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No.320  2003.09.22

修証義に啓かれてー第21節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))―

●まえがき1:
マスコミや政治の世界で、宗教の話題が出る事は殆どありません。取り上げられると致しましても、世間に厄介をかける宗教団体の異常な行動が有った時位であります。これは実に残念なことです。最近の政治にせよ、マスコミの論調にしても、損得とか、物事を表面的に捉えた正邪・善悪の主張をしているだけのように思えます、これはマスコミや政治家、そして世間の一般的な考え方と私の人生観の相違によるものかも知れませんが、本来は、政治にせよ、経済活動にせよ、考え方の奥底に宗教的な背景がなければ根無し草の浮ついたものでしかないと感じています。

今回の自民党総裁選に致しましても、また野党のマニフェストに致しましても、日本国をどのような国家にすると言うビジョンがないのは、所謂哲学とか、宗教心に基づく国家観を持ち得ていないからだと思います。今の日本は景気だけが良くなれば、それですべて良しと言うものではないと思います。教育も含めまして、色々な問題を抱えております。 一番の問題は、1945年の敗戦を契機として領土だけではなく、『日本固有の心』をも喪失してしまった事によるのだと、私は思います。

『日本固有の心』とは、欧米の二元対立の思想ではなく、一如・一体と言う心です。親子は一体、夫婦は一心同体、自然と私は一体、衆生は本来仏、武道でも剣と自分が一つと言う境地を目指して励んでいたものです。それが、アメリカの統治により、国家の基本となる憲法も与えられ、食事もパンを与えられて食生活も変えられ、そして団体よりも個々を大切にする個人主義を植えつけられ、聖徳太子が大切にされた『和』と言う、古来の日本の美しい心がすっかり失われてしまいました。
これからの日本は、アメリカの個人主義の考え方の素晴らしいところは大いに残しつつ、古来日本の価値観であったはずの、仏教的な考え方でもある、一如・一体、即ち、私一人で存在していないと言う『無我』と言う心をとり戻さねばならないと思います。
混迷する日本の行く末を考えつつ、私の人生の生き方と共に、日本のあり方をも修証義に学んで行きたいと思います。

●まえがき2:
仏教には、二無我、三法印、四聖諦(ししょうたい)、五蘊(ごうん)、六波羅蜜、八正道、十悪、十二因縁と、漢数字が付いた用語が多いのですが、この節で説かれていますのが、四摂法(ししょうほう)と言いまして、菩薩としての慈悲心が現われた4つの修行法と言われています。菩提心が具体的な形として現れる行動であります。

菩薩とは、悟りを求める修行者と説明されますが、菩提心に目覚め仏道を歩む人と言い換えてよいと思います。このコラムを読んで頂いている方も、ご自分の歩む人生に何らかの問題を感じられ、より良く生きたいと願われている方だと想像致しますので、既に菩薩道を歩んでいる方、若しくは歩まんとしている方であると存じます。

修行法と言いますと、何が何でも努力してやらなければならないと思われるかも知れませんが、本当の菩提心に目覚めますと、そうせざるを得なくなるのではないでしょうか。道元禅師は、この節で、『・・・・・すべし』と言う言い方をされていますが、『・・・せざるを得なくなる』と読み取った方が、私には素直に受け取れます。

六波羅蜜も菩薩の修行法であり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧と、四摂法(ししょうほう)と同様に、布施行が一番にあげられており、菩提心は先ず布施と言う行為に現われるものだと思われます。

●修証義―第21節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))
衆生を利益(りやく)すというは四枚(しまい)の般若あり、一者(ひとつには)布施、二者愛語、三者利行、四者同事、これ即ち薩?(さった)の行願なり、其布施というは貪らざるなり、我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、此生侘生(しせたせ)の善種となる。一銭一草の財をも布施すべし、此世侘生の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、但彼が報酬を貪らず、自らが力を頒つ(わかつ)なり、舟置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業固より布施に非ざること無し。

●西川玄苔老師の通釈
菩提心により、衆生をどのように利益していくかといえば、次の四通りの智慧の働きがある。一つには布施、二つには愛語、三つには利行、四つには同事である。この四つは、即ち菩薩としての願いの行である。その第一の布施というのは、あまねく広く、人々に物でも心でも施して行くのであるが、根本において、貪(むさぼ)ると言う欲心のないことである。貪る根性がなければ、その人の存在そのものが布施となっているからである。
さて布施というと、自分の所有物を人に施すばかりを布施と思いがちであるが、たといわが物として何もなくとも、ボランティア活動するとか、席を譲るとか、微笑むとか、その他、どんな布施でも出来る。又、布施は物の多い少ない、軽い重いの問題ではなく、その布施のまごころの問題であるから、その布施の効果がいかに結ぶかを考えねばいけない。だから、仏や祖師の一言半句でも、一行半行の詩文でも、精神的布施をして、今生やら来生に真実の道に生きる善い種まきをすべきであるし、一銭一草という物質的布施をして、今生や来生の福徳善根の因の基とすべきである。だいたい、精神的なものも、物質的なものも、菩提心という一つのあらわれたものだから、同じものである。ただ注意すべきは、布施をしたことにより、その報酬を期待しないことだ。ただ、自分自身の力を費やして布施をすればよいのである。渡し場に舟おいたり、橋なき川に橋をかけたりする公共事業も布施の行いであり、人々の生活のなりわいである商売や産業、その他あらゆる職業も、本来は、むさぼる根性なくして、お互いに助け合うための行いであるのだ。

