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No.370  2004.03.15

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第48条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題― 九十まで聴聞して飽足りなし
まえがき

私の母は、80歳で亡くなるまで、仏教法話会のお世話をし、また自分自身も、毎晩仏法のテープを聞きながら眠りに就いていました。テープにも数限りがありますから、何回も繰り返し聞いていた訳ですが、全く飽きないと申していました。
私も、テープにせよ、本にせよ、昔のものを繰り返し聞いたり読んだりしています。恐らく小説も、年齢を経て読み直せば、味わいは変わるものだと思いますが、小説は2度読みすることはありませんし、そう言う意欲が湧きません。何故仏教の本なら何回も読み返せるのかと考えますに、仏法には限りない広さと深さがあるからだと思います。

私は母から200冊を越える仏教書を譲り受けております。戦前に出版されたものを含めて、今では入手出来ない貴重なものばかりですが、まだ半分も読めていません、しかし書棚は楽しみの宝庫のように感じます。
いずれは老衰してそれらの本も読めなくなりましょうが、そのようになってからも、南無阿弥陀仏の念仏を生甲斐として生命を全うされた先輩諸氏がおられます。私もそのように在りたいと思っております。

浄土門の偉大な先輩方は、南無阿弥陀仏が一つあればよいとおっしゃっておられたようですが、それは南無阿弥陀仏に、多くの祖師方やお釈迦様までも含めて無限の空間と無限の時間の歴史と未来を包含されているからだと思います。
実際、法然上人は亡くなられる時に、弟子達が「亡くなられた後は、何処を遺跡といたしましょうか?」とお尋ね致しましたところ、「念仏が聞こえるところが私の遺跡だ」と答えられたと伝えられています。また、親鸞聖人は、「念仏を称えている時は、もう一人一緒に側で念仏を称えている者がいると思って下さい、それは私親鸞です」と言われたとも聞いております。念仏にはその様な歴史がある訳です。

今日の聞書は、仏法こそが生涯を通じての生甲斐になると言う事を示されたものだと思います。

●聞書本文
法敬坊九十まで存命さふらふ、「この歳まで聴聞申し候へども、これまでと存知たることなし。飽足もなきことなり」と申され候。

●現代意訳
法敬坊順誓は90歳まで生きられましたが、「この歳まで聴聞させて頂いて来たけれども、もうこれですべて心得たと思った事はないし、もうこれ以上聴聞する必要がないと思ったこともない」と言っておられました。

●井上善右衛門先生の讃解からの抜粋
老(おい)は有限な人間の避け得ぬ大きな難所です。老の悲哀を喫しない人がありましょうか。それは社会の保障制度で解消しうる問題ではありません。老後のために趣味を持つ事が大切だとよく言われます。それは確かにそうでありましょう。しかし趣味も限りあるものです。なぜなら自己の能力に拠って趣味を嗜んでいる以上、身心の能力が低下してくれば、その趣味をいつまで持ち続けることが出来ましょうか。旅行や娯楽、生花や編み物、結構な事ですが限界が来ます。読書や作歌の楽しみなどはなお長く命を支えるものとなりましょうが、老齢にはうち克ちえないのであります。

仏法に私を導いて下さった師が「八十年何を聞いたか覚えたか南無阿弥陀仏ただ一つ」と誦された一句が思い出されます。『末灯抄』に親鸞聖人が「目も見えず候、何事もみな忘れて候」(第八条)と申されているところに、そぞろ老境の様子が偲ばれますが、しかもその裏に南無阿弥陀仏ただ一つが赫々と輝いていたことが思われるのです。

甲斐和里子女史(京都女子大の創始者で念仏者)が九十を越えられた頃でしたが私に話されたことがあります。「忘れる、忘れる、右から聞いた事を左へ忘れる。筒抜けですな。ところが妙ですな、この度お浄土へ参らせていただくことだけが、だんだんはっきりしてくる。これは不思議ですな・・・」とその実感を吐露されたことが思い出されます。先にも挙げた才市老人(妙好人、浅原才市翁)が、

わしのよろこび虚空のごとく世界のごとく 虚空世界も南無阿弥陀仏 ここに私を住いをさせて下さる慈悲が南無阿弥陀仏
と高らかにうたっているところには、最早や有限な自己は消え去って遍宇宙的な南無阿弥陀仏が躍動しているよろこびが迸(ほとばし)っています。これこそこの世で終わらないものをこの世で得しめられた人のよろこびでありましょう。

●あとがき
日本仏教が死者を弔う儀式と結び付くと言う歴史を持っており、しかも最も信者数が多かったのが浄土真宗であったために、南無阿弥陀仏は一般の人々にとっては死を連想するものになってしまっている事は、真に残念なことです。日本人にとって不幸なことだと思います。

南無阿弥陀仏は、梵語(古いインドの言葉)に当て字をしたものでありますから、恐らくは2000年以上の歴史があると思われます。一般的な表現を致しますと、南無阿弥陀仏とは「無限なるものに帰依致します」と言う言葉です。

死者を弔う言葉でもありませんし、何かをお願いする祈りの言葉でもありません。感謝の言葉でもあり、感動の言葉でもあります。意味は知らないでよいから、兎に角称えましょうと言ってよいような、呪文ではありません。

南無阿弥陀仏の長い歴史を知り、お釈迦様が説かれ、親鸞聖人が説かれた事をお聞きしますと、それらすべてが南無阿弥陀仏一つに収まると言う事になります。禅宗の方々は、坐禅一つに収まると言われる事と同じだと思います。

そうなるには、仏法を聞き続けるしかないと思います。また、聞けば聞くほど聞きたくなるものだと思います。浄土真宗では、「仏法は聴聞に尽きる」と申しますが、聴聞を重ねますと、何れは南無阿弥陀仏一つの中に、それまで聴聞して来たすべての法話が含まれてくる様になるのだと思います。


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No.369  2004.03.11

鳥インフルエンザ

BSE、SARS、鳥インフルエンザと、病原菌がこの地球で猛威をふるっています。このような事は、私が生きて来た60年間では初めてのことですが、ひょっとしたら人類の歴史でも初めての事なのかも知れません。もし、初めての事としたら、これを自然の摂理に逆らって来た人類にとっての自業自得の結果と受けとめる必要があるのではないかと思います。

鳥インフルエンザのニュースがテレビで流れて、私は初めて、卵が私達の口に入るまでの仕組、システムを知りました。そして、私の命が鶏達の命の犠牲の基にあるのだと言う事を実感しました。また、毎日、鶏達の命を私達に代わって奪って鶏肉に加工してくれている人達の存在をも実感しました。そして鶏肉だけではない、豚肉、牛肉、そして魚に至るまで、多くの命の犠牲と、それを生業(なりわい)とされている多くの人々の、決して安らかではないであろう生活の上に、私達の命と生活が成り立っている事をはっきり実感出来ました。

