されたら、必ず先ずは反撥します。自己弁護が先にたちます、間違いと分かっていてさえ即言い訳が浮かびます。これは仏法を聞いても解消するものではないと、私は思います。しかし仏法を聞き進むことによって、我が我執がはっきりと照らし出されて行くのだと思います。我執がはっきりする事によって慙愧(ざんき)が起こり、報謝の心、利他の心が芽生える、これは真実の仏道を歩む人の自然な成り行きだと思われます。

無相庵カレンダー19日の言葉の後に、次の言葉が続きます。

我が身に知られてわろきことあらば、よくよくわろければこそ身に知られ候ふとおもひて心中をあらたむべし、ただ人のいふことをばよく信用すべし、我がわろきことは覚えざるものなる由仰せられ候。
自分には必ず盲点があると認識して、どんな事でも人の言う事に耳を傾けて歩んで参りたいものです。


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No.379  2004.04.15

植草教授の犯罪に想う

経済評論家で早稲田大学大学院教授の植草一秀氏(43歳)が、駅のエスカレーターで女子高校生のスカートの中を手鏡で覗き見したとして現行犯逮捕されたと言う報道に精神的なショックを受けた人は多いと思います。

植草氏は、テレビの経済討論番組のレギュラーコメンテーターとして出演して来た著名人で、私は彼の経済評論を評価し、物腰・風貌にも非常に好感を持っていましたし、上述のような犯罪から最も程遠い存在の方と見受けていましたので、ショックは事の外大きい訳ですが、この気持ちの悪さ、後味の悪さは、単に信頼していた人物に裏切られたショックだけではないようです。自分にひきかえて、自分だって魔がさして犯しかねず、人生の破滅に至ると言う空恐ろしさに見舞われたからではないかと思います。

彼の犯した行為は、私も含めた普通の男性が持ち合わせる性衝動に基づくものだと思います。しかし普通の男性が普通の状況では抑制力が働き、滅多に行為にまでは至らないものです。
『こんな事をすれば、こう言う結果になる』と言う理屈・理論的な考え方には普通の人以上に長(た)けているはずの植草氏が何故こんな馬鹿な真似をしてしまったのでしょうか?今回が初めてでは無かったと言う事を聞きますと、そう言う性癖なのか、精神病理学的に何かが欠如しているのかも知れませんが、私は、植草氏は自分の外を見る眼を人一倍養って来たし、その能力も天与のものがあったのだと思いますが、仏教で言う自己を見詰め、自己を問い直す力はゼロに近かったのだと思います。

私は今回に限らず、世間を騒がす重大な犯罪の報道を知った時には常に歎異抄の第13条を思い出します。特にその中の親鸞聖人のお言葉である『さるべき業縁の、もよおせば、いかなるふるまいも、すべし』が直ぐに頭に浮かびます。この意味は『人間は、条件さえ揃ったら、何をしでかすか分からない』と言う事で、殺人を犯さないのは、私の意思で起こさないのではなく、たまたまそのような状況になく、そのような相手に出会っていないからだと言う考え方です。

この第13条は、受け取り方を間違いますと、総ては業と縁によって犯す罪だから、致し方ないと言う事になってしまいますが、そうではないと思います。『さるべき業縁の、もよおせば、いかなるふるまいも、すべし』とは、飽くまでも自己の罪深さと悪どさを自覚した言葉であり、むしろ『私と言う人間は、条件さえ整ったら、殺人だってやりかねないのだ』と言う深く自己を見詰めた言葉だと考えねばならないと思います。こう言う自覚は、凡夫の自覚ではなく、仏教的に表現しますと、仏様の本願が至り届いた結果のものであり、結果的には『さるべき業縁が、もよおさなくなる』と考えてよいと思います。

仏法は人間を清い心に導くものではありません。自分の外側ばかりに向いている眼を自己を見詰め直し問い直す内向きの眼を与え、"さるべき業縁の、もよおせば、いかなるふるまいも、すべき"罪悪深重の自己に目覚めさせるものだと言って良いと思います。

昨夜のニュースで植草氏が「手鏡は持参していたが、やっていない、不当逮捕だと」否認している事を伝えていましたが、誤認逮捕であって欲しい気持ちよりも、これを機縁として内向きの眼を養う方向転換を願う気持ちが強い私は、やはり、ファンの一人だったんだと思います。


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No.378  2004.04.12

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第54条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―ただ心が御言葉のごとくならず

まえがき
今日の聞書も信仰と言うものの真実を示唆しているものです。宗教によって信仰のあり方も、信仰者のあるべき姿も異なるものだと思いますので、宗教一般に拡大して申すべきではないと思います。また仏教においても、宗派によりまして異なると思いますので、ここでは、親鸞聖人のお教えでは、と言う前提で言い得る事だと思いますが、信仰する事によって、心が美しくなったり、欲深くなくなったり、死ぬ事が怖くなくなったりするのではないのだと言って良いと思います。

すべての苦悩は我執(自己愛)から生じるのだと言われましても、それでは我執を消し去ることが出来るかと申しますと、出来ません。ご法話でも決して「我執を無くしなさい」とか「煩悩を消し去りなさい」とは説かれませんが、私達は、苦悩の根源が我執とか煩悩だと聞かされますと、どうしても、「何とかして消し去りたい」と思ってしまうものです。そして、出来そうな気もして、努力を重ねます。しかし、出来るはずもなく、逆にその事自体が苦しみとなります。

その消息を書き記したのが、この聞書第54条かと思います。

●聞書本文
御一流の御事、この年まで聴聞申し候うて御言葉を承りへども、ただ心が御言葉のごとくならず、と法敬坊申され候。

●現代意訳
「親鸞聖人のお教えをこの歳までお聞きして参りまして、頭では分かったように思うのですが、どうにも心根がそのようにならないのです」、と法敬坊が言われました。

●井上善右衛門先生の讃解
「心が御言葉のごとくならず」とは、わが心の安心(信)が御教化の通りにならぬと言う意味ではありません。如来の大悲が領受出来ないと言う事ではなく、かえって大悲が徹すれば徹するほど、そのやるせないみ心のほどが偲ばれて、どうか如来のみ胸を傷ましめるようなことはすまい、如何にもしてわが心を改め清め、親の悲心にかないたいという思いが湧く、しかもそれを裏切るわが心を嘆じているのです。

人間の心というものは、まことに底知れぬものであります。聞書第139条には、

口と身のはたらきは似するものなり、心根がよくなりがたきものなり、涯分(がいぶん、身分相応の境遇と言う意味)心の方を嗜(たしな)み申すべきことなり。
とあります。口と身の振る舞いは何とか一致させることが出来もしようが、処置し難いのは心根であります。この心根を如何にすべきか。それが人間の道徳的反省や努力で処置できるのであるならば問題はありません。如何ともなしがたい底知れぬ暗さをもったのが人間の心です。だからといってその得体の知れぬ心をそのまま放置しておくことは出来ません。ここに聞法の根本問題があります。