●あとがき:
真実の布施とは、与えるものと、与える相手と、与える自分との三つを忘れたところに成立するものだと言われますが、果たして私達に出来得るでしょうか。

井上善右衛門先生は、『とてもとても私どもに出来ることではありません。貰った方はよく忘れますが、与えた方は忘れません。礼を言うだろうと言う下心はどこかにございます。ですから、何時まで経っても礼を言わないということになりますと、礼一ついわぬ礼儀知らずの人だという思いがきっと起こってきます。そういうことの起こらぬ布施こそが真実に与えると言うことですが、真実に与えるということは至難なことであります』とおっしゃっていますが、実にその通りだと思います。

では、私どもに布施は永遠に出来ないかと申しますと、そうではなく、我執に凝り固まった自己を照らし出してくれる宇宙の働きを実感した時に、生かされて生きている感謝の心が、そのまま布施となって表れるのは自然のことなのだと言うのが、浄土門の受け取り方だと思います。

見返りを求めない人助けや寄付の行為とか、ボランティア活動は、仏道を歩むとか歩まないとかを別に致しましても、感謝の心から出ている限りは、立派な布施行でありますが、なかなか其処までは至りませんが、動機は別に致しまして、先ずは、自分の周りの人に、優しい言葉を掛ける、無財の七施の一つとも言われる愛語と言う布施行を実践したいと思います。22節が、その愛語を勧めるものであります。

●次週の修証義―第22節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))―
愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子の懐いを貯えて言語するは愛語なり、徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。


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No.319  2003.09.18

我執(がしゅう)

夏が過ぎて、玄関先の塀に琉球朝顔が生い茂っています。時々剪定して形を保つように苦心していますが、この秋一杯は、マリーンブルーの花が咲き続け楽しませてくれます。

さて、軽急便株式会社名古屋支店で、立て篭もり犯人、支店長、警察官の3名が爆発で死亡した事件は、爆発時の生々しい映像が放映され、支店長の安否に心苦しい想いを持って見守った方も多いと思います。犯人が亡くなった以上、本当の犯行動機は解明出来ないと思いますが、金銭が絡んだ恨みが動機の何割かを占めている事は間違いありません。

他の人を巻き添えにする行為は許し難いものであることは勿論ですが、誰しも『私は決してあの様な事はしない』と断言出来ないと言う事も又確かです。親鸞聖人は有名な歎異抄の中で、『縁がもよおせば、人間は如何なる振る舞いをもするものだ』とおっしゃっています。そのお心は、『誰にでも我執と言う、煩悩を突き動かす業を抱えているからだよ』と言うところにあると思います。

人間の言動の根本を辿りますと、すべて我執に行き着きます。最も顕著に現れたのが犯罪だと思います。従いまして、犯罪の動機の根本は我執(がしゅう)にあると断言して間違いはないと考えますが、我執とは『自分が一番可愛い心、俺が、俺がと言う心』です。すべての人が根本に抱えている心です。『いや、私は先ず他の人の事を想って行動している』と言う人がいるかもしれませんが、それは、大きな想い違いだと申して良いと思います。

仏教の法話で、我執を説明するたとえ話として、『たとえば集合写真を貰った時に、誰でも先ずは自分を探し、良く写っているかを確認するもので、家族写真でも、子供の写真映りを気にする前に、先ずは自分のことではなかろうか』と、よく聞かされます。自己への執(とら)われを端的に示すものだと思います。

これは、悟りを開いたお坊さんでも、我々と違いはないはずであります。仏教は、この我執を無くせとは言わないのですが、この我執が犯罪を巻き起こすことも間違いのない事であります。従いまして、我執を抱えているすべての人が、縁がもよおせば(そう言う環境条件に置かれたら)、犯罪を犯す可能性を有している訳であり、それを親鸞聖人が、ご自分の我執を見詰められて、前述の言葉を遺されているのだと思います。

恐らく、自分以外に、自分を大切に思ってくれる人、自分を可愛がってくれる人が、一人も居なくなった時に、自暴自棄になり、或いは、自分の不満を世の中に知らしめたいために、犯罪と言う行為に走るのだと思います。また、自殺と言う行為に走るのだと思います。

今の日本は、はじめてのデフレスパイラルに遭遇し、企業も個人も将来に希望を持てない状況です。他の人の事を思い遣る余裕を無くしています。それどころか、国も企業も、弱者にはますます厳しい運営に変わっています。私自身経験していることですが、企業、公的機関、金融機関は、確かに人が対応してくれる訳ですが、最早、交渉相手は担当者と言う人ではなく、冷たい組織を相手にしている感じが致します。こう言う社会では、これから弱者による犯罪がいよいよ多発するのは避けられない必然ではないでしょうか。

恐らくは、軽急便の犯人も、元はと言えば金銭の問題ではありましょうが、それに加えて、組織の冷たさ、社会の冷たさ、国家の冷たさにぶち当たり、そして周りにも誰一人、犯人の心情を思い遣る人がいなかったのではないかと想像致します。許し難い犯罪ではありますが、彼の我執を受け容れ、慰めたり、励ましたりする人が皆無と言う哀れむべき状況になったのではなかったかと思います。

あの池田小学校の殺人犯の宅間被告にしても、親さえも見捨てている状況である事が、先日のテレビ番組の父親へのインタビューで知りました。早く刑執行して欲しいと言う宅間被告自身の発言が紹介されていますが、その言葉が懺悔から出て来たものではないだけに、人間の我執と、人間の業について深く考えさせられました。