当たり前と言えば当たり前のことではありますが、『命の尊さ』とか高邁(こうまい)なことを言いながら、多くの命を犠牲にしなければ生きていけない我が身、我が存在を問い直さざるを得ません。また、この鳥インフルエンザ騒動は、養鶏業を経営して来たご夫婦を自殺にまで至らしめてしまいました。自殺される十数時間前にはテレビの記者会見で苦渋に満ちた表情をされていた事を知っている者にとりましては、何とも痛ましい事です。

業界も規模も異なりはしますが、経営者と言う同じ立場にある私達夫婦にとりましては決して他人事とは思えません。私がもしあの経営者の立場だったとしたら、即刻鳥インフルエンザを疑い、出荷を停止し、行政に報告していただろうかと考えます時、正直に申しまして自信はありません。数億円、或は10数億円の損失が目に見える状況で、正しい判断は出来なかったのではないかと思います。そして結果として、私達夫婦も自殺を選ばざるを得なかったのではないかと思ったりしています。連日マスコミが容赦なく責任を追及し、世間も、また恐らくは身内に至るまで、一人として味方になる人間はいなかったであろうと思われます。それはきっと『死よりも辛い事』だったに違いありません。ほんの1ヶ月前までは、年商30億円企業の経営者として、人生の成功者として、地元では名士だったはずが、人生まさか一瞬の暗転です。

鳥インフルエンザは、別の意味で、簡単に人の生活と命まで奪うマスコミの残酷さ、人間の残酷さをも私達に見せてくれたと思いますが、何を学び、どのように生きる姿勢を変えるべきでしょうか。

私には即刻答える言葉が見付かりませんが、『「人生、何が起こるか分からない」「私の命は、実に多くの命の犠牲の上に成り立っている」事を認識して、一日一日、生かされている命に感謝して、向き合っている仕事に精一杯尽くすしかない』と言うお釈迦様の教えに立ち返るより外はないように思います。

本日から新しくアップした常岡一郎師の『大自然に学ぶ』は、直接的に私達の生きる指針となるものだと思います。


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No.368  2004.03.08

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第47条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題― 信心に御慰み候
まえがき
今日の聞書は、宗教と道徳、そしてそれらと心の平安についての関係を論じたものではなかろうかと思います。道徳的には許されなくとも、宗教的には許される事があると言うようなことも言われますが、私は、宗教心は道徳心を包含するものだと思っています。道徳は、時代により、国柄により異なるものだとも言われますが、これは道徳と言うものの定義に関わることだと思いますので、これ以上の議論は差し控えますが、私は、宗教心も道徳心も、真実に背く事を排除するものだと思います。真実とは何か、すなわち正しい事とは何かと考えますに、人間の心に本来宿っている「こうありたい、こうあらねば」と言う『良心』だと言ってもよいと思います。

その『良心』を仏教では『仏心』と称していると考えてよいでしょう。そしてこの良心に沿って行動すれば、道徳的にも正しい言動となると思いますが、私のような普通の人間はなかなか良心にのみ従って言動する事にはなりません。それは、煩悩があるからです。貪(むさぼ)り、怒り、愚痴と言う根本煩悩を抱えていますから、咄嗟の判断では、先ずはこの根本煩悩に支配されがちであるからです。

この根本煩悩の源は、『自分が一番可愛い』と言う自己愛、我執と言われているものです。

その我執の心に任せてしまいますと、道徳に反したり、場合によりましては、殺人まで犯してしまいます。しかし、自分の心の奥底に本来宿っていた『良心』に気付き、それが自覚されるようになりますと、何かの言動をしなければならない判断をするときに、その言動は良心(仏心)に基づくものとなり、結果として、安らかな、晴れ晴れとした心になるものだと思われます。

宗教に足を踏み入れた場合に、他人の眼を意識して、間違ったことは出来ないと、言動を自ら縛ってしまい心苦しくなる場合もあるようですが、それは、本当の信心には至っていないからではないかとも考えられます。

少なくとも仏法は、人の心を束縛したりするものではなく、心を広い世界に解放するものであると思います。もし、堅苦しく考えてしまう場合は、その宗派の教義に問題があるか、自分が取り違えているか、どちらかではないでしょうか。

●聞書本文
我が心に任せずして心を責めよ、仏法は心のつまるものかと思へば、信心に御慰み候、と仰せられ候。

●現代意訳
自分の心に任せないで、その自分の心を見詰めなおして常に嗜(たしな)めるようにすべきである、しかし、だからと言って仏法は、心堅苦しいものではなく、信心を得たならば、心安らかで、軽やかなものだとおっしゃいました。

●井上善右衛門先生の讃解からの抜粋
よく一般に聞く言葉ですが、なまじっか仏法を聞いたがために、融通やかけひきが出来なくなって窮屈な思いをせねばならぬ。普通の人のように平気で嘘も言えないし、かえって苦しみを背負うようになる。こうした教えを聞かぬほうがよかったのではないか。などという訴えを耳にすることがあります。もし人間が楽な生き方だけを求めるのであれば、そのような事も言えるかも解らない。けれど釈尊の言葉に、「これは自分のものと思っているものも、その人が死ねばどこかへいってしまう。自分のものにするために夢中にならぬがよい」と言われているのを聞いてわれわれは何と感じるでありましょうか。果敢無い(はかない)損得にあけくれる夢の命をわが一生として安んじうるでしょうか。正しさにかなわぬ生活が如何なる報いを引き起こすかに無関心でありえましょうか。人生で一番みすぼらしい事は真実に背を向けて生きる事ではありますまいか。その事を先ず自らに問いただしてみるべきです。

しかし虚仮(こけ)をいとい真実を願う心がきざしても、その虚仮を離れる事の出来ぬ現実の自己に直面するとき、そのわが心に真実を期することは如何にも苦しい事であり、内心の葛藤にゆきくれて、心のつまる思いを喫せざるをえないのです。愚痴はおろかな事と自ら言い聞かしても、その愚痴は暗澹たる心となって胸を覆います。そしてその暗さからどうしても脱却することの出来ないのがこの私です。虚仮なる心に真実を強うるより外に道なきものであるならば、何と苦しいことでしょう。この私は遂に二つに引き裂かれざるをえないのではありますまいか。

弥陀の本願は、その破局より外にゆくすべのない私のために、凝りて現われられた悲智の結晶であります。破局に陥らせてはならない。汝のすべてを承知している。案ずることはない。汝を摂め取る真実の道は成就されている。ここに南無阿弥陀仏のみ名がある。直に来たってわが願船に乗ずる身となってくれよ。待ちわびている。心配することはない。憂うることはない。その本願のかがやき、よびかけ、やるせない悲心もて抱きとりたまうに触れて、最早何事を言う余地もこの私にはなくなってしまうのです。