世には往々にしてその始末しがたい心が仏に是認され許されて安堵するがごとく思いなす人が多いのですが、如来の悲心は決してわれわれの迷妄心をそのままそれでよしと肯(うけ)がわれているのではありません。「そのままの救い」と言う事が、もしそうした意味であるならば、それは結局、迷妄の心をそのままの状態で仏心の中に包含して置くということになりましょう。それは真の宗教的廻心の事実ではなく、脳裏に描かれた摂取の画に過ぎません。

その迷妄の心を哀れみ悲しみ「大施主となって諸の貧窮を救う」と誓われているのです。そして大悲と共に智恵の光明を迷妄の心に送り届け、ここに不思議な心の転換と統一とを成就して下さる。親鸞聖人が「難思の弘誓は難度の海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」と申されたのがそれであります。

あとがき
先週の木曜コラムでご紹介した五木寛之氏が、教本の中で、「断っておきますが、宗教に帰依しても不安は減りません。苦しみは軽くならない。しかし、何のために自分がどこへ行こうとしているのか、ということだけは見えてくる」と言っておられますが、これでは「不安はなくならないし、苦しみもなくなるどころか軽くもならないのなら、信仰の意味はないじゃないか」と言う疑問の声が聞こえて参ります。誤解を生じるご表現では無いかと案じております。

五木氏は、その後に「宗教の功徳は、必ずしも病気を治したり、成功したりという、現世利益を与えることだけではない。目に見えない人間の不安というものを、しっかりと後ろから支えてくれる無形の"ちから"です」と付け加えられていますので、「宗教に帰依しても、不安はなくならないが、不安に引き摺られてしまうことはない」と言う事だと思います。

また一方、井上先生がおっしゃっている事は非常に重要です。「仏法を聞き進んでも、煩悩は簡単になくなるものではないから、もうこのままで良いのだ」と、誤って解釈する人もいる事も確かです。「そのままで救われる」と言う解釈です。

「そのままで救われる」と言う表現は決して間違いではありませんが、それを凡夫の私が申しますと、それは救われていない証拠と言うべきだと思います。「救い難い凡夫」と言う自覚があってこその、「そのままで救われる」と言う事だと思います。

こうして、言葉で信仰の奥義を云々し始めますと、だんだん信仰の真実から離れてしまう気が致します。青山俊董尼に『苦しみが私を救う』と言うご法話がありますが、一般的には、「私を苦しみから救い上げて欲しい」と言うのがあたり前ですが、「苦しみが私を救う」というのが、仏教の立場であると申して良いと思います。


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No.377  2004.04.08

乾いた時代に

今週の月曜日から、NHK教育テレビの『人間講座』(午後10:25〜10:50)と言う番組で、作家の五木寛之氏の「いまを生きるちから」と言う講座が始まりました。

第一回の『日本人の忘れもの』で五木氏は、平成10年から急増し、5年連続3万人を超える自殺について考察し、「いのちの軽い時代」になった背景が敗戦後の私達日本人が占領アメリカ軍の指導の下、触れれば手にカビが生えそうな湿った人間関係や家族制度から離れ、乾いた明るい社会を目指して走り続けたところにあると分析されています。

そして、明るさ、笑い、ユーモア、そう言った知性の働きを高く評価する一方で、悲しむ、歎く、惑う、絶望する、泣く等と言う感情は封建的で古い遺風として軽蔑され排除されて来た結果の乾式社会の中で、そこに暮らす私達の心が、しだいしだいにカラカラに乾燥し、自分の命も他人の命も軽い時代になったと言う結果が自殺者の急増に顕れていると言う訳です。

「このカラカラに乾いた日本社会は、水を注ぐ事によって潤いとみずみずしい命を甦らせ、命の重さを回復させる事が出来る。この事によってしか年間3万人以上という自殺大国から抜け出す道は無い。その水とは、人間の"情"と"悲"と言う感覚ではないか」と五木氏は結論付けておられます。

五木寛之氏は、浄土真宗系の大学で学ばれた事もあり、最近は『他力』と言う著書も出されており、「いまを生きるちから」は信仰心から湧き出るとお考えだと思われますが、そのような結論にどのように導いて行かれるのか、私は興味深く思っております。

さて、自殺者数が、平成10年以降に急増し、年間3万人以上が続いていると言う事は、間違いなくバブル崩壊、資産デフレによる企業の破綻とそれに伴う家計の破綻によるものだと思いますが、家計の破綻・生活の苦しさは、何もこの10年に始まったものではありません。大昔から民衆は度々、戦争や飢饉と言う形で遭遇して来たものである事を考えますと、これが現在においては自殺と言う結果に至っていると言うのが、この乾いた時代を象徴しているものだと思います。

私も零細の製造業を営み、平成4年からずっと心休まることのない苦しい経営を続けて参りまして、平成12年からは、主な仕事が中国に取られ失うと言う決定的な経営危機に遭遇し、更には今年の1月には僅かに残った仕事も失うと言う事態になりましたので、特にこの4年間は頭から倒産・自己破産と言う文字が消えた事が無く、自殺と言う文字と隣り合わせの毎日でした。

しかし、幸い私には、精神的にも、金銭・物資的にも励まして下さる方々の存在がありましたから、決して孤立無援ではありませんでした。もし、誰一人声を掛けてくれる人がいなかったと致しましたら、私も自殺と言う選択をしたかも知れないと思っています。

最近では、鳥インフルエンザの浅田農産の会長夫妻の自殺報道が痛ましく思い出されますが、恐らくは、マスコミの鋭い追求を昼夜分かたずに浴び続ける状況の中、身内親戚も含めて、誰一人として、慰めも励ましの声もかけなかったのではないかと推察しております。

浅田農産の会長・社長親子が、鳥インフルエンザの疑いを抱きながら報告もせずに出荷を続けてしまったと言うのは事実なのかも知れませんが、報告即ち出荷ストップ即ち倒産と言うシナリオを前に逡巡し、結果的に手遅れになったと言う事を、一般の人々は非難出来ても、私も含めて世の経営者は非難出来るものではないと思います。
ただ、「私があの立場なら・・・・?」と自問自答した時、私も同じ結果を招いたかも知れないと思う反面、私は自殺を選ぶ事にはならなかったのではないかとも思いました。

それは、何故かと申しますと、私には幸いにも、損得・利害を超えた関係で結ばれた友人がいるからだと思います。決して多くはありません、1、2、3と片手にも満たないのですが、自己破産寸前の私から遠ざからずに、むしろ近寄って来てくれて、慰め励まし続けてくれた人がいるからです。