仏教は、人間の言動を根本的に支配している我執を自覚する事を説きます。世の中で起こる犯罪は我執が演出する悲劇を私に映し出してくれているのですが、私は自分の我執に負けて、愚かな行いを現に繰り返しています。私が幸いにも犯罪や自殺にまで至っていないのは、私の心が正しいからではなく、私を励まし支えてくれる家族と友人がいるからであると思います。

明治の宗教界の先覚者と言われる清沢満之師が『宗教の基本は、自己を問い直すことである』と申されていますし、あのソクラテスも『汝自身を知れ』と言っていますが、これを言い換えますと、『自己の我執に気付き、我執と格闘しなさい』と言うことだと思います。我執と闘って勝てと言うことでありましょうが、我執があればこそ、食べ物を採り、生きている自分が、我執に勝つことが出来るのでしょうか。

この我執との闘いは、恩師である井上善右衛門先生が言われていた『自分が乗っている板を自分で持ち上げようとするようなものである』と言うことではないかと思います。また、『笊(ざる)で川の水を掬い取ろうとするようなものだ』と言うことだと思います。

では、我執との闘いには勝てないのかと言いますと、そうでは無いようです。私自身、我執に負け続けていますので、以下の表現が正しいかどうかは分かりませんが、『負けるが勝ち』と言いますか、『闘わずして勝つ』と言いますか、『勝ち負けを超越する』とも言うのでしょうか、適切な表現はございません。『笊で水を掬うのでは無しに、笊を水に浸せば、笊は水で一杯になる』と言う表現で、蓮如上人が説明されていますが、凡夫に分かりやすい精一杯のご表現だと思います。自力では無理、他力だと言うことでもあるのですが、これも、自分なりに、我執との闘いをしないと心からの納得は得られないのだと思います。

自民党総裁選も、タイガースの優勝やら、多発する誘拐事件や犯罪に影が薄くなってしまいました。陰が薄くなったもう一つの原因は、小泉さんの圧勝が確実になったからだと思います。小泉さんの憑き(つき)の良さなのでしょうが、この1ヶ月、アメリカの株高に引きずられて日本の株高がすすんでいます。株価が8000円前後の年初のころならば、亀井さんの積極財政発言も説得力を持っていたと思いますが、この株高が小泉さんに幸いしている事は間違いありません。

小泉さんの運の良さは日本国民の不運、日本国の不幸である事は間違いありませんが、しかし、日本は落ちるところまで落ちなければ、自主独立の国家に立ち戻れないのだとも思います。その為に試練の時代が更に続くのだと思わざるを得ません。人に我執があるように、国にも我執があると思います。今、日本は、自らの我執との闘いの中にあります。そんな中で、私も自らの我執と闘っているところです。

なお、近々、我執に関する井上善右衛門先生の法話をアップさせて頂きますので、ご覧頂ければと思います。


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No.318  2003.09.15

修証義に啓かれてー第20節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))―

● まえがき:
仏教には、宗派を問わず仏前で読まれている三帰依文と言うお経の前文に『人身受け難し、今すでに受く、仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向かって度せずんば、更にいずれの生に向かってか、この身を度せん』と言う言葉があります。この言葉は、『人間と言う生まれ難き生命を頂いたこの世で、菩提心を発しないといつ菩提心を発するのであろうか、菩提心を発することが無ければ、この世に生まれて来た甲斐が無いのだ』という切実な宣言であると思います。

度と言う漢字には色々な意味があります。制度の度は法と言う意味、温度の度は目盛の意味、態度の度は心の意味、そして、度は渡り越えると言う意味から発展して、済度の度は出家するとか救うと言う意味もあります。上記、三帰依文の度せずんばは、救われなければと言う意味であります。従って、度は菩提(悟り)を求める事であります。
私が救われたいと言う菩提心とは、他者への慈悲心でもあります。この世は、凡夫に取りましては、やはり辛いところです。悩み多きところです。瞬間的には楽しい事、嬉しい事もあって、それを追い求め頑張っている訳でありますが、思うものが手に入った瞬間から、また次を求めざるを得ません。凡夫に取りましては、この世はやはり一切が苦なのであります。それは真実の世界(仏の眼)から見れば、『まことに可愛そうだ』と言う事になります、これが仏の慈悲心であります。仏の眼からみれば、凡夫が一つ見方を変える事が出来れば(自己の本質に目覚められたら)、この世はそのまま真実の世界、お浄土であります。

私は、昨年まで14年間、犬を飼っていた経験から考えるのですが、犬は人間の知識・智慧から比べますと、レベルはかなり低いと思われます。人間と同じ景色は見えているでしょうが、多分、美しさとか、季節による自然の移ろいなどは感じていないでしょう。また、宇宙の神秘さにも想い至ってはいないでしょう。また、毎日食事が与えられている有難さにも思い及ばないでしょう。檻の中に隔離されていることによる不自由さは、自分が交通事故に遭わないための配慮であることも、色々な苦難から守られている事を知らないと思います。

犬と人間を同列にして比較することに異論があるかも知れませんが、人間も、犬と同様に、人間の知識・智慧の及ばない世界から眺めますと、随分愚かな存在ではないかと思います。そう言う自己に目覚めよと言うのが、仏教であると言ってもよいと思います。そして、それ自身が菩提心でもあります。

そして、私たちが本当に救われ、永遠の生命に気付かされた世界は、一味平等の世界であり、差別・区別のない世界でありますから、本当の菩提心は、自分独りが救われればよいと言うものではないと言うのは、極自然であると思います。