古人は「法界ただ無碍光の照護あるのみ」と申されましたが、何と言う広大不可思議な無碍の救いでありましょう。生死のきづなはここに断たれるのです。先の第23条に蓮如上人が「さてさてあらおもしろやおもしろや」と申されているのは、言葉絶え感極まってほとばしった嘆声でありましょう。ここにいたれば、『心のつまる』思いは跡かたが拭われます。つまるとは行き詰ることです。その行き詰る心をこそ摂取の中に融かし流して、ただ赫々(かくかく)たる無碍光の照護と化したまう「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること常におもい出しまいらすべし」という『歎異抄』の言葉もただただわれを忘れて無碍の摂取を仰ぐこころを伝えるものであります。「信心に御慰み候」とはまさにその底知れぬ大悲に触れて、言い様のない安らいとよろこびに心のほぐされゆく体験を語り示されたものでありましょう。

●あとがき
聞書本文中の「我が心に任せずして」の我が心とは、煩悩が燃え盛る心、我執に支配された心の事であり、「信心」の心は、真実に出遭った心、即ち、仏様に照らされた心の事です。

仏様に照らされた心は、軽やか、安らか、おおらか、朗らかな心、何ものをも差別しない心となるのが自然の成り行きだと思われます。仏法を学んでゆく事になって、もし聞書本文の「心のつまる」ものになるならば、お釈迦様の教えから外れたものではないかと疑う必要があるのではないかと思います。
また「心を責めよ」と言う事は、現代意訳におきましては、嗜(たしな)むと言い換えましたが、もう少し堅苦しく表現しますと、「心を統御しなさい、生活態度を自ら律しなさい」と言う事と受けとめたいと思います。近年の仏教では、戒(かい)と言う事をあまり重んじませんが、元々の仏教では在家信者にも5戒(殺生してはいけない、盗んではいけない、嘘ついてはいけない、男女関係に乱れがあってはならない、お酒を飲んではいけない)を与えております。戒は行動を律する規範ですが、これは心を責める事でもある訳です。これは心をつまらせる事にもなる可能性がありますが、信心を得たならば、決して心つまるものではなく、心が平安になるのだと言う、蓮如上人のおっしゃりたい事ではないかと思います。

今日は、私の59歳の誕生日です。私の同期生は、これから順番に還暦を迎え、大半は定年退職となりますが、私は、これからが本番です。2000年の7月から始まった私の経済危機感は今年の1月6日に大底を打ったのではないかと思われます。還暦を迎える来年3月には、完全に危機から脱出していたい、それを念じて「心を責めながら」更に頑張り続けよう、そう思っています。


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No.367  2004.03.04

宗教は必要か?

宗教家であり、哲学者、思想家である鈴木大拙師の講演CDとテレビ放映に触れる事により、初心に還って、宗教は人間にとって何なのか、私達が生きてゆく上で、宗教が必要なのか、必要無いのかを考えることになりました。

石原都知事の著書『法華経を生きる』の冒頭に、「大分以前のことだが、ある大新聞が信仰に関しての大掛かりな世論調査を行った結果を読んで驚かされたことがあります。最初の設問は、あなたは何らかの信仰を持っていますかという質問でしたが、はいと答えた人が全体のわずか20%、無信仰という人が80%弱だった。そして。これから科学はますます進歩していき、人間のいろいろな悩み、例えば癌であるとかなんだとか科学によって解明され淘汰されていくだろうが、あなたは科学がますます進んでいくことと、何かの信仰を持つこととどちらがあなた自身は幸せになれると思いますかという問いには、無信仰と答えた人の内の85%が、信仰を持つ方が人間は幸せになれると思うと答えていました。これは私にとって意外な、というより驚くべき数字でした。先ず第一に、世の中にこれほど色々な宗教があってそれぞれ布教の努力をしているのに、その努力の網にかかってこない迷える羊が世の中にこんなにたくさんいるのかということ。そして信仰を未だ持たないと答えた人にしてなお、そのうちの80%を越す数の人々が、科学を信じないとはいわぬがその限界をちゃんと心得ていて、科学の手の及ばぬ心の問題について気付いている、あるいは自分自身がそれを抱えているということです」と述べられていました。

この著書は、1998年の出版ですから、多分アンケート調査は、バブルが弾けた1993、4年のものでは無いかと推測致しますが、まぁ10年経った今も変らない調査結果になるのでは無いかと思います。それでも5人のうちの1人が何らかの信仰を持っていると言うのは、実感としては少し多いような気も致しますが、私も近所付き合いでは、また友人・知人との間でも信仰についての話は致しませんし、日本国民一般的に信仰を話題にする事を避けている傾向がありますから実体は分からないと言うべきでしょう。

そして、信仰を持っていると言う事についての定義もあいまいだと思います。何かの宗教団体に所属している事を信仰と言うか、宗教に関する講演会があれば聞きに行ったり、テレビの宗教に関する番組は出来るだけ見ていると言う人を信仰していると言う事にするかしないか・・・難しいです。商売が繁昌して欲しい、家族に幸運が来て欲しい、病気が治って欲しい、友達が欲しいと言う動機で宗教団体の信者になっている人をも信仰者として数える事を認めるか・・・・などを考えますと、いよいよ難しくなって参りますから、石原氏が教えてくれた数字は、そう言うことを含んでいると言う事を前提として受け取りたいと思います。結論としては、信仰を持たないまま人生を終わる人が殆どだと言う事ではないでしょうか。

殆どの人が信仰を持たないまま人生を終わる、つまり死んでゆくと言うことですが、本来はどうあるべきでしょうか。結論から申しますと、この答えは誰も出し得ないと私は思います。個人個人がどう考えるかによるしかないと思うからです。私にも兄弟姉妹が4名いますが、全員等しく、仏教徒の母に育てられても、仏教との関わり方においてはそれこそ千差万別です。

私達は、この世で生きる限りは誰しも、種類は異なるにしましても、苦難・苦労・災難には平等に遭遇すると言ってよいと思います。これに対処する心構えにおいて、私は三通りあると思います。

その一つ目は、苦難・苦労・災難を受けた原因を考察し、それらの原因を解消するために、経験と知識を総動員して、知恵を絞り、乗り越えてゆく人々。

その二つ目は、逃れることが出来ない運命だと諦める人々。

その三つ目は、何故私はこんな苦難・苦労・災難に遭わなければいけないのか?何か自分に問題があるのでは無いかと、自分の生活習慣や姿勢、人生観にその原因を求める人々。
第一番目の人々には宗教は無用です。宗教を求めるのは、第三番目の人々だろうと思います。私は第三番目の人間です。第三番目は、間違いますと、信仰を商売とする団体の餌食になります。「先祖を大事にしないから不幸になっている」「住んでいる家の玄関の位置が悪い、直ぐに改めなさい」「名前の字画が悪い、改名すれば運命が変る」「私財を惜しむから逆にお金が入って来ない」とか言って、寄進を求めます。入会費であろうと、寄付であろうと、お金を強制的に求める宗教団体は、私達に本当の宗教を教えてくれるものではないと考えるべきだと思います。