正直に申しまして、利害関係で結び付いていないと思い込んでいた友人の多くも疎遠になってゆきました。そして、利害関係のみの付き合いであった金融関係は手の平を返し、わが社の技術で一儲けしようとしていた企業も距離を置き始めてゆきました。まさに乾いた関係を嫌と言うほど体験致しましたが、それだけに、むしろ近寄り、寄り添って慰め続けてくれた人の存在は、その存在自体が大きな励ましになりました。

その方々の存在のお陰で、私達夫婦は、どん底の中にも、かすかな希望の光を求めて立ち上がる勇気を持てたのだと思っております。

乾いた人間関係に潤いをもたらす水の役割を果たすのは"情"と"悲"であると五木氏は言われていますが、利害・損得を離れた心が"情"であり、落ち込んでいる人に寄り添い、悲しみを共有して慰める情が"悲"だと思います。この4年間の苦境は、2度と経験したくないものではありますが、この苦境から私は、仏教が説くところの人間としての在り方を心に刻み付ける事が出来たと言う思いが致します。

この乾いた日本を潤いのある社会にするのは大変だとは思いますが、私は友人から学んだ"情"と"悲"を、自分の出来る範囲で社会にお返しする事で、一滴の水となりたいと思います。

NHK教育テレビの五木寛之の「いまを生きるちから」に関しましては、下記のホームページをご参照下さい。なお、テキストが書店で販売されております。
http://www.nhk.or.jp/ningenkoza/200404/mon.html


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No.376  2004.04.05

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第52条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―称名は勇みの念仏なり

まえがき
私の母は何かにつけて、「なまんだぁーぶ、なんまんだぶつ」と念仏を称えていました。しかし称えると言う感じではなく一つの呼吸みたいなものでしたが、今思いますと、嬉しい時、悲しい時、苦しい時、心静かな時、それぞれの時における自分の想いを念仏に溶かし込んでいるような感じでした。

母は48歳で未亡人になり、5人の子供を育て上げ、80歳で亡くなるまで、経済的な苦労、子育ての苦労、人間関係の苦労、そして最後は老いと言う苦労と闘い続けた訳ですが、すべて念仏一つで乗り越えていたんだと、今にして思われます。

おそらくは、嬉しい時の念仏よりも、苦しい事や悲しい事があった時の念仏の方が断然多かっただろうと思います。苦しいから助けて下さいとか、悲しいから救って下さいと言うお願い事の念仏もあったとは思いますが、苦しみや悲しみを通して仏様の本願を確信し、本願に勇気付けられる喜びの念仏ではなかったかと思います。

●聞書本文
「憶念称名いさみありて」とは称名はいさみの念仏なり、信の上はうれしくいさみて申す念仏なり。

●現代意訳
覚如上人が『報恩講式』と言う書物の中で「憶念称名いさみありて」と言っておられるけれども、称名そのものが勇みの念仏であり、信心を得た後は、喜びに満ちた力強く称える念仏である。

●井上善右衛門先生の讃解
この条は、恐らく前条(51条)に続いて法慶坊の語を記録したものと思われます。すなわち法慶が蓮如上人の仰せが深く心に印象されたところを伝えたものでありましょう。「憶念称名いさみありて」と言うのは覚如上人の『報恩講式』の中に出る言葉でありますが、そこでは、

至心信楽己れを忘れて速やかに無行不成の願海に帰し、憶念称名精(いさみ)ありてとこしえに不断無辺の光益にあづかる・・・・
と述べられています。即ち願海に帰し摂取の光益にあづかる人の念仏の様相を示した言葉です。「憶念」はこころ、「称名」は口称、口も心も一つになった念仏の姿を「いさみありて」と語ってあるのです。"いさみ"に精の字が当てられているのは精進精励(しょうじんしょうれい)の生き生きとした躍動の意を語るものでしょう。ところが今『聞書』ではその言葉を承けて「称名はいさみの念仏なり」と殊更ら称名が取り上げられているのに注目せしめられます。称名が意識的に力を入れて称えねばならぬ重荷になったり、念仏が弱弱しい敗北者の歎声となることがしばしばあるからではありますまいか。これに対して「称名はいさみの念仏なり、信の上はうれしくいさみて申す念仏なり」と強くただされている趣が感受されるのです。そうたどって来ると、ここでの"いさみ"はむしろ"勇み"と言う字が適切のように思われます。

●あとがき
今日からアップした井上先生のご法話『摂取不捨(せっしゅふしゃ)と生甲斐』も参照して頂きたいと思いますが、その中で井上先生は、『仏教とは何かといえば結局「摂取不捨」だと申してよいと言う気が致します』と述べられていますが、摂取不捨とは本願であり他力の働きですが、南無阿弥陀仏は、その摂取不捨を確信せしめられた瞬間の悦びと感謝を表す一つの表現だと思います。その想いと無関係の南無阿弥陀仏は、本当のお念仏ではなかろうと思います。勇みの念仏と言う事は、そう言う事だと思います。


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No.375  2004.04.01

回転ドアの死亡事故に想う事

痛ましい死亡事故が発生した。それも最も近代的ビルと思われる六本木ヒルズのビルで発生した事故である。一流企業と言っても良い、三和シャッターと森ビルが起こした死亡事故であるが、詳しい経緯・事情は定かではないものの、三和シャッターと森ビルが安全第一主義ではなく、儲け第一主義、効率第一主義の経営を続けて来たと言う事は間違い無いと思う。

普通の企業ならば、たとえ中小企業でも、事故が起こらないように、KY活動と言う安全啓蒙活動を行っているものである。KYとは、危険(KIKEN)予知(YOCHI)のイニシャルを取ったもので、危険予知とは、「もし・・・・となった時にはこんな事故が発生する可能性があるのではないか」と、危険を前以って探して予防措置を取るための活動であるが、探すとなると見つけ出すのは案外と難しいものである。

しかし、今回の事故は、既に32件もの重要事故を起こしていたと言う過去の経緯があり、KY活動以前に問題が既に明らかになっていたものである。普通の企業なら、1件の事故が発生した時に完全な対策を求めて必死になるものである。両社の安全管理システムは、多分死亡事故でない限りは経営トップまで報告が行かないシステムではなかったかと思う。いや経営トップまで報告が行っていたにも関わらず、完全な対策を行わず、効率主義を貫いた可能性の方が高いかも知れない。

実に信じられない、とんでもない企業である。しかし、三菱自動車の死亡事故を含む度重なるリコール問題、鳥インフルエンザ事件、雪印食品、日本ハム事件などを考え合わせると、現在生き残っている日本企業は善悪を無視した利益至上主義のとんでも無い経営が行われている可能性が高い。

しかし、今回の死亡事故だけに限らず、私達の社会は、死なないと動かない社会である事も確かである。イラクやイスラエル・バレスチナ問題を思うと、極端に言えば、多くの人命が失われても、また失われようとしていても、解決しようとしないのが人間社会であると言うべきかも知れない。一概に、三和シャッターや森ビルを厳しく責める訳にもいかなくなる。