● 修証義―第20節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))
若(も)し菩提心を発して後、六趣四生(ろくしゅししょう)に輪転(りんでん)すと雖(いえど)も、其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり、然あれば従来の光陰は設(たと)い空しく過すというとも、今生の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願すべし、設い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚お廻らして衆生の成仏得道に回向するなり、或は無量劫行いて衆生を先に度(わた)して自らは終に仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益(りやく)するもあり。

● 西川玄苔老師の通釈
菩薩精神の根本である菩提心という尊い心を発してからでも、過去世の罪業の報いの余習があって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という迷いの境涯や、胎内より生まれたり、卵より生まれたり、湿った所より生まれたり、変化して生まれたりする、衆生として、輪廻転生しても、この菩提心が主体となっていて転生を繰り返すのであるから、その迷いの世界の因縁の転生が、かえって迷いの世界で苦悩してさまよっている者を済度する、菩薩としての願いを行ずる転生となるのである。だから今まで、長い年月にわたり、何の目覚めもなく空しく過ごして来ても、今生の命が終わらないうちに、いち早く菩提心を発すべきである。たとい仏道修行を重ね重ねて、あらゆる功徳を円満に具足して仏となることの出来るほどの身となっても、自分の成仏はあとまわしにして、一切衆生が成仏得道出来るように、自己の功徳を衆生の方へめぐらして施していくのである。一切衆生が済度されつくされないうちは、私の寿命は尽きることがないという、無限の時間をかけて、自分は仏にならずとも、一切衆生が仏になってもらいたいと精進努力するのである。そのような菩提心により、衆生を済度し、衆生に大利益(だいりやく)を与えてゆくのが菩薩の願行である。

● あとがき:
人間は、この2,3百年の間に科学知識を深めて、人間は宇宙で最も高等な存在であると思うようになってしまったのではないでしょうか。科学万能主義は、丁度、飼い犬が思い上がって飼い主に噛み付いているようなものではないかと思います。

科学万能主義で、人類の幸せが獲得できれば良いです、人類に平和がもたらされれば、何も問題ではありませんが、今日の世界情勢を見ても、決して平和に向かっているとは言えない、混沌・混乱の世紀に突入した感さえあります。

弱肉強食の競争社会は、動物の世界そのものです。弱者へのいたわりの無い世界は、弱者のテロを助長し、平和から遠ざかって行きます。

この世界を救うのは、仏教の原点である菩提心に目覚めることでしか有り得ません。大乗仏教が生きている唯一の国である日本が先頭になって、弱肉強食に向かう世界から舵を切り直さねばならないと思いますが、それを可能にするのは、私達仏教徒が菩提心を行動に現して行く事でしかないと思います。

菩提心は、自分だけが救われれば良いと言う悟りを求める心ではない事を、先ずは私達現代の仏教徒が心しなければなりません。

菩提心に関する井上善右衛門先生の法話を法話集に追加致しましたので、併せてご覧頂きたいと思います。

● 次週の修証義―第21節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))―
衆生を利益すというは四枚の般若あり、一者布施、二者愛語、三者利行、四者同時、これ即ち薩?の行願なり、其布施というは貪らざるなり、我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、此生侘生の善種となる。一銭一草の財をも布施すべし、此世侘生の善根を兆す、法も財なるべし、財も法なるべし、但彼が報酬を貪らず、自らが力を頒つなり、舟置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業固より布施


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No.317  2003.09.11

9月11日に思うこと

2年前のこの日から、アメリカが変わり、世界が変わり、そして日本も変わりました。私は、昭和20年3月生まれですから、末期とは言え戦争中に生まれ、アメリカ軍の飛行機から落とされる焼夷弾(しょういだん)の洗礼を受けました。物心が付いてからは、戦争とは無縁の国で生きて来ましたが、今や戦争は遠い世界の出来事ではなく、ずいぶん身近なものになった気が致します。そして、軍事力が突出したアメリカが世界の保安官としてリーダーシップを取り得るかも知れないと言う諦めに似た期待も、イラクの混迷具合を見る時、幻想であった事に気が付かされました。

和平への道を歩み始めたかのように見えたイスラエルとパレスチナも、1ヶ月も経たないうちに、自爆テロと空爆の報復が繰り返されていますし、アフガニスタンにも決して平和はもたらされてはいません。世界の至る所でテロが頻発しています。

すべてにアメリカが絡んでいる訳ですが、やはり、弱肉強食の競争原理が基本の資本主義の持つ影の部分が急速に露呈し始めたと言うべきではないかと考えます。1989年の共産主義の崩壊以後は、資本主義が勝利したかのように錯覚されて来ましたが、実はそうではなく、資本主義が根本に抱える問題点を浮かび上がらせることになったのではないかと思います。

現代の戦争とテロは、資本主義の弱肉強食の一方の顔であり、強者の貪り(むさぼり)が戦争と言う形で、弱者の怒りがテロと言う形で現れているように見えます。ブッシュ大統領は、2年前、テロとの闘いを宣言し、アフガニスタン、イラクを一方的に攻撃して、政権を倒し、更にイランを標的としています。私も、2年前は、同時多発テロは、民主主義への卑劣な挑戦であると、ブッシュ大統領の姿勢に同感していましたが、今は、テロを生んでいるのは他ならぬアメリカや日本の資本主義、弱肉強食の競争原理主義ではないかと懸念しているところです。

アメリカのイラク攻撃を支持した日本も、早晩、テロの標的になりかねないと思います。否、このまま弱者を痛めつけ続ける政策が進行いたしますと、国内にテロリスト集団を抱える事になるでしょう。各地で頻発している凶悪犯罪は、その予兆であると考えねばならないと思います。