私は、宗教を究極的に突き詰めると、団体ではないと思います。宗教のテーマは、個人個人が、如何なる人生に価値を見出すかと言うことであって、そのテーマを解決するヒントを提供しているのが、聖書であったり、経典であったり、コーランであったりするのだと思います。だから、極論致しますと学習塾みたいな形で数時間、教義を勉強すれば良いのであって、団体に属する必要は無いと思います。

ただ、信仰と言うことになりますと、知識だけではなく、実践が伴わなくてはなりません。すなわち、苦難・苦労・災難に自分自身が潰される事なく乗り越えて行かねばなりません。そうなりますと、私達は、実際に、同じような苦難・苦労・災難を乗り越えられた人に接して、その人格に直接お会いしないと分かりません。言葉とか、文字だけでは分からない『心の有り様』に頷かざるを得なくなると言うのが、本当の信仰だと、私は思います。

法話コーナーの井上善右衛門先生のお話にございますように、「科学は自分の外の世界を観察し検証し解決してゆく人間が見つけた道具、一方、宗教は自分の心の内部を観察し検証し納得してゆく、やはり人間が考え出した道具である」事には変りはありません。

自分の外の世界を観察・検証・解決すると言う点に於きましては、私は、人間以外の動物も変らないと思います。多少レベルの差はあるにしても五十歩百歩だと思います。しかし一方、自分の心の内部を観察し検証し納得してゆくと言う『心の世界』は、人間にしか持ち得ないものだと思います。

そう考えますと、折角人間として生まれたからには、私は、『心の世界』に眼を向ける宗教に依って、この世で遭遇する『苦』を乗り越えてゆきたいと思っています。それが人間の命を貰った責任でもあるような想いも持っています。

しかし、宗教が必要かどうかは、上述の三種類の人生の受け止め方があり、人それぞれである事も確かであり、信仰は押し付けるものではなく、信仰は飽くまでも求めるものだと思う次第です。


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No.366  2004.03.01

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第42条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

先週のコラムでご紹介した鈴木大拙師に関するテレビ放映が昨夜のNHK番組でありました。1963年、鈴木大拙師93歳(亡くなられる2年前)の時に、犬飼道子さんがインタービユーしたものでした。『宗教とは無限への憧れ』とか・・・無限と有限と人間存在との関係、科学と言うものとの関係に言及された内容でしたが、思索と言うことをしなくなった現代人にはかなり難解なお話ではないかと思いました。『私達は有限な命であると自覚しているから死を恐れる、それはすなわち無限の命に憧れていることだ。しかし、この有限も無限も人間が考え出した時間と言う概念によるもので、本来、無限も有限も無いのではないか。真実は、今この一瞬一瞬にしかない。だから一瞬を大切に積み重ねていくしかない』と言うことではないかと、私は考察しました。この考察自体が要らぬ分別だともおっしゃっているように思います。

表題― 一念のこと言い聞かせて帰せ
まえがき
蓮如上人に対する私のイメージは、この聞書を読み出してから変りました。本願寺教団の勢力を飛躍的に伸ばした『中興の祖』と言われる方ですから、生涯、寺を持たれなかった親鸞聖人とは対極にある人格で、かなりの野心家というイメージを持っていましたが、そうではなくて、ただ親鸞聖人の教えを、当時の民衆に正しく伝えたいと言う気持ちを強く持っておられた事が分かりました。

むしろ、多くの信者を集める事が一宗の繁昌ではないと言われ、一人でも真実の教えに導けたらと言う真摯なお気持ちを持っておられました。今日の聞書は、そう言う蓮如上人の仏法を伝える人としての姿勢、人柄が如実に現れていて、大変近しい感じが致しました。

『親鸞は弟子一人も持たない、阿弥陀仏の前では同列の友達だ』とまで言われた親鸞聖人と同様に、師匠ぶるのでもなく、権威をひけらかすわけでもなく、ただ親鸞聖人の教えを広める事にのみ心を砕いておられたことがよく分かります。

●聞書本文
ゆうさり案内をも申さず人々おほく参りたるを、美濃殿「まかり出で候へ」とあらあらと御申のところに、仰に、然様に言はん言葉にて一念のことを言いひて聞かせて帰せかしと、東西を走り廻りて言ひたきことなりと仰せられ候ふ時、慶聞坊涙を流しあやまりて候ふとて讃歎ありけり、皆々落涙まをすこと限りなかりけり。

●現代意訳
ある夕方、何の案内もしていないのに突然多くの人が連絡もなく、また、来意も告げずに、どやどやと、蓮如上人を訪ねて来たので、美濃慶聞坊が「さぁ帰れ帰れ」と言葉荒く追い返そうとしていたところ、蓮如上人が「そんな言い方をせずに、親鸞聖人の御教えの大切なところをお話してお帰り頂いたらどうなのか。私は日本国中を走り回ってでも伝えて行きたいのだから」とおっしゃいました。それを聞いた美濃慶聞坊は、上人のお心に涙しながら、追い返そうとした人々を招き入れ、自分の誤りを謝し、大法を讃嘆して上人のお心を人々に告げ語ったと言われています。その場に居合わせた人々は感激のあまり涙したことでした。

●井上善右衛門先生の讃解からの抜粋
事に慣れると、いつかわれわれは平気になって相手の事は考えず、安易にも無作法勝手な気持ちになる。こうした脱線は決して他人事ではなく、われわれの心の中に極めて起こり易い気持ちです。親しい間柄になれば一層陥り易い出来事で、そのため親子の間でも妙な心の食い違いを起こして悩むことがある。たとえ我が子でも一家を構え独立するようになればなおさらです。古人が「親しき仲にも礼儀あり」といった言葉は、やはり良い人生経験から生まれた貴重な誡めでありましょう。

そのような無作法に対して美濃慶聞坊が思わず腹立て、叱責した。「さあ帰れ帰れ」と言葉荒く追い返そうとしたのです。美濃慶聞坊は幼い時から蓮如上人のお側で育ち、その徳に浴して心から尊敬している上人の事を思い、何と言う身勝手な振る舞いをするのかと思わず、腹を立てた。

美濃慶聞坊の怒りは無理からぬところがあります。しかし怒るということと真にたしなめるということとは同じではありません。怒りの状態をかえりみると、そのとき相手は念頭になく、自分の感情が頭に来ているのです。しかしこれが混同されやすい。そして相手をたしなめるのだと自分の怒りを美化するのです。

もとより感情をともなわぬ叱責はありますまい。しかしその感情が問題です。それがただの煩悩であるならば、その叱責は無意味なものとなりましょう。煩悩は煩悩を激発する。反撥感を引き起こして何の叱責の意味がありましょう。

いま美濃慶聞坊の怒りが、ただそれだけで終わったとするならば、或は無意味な叱責となったかもしれません。しかしその騒ぎをものかげで聞かれた蓮如上人は、それをそのままにされなかったのです。「然様に言はん言葉にて一念のことを言い聞かせて帰せかしと、東西走り回りたきことなり」と申された。そこに上人の至情が迸(ほとばし)っています。それは事にあたって、心が刹那に触れ合う真剣勝負の言葉です。まことにわれわれは「然様に言はん言葉にて・・・・」という上人の仰せを深く胸に銘ずべきです。心次第で言葉が変る。口を同じ動かすなら、美しく力のある言葉を語りたい。

●あとがき
仏教は、大乗仏教と小乗仏教に分類されています。お釈迦様の教えが2種類あるのではなく、お釈迦様が亡くなられて数百年経つと、解釈上の違いや、伝わって行った地域により、2種類に分類される形になっていったと言う事です。

大乗仏教は、中国、朝鮮半島を経由して日本に伝わって来たもので、小乗仏教は、ビルマ・セイロンなどの南方に伝わって行ったものと言われています。そして、大乗仏教は、自分一人が救われればよいと言う姿勢ではなく、他の人も一緒に救われようと言う姿勢で、それを実践する人を菩薩と呼びます。一方、小乗仏教の方は、お釈迦様と同じ悟りを得ようと修行するものです。お釈迦様と同じ悟りに到達したら、当然、他の人にも伝えようと言う事になるでしょうから、結果的には、大乗と小乗は変るものではないと言う考え方もあります。

蓮如上人は、自ら救われ、そして他の人も救われて欲しいと、菩薩行を続けられたのではないかと思います。私は、未だ自分自身が救われていると言う自覚はありませんが、どちらかと申しますと、皆と一緒に救われたいと言う気持ちが強く、こうして、自分も勉強しながら、そして仏法への水先案内人として、このコラムを続けているのだと振り返っているところです。


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No.365  2004.02.26

信じると言う事

写真はバリ島の水色と桃色蓮華です。仏教で蓮華は悟りの象徴とされていますが、悟りにも色々な色があると言うことを自然が教えてくれているのかも知れません。

明日、オウム真理教の教祖、麻原彰晃被告の判決裁判が開かれます。今もあのサリン事件の後遺症で苦しんでいる多くの人がいます。信じる対象を誤まってしまうと、とんでも無い行為に至ると言うことを示した事件ですが、宗教の怖さが現れた事件だと言えるでしょう。

宗教は、詰まるところ、特定の人を信じる事なのだと思います。人が介在しない宗教的信は無いのだろうと思いますが、それ故に宗教も縁によって選らばしめられるものだと言えるかも知れません。私は、私が直接お会いした井上善右衛門先生、西川玄苔老師、青山俊董尼、山田無文老師を通して、その人達が心の底から信頼している親鸞聖人、お釈迦様を信じているからこそ、仏法を信じているのだと思います。オウム真理教事件も、当時の信者の人々は、何かの縁によって麻原と言う教祖を信じる事になり、いわゆるマインドコントロールを受けて引き起こされたものだと思いますが、どう言う教えを信じたのかは分かりませんが、宗教的信を得たと言う点では、私と何が異なるのだろうかと考えさせられました。

科学を持たない宗教は盲目であるが、宗教の無い科学は不具であると言ったのはアインシュタインだったと思いますが、やはり、宗教は人を介して伝わっていくものである事は否定出来ませんが、その教え自体に永遠性がなければ、言い換えますと科学的真理との接点がなければ、信じる事は出来無いのではないか、また、信じてはいけないのではないかと思います。鈴木大拙師も、宗教を信仰する上で、知性(知性は学問そのものでは無いと思います)が必要である由のことをおっしゃっていますが、表現の仕方には難しい面がありますが、ただ信じればよいと言うものではないと言うことだと思います。

私は、私の母がたまたま親鸞聖人の教えに帰依する仏教徒でありましたし、禅宗の教えにも耳を傾けていた関係で、いわゆる新興宗教には縁がなかった訳でありますが、そう言う環境になかったとしたら、邪教と言われる宗教に足を踏み入れた可能性を否定出来ません。幸いにもお釈迦様の教え、親鸞聖人の教えに回り逢えたわけでありますから、後学の方々のためにも、また自分の信心を深める意味でも、信仰と言う事により知的にアプローチして行きたいと考えています。


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No.364  2004.02.23

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第40条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

写真は、テニス仲間がバリ島への旅行の中で撮影して、昨日の帰国後直ぐに送ってくれた白蓮華です。昔からこんな白蓮華の写真が欲しいと思っていました。彼女とはテニスの友達で、彼女との間に仏法は介在しておりませんので、依頼していた訳ではありません。不思議なことです。今日のコラムに記念として華を添えたいと思いました。

表題―身捨てて各々と同座
まえがき

明治・大正・昭和にかけてグローバルな活躍をされた鈴木大拙と言う仏教哲学者がおられます。元々は禅門の方で、アメリカでの生活も長く(ご夫人もアメリカの方)、禅を世界に広めた功績は大きいものがあり、文化勲章も受賞されたと言う方であります。浄土真宗系の大谷大学の教授もされ、また、妙好人『浅原才市翁』を世に紹介され、禅門、浄土門の区別なく、功績を残された仏教界では有名な方であります。私も学生時代に師の『禅とは何か』と言う著書を買いましたが、さっぱり理解出来ず、最初の数ページで放り投げてしまったと言う経験があります。

最近、その鈴木大拙師のCDを聴く機会がありました。これもなかなか理解し難い内容でありますが、少々感ずるところがあり、上述の『禅とは何か』を探し出して読み始めています。40年前には理解出来なかった本の内容がビンビンと心に響き、感銘を受けています。そしてまた、仏法のより広い世界への扉が開かれそうな気がしております。

仏法の信心は知識を積み上げることで得られるものではありませんが、知識を積み上げることによって、信心は深まるものであり、また更に色々な話を聞いたり読んだりしたくなると言うのは本当だと思います。

この聞書の勉強も、聞書を通して自分の心の中にある仏法を深めて行くもので無ければならないと、鈴木大拙師の本から教えられました。

●聞書本文
仰せに、身をすてて各々と同座するをば、聖人の仰せにも、四海の信心の人はみな兄弟、と仰せられたれば、我もその御言葉の如くなり。また、同座をもしてあらば、不審なることをも問へかし、信をよくとれかし、と願ふばかりなり。と仰せられ候ふなり。

●現代意訳
蓮如上人は、「捨て身で信者さん達と座を共にしてご法談義をすると言う事は、親鸞聖人の仰せに、『この世の念仏の信者は皆兄弟も同様』とあるように、私も同じ気持ちであり、また同座したならば、色々と確かめたい事があれば遠慮なく質問して、真実の信心を得て貰いたいと願うばかりである」とおっしゃいました。