自分の死が目前になって初めて、死の重たさ、怖さが現実になるのではないかと思う。他人の死は飽くまでも他人の死、自分は未だ死なないから怖くも無いし、対策もしない、心構えも持たないと言うのが、私達凡夫なのではないかと、今回の死亡事故を痛ましく思いながらも、自省せざるを得なかった。

常に死と隣り合わせである事を否定する人はいまい。しかし、常に死を意識して行動すると言うのも異常ではある。だが、死を全く意識から消して人生を渡るのは、他の動物と変らないではないか、こう説くのが仏教である。お金儲けだけに頭を使う、名誉を勝ち取るために神経をすり減らす、他人の命を何とも思わない人生を否定するのが仏教である。せめて1週間に1回位は、自分の命、人間の命の尊さ、生命の尊さを思い、正しい人生を歩んでいるか、悔いの無い人生を歩んでいるか、自己を問い直したいと思う。

仏教が求める正しい人生とは、利他(りた)である。周りの人の為に役に立つ、社会の役に立つ生活である。人の役に立つ事を考えずに、我が利益のみを主張する人や企業が多い、これを我利我利亡者(がりがりもうじゃ)と仏教では言う。


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No.374  2004.03.29

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第51条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題― 聴聞はかどを聞け
まえがき

浄土真宗では、法話を聞く事を聴聞(ちょうもん)と言います。『仏法は聴聞に尽きる』と言うようにも申します。しかし、聴聞と言うのはただ単に一般世間の世間話や講釈を聞くのと同じ姿勢ではいけないと言うのが、今日の聞書の主旨です。

浄土真宗の法話をされる方々の中には、「何も考えずに、ただ聞くだけでよい、聞き進むうちに自然と分かるものだ」と説かれる方もいらっしゃいますが、「凡夫の計らいを捨てて、真っ白な気持ちで聴聞しなさい」と言う意味合いだと思いますが、誤解を受け易い言葉だと思います。

今日の聞書に"かど"と言う言葉が使われていますが、この"かど"というのは角とか稜と言う字が当てられますが、物には角(稜線)があるので形が定まりますから、"かど"はものに一定の決まりを与える要点の意味に捉えられます。

表題の『聴聞はかどを聞け』と言うのはただ聞くだけでなく仏法の要点を聞けと言う事です。

●聞書本文
法慶申され候。讃嘆のとき何も同じように聞かで、聴聞はかどを聞けと申され候。詮あるところを聞けとなり。

●現代意訳
法慶坊が言いました。聞法する時は、一般の世間話や講釈を聞くときとは違って、仏法の要(かなめ)を聞かねばならぬと言われました。所詮すなわち仏法の根本究極の真実のありどころを聴聞からこの身に受け取らねばならないと言うことです。

●井上善右衛門先生の讃解
さて仏教の"かど"とは何でしょうか。他をもって替えることの出来ない根本問題は何でありましょうか。
いかにわれわれの生活が物質的に豊かになっても、それで人間の生の問題が解決するのではない。生の前に立ち塞がっている死が生に対して底知れぬ問題をなげかけてくるからです。さらに生は生自らの意味を問い続けて止みません。「何のために生きているか」という疑問が切実な心情になって問いかける。この心情は何といえばよいのか、一種の生命的感覚とでもいうべきものでしょう。その生命的感覚を理屈で癒すことは出来ません。

時至って死ねば、死など問題ではないという人がある。それはその人に未だ死に対する本当の感覚が生じていないからです。決してそれで真に悔い無き生活をしているのではない。何かおぼつかないものがつき纏(まと)いながらぼんやり生きているに過ぎない。問題が潜んでいても霧につつまれ意識にのぼらない。だから問題がないように思う。問題ではないというだけでは、死を問題としている人の心情には答えられない。信者吉兵衛さんは「私は死んでゆけませぬ」と言って聞法の旅をつづけたという。

宗教を否定する唯物的思想は宗教そのものを克服しているのではない。宗教の"かど"を避けて通っているだけです。問題にせぬのと、問題を解決した状態とは別です。真に問題を解決しているなら、問題にする人の胸中を照らすに足る何ものかがあるはずである。死の問題は、身体的な死にあるのではなく死の意味にあるのです。死を問題にせぬというだけなら、動物は死を問題にしません。だから時が来れば簡単に死にます。人間が死を問題にするのは動物と異なった生を持つからです。死を解決することなしに生の意味を全うすることが出来ないからであります。

●あとがき
私達は、死を忌み嫌います。そして、常に死と隣り合わせであるにも関わらず、死と言うものは頭の中から消え去っているかのように振舞っています。では、死に対する心構えが出来ているかと我が胸に問えば、死は人生の中で最も大きなテーマである事は誰しも否定することは出来ません。

死は、仏教が説く無常と言う真理を象徴するものでありますが、私達が日常思い悩むすべての苦悩は、無常と、無常とは対極にある我が身、我が財、我が名誉、我が愛するものに執着する心とのギャップから生まれ出て来るものです。この苦悩を諦(あきら)めたり、厭(いと)うのではなく、苦悩を苦悩としない世界に目覚める糸口として、限りある我が命が永遠の命に目覚める事を"かど"として、問題意識を持って聴聞を重ねなければ、折角の得がたい生が無駄な死を迎える事になってしまうのだと思います。


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No.373  2004.03.25

鈴木大拙師の『禅とは何か』より

今、私は鈴木大拙師の『禅とは何か』(春秋社)を勉強しています。なかなか難解な内容で、1回読んだだけでは理解出来ませんでしたので、2回目に入っていますが、非常に刺激的な内容だと感じています。奥が底知れぬ程深いと言う感じで、わくわくとする想いも一方であります。今日は、その中から、一般の方々にも分かり易く、また興味深いテーマだと思える、『自力と他力、禅宗と浄土真宗』に言及された部分と、『苦と悟り』に関する洞察部分をご紹介したいと思います。

自力と他力
自力というのは、自分が意識して、自分が努力する。他力は、この自分がする努力は、もうこれ以上に出来ぬというところに働いている。他力は自力を尽くしたところに出てくる。窮すれば通じるというのもこれである。意識して努力の極点に及ぶというと、もうこれ以上はできぬと思うところがある。ここを突破する、いわゆる百尺竿頭一歩を進める(「ぎりぎりのところまでやった上に、さらに一歩進める」と言う意味)というか、とにかく一歩を踏み出すというと、ここに別天地がひらけてくる。そこに自分の意識していなかった力が働き出る。それを真宗の人は他力と名付ける。禅宗のほうでは大死一番(たいしいちばん)ということになる。心理学の立場から言えば同じく心理的経験であるから、その知的立場においてこそ相違すれ、経験の事実においては、同じ現象であるといわなくてはならぬ。真宗といい、禅宗といい、その説明するところは、非常に違うけれども経験そのものを、心理学の上から研究するにおいては、私は何も変ったことはないと思う。これを意識下の精神活動ということに当てはめたいと思う。
心理学というものも、推し進めてゆくと、話は心理を超えて他の世界へ出なければならぬようになる。心理学が宗教か哲学に転じなくてはならぬ。心理学が窮して宗教に通ずるとでもいうべきか。われわれが心理学的に、この意識の底の底まで、奥の奥へとはいって、突き破ったところは、宗教的解釈の領域であらねばならぬ。底の底まで進んで、やがて自力を捨ててしまう、そして捨ててしまったところに、自然に展開して来たところの天地、その天地というものは、やがてまたわれわれの客観界ではないのか知らんと思う。あるいは絶対客観とでもいうべきであろうか。客観と主観、われわれが心理学でも、論理学でも、二つと考えているが、その主観と見ているところの一方の根源を尽くすというと、それがやがて、客観と見ておったところの、他方にずっと抜け出る。
ちょうど、トンネルの入口のようなものである。入口と入口を見ていると、このように見える。ところが、それを一方から底へ底へと突き進んで行くと、向こうと、こちらと、畢竟じて同じところに抜け出るという道理ではないかと思う。そうすると、ここにおいて、自分と天地というものが一つになったという事実が生じる。これを心理学的に説明すると、禅で言う、「打ち抜いた」ということになるのである。


苦しみというようなことも、不平があるから苦しいという心持が出るのである、――不平がなかったら苦しみも何もないはずだ。――あまり完全に出来ていて、何もかも都合がよいと、不平がなくなる、苦しみもなくなるが、したがって人間も亡びてしまうものである。われわれもその環境との関係が、すべ完全に行っていると、生きているのか死んでいるのかわからぬということになる。生きているという時には何か苦しみというものがなければならぬものと思う。これがなかったならば生きているというわけにはいかない。すれば生きておらぬと同じ事になるかも知れない。ある人のいうには、極楽へ行くより地獄に行きたい、苦しみということがあるから、救いということもある、苦しみということがあるから生きているという自覚があるのだというのである。暑いということがあるから、寒いということもあるのである。どうもそうらしい。

ハワイのようなところ、それからアメリカでも、太平洋の沿岸の湿気のないところ、暑さ、寒さの気候の変化のない、年中大した気候の変化がないようなところにいるというと、なんだか物足りないような気がしてならぬ。それでハワイのようなところに、三、四年もいると、とうていハワイから抜け出られないようになる。つまりハワイの人間は死んだようになるわけである。他に行くことができないというくらいに、あまりに変化がないと刺激を感じなくなってしまう。暖かいところにも文明は発達するかも知れないけれども、それが進んだ発達と言うものは寒いところか、少し寒い方に偏した、少し変化のあるところでなければならぬような気がする。生きると言うためには刺激が必要である。刺激は不平を生ずる。したがって苦しむ、苦しむので生きてゆく、まずこんなわけである。いくらか寒い朝でも起きて、身体に寒さを感じて、武者ぶるいもするというところに、生きているというような心持が出てくるわけである。そういうようなことで、人間のこの社会生活のところも、何かやはり生きているというような心持が出る場合には、何か苦しみがないというと、いけないのではないかとも考えられる。その苦しみというものが出る時に、われわれが、本当に生きているという心持になるのである。

そうしてそれと同時に、いろいろの学問が出てくる。世間で悪いことがなくて、いいことばかりのほうがよいと思うけれども、実際の、実利の方向からいうと、やっぱりいいことも、悪いこともなければいけないように思われる。いいことばかりであると、いいことも感じられない。いいという時には悪いということもあるように、これもなければならぬ。とにかく生きているという時に、苦しみというものがついて回らねばならぬし、その時に、われわれはこれではいけない、これから――こうしている所から、もう一つよいほうへ出よう、という気になる。これが苦しみと言うことのもっとも尊ぶべき姿であらねばならぬ。楽しみと言うことだけならば、よくしたいという気がしないと思う。苦しみということがあるから、それをすてて、すなわち現状を打破して、自分のこうしているところから、もう一歩外にぬける、また上にあがるかも知らぬけれども現在の立場を離れて、そしてひとつ他の場所に自分を置いて、そして自分の今居るところから、現状を振り返って見ることができるのが、やはり尊い有難いところで、そこに経験というものが出来るといってもいい。そこで苦しむのである。その苦しみというものがあって、そしてわれわれがその苦しみというものを避けたいと考える、かく考えるところから、向上の生活がある。これが仏教でいうところの苦集滅道、仏教の四諦というのは。ここから考えが出ているのである。

いわゆる欲というものには限りが無い、欠けておれば欠けたで苦しみ、満つれば満ちたで苦しむ。人間は畢竟じて苦しむように出来ているのであろう。苦しみのないようにするには、その欲をとってしまうよりほかに仕方がない。しかしながら、求めてやまぬその欲をとってしまうことは、人間としてはできがたいことである。生きておらぬとか、生きていても血がかよっておらぬということなれば、求めるところはないし、従って苦しむこともなしに済んでしまうかも知れないけれども、人間である以上は、いつも求めるように出来ている。そうして求めて得られなければ、そこに苦しむ、苦しむとそこから何か一つ生きて行く途を求める、すなわち反対の方面に生きて行くことを求める、それで生きているということの価値がどこにあるかという問題が出てくる。われわれがこうして生きていると言うということに、どういう価値があるものかということになって来る。すなわち生きているだけの価値があるか、何のために生きているかという工合に言ってもいい。何のためにこういう苦しみにあわなければならぬのかということに考えてもいい。「何のため」という、ここに宗教経験というものの糸口が出てくるわけである。

そこでその「何のために」ということをいうのは、どういうことかというと、ここに一つのものがある、しかし一つだけ離れていては、すなわちそのままで離れたなりになっている限りは、その一つに何の意味も出てこない。その離れておったものが、孤独という一つの境界を出て、それをもとより容れているところの、より大なるものとの関係、その一つと大きなものとの関係がつくようになると、そこに意味がわかるということになるのである。意味ということは何であるかというと、一つのものと、もう一つの大きな、その一つを離れているところのもの、すなわち部分というものと全体というものとの関係がつくというところに、意味が分かるということになるのである。それで苦しむということは、自分というものだけを離して、自分というものは終極のものであって、これだけのものであって、それで他のものとは、連絡がつかぬということになっている時、ここに苦というものを感じてくるのである。その苦を逃れるということは、自分というものが窮極のものでなくなって、自分というものは、自分よりも大なるものに包まれている、いろいろの関係をその中に容れているものの一部分と見る時に、この苦しみというものから逃れられるのである。そこに意義というものが認められるのである。自分というものがいわゆる全体というものに――神といってもよろしいが、そのものに相関係している。自分は自分だけのものではない、もっともっと大きな全というものに包まれているということ、自分は、より大なる関係の中に居るものであるというふうな自覚が出てくると、そこに一つの宗教経験がある、そうすると苦というものが隠れてしまって、生きているということの意義が分かるということになる。

以上が「『禅とは何か』の中からほんの一部を抜粋したのですが、鈴木大拙師の言葉の使い方と表現に馴れないとなかなか難解ではありますが、前半は、他力とは自力で突き果てたところに発現する働きを言い、最初から他力と言うものは無いと言うことで、禅も真宗も最後は同じ宗教経験だと言う事だと思います。後半は、苦があってこそ人生は生甲斐がある、苦が仏教への糸口とでも解釈してよいと思います。そして、自分という存在は独立したものでは無い、つまり、自分は自分だけで生きているのではなくて、限りなく大きな宇宙の中で、すべてのものとの関係の中で、生かされて生きていると言う事が自覚出来れば、苦というものが消えて行くと言うことになり、これが(禅で言う悟り、浄土真宗でいうところの安心"あんじん"という)宗教経験だと言うことではないかと受け取ることが出来ます。これを端的に表現した言葉として、『煩悩即菩提』と言い表されているのですが、鈴木大拙師は、この言葉の中味を心理学的、哲学的に言葉を尽くして説明してくれているのだと思います。


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No.372  2004.03.22

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第49条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題― 御法談を六人面々異様に聞く
まえがき
言葉というものは心で思う事、頭で考えた事を人に伝える道具です。この言葉があるから楽しい事もありますが、逆に争いも生じます。それは同じ言葉を聞いても、色々な受け取り方があり、誤解が起こるからでしょう。人間の顔形が一人一人異なりますように、心で思うこと、頭で考える事も異なりますし、それを表現する言葉の使い方、言葉の意味も微妙に異なりますから、私の思いをそっくりそのまま相手に伝える事は出来ないと考えるべきでありますが、なかなかそうは思えず、ついつい、他人も自分と同じ考え方をするものだと思ってしまいます。私の常識は相手に取っても常識であると思い込んでしまいます。そういうところから、誤解を生じ、現在問題となっているテロもや、戦争にまで至る事は人間が繰り返している不幸な過ちであります。

講演会で同じ話を聴いても、その人の知識・経験、言葉の解釈で聞き取りますから、1000人が聞けば1000人の受け取り方が生じます。これは致し方ないことでありますが、事が宗教の教義である場合には、致し方ないと済ませる訳には参りません。誤った領解(りょうげ、受け取っている内容)は、一生の不幸にもなりかねません。今日の聞書は、其処のところに焦点をあてて、法話を聞いた後に、自分の受け取り方が正しいものかどうかを、一緒に聴聞した人々と確認し合う事が大切である事が示されています。

これは非常に大切な事だと思いますが、普通はなかなか為されてはいない事だと思います。昔もまた同様であったと思われます。歎異抄と言う書物が遺されているのは、同じ仏法の、同じ親鸞聖人の教えを聞いた人々の中にも、親鸞聖人の教えと全く異なる受け取り方をする人々がいたからこそでありましょう。自分の受け取り方に間違いがあるかないかは、自分の領解を人に披露して、批判を求めねば分からないと思われます。

今日の聞書に付きましては、私が解説するよりも、井上善右衛門先生の讃解全文を転載した方が良いと思いましたので、私の拙い現代意訳も省き、少し長い内容になりますが、そうさせて頂きました。

●聞書本文
山科にて御法談の御座候ふとき、あまりにありがたき御掟どもなりとて、これを忘れまをしてはと存じ、御座敷をたち御堂へ六人よりて談合さふらへば、面々に聞きかえられ候。その内に四人はちがひ候。大事の事にて候ふと申すことなり、聞き惑ひあるものなり。

●井上善右衛門先生の讃解

(1)
「あまりにありがたき御掟どもなり」
は御法談を承って、各自それぞれ深い感銘をうけたことを示しています。「御掟」というのは「仰せ」というほどの意味であります。それでこの有難い御法談を忘れてはならぬと思い、各自の感銘した領解を談じ合うたところ、六人それぞれが違った受け取り方、味わい方をしていた。そして六人の中四人までが正意を得ず間違った聞き方をしていたことに気がついて驚いたと言うのです。この出来事を反省して、たとえ自分では有難く承ったと思うても自分の気付かぬ「聞き惑い」というものがある。もし領解を語り合わなかったら、その聞き違いがそのまま一生の間違いとならぬものとはかぎらぬ。ゆゆしき事である。注意せねばならぬ事だというのです。

そもそも人間と言うものは自分の気付かぬ心の底に個性というものが潜んでいる。それぞれ顔形が違うように心が違う。顔の違いは眼で見えますが、心の相違は見ることが出来ない。しかも顔形とは比較にならぬほど心の違いは大きな働きを演じているのです。

顔の形にしても心の違いにしてもまことに不思議なことで、もし人為的に違った顔を描こうとすれば恐らく百通りも画けますまい。それが日本人だけでも1億の違った顔があるのですから驚かざるを得ません。それにも増して、心の性質や働き方がさらに微妙不思議な相違をもって働き続けて様々な出来事をつくり出しているのです。しかも人間には、その個性が潜在的な我性(自己中心の我執)に結合しているのですから、それを思えば人の世がなかなか思うように纏まらぬのも当たり前の事といわねばなりません。意見一致して円満に事が運ぶ方が不思議といわねばなりますまい。

(2)
さて仏法という一大真実に耳傾ける機縁が奇しくもおとずれて、仏心の大悲を聞く身になっても、千差万別の心をもって聞くのであれば、さまざまな受け取り方がわれ知らず現れてくるであろうことは想像に難くありません。だとすれば一味の心というものは、期待出来ぬことになるでありましょう。人それぞれの考え方、感じ方が違っていて,しかもそれを各自が固執して、自分の受け取り方や味わいを総てとして腰を据えている事になると、表面的には同じ教えに帰しているようでも、その心底は遥かに異なったものとなりましょう。これをただす道はただ一つ、同行同朋の人々が自己の一大事を念頭におくと共に、互いに相寄り談合して自己の気付かぬ執われを見出すより外ありません。蓮如上人はとくにその事を強く戒められておられます。

前々住上人、御法談已後、四五人の御兄弟へ仰せられ候。四五人の衆寄合い談合せよ。必ず五人は五人ながら意巧に聞くものなる間、能く能く談合すべきの由仰せられ候。(第119条)
ここに意巧(いぎょう)というのは独特な文字のつかい方で本来意巧という熟字があるのではない。当時こうした言葉が用いられたのでありましょうか。意はこころですから、こころ巧みにということになる。即ち、わが好むところに合うように、巧みにうまく自分の都合のよいように聞くと言うことになりましょう。とかくわれわれにはこうした深い傾向性が心の奥深く潜んでいるものです。同じ事を聞いても、嫁は都合のよいように、姑は姑に都合のよいように聞き取る。自分に勝手のわるいことは上手に素通りして、これを我が身にあてて厳正に吟味することはしない。そうした事が意図的にされるのではなく、自然に自分にも気づかずにされることを思うと、われわれの心は決して白紙ではなく意識の深層に潜在的な我性の核が厳然として働いている事が知られるのです。

仏法を聞くということは、この我性に覆われた迷いの世界を超えて、真実の光に浴することであります。それを我性に執われて意巧に聞くという事は、あるべからざる己れに化されている悲しむべき状態といわねばなりません。

(3)
さらに第137条には重ねて同じ戒めが述べられています。
一句一言を聴聞するともただ得手に法を聞くなり。ただよく聞き心中の通りを同行に会い談合すべきことなり。
ここでは「得手に法を聞く」という言葉が使われています。それはまったく先に述べるように、わが身に都合のよいような勝手な聞き方をすることです。自己の執われを照らす教えを自己の執われによって得手に曲解し、自己中心の執を増長するということは、実に悲しい人間の迷いです。如何にしてこの深抗から自らを救うべきでしょうか。第一には先に示されてあるように同聞の人々相寄り談合してその相違を見出し、何故に自分はかく聞き、彼はかく聞かぬかを吟味内省する必要があります。第二には常に自分を覆うことなく隠すことなく、ありのままにわが心をさらけ出す心が必要であると申されています。
何としても人に直され候ふやうに心中をば同行の中に打出しておくべし・・・(第107条)
この心掛けは極めて大切ではありますが、またそれだけ至難でもあります。われわれは常に自分を良く見せたいという心で一杯ですから、自己の正体うち出して人の批判に耳傾けるという広く大きな心にはなかなかなり難いものです。しかしこの事がなし難いと解れば、それだけわが心の底に執我心が如何に根深く巣食うているかを気づくことが出来ましょう。それは人間にとって極めて貴重なことです。

何故なら既にそのとき、自己を照らす鏡が身の中に働きそめているからです。法然上人の「松影の黒きは月の光かな」という句も、その尊さを示された言葉でありましょう。この時、人間は本当に人間の位置に立たしめられるのだという思いがします。批判という事はこうした位置に立ち得て初めて可能となるでしょう。現代の批判は、人間が批判する資格に立たずして批判を行おうとしているかに感じられます。それは批判ではなくして攻撃というべきものに過ぎません。

(4)
ではこのような自己中心の執我が照破され、摂取の中に仏心を領受することになれば、総ての人々が一つの心で生活するようになるかというに、なかなかそう簡単なものではありますまい。もとより大悲のみ旨(むね)を仰ぎ、仏恩の深重(じんじゅう)なることを常に仰ぎまいらすという点においては、いささかの違いもないでありましょうが、さりとて人間の個々の性格まで消え去って総ての人の現実の生活や、内面生活までが一致するとはいえますまい。

ただ以前と異なるところは、かつては個性の違いが争いの種になっていたのが、不思議な"やわらぎ"に統一されてくるということです。たとえば今まで、梅が桜の香りなきをそしり、桜が梅の花の貧弱さを嘲っていたのが転じて、桜は梅の馥郁(ふくいく)たる香りを称え、梅は桜の絢爛(けんらん)たるを仰ぐというふうにかわって来る。いろいろな花の個性があってそれでこの世は楽しいのでしょう。そのように人間もそれぞれの性格が光を放つことが出来るようになってこそ、人生は豊かに面白くかつ立体的に荘厳されます。『経(阿弥陀経)』に「青色青光、黄色黄光、赤色赤光(しょうしきしょうこう、おうしきおうこう、しゃくしきしゃっこう)」といわれてあるのもそうした光景を語るものでありましょう。

個性を確執すれば必ず争いのもととなる。このように固執された個性の見解を仏教では「見取見」といわれています。見取見(けんしゅけん)とは自己の私見を絶対のものと執取する見解という意味です。これは悪見(間違った思考)の一つに数えられているもので『成唯識論』では見取見を『闘諍の本』と規定しております。

平和を叫んで闘争が絶えない。そこに現代の特徴的な時代相を見る思いがするのです。それというのも理論面だけが独走して内面の本質は執我のままに止まっているからでありましょう。相対的な人間が絶対を期することはできない。しかるにそれを絶対的なものと主張することになれば、その結果はおして知るべしです。ところがその相対的な個性が固執から解放されると、相互に助け合い、それぞれの特徴が全体の統一を推進する役割を果たすように転ずるのです。この統一と調和の活力となるものこそが仏心の領解であります。反対にそれを各自の執によって得手に受け取ることになると、それはまさに聞法しながら反対の道を自らたどる結果に陥ります。まことに心すべき戒めといわねばなりません。

●あとがき
この無相庵コラムは、今年の7月で丸4年となります。始めた時には、こんなに続ける事になるとは考えておりませんでした。何となく始めたのですが、始めた翌日に経営危機が降って沸いて来まして、この経営危機との闘いをコラムにして行こうと思いながら続けるうちに、いつしか仏教コラムになりました。
そして、このコラムは、人への励ましではなく、自分自身への励ましとなり、また励みとなって、私の精神的な救いとなっているように思います。

自分の仏教の領解を公に披露するのは、実はかなり決心がいることでありました。本格的に勉強して来た訳ではありませんので、間違いがあっては、世間に害を垂れ流す事にもなりかねませんので、躊躇する部分もあったのですが、今日の聞書を知って、自分の領解を発表することは、決して間違いではないと救われる想いが致しました。発表せずに、一人よがりで済ませておく事の方が、取り返しの付かないことになるのだと思い直しました。

どうか、コラム読者の方も、私の領解に対しましての感想、或は、間違いのご指摘を掲示板にでも結構ですので、ぶつけて頂きたいと存じます。そして共に正しい仏法の道を切り開いて行けたらと思っております。宜しくお願い致します。


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No.371  2004.03.18

高橋尚子選手の事

シドニーの女子マラソン金メダリストの高橋尚子選手がアテネを逃した。恐らく、現在の女子マラソン界で、2時間15分25秒と言う世界最高記録保持者であるイギリスのラドクリフ選手と闘えるのは高橋選手しかいないと思われる中、日本陸連は、苦渋の選択ではあっただろうが、何処からも非難されない順当・常識的な結論を出したのだと思う。

私も高橋選手にとっては良い結論だったと思う。ひょっとすると選ばれるかも知れないと言う期待は抱いていたかも知れないけれど、選ばれなくて良かったと思う。もし選ばれていたら、陸上競技の世界で孤立したに違いないし、失うものは金メダルよりも大きかったに違いない。その上にアテネでも実力通りには走れなかったと思う。

しかし、後味は決して良くは無い。高橋選手が選ばれていても後味は良くなかったのだと思うが、何故後味が良く無いのかを考えるのに、やはり、代表選手を選抜する上で誰が見ても公平なのは、一つの大会で1位から3位までの選手を代表にすると言う方法だと思うのに、わざわざ4つの大会の成績を参考にして3人を選抜すると言う方法を取った理由は何であったかと言う事である。多分、一つだけの大会で決めるとすると、高橋選手のようなメダルを取れる確率が高い選手が当日たまたま体調が悪くて代表に成れない事もあると考えたからだったと思う。オリンピックでメダルを取れる選手を選ぶと言うのが初心であったならば、初心に帰って、高橋選手を選抜しても、筋は通ったと思うのである。この筋をしっかり主張したのは、小掛氏一人だったようである。

ある評論家の意見であるが、代表に選ばれた3人は、高橋尚子選手との直接対決を避けて、出場大会を選んだと言う見方をしていた。そして、高橋選手が出場した大会には、有力選手は誰も出場していなかったから、高橋選手は、優勝しても代表選手には成れないと考え、記録に挑戦するしかないと思い、結果的に気温が高く、強い逆風の前半に無理をして体力を消耗したのだと言う訳である。そしてそれが35キロ過ぎのブレーキに至ったと言う見方である。多分その分析は当たっていると思う。高橋選手はそう言う言い訳は一切していないが、選考に際して、それらの状況を勘案し、メダルを取れる選手を選抜すべきではなかったかと言う意見もあっていいと思う。

人間の社会では、何が正しいと言う事は言えないと思うが、世間一般の流れに従う事だけが正しい道では無いと思う、スポーツ界の問題だけでなく、政治の世界、国の進むべき道の選択に当たっても、初心に帰ってルールを決めた基本理念に戻る事も忘れてはいけないのだと思う。

今回の結果は、高橋選手と小出監督の過信から来る、大会前の調整間違い、そしてレースの体力配分間違いと言うミスだったのではないかと思うが、恐らく、今回の代表選考漏れで、高橋選手は過信の怖さが骨身に沁みたはずであり、精神的にも肉体的にもより強い選手になり、4年後の北京オリンピックでは堂々の金メダリストに返り咲くものと思う。もし、アテネに選ばれていたら、高橋選手は選手生命をアテネで失う結果になったのではないかとも考えられる。過信は失敗を招き、失敗は成功の基と言う事を高橋選手が身を以って示して欲しいと願うばかりである。

法話コーナーで常岡一郎師の『運命の冷蔵庫』の話を紹介していますが、今回の挫折は、高橋選手にとっては、本当の金メダリストになるための試練だと思います。彼女の記者会見での潔いコメントと笑顔は、それを予感させるものであった。 法話コーナーから『運命の冷蔵庫』を下記に引用しました。

●運命の冷蔵庫
鮮魚や野菜が腐らぬように冷蔵庫に入れる。冷凍にして保つこともある。それは新鮮なものを大切に思うからである。次の大切な御用に立てたいと思うから冷蔵庫に入れる。腐らないように処置するのである。
人間の心も順境に馴れて腐る。それを惜しむから神はその人を逆境におとす。運命の冷蔵庫に入れるのである。神も仏もないものかと、冷酷な運命を呪う人がある。一生懸命にやっていてもなおかつ不自由する。苦難や欠乏や不運がくる。冷たい運命に包まれることがある。これこそ冷蔵庫入りではないだろうか。よほど大切な次の御用が待っているのだと思う。

神や仏があればこそ、腐り易い心を惜しんで冷蔵庫に入れて下さったのである。神も仏もなければ、冷たい運命は与えられない。なまけて腐り放題になる他はない。運命の冷蔵庫。そこには次の、来るべき日の役に立てたいという親なる神の思いがある。

偉人と謳われ、聖人と仰がれた人の生涯には。常に運命の冷蔵庫があった。天のまさに大任を下さんとするや、まずその人に苦難を与える。そうしてその志を縛るといわれている。それが運命の冷蔵庫である。人間はとんとん拍子に都合よく行く時は、天の恵みがあるように思う。しかし本当は、魂が腐りやすくなっている場合が多い。本当に可愛いものには、冷蔵庫の恵みを与えるはずである。

おごる平家は、栄華に馴れて腐ってしまった。天下を二分して兵馬の権をあずかっていた源氏の一族は、追われて住む国もなかった。兄頼朝は幼くして伊豆に流された。義経も範頼も追われ追われて、三人の兄弟は散り散りになった。別れ別れに世をしのんだ。天も見捨て給うのか。源氏の公達のこのあわれな姿に家臣は泣いた。その間の平家の公達は腐って、次の用には立たなくなっていた。次の時代は源氏に任される日が来た。運命の転変、歴史の流転、それを見れば冷蔵庫の有難さがわかる。失敗や逆境は少しも恥ずかしいことではない。人生、その道すがらにはどんな日もある。その冷たい運命におびえて手も足も出ず、魂まで震え上がって、いじけることが恥ずかしいのである。

鰊(にしん)は燻製にされる。煙にいぶし上げられて腐らないようになる。嫁に行って姑や小姑にいじめられるのは燻製にされているのである。実家の母が引き取って甘やかしては、神が与えた燻製の教が失われる。

唐辛子をつけたり、酢につけたりする。辛酸にひたるのである。他日の大成を期するためには、日夜辛酸をなめることもある。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の苦しみが、志を固める道である。

生々しいものの腐らぬもう一つの道は、塩漬けにすることである。しっかり塩につけておくと腐らない。聖人、君子、偉人の教えに浸るのが、心の塩漬けである。塩はその身をこの世から消して、人の世の味付けとなり、命となるのである。教祖と仰がれ、宗祖と慕われる聖者の一生は、己れを忘れて人の世の塩となられたものである。

長い病に心の倒れた人、重なる不運に心の腐った人、夫の不倫に泣く妻、世の中には多くの悩む人がある。味気ない人生を歩んでいる人がある。味が無いものは、肉でも魚でも野菜でも、美味しく食べられない。塩は味なきものに味をつけて食べられるようにする。聖者の生涯は、味気ない人生を呪っている人々に、味をつけて下さるものである。その伝記を読み、その苦難の物語を聞くとき、ゆるみがちな心はおどる。奮起する。有り難さ、もったいなさが分かる。ゆるみがちなわれわれは、常に塩に浸ることを怠ってはならない。そうして腐り易いわが心を世の塩となられた偉人の足跡に鑑みて、生き生きと守り育てたいものである。


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