日本も、小泉氏が首相になって、官から民へと言う謳い文句で、構造改革が為されているかのように宣伝されていますが、明らかに弱肉強食社会へと日本を変えていっている事は間違いありません。 日本の強者である銀行に1兆9千億円もの資金を融資し、片方で弱者の中小零細企業への貸し出しをストップさせる方策を取っています。そして、『競争に敗れたものは、市場から去れ、古い産業から新しい産業へ変身せよ』と言う、『赤字部門を切り捨てて、儲かる事業に人・物・金を特化して生き残る努力をせよ』とも言う、如何にも正しい考え方のように受け取られていますが、今まで日本の産業を底辺で支えてきた中小零細企業への思いやりなどは全くありません。思いやりなんて言うのは時代遅れだと言わんばかりの政治になっています。

今回の総裁選でも、多分小泉さんは再選されるのでしょうが、『私の進める構造改革が駄目、小泉が駄目と言うなら、私を換えればいい』と、換えられるはずがないと言う自信からの豪語を聞いた時、弱者を労わる思い遣りも、少数意見に耳を傾ける謙虚さも持ち合わせていない人物が引き続いて日本を引っ張っていくのかと、堪らない気持ちになりましたが、小泉首相に60%もの支持率を与えている国民が、愚かな選択に気付くには、もう少し痛みがひどくならないと無理なのかもしれません。

自らを省みると言う習性の無い、いわゆる狩猟民族のアメリカが、独善的な正義を振りかざして世界を支配しようとする限り、ますます戦争とテロは拡大して行くしかないと思います。自己を見詰め直す事を大切にする仏教が根付いた日本が、精神までも、アメリカ化しつつある事に早く気付いて、脱アメリカの核の傘、脱競争原理社会へと舵切るリーダーを選出しなければならないのではないかと思います。

この9月11日は、テロとの闘いを誓う日ではなく、競争主義社会を考え直す日でなければならないとも思います。でなければ、テロの犠牲になられた方々の死を無駄にしてしまいます。戦争とテロが無くなるには、資本主義大国のアメリカと日本が変わらねばならないからです。


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No.316  2003.09.08

修証義に啓かれてー第19節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))ー

●まえがき:
私達は、地球と言う相対世界に存在しています。二律背反(にりつはいはん)、二元対立の世界です。悪と善、美しいと醜い、損と得、お金持ちと貧乏、私とあなた、自分の子と他人の子、好きと嫌い、男と女、生と死、仏と凡夫、煩悩と涅槃(ねはん)、と区別・識別しなければおさまらない世界に生を受けています。

今日の修証義のテーマである菩提心ですが、私は、菩提心とは相対世界から絶対世界を求める心ではないかと思います。人間は、なかなか相対世界から脱出出来ませんが、仏法を聞き開く事により、相対世界にありながら、絶対世界に気付かしめられ、目覚め得るのだと思います。この目覚めを、禅宗では、お悟り、浄土門では回心と申します。
相対世界と絶対世界と言うことも、相対世界に生きる人間だから思考することですが、絶対世界に目覚めれば、その区別さえも無くなるのだと思います。

仏教の説くところの涅槃寂静の世界が絶対世界であり、お浄土も絶対世界、言葉を換えて表現したものと思います。

お釈迦さまがお悟りになられた境地も、親鸞聖人が至られた境地も、絶対世界に目覚められたもので、差別や区別の無い、比較する事の無い世界です。親鸞聖人は、『不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)』と言われ、煩悩を抱えたそのままで涅槃寂静の世界が開かれるのだとおっしゃっています。私達凡夫の考えでは、煩悩を断滅して、それから悟りを得るものと考えてしまいますが、絶対世界では、すべては一如(いちにょ)、比較の無い世界です。

菩提心について、色々と難しい定義・議論がありますが、平易に言いますと、『本当の生き方がしたい』と言う心が芽生えるのが菩提心だと言っても良いと思います。

本当の生き方を求める心とは、真実を求める心です。道元禅師は、別の著書『学道用心集』で、『菩提心とは、無常を観じる心、即ち是れ、其のはじめなり』『誠にそれ無常を観じる時、吾我の心生ぜず、名利の念起こらず』と申されていますが、わが身の無常を観じたら、もう俺が俺がと言う気持ちは失われるのだと申されています。

私達は、自分が救われることを求めて仏法の門を叩きます。それがスタート点だと思いますが、仏道を歩み始めますと、自分とは何者か、本来の自己とは何かと自己に尋ねて参りますと、必然的に無常とか無我の教えに辿り着きます。そう致しますと、自分だけが救われたいと言う心では落ち着けないと言うことになります。それを道元禅師は、先ずは他の人々、一切の衆生が救われる道を求める、これが真実の菩提心だと言われたのだと思います。

●修証義―第19節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))
其形陋し(そのかたちいやし)というとも、此心発(おこ)せば、已に一切衆生の導師なり、設い(たとい)七歳の女流(にょりゅう)なりとも即ち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父なり、男女(なんにょ)を論ずること勿れ(なかれ)、此れ仏道極妙の法則なり。

●西川玄苔老師の通釈
過去世の業の報いにより、畜生や餓鬼のようなみにくい、いやしい姿形の者でも、一切衆生を自分より先に仏道を成就させようという菩提心を発すならば、発したその時より、一切衆生を導く大先生である。或は法華経の提婆達多品(だいばたったぼん)の中で説かれてあるように、童女という畜生の身のしかも七歳(法華経では八歳)の娘でも、この菩提心を発せば、出家の男女の仏弟子、在家の男女の信者の大先生であり、又、一切衆生を慈悲心により本当の道を教える父親である。男性だから尊いとか、女人だから禁制だと言う、男女の区別をする必要はない。菩提心を発せば、男女、身分、学問のあるなし、才能の優劣にかかわらず、すべて一切の衆生を導く大善知識であることは、仏道の極めつきの法則である。