●井上善右衛門先生の讃解からの抜粋
いま『聞書』の言葉に「身をすてて」とありますが、身をすてるということ、即ち捨身ということは仏法の根本義にかかわることであります。『勝鬘経』の摂受正法章には「大乗において身・命・財を捨てる」という事が述べられています。正法を摂受けするものは、永遠の法を命とする人でありますから、最早やこの世の身・命・財に執ずる思いを超えしめられるのです。そのような事が凡夫に出来るものではないといわれる人もありましょう。しかしされば凡夫に開かれる信心の世界を知らぬためではありますまいか。凡夫の心としてはもとより不可能な事であります。ところが大信は仏心の滲透であり流入でありますから、そのとき法尓(ほうに)として摂受正法の徳にかなわしめられる妙なる消息があらわれるのです。身命財を捨て得ぬ凡夫の上に、はからずもその執をこえる不思議な促しが起こるのを仰ぐことが出来ます。「教人信」の活動が蓮如上人の上に四海の内みな兄弟という平等一味の精神となり、自然の捨身行となってあらわれているのがそれであります。ことさら身を捨てるのではなく、身が捨たるのです。そこにはただ大悲の徳を仰ぐ心のみがあります。
「身をすてて各々と同座するをば聖人の仰にも・・・・」とあるのは、蓮如上人が親鸞聖人の御一生を仰がれた言葉です。そしてそれを受けて「我もその御言葉の如くなり」とその徳に一味たらしめられる自然の促しを御自身の上に感じておられるのです。しかもさらに「同座をもしてあらば、不審なることをも問へかし、信をよくとれかしと願うばかりなり」と、そのとき発露するやむにやまれぬ願いを述べておられます。まことにその思い一つが上人の生涯を貫いたのでありましょう。身を捨てるということは、有漏(うろ、有限の)の命を捨てて無漏(むろ、無限の)の寿(いのち)を得ることであり、そのとき現生十種の益(げんしょうじゅっしゅのやく)に示されている「常行大悲」の徳に潤う身となるのであります。

●あとがき
この聞書に関する井上先生の讃解の冒頭に、エゴ・我執に関する文章があります。何故この聞書の讃解文に組み込まれたのか、私には分かりませんが、仏道は、つまるところ、我が心の中心にあるエゴとの二人三脚の道ではないかと思いますので、井上先生は、ふと基本に戻られるべき刺激を日常生活における人間関係の何かの問題と共に、この聞書から受けられたのだと思います。 私達も、常に、忘れてはならないと思いますので、下記に井上先生の讃解文を掲載させて頂きます。

人間に最も固有な問題は、心の奥深く潜んでいるわが身中心の意識であると言ってよいでしょう。人間の心にはエゴの核が潜んでいます。いわゆる差別観念なるものも、もとをただせば、エゴに由来するものであります。常に自分を高く位置付けて、他を劣視しようとする。不当な差別観念ほど社会を乱し、人を傷つけるものはありません。それは必ず反発と憤りとを招くでありましょう。

当然の秩序としての親子、兄弟、夫婦。師弟の間柄も、差別意識によって固定されると、それはいつしか、人を枠付けして徒らに自らを権威づけるという弊害に陥ります。上下の秩序を弁えるという事は大切でありますが、それが隠れたエゴの道具に使われ、差別意識に禍いされると、きっと人間関係を傷つける結果となります。

人間は極端から極端に走るもので、差別にとらわれるか、悪平等に陥るか、どちらかになり勝ちでありますが、そのいずれもエゴに操られた結果の観念であると言えます。何故なら知らず識らず、自分の都合のよいように考えようとしているからです。われわれは自分の中に巣くうエゴの克服にどこどこまでも心いたすべきです。『我が心にまかせずして心を責めよ』 (聞書第47条)とは仏法者の生活態度でなければなりません。

エゴの根源を人間意識の根底に潜む我執に指摘されたのは仏陀です。我執の故に迷い、我執の故に苦しむ、そのわれわれを如何にして我執の闇から救いあげるか、ここにまさしく仏陀の教が開かれたのであります。
自分のエゴは、自分では分かりません。人に教えて貰わねば分りません。直接、人に指摘して貰うことも勿論ですが、法話を聞き、仏教書を読んで、それを鏡として、エゴを映し出して頂くことがより大切であると思います。


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No.363  2004.02.19

教養

教養を広辞苑で確認致しますと『単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それに準じてあらゆる個人的精神能力の統一的創造的発達を身につけていること。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる』とあります。却って分かり難いものですが、単なる物知りではなく、もっと奥深い精神や文化に関わる事であると理解出来ます。

私は、広辞苑で調べる前、教養とは、学歴や社会的地位には殆ど関係がないもので、単的には、他の人に心配りが出来る事、究極的には社会的弱者への配慮と施しが自然に出来る事では無いかと考えていましたので、「当たらずとも遠からじ」ではないかと思いました。

駅のホームで整然と並んで待っていても、電車が到着したなら、我先にとなだれ込む状況は、とても教養のある国民とは思えません。車の運転、車の駐停車の有り方を見ましても、教養のあるなしが窺えます(私は常に教養優等生かと言いますと、恥ずかしながら、そうではありません)。

私は、初めて人生の苦境に立った今回(3年前から始まりました)、人の心の真実に触れさせて頂き、本当の教養の高さと言うのは、他の人への心配り、特に、困っている人への配慮が自然に出来ることなのだと教えられました。

私は過去の人生を振り返った時、困っている周りの人への配慮が出来ていたとはとても思えません。極端には自分の事しか考えてなかったでは無いかと、今回、教養ある人々に出遭って、本当に頭が下がりました。教養ある人は極々僅かですが、私も仲間入りしたいと思っています。

国家にまで拡げて教養を考えますと、アメリカ主義は、高い教養水準にあるとは思えません。アメリカンドリームを達成したヒーローを褒め称える文化はあるようですが、社会的弱者、民族を育み、労わる文化は無いように思います。弱肉強食は、教養の高さからは程遠い文化だと思われます。

そう言う意味では日本の昔は、教養高い文化を持っていたと言えるのではないでしょうか。滅私奉公は、本来は、自分を捨てて、公に尽くすと言うことですから、教養高い民族であったはずです。その教養高き、良き文化を一握りの軍人が利用して、富国強兵、侵略戦争へと国を間違った方向へ導いてしまい、不幸な敗戦、そしてアメリカ主義注入によって、今や日本は古き良き文化も失い、教養の無い民族に堕落してしまったのではないかと思います。

日本の教養は、聖徳太子の十七条憲法にあると言ってもよいと思います。今何故か仏教が見直されていると聞きます。一時の流行に終わらないように、仏教徒こそ襟を正して、他の人への心配り、弱者への労わり、励ましに心を砕く時だと思います。 私も、今私より困っている人に出来ることを物心両面でさせて頂こうと思っています。

今日アップの新しい法話も、常岡一郎師の『逆境に処する心』の続編ですが、常岡師は、今では各地に当たり前のようにある養護老人ホームを昭和初期の頃に創設され、参議院議員の12年間も社会的弱者の為に働かれた人であります。教養高き人のお手本だと思います。


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No.362  2004.02.16

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第39条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―罪の沙汰無益なり
●まえがき

仏法を知識として身に付けようとするならば、そう難しいものではないと思います。しかし、"信仰する"と言う段階に進むことを目指しますと、かなり難しいことになってきます。信じると言うことは、理屈や理論の世界だけではなく、感情・気持を納得させる必要があるからです。説明する側に立ちますと、どう言葉を尽くして説明すれば"信じて"貰えるのかと言うことでしょうし、信じさせて頂く側に立ちますと、どう考えれば、どのような姿勢で臨めば、信じることが出来るかということになります。

その前に、最も大切なのは、"何を信じる" のかと言うことにもなります。私は理屈・理論を無視した信仰は、いわゆるオカルト的、狂信・邪信・妄信であり、仏教の信心とは全く次元の異なるものだと思います。特定の個人を信じるのでなく、特定の個人を通して、普遍の真理を信じざるを得ないと言うのが、仏教の立場だと思います。

仏法の場合は、お釈迦様が発見された『縁起の道理』を信じる事だと言ってよいと思います。そして『現在目の前にある物とか目の前に生じている現象は、何かの原因があって、その原因に諸々の縁(条件)が働いた結果として現れているものだ』と言うことは、知識としては理解出来ます。しかし、この『縁起の道理』を言い換えますと、諸行は無常(移り変わってゆく)であり、諸法は無我(実体が無い)であると言うことでありますから、私と言う存在も、縁によってこの世に生まれ、縁が尽きれば死んでゆく存在だと言うことになる訳でありますが、これは頭で理解出来ても、気持ちは落ち着いている訳には参りません。

禅宗では、この縁起の道理を体得しようと坐禅などの修行に励まれるのだと思いますし、浄土真宗では"ただ念仏を称えよう"と努力するのだと思います。しかし、どちらの道も険しく縁起の道理も体得出来ず、お念仏もなかなか素直に"ただ念仏して"とはまいらずに悶々とすると言うのが普通ではないかと思います。

禅宗の坐禅の道も、浄土真宗のお念仏の道も、最終的には、我執と自己との決着がどのようにつけられるかと言うことではないかと思われます。その決着に20年間の歳月を比叡山で費やされた親鸞聖人も、遂に我執を消し去ることは出来ませんでしたが、我執そのものに阿弥陀仏の本願力の御働きを感得せられ、すべては阿弥陀仏にお任せするしかないと一念発起されたのだと思います。坐禅の道に付きまして、私は云々出来る立場にはございませんが、禅の道も、最終的には我執を消し去るのではなく、我執を通して、宇宙の真理に目覚めると言うことではなかろうかと推察致します。

聞書本文にある『弥陀如来の御計(おんはから)い』と言うことは、すべては阿弥陀仏にお任せする-外はないと言う親鸞聖人が至られ、蓮如上人が受け継がれたご心境であります。

●聞書本文
仰に、一念発起の義、往生は決定(けつじょう)なり、罪消して助けたまはんとも、罪消さずして助けたまはんとも弥陀如来の御計いなり、罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本と助けたまふことなり。と仰せられ候ふなり。

●現代意訳
蓮如上人がおっしゃいますのに、「阿弥陀仏の本願を信じて念仏を申さんと思い立ったならば、それでもう往生は確かなことになるのである。それまで為した罪悪を償おうと、償うまいと、それは全く関係がない事で、それら一切は阿弥陀仏にお任せすべきことであり、罪悪がどうのこうのと考える必要はない、阿弥陀仏に救って貰いたいと言う心だけが大切なのだ」と言う事でありました。

●井上善右衛門先生の讃解からの抜粋
人間に罪の意識が生じるということは、極めて大切な意味をもつことであります。罪の意識とは、思うべからざるを思い、あるべからざるを行うという自己自身への反省から生まれるのですが、それは人間が動物的な生き方から決別するところに生じる重大な内面の出来事であります。なぜ思うまじきことを思い、行うまじきことを行うかというに、それは人間が有限な生き物であると共に、その有限な個我の牢獄に囚われて生きるより外無い存在であることに帰因すると言えましょう。身体の上では老病死という事象が端的にその有限性を暴露してきますが、われわれの生はそれに対応し、それを乗り越える何等の用意も有していない。心の上にもまた個我の執われが果てしない煩悩となって動いて止まぬのであります。まことにこれはわれわれ人間の避けえない自性というべきでありましょう。

しかも奇(く)しきことに、その有限に執じる自性(じしょう)を自ら照らして否定するという自己反省の働きが生じるのです。これが人間に独特な自覚という精神作用として現れてくるのです。自覚とは、例えば動物では耳で音を聞き眼でものを見ても、聞きぱなし、見ぱなしの感覚的な反応意識なのです。ところが人間では、意識が自らを意識して、自分が今、何を聞き何を見ているかという自覚的意識を生じます。つまり再意識によって自己の思いや行いを写すのです。自覚という作用のないところに反省ということは成り立ちません。反省作用によって人間は自己を見る場を開くのであります。

自己が自己を自覚するとき、さらに一つの働きが加わってきます。それはその気付かれた自己を是とするか非とするかです。是とするならば、そのままを肯定し是認するのですから煩悩もまたそれでよしということになりましょう。ところがわれわれはこれを是とすることが出来ません。浅ましいこと恥ずべきことと感じざるを得ないのです。

このように非とするということは有限な自己が、その有限性に止まりえないということでしょう。老病死の生を果敢無い(はかない)と感じることもまた同様であります。そこには現実の生を超えようとする何ものかが働いていると言わねばなりません。このような働きが何処から生じるのか、それは不思議です。自らを否定する思念が起こるのは、われわれが既に個我を超えたものに関わらしめられているからと言わねばなりますまい。

しかしまたここに動物にはないような人間の複雑にして深刻な内面的葛藤が生じてきます。というのはわれわれは自己の有限性に固執しています。それがわれわれの自性なのです。しかもその自性を否定して超えようとするのも、その同じ有限な自己の内から起るのです。ここに大きな矛盾と難問に直面します。自己の理性に生き抜こうとした哲人カントが「我々は如何に純粋を期しても、その底に利己心が我れ識らず同時に動いていないと断言できる人は誰もない」といった悲痛な告白は、如実に人間の底知れぬ暗さを語っているといえましょう。

自己自らへの反省が深まれば深まるほど、わが胸の底に自分の手の届かない得体の知れぬどす黒い正体が感じられてきます。それは殊更ら反省するというよりも、むしろふと気付く自己への驚きとでも言った方が適切でしょう。自己への呵責(かしゃく)とともに、何とかこの汚濁を除去しようと己れを鞭打つのですが、それを何ともすることが出来ない。罪の意識と道徳的理性はかかる葛藤に苦悶せざるを得ないでありましょう。それは避け得ない人間精神の矛盾の結果であります。しかし矛盾であろうとなかろうが、現に只今直面している暗澹たる苦悶の中でどうすればよいのか。それはまことに、渡りに舟を失うがごとき堪えがたい悩みという外ありません。

その時、奇しくも響いてくるのが弥陀弘誓(みだぐぜい)の底知れぬ喚(よ)び声であります。何とも手のつけようのないわが胸の底にそっくり手をのばしてこれを抱き取って下さる大悲の摂取に出遭うのです。何と言う奇しくもおうけなき事でありましょう。最早やこのとき我が罪を如何に始末すべきかの思案工夫は解消するのであります。底知れぬ罪のその底に手を廻してこれを摂取したもうてある仏心を嘆じ驚き仰ぐのみです。そこにはただ本願が独り輝きわたります。その本願に向かって「ただ念仏して弥陀に助けまいらすべし」との心が開かれます。そこには最早や何の理屈も企て入り込む余地がない。だから"ただ"の一語の外ありません。この「ただ念仏して」のところにこの私を導いてくださる人こそ"よき人"であります。よき人に値遇(ちぐう)する感激は言の葉に尽くしうるものではありません。

●あとがき
上述の井上先生のご讃解の中に、『再意識』という言葉が出てまいりました。私は初めてお目にかかったものではないかと思います。先生のご専門の倫理学では日常的に使用されている言葉なのかも知れませんが、自分を見詰めるもう一人の自分と言うことなのだと思われます。これは多分、動物にはありえない意識で、人間ならば殆どの人が持っている良心と捉えてもよいでしょう。宗教的に申しますと。私は、もう一人、その再意識している自己を見詰める意識があると思わざるを得ません。それが仏心と言うものではなかろうかと、井上先生の再意識と言うお言葉から考察して観ました。

また、井上先生は、"よき人"という言葉もお使いになっていらっしゃいますが、井上先生にとっての"よき人"は、これまでのコラムでも再三再四ご紹介してきました、白井成允(しらいしげのぶ)先生だと思いますが、私も実に多くの先生方に導かれて仏法に親しんで参りました、山田無文老師、柴山全慶老師、井上善右衛門師、西川玄苔老師、青山俊董尼、加藤辨三郎師と、お名前が直ぐに浮かびますが、やはり、私が最も親しく指導を頂き、亡くなられて久しい今もご著書で教えを蒙っている井上善右衛門先生は生涯忘れることが出来ない、私にとって"よき人"(善知識)であります。

そしてまた、井上先生の"よき人"である白井成允先生には、私はお会いした事はないのですが、何故か同じように懐かしい想いが致します。NHKの心の時代と言う番組で、井上先生が白井先生や白井先生のお歌のご紹介をされている時の嬉しそうなご表情は、本当に、よき人に値遇したと言う喜びが溢れていて、何回拝見しても、こちらまで嬉しくなると言うものです。

白井先生、井上先生との出遭いを通して親鸞聖人の教えに直に触れる事が出来ました事は、『本願力』の御働きを信じるには十分過ぎる程の出来事であります。


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No.361  2004.02.12

人生のリセット

苦しみの真っ只中にいる私に
君の人生はすべて間違いだらけだったじゃないか
そう意見してくれた人がいる

昔なら、とっくに喧嘩別れだっただろう
今回はその通りだと静かに聞いていた
それほど打ちひしがれている自分になっていた

そんな私に手を差し伸べてくれた方達がいる
地獄の底まで降りて来て下さり
手を差し伸べて下さった仏様方だ
暖かい言葉と暖かい援助
涙が止まらなかった

しかし、ふと思った
私に厳しい意見を投げ掛け
私を地獄に突き落としてくれた人も
仏様だったんじゃないかと・・・・
振り返れば、すべての人々が
私にとっては仏様に思えて来た

さぁ、これからだと思った
一から出直しだと思った
人生のリセットだと思った

人生の深さ、人の真心(まごころ)は、順風満帆(じゅぷうまんぱん)の局面では味わえないのではないかと思います。私達は順風満帆でありたいと願っておりますが、本当の幸せは、順風満帆そのものにあるのではなくて、人の真心との出遭いにこそ本当の幸せがあるのでは無いかと思います。

私は、人生のどん底を経験する事により、私が歩んで来た人生のすべて、私の考え方のすべてが間違っていたと感じると同時に、すべてが私を真実の世界に目覚めさせるための縁の数々であったと思わしめられた瞬間がありました。人生がリセットされた瞬間だったように思います。
そしてそれは、ずっとずっと以前、私が生まれるずっと前、久遠の昔から働き続けて来たに違いない『本願力』と言う仏様の願いと御働きが、漸く私に至り届いた瞬間ではなかったかと思います。

最近、仏教が見直されているそうです。最新号の『文芸春秋』に仏教特集が掲載されています。好ましい傾向ではありますが、お釈迦様の教えは、流行とは対極にあるものであります。『宗教の基本は自己を問い直すところにある』と言う清沢満之師のお言葉そのままが仏法の初めの第一歩だと思います。仏教書から知識を仕入れる事に一生懸命になる事ではなく、静かに自分の心の奥底にある自己を見詰めなおす事がスタートで無ければならないと思います。

月曜コラムで勉強している蓮如上人の聞書の第121条にも、『一宗の繁昌と申すは人の多く集まりて威の大いなる事にてはなく候、一人なりとも人の信を取るが一宗の繁昌に候』とあります。仏教に多くの方が関心を示し、仏教関係の本がベストセラーになる事とか、多くの信者がいると言う事が、そのままその宗教が繁昌していると言う事ではない、一人でもよい、本当の信心を得て、安らかな人生に目覚めるならば、それが繁昌だと言われています。仏教が流行(はや)る事を歓迎しつつも、仏教徒は先ず自分の足元を見詰め直すべきだと思う次第です。

なお、宗教の基本と申し上げた『自己を問い直す』と言う事は、自分の心の中心にある我執、自己愛に思い至ることですが、これは言葉では簡単ですが、そう簡単な事でありません。少し前の木曜コラムで私は私の『賢き思い』について詩とともに申し述べましたが、私の意識から賢き思いが完全になくなった訳ではありません。自分の賢き思いを常に見詰めるもう一人の自分がはっきり姿を現したと言えるかも知れません、人に賢く見せたり飾ったりする必要がなくなったと言えるかも知れません。

歴史小説『宮本武蔵』の作者、吉川英治氏の『我以外、皆我が師なり』は、人生リセットのキーワードでもあると思います。

私達は自分を守るために頑張りますが、本当は、私達は自分で自分を守る事が一番苦手です。今日からアップした法話『逆境に処する心』の中にも多くの人生リセットのキーワードがあります。どうぞご参考にして頂きたいと思います。


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