大自然に学ぶ

常岡一郎

人間としてほんものになりたい。こう願う。しかし、それを証明する基準がわからない。そこで考える。妻から尊ばれる夫。親しまれる夫。子供から尊敬される父であったら、先ず合格と言えるだろう。そこで自分をかえりみる。この点でも私は落第生のようである。どうひいき目にみても、尊敬にはほど遠いことがわかる。

『来てみればさほどでもなし富士の山』という言葉がある。どんな気高い富士も、近づく。のぼる。そこには美しさが消える。苦しい山、険しい山、石ころの山、砂の山である。人間も自分に一番近い人々から尊敬される生き方がしたい。人から親しまれる性格、愛される心、これが揃ったらどんなに幸せであろう。

私は私なりに理想の人間像を描いている。その人間像からほど遠いのが自分であることは私自身が一番よく知っている。だからと言ってがっかりしない。 してはいられない。むしろいよいよ励む張り合いがわく。向上の意欲がわく。生き生きと生き抜く決意が固められる。たとえ仰ぎみられる人間像に遠い自分でも、一日一日、一歩一歩、一事一物、すべてに努力と真心をこめた毎日をつみ重ねよう。努力しよう。そうしなければ今日一日がもったいない。そうでないと私の生活が空虚になる。空転する。一日一日が無駄使いになってしまう。

私の理想の人間像、これは大自然の示す真理をひながたとして生きる人だと考えている。千古不滅の香りを後の世に遺された人々である。偉大な宗祖、教祖の生き方である。

旅に立つ。まず頼りにするのは地図と羅針盤である。真夜中、一寸先も分からない大海原でも、磁石の針をたよりに進める。大自然の法則がしっかり読めるようになること、これが心に羅針盤を持つことになる。不変不動、千古変ることのない真理で大自然は組み立てられている。真理を悟り、真理に副い、真理を守る。これほど強いたのもしい生き方はない。

大自然の法則を忘れた人は迷いが多い。たよりないものにすがる。だから当てがはずれる。泣く。この世はあまりに空騒ぎが多い。この辺で思い切り大自然を見詰めるゆとりを取り戻したいものである。

大自然はすべてゆり戻している。吸った空気を吐いて生きる。これ以外に生きる道はない。公害、薬害といった一点だけでも行き過ぎが反省されて来た。自らつくった行き過ぎを今こそ反省するために、自らに語る心で書きつけて世に送るものである。


●金は道具

金になるならやる。儲かるからやる。どんな良いことでも、金にならぬことには力が入らない。こんな考え方は人間として無理もないことかも知れない。しかしよく考えてみれば愚かなことである。

今だけの人生ではない。今日はすぐ昨日にかわる。今はすぐ過去となる。将来がすぐ今となる。流転こそ天地の大道である。時の流れは速い。水の如し。今を大切にする人、全力をしぼるよろこびを持つ人が賢明である。いま損をしても必ずゆり戻される。人間はとかく金の力に目がくらみ易い。だからだまされる。金が人間以上の力をもっていると考える。しかし金は人間が作ったものである。使う道具である。人間を作った金はない。目も鼻も口も手も足も、一切が天地の恵みである。体をつくり組み立てる。いのちまで添えてこの世に生み出された。この世の本体は大自然の御親である。神の恵みである。その神から好かれる道、大自然が教える真理の道、これが何より大切な拠り所である。これを見失うから金や財産にだまされる。金や財産は人間が生きる道具として大切なものである。だから、金は仕える相手ではない。使う相手である。仕える相手は金ではない。神である。この世の真理の道である。

真理の道は教えている。出したものだけをその人にゆり戻して与える。この厳しい大自然の真理をしっかり見つめたい。才能、体力、腕力、能力、一切は絞り出しただけしか増えない。一切のごまかしはきかない。天地は常に公平である。


●お返ししたもの

月は美しい。気高い。あの清い光、拝みたくなる。月は詩を生み、崇敬を生む。昔の人は満月を祀った。拝んで来た。

月に人が着いた。写真も撮った。それで月の正体がわかった。そこは石や土の大地であった。月には緑もない。荒地に似ている。光の球でもない。土と石である。まったく地球に似ている。月の上を人間が歩く。車も走らせた。こうなっては拝むわけには行かぬと言う人もある。

しかし地上から見る月の光は今も美しい。仰ぎ見て合掌の心が湧く。しかしこれは月が持っていた光ではなかった。月が太陽の光をうけてお返しした光、反射して送ってくれた光である。もし月がこの光をお返ししなかったら、月の存在はわからなかったと思う。

赤い花、紫のすみれ、みどりの若葉、すべての色もそうである。月に似ている。元来この世に赤い花はない。花は七つの色全部を太陽からもらっている。そうしてその七色の中から赤だけをお返しする。それをわれわれは赤い花と名付けて来た。すみれの花は紫の色をお返しする。緑をお返しする葉を青葉とよんで来た。どんな色をお返しするか、出すか。反射するか、それでそのものの名がつけられている。すべてのものの本体は、絞り出したものによってきめられる。

太陽の光は無色透明といっている。この無色というのは色がないというのではない。七つの色がいつでもある。色の無い無色ではない。どの色にも隔てがない。七つとも平等、片寄りがない無色である。人間もそうである。その人の出したもの、お返ししたもの、それに名も実も与えられる。これが大自然の味ふかき恵みである。

毎日力を絞り出す人、世の中に力をお返しする人、これが力士である。声をお返しする人、これが歌手である。人々に愛と慈悲の手をのべつくし、人の世の光となっておられる人、これが宗祖、教祖である。

だから人間は、今日一日何を出すか。絞るか。配るか。捧げるか。これだけを考え、毎日新しい決意で真剣に生きて行けばよいのだと思う。

どうしてもうけるか。何を掴むか。どうして財産をつくるか。こんなことを考える人が多い。しかし、この考えはまったく必要のないことである。それを大自然は常にわれわれに教えている。だから人は生きる道、正しい方向、狂いなき目標を、大自然に学ぶべきだと思う。




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