苦しみが私を救う
青山俊董老尼
『どういうご縁で、わざわざ私を呼んで下さったのですか?』
兵庫県の山中で牧場を経営しているK氏の熱心な要請で、講演に出かけたときのこと、現地で初めてお会いしたK氏にお訊ねした。
『牛が逃げましたんや。それを捕まえようとして、"九死に一生"というほどの大怪我をしてしもうて。その入院中に先生の書かれた「美しき人に」という本を見舞いにもらいましてな。その中の"南無病気大菩薩"という言葉に、えろう共感しましたんや。
怪我したお陰でこの言葉と出会い、先生とのご縁も結べて、病気さまさまや』
K氏の答えに、私も感激して言った。
『牛が逃げなかったら、またあなたがそれで怪我をなさらなかったら、私たちのご縁はなかったのですね。
怪我の苦しみのお陰であなたの中にアンテナが立ち、同じ波長の私の病気のお話のところと電波が交流し、それが今日の講演に繋がり、さらに聴いて下さる大勢の方々との出会いへと輪を広げることができたのです。私も病気をしていなければ"南無病気大菩薩"の文章は書けなかったでしょうし、やっぱり病気さまさまですね』と。
ローマ法王の側近としてバチカンにおられた尻枝正行神父と、作家の曽野綾子さんの往復書簡『別れの日まで』(新潮文庫)の中で尻枝神父は、失明の危険も強い両眼手術にのぞむ曽野さんに、次のように書き送っておられる。
『病いや苦しみをそのまま神の贈り物として積極的に肯定し、引き受けることが出来るのは、奇蹟でなくて何でしょう。
この心の転換は、物質的病の治癒よりも遥かに重大なことです。(中略)「私が苦しみから救われる」のではなく、「苦しみが私を救う」のです』
どんな素晴らしい人に会い、その言葉を聞き、あるいは読んでも、受けとめる側の心にスイッチが入っていなければ、その人に会うこともできなければ、その言葉も右から左へと通過してしまい何も残らない。病気のお陰で、病気の苦しみに導かれて心にスイッチが入り、一冊の本、一つのお話の中でも、同じ波長のところ、同じ苦しみのところで火花が散り、出会いが成立し、そこが道へ入る門となり、鍵となるのである。まさに「私が苦しみから救われるのではなく、苦しみが私を救うのである」。
お釈迦様は長いご修行の果てに、天地のまことの道理に目覚められ、その最初にお説きになったと伝えられているものに、苦・集・滅・道の四諦(したい)の教えがある。諦というのは真実というほどの意味で、四つの真実といったらよいであろう。苦諦は苦しみの自覚、集諦(じったい)はその苦しみの原因の究明、滅諦は苦しみや煩悩の炎の消えた安楽の世界、道諦はその安楽の世界に至るための具体的な生き方と考えたらよい。
求める心をおこし、そういう生き方をするようになるためには、教えが聞けなければならない。教えが聞けるようになるためには、アンテナが立ち、スイッチが入らねばならない。そのアンテナやスイッチは苦に導かれて入ると言うのである。求道心(ぐどうしん)をおこせと説く前に、求道心をおこす原動力となる苦の自覚をお説きになったところが素晴らしい。
お釈迦様はよく医者と病人にたとえられた。健康ならば、また、たとえ病気を持っていても病人の自覚がなければ医者にもゆかず、薬も飲もうと思わないであろう。病気の自覚のお陰で、それも病苦がきびしいほどに、まったなしに医者へとびこみ、その言葉を聞き、薬を飲もうとする。これが求道心である。まさに苦に導かれて私か救われるのである。