●あとがき:
この章の題名『発願利生』は一般的な言葉ではありませんが、広辞苑で調べますと、発願とは、仏・菩薩が衆生を救おうとの誓願をおこすこと、利生とは、仏・菩薩が、衆生を利益と幸福を与えることでありますから、菩提心を言い換えた言葉であることが分かります。

道元禅師は、菩提心を発す事が仏道を歩み始める第一歩だと申されている一方、菩提心を起こしたら、もうその時から、仏道の大先生だとも申されています。これは、白隠禅師が『衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、衆生の外に仏なし』と言われている事に通じると思います。もともと、仏になることを約束されていると言うこと、もともと絶対世界の仏の命から生まれ出て来ているのだと言うことだと思います。

私は、私達人間が絶対世界からこの相対世界のこの世に生まれ出たが故に、絶対世界即ち、悟りの世界、真実の世界、お浄土を求めるのではないかと考えます。

そして、相対世界のこの世にありながら、浄土の風光をこの身に感じられる事を我々に実証せられた方が、お釈迦様であり、多くの祖師方であると思います。

自分と他人の区別が無く、皆一緒になって、真実の世界に参りましょうと言うのが、大乗仏教の菩提心なのだと思います。

●次週の修証義―第20節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))―
若(も)し菩提心を発して後、六趣四生(ろくしゅししょう)に輪転(りんでん)すと雖(いえど)も、其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり、然あれば従来の光陰は設(たと)い空しく過すというとも、今生の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願すべし、設い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚お廻らして衆生の成仏得道に回向するなり、或は無量劫行いて衆生を先に度(わた)して自らは終に仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益(りやく)するもあり。


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No.315  2003.09.04

霊魂に関する考察

先週の木曜コラムでは、私達人間の身体は、他の動植物と原子のやり取りをしており、自然と一体のものであることを化学的に考察してみました。更に、科学的知識で駄目押しを致しますと、原子を構成している要素の一つである『電子』と言うものも又、私達の体から離れたり、また入って来たりしています。冬場には特に感じる静電気現象は、私達が接触している、例えば衣服や座席シートなどの他の物体に私達の体から電子が奪われたり、奪ったりする事に起因しています。

時時刻刻、原子も電子も私達の肉体を構成する素粒子は入れ替わっており、私達の身体は昨日と同じものではない事は確かだと思いますし、自然と一体の身体である事もまた事実であり真実だと思います。

一方、私達人間を、肉体だけで捉える訳には参りません。心と言いますか、精神と言いますか、他の動植物にはないであろう感情と言うものも持ち合わせています。『肉体は、死ねば消失するが、心は無くならない』と言う考え方が、霊魂説です。お釈迦様の生きておられた頃のインド地域では、霊魂の存在を考えていました。霊魂は不滅で、肉体は色々な動物に変化しても、霊魂が輪廻して行くと言うのが霊魂説です。お釈迦様は、これに対して、縁起説を唱えられて、霊魂の存在を認められませんでしたが、現代でも、『魂よ安らかに!』と、キリスト教でも、仏教徒でも、一般の方々も、何か魂的(たましいてき)なものを完全に否定しきれないでいるように見受けます。

お釈迦様は、霊魂の有無を確認する術(すべ)が無い故に、論じても結論は得られない、人間が認識出来る現象世界のみを思考対象とすべきであると言うお立場を取られていたのですが、2500年も前のお釈迦様が、極めて科学的なお立場を取られていた事に感動を覚えます。

しかし、現代に伝わっている仏教の立場は、宗派にも依りますが、お釈迦様のものとは若干異なっているように思えます。月曜コラムで勉強中の修証義の中でも、道元禅師は、はっきりと三世の因果を説かれています。前世(ぜんせ)・現世(げんせ)・来世(らいせ)と、業が繋がって行くと言われていますが、これは、表現を換えれば、或は受け取り方によれば、霊魂説なるものと区別が付き難いのではないでしょうか。また、親鸞聖人が日本浄土門の原点であるとされている源信僧都(げんしんそうず)も、横川法語(よかわほうご)の中で、『まず三悪道(地獄・餓鬼・畜生)を離れて、人間に生まるる事、大きなるよろこびなり』と詠われています。

この六道輪廻(ろくどうりんね)とか、三世因果(さんぜいんが)に関しまして、私自身、しっかりとした見解を持ち合わせるに至っておりませんので、道元禅師や源信僧都のお考えを、もしお釈迦様がお聞きになったとしたならば、どのようなコメントをされるか、と興味を持ちます。

現在のところ、私は、道元禅師も源信僧都も『現在の自分があるのは、突然として生まれ得たものであるはずが無い、物事には必ず原因があって縁が働いて結果を生じると言うお釈迦様の縁起の真理から言っても、自分にも過去があり、現在があり、未来もある事は間違いの無い真実である』と、確信を持って説明されるのだろうと思います。これは科学的真実ではありませんが、井上善右衛門先生がよく使われておられた『宗教的真実』なのだろうと思います。

お釈迦様は、この世の現象や存在は縁によって起こっていると言う上述の『縁起の真理』に気付かれました。『現在は、過去の様々な原因や条件の積み重ねによって成り立っている』と言う事ですから、過去を否定されているわけではありません。ただ、過去を詮索しても現在は何も変わらない、未来を心配しても未来が確約されている訳ではない、ただ現在をより良く生きる事に熱心であれと言うお立場でした。

三世因果の教えも、六道輪廻の考え方も、だからこそ人間の命を頂いている現在を大切に生きようではないかと言うお釈迦様の教えが根底にあるものだと受け止めるべきであると思っています。

そして、霊魂と言うものが、個々の生命体に独立して存在すると言う考えではなく、宇宙を動かし、地球を公転・自転せしめる『不可称、不可説、不可思議の大いなる働き』そのものが生命力(せいめいりょく)であり、この生命力から私達は縁によって人間の姿を持って生まれ、そして縁が尽きて姿は滅するけれども、生命力は滅しないのだと言う事ではなかろうかと思います。

明治・大正・昭和と生きられた浄土真宗の学者であり信仰者であられた金子大栄師が『花びらは散っても花は散らない、形は滅びても人は死なない』と言う詩を残されていますが、私達も、仏法を聞き開けば、何れはそう言う永遠の生命を自らの命として感じられるようになるのではないかと思います。

『不可称、不可説、不可思議の大いなる働き』を如来(にょらい)と言ったり、仏と名付けたり、法と呼んだり致します。自分の生命が仏そのものであると自覚出来る、それが本当に救われたと言うことであり、禅宗のお悟りだろうと思うのです。そして、常に仏と共にある喜びの表現が、親鸞聖人の南無阿弥陀仏なのだと思います。


前回と今回のコラムと合わせて、法話コーナー、青山俊董尼の最新の法話『仏様の御手の中だから大丈夫』 をご覧頂ければ、私達の命に関する仏教の考え方が深まるものと思います。


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No.314  2003.09.01

修証義に啓かれてー第18節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))―

●まえがき:
仏教には、大乗仏教と小乗仏教と言う分類があります。インドからセイロンなど南方に伝わった仏教に代表されますのが小乗仏教と言われています。自分の悟りを求めて色々と励む仏教と言ってもよいでしょう。お釈迦様が悟りを求められて、禅定を求められたり、苦行されたりしたのと同じような道を歩もうと言うものです(お釈迦様は、悟りを開かれてから、自分だけが救われた事に満足されずに、先ずは一緒に修行していた5人の仲間に悟りへの道を説き、そして、当時のインド地域の国々を廻って、人々の教化に50年の歳月を捧げられました)。

大乗仏教は、自分だけの悟りではなく、仲間ともども、世界中の人々と一緒に救われる道を求める仏教と言ってよいでしょう(お釈迦様の後半50年の歩みを大切にした仏教へと発展したものと思われます)。

一人乗りの小さなボートで彼の岸(かのきし)を目指すのが小乗仏教で、豪華客船のような大きな船に大勢で乗って彼の岸を目指すのが大乗仏教であると思いますが、勿論、この分類は、大乗仏教側からの分類で、小乗仏教側は、決してそのようには分類していません。

この第18節から、本当の菩提心(ぼだいしん)と言う事に付いて、説明がありますが、菩提心とは、簡単に言えば『悟りを求める心』ですが、本当の菩提心とは、大乗の菩提心であり、自分一人の悟りを求めるのではなく、自分の悟りよりもむしろ他の人々の悟りを優先するのが、真の菩提心であると言われます。

自分が救われずして、何故他の人々が救われるような事が出来るのだろうかと言う疑念を持たれると思いますが、読み進みますと、頭では何と無く分かるものと思われます。

●修証義―第18節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))
菩提心を発すというは、己れ未だ度(わた)らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも早く自味得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし。

●西川玄苔老師の通釈
大乗仏教徒は、菩薩精神の根本である菩提心を起こして、真実の道を歩んでいくのである。然らば、その菩提心とは、どのような心なのであろうか。それは仏の教えにより、宇宙と続いて生きている本当の自己に目覚め、その本当の自己を徹底して学んでいき、宇宙古今一切はわが身であると成りきってしまうとき、大覚を成じて生きながら仏となってしまうのであるが、いまだそのようにならぬ身であっても、一切衆生が仏の教えにあえず、自己を見失って迷いさすらっているのを見て、何とかして仏法に出遭い、本来の自己に目覚めてもらいたい、と願い努力して働きかけていくのが菩提心である。このような菩薩精神をば、たとい在家の人でも、出家の人でも、天上界の神々でも、いかなる人間にあっても、苦にあろうが、楽にあろうが、どのようであろうとも、自分自身が仏としての完成が出来るよりも、人々をして仏として完成せしむるように、縁の下の力持ちになって活動する心を発するべきである。

●あとがき:
適切ではない喩えかも知れませんが、最近、報じられます北朝鮮からの『脱北者』を本当の菩提心を理解する手掛かりにしたいと思います。
脱北者とは、北朝鮮から国境を越えて中国に脱け出た人々の事ですが、『脱北者』は、北朝鮮は食料も無く、自由な発言も出来ないし、とても人間の住む国ではない、世界の普通の国はこんなはずはないと気が付いて、死の危険を覚悟の上で脱出を図った人々だと思われます。

自分の国が苦しみの国であると気付いた人々が、自分の力で、幸せの国を求めて国境を越えている訳ですが、これは丁度、この世が苦しみの世界だと気付いて、自分が救われる道、即ち、悟りを求めて仏法を求める立場だと思います。私は脱北者を勇気ある人々と尊敬は致しましても、批判する気持ちは全くございませんが、敢えて言うならば小乗仏教的と言い得るかも知れません。

大乗仏教的考え方とは、国民全員で幸せな国に行きたい、むしろ北朝鮮と言う国を幸せな国に変えて、皆が一緒に救われたいと努力するものだと言ってよいでしょう(これまた非常に険しい道ではありますが・・・・・)。

私は、北朝鮮の国民の殆どが『自分達は苦しみの国で生活している』とは考えていないと思います。私達外部の人間は、食糧事情を聞いたり、痩せこけた乳幼児をテレビで見たり、粛清があったりする事を知りますと、とても不幸な国だと思ってしまいますが、世界の国々の生活水準を知らされていない北朝鮮国民は、苦しみは苦しみであっても、これは幸せな国を目指す上で致し方ない事と考えているに違いありません。そしてその中で、私達と同じように幸せも感じる時もあるのだろうと思います。

これは、他人事ではありません。私達も、この世が苦しみの世界である事に気付いていません。苦しみも多いけれども、結構楽しい事もある、いや、自分の努力で、楽しいだけの幸せな生活が実現出来ると考えて日々努力奮闘しています。この世が苦しいだけの世界と感じるならば、死にたくないとは思いません。

真実の幸せな世界を知れば、そんな国に生まれたいと思うのが自然な感情です。真実の世界を知って、そんな国に生まれ行きたいと求めるのが、菩提心だと思います。しかし、自分だけと言う考えがある限りは、本当に幸せな世界には至らないと言うのが、大乗仏教の考えではないかと思います。

私達は、北朝鮮の国民を可哀相に思います、憐れに感じます。何とかならないかと心を 痛めます。それは、丁度、阿弥陀仏が私達衆生を何とかして救い取ろうと言う願い(本願)を持たれていると考える、浄土門の阿弥陀仏の慈悲と言う考え方に通じるところがあると思います。

北朝鮮の国民の苦の原因は、他国民から見れば、明確でありますように、私凡夫の苦の原因は、仏様の世界(宇宙の真理)から見れば明白です。この世の苦の原因を自覚して、取り除く努力をするのが菩薩道なのだと思います。

●次週の修証義―第19節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))―
其形陋し(そのかたちいやし)というとも、此心発(おこ)せば、已に一切衆生の導師なり、設い(たとい)七歳の女流(にょりゅう)なりとも即ち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父なり、男女(なんにょ)を論ずること勿れ(なかれ)、此れ仏道極妙の法則なり。


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No.313  2003.08.28

自然と一体の生命

私達の体は、水素、酸素、炭素、窒素を主体としてその他20数種類の原子達の集まりです。

お釈迦様が生きておられた当時のインド紀元前500年頃は、人間は、地、水、火、風の四大元素の集まりと考えられていましたし、デモクリトスと言う古代ギリシャの哲学者(唯物論者)が、原子の存在を予見していましたので、人間の想像力は大したものだと思います。

未だ原子の存在が科学的に証明されていない奈良・平安時代に生きた行基菩薩は、『山鳥のほろほろとなく 声きけば 父かとぞ思う 母かとぞ思う』と詠われ、自然と一体の命を実感されていましたし、鎌倉時代の親鸞聖人も、地球上の生き物はすべて、自分の過去・未来の父母か兄弟であると感得され、やはり自然と一体の命に目覚められていました。すごい想像力であると感動させられます。

現代におきましては、人間の体の60〜70%は水(水素原子2個と酸素原子一個が構成する水分子)であり、その他の組織は、核酸、たんぱく質、脂質などの沢山の有機分子から構成されて、何れも水素原子・酸素原子・炭素原子・窒素原子の集まりであると解明されています。

これらの水分子や有機分子を構成する個々の単一原子は、人間が呼吸したり、食事をしたり、排泄・発汗する事により、常に入れ替わっています。最近は、食材の殆どが海外から輸入されていますから、私たちの体を構成する原子は、地球上に存在するあらゆる地域の原子と入れ替わっていると考えて間違いありません。

私達が空気中の酸素を吸って、炭酸ガスを吐き出しますが、この炭酸ガスは、人体を構成する炭素が酸素と結び付いたものです(酸素の結び付く現象を酸化とか燃えるといいますが、燃える事により、私達が活動するエネルギーを生み出してくれます)。そして更に、私達が吐いた炭酸ガスは、植物の持つ葉緑素の働きで、太陽の光を利用した光合成によって、植物は炭素原子として取り込み、炭水化物に変えて、酸素ガスを放出します。ですから、私達の細胞を構成していた炭素が植物を構成する炭素になりますし、また、その植物を私たちが食物として食べて、また人体に取り入れると言うように、限りなく循環致します。

人体の殆どを占める水も、個々の水分子は、太平洋の海水だった分子もあるでしょうし、ヒマヤラの雪だったかも知れません。南極の氷だったかも知れません。台風が連れて来た雨の水分子も混じっていることでしょう。人体の水も常に入れ替わっていることは間違いありません。

私の肉体が生命力を失えば、土葬にしても火葬に致しましても、大半が水と炭酸ガス、微量の窒素酸化物と金属酸化物になり、原子の殆どは、生命体の循環から外れる事はありません。

こう考えますと、私達の体は、地球の自然と一体のものだと実感出来ますし、常に変化して行くという仏教の無常観、そして、私ひとりで私があるのではないという仏教の無我の精神が実感出来ます。

私がこの生命を失いましても、私を構成していた原子達は、地球上一杯に広がって存在していることは、科学的事実であり、真実であります。私達夫婦の両親は既に亡くなっていますが、両親の体を構成していた原子達の一部は、必ず、私達の体に取り込まれているはずです。両親だけではありません。お釈迦様や親鸞聖人の体を構成していた原子も頂いているに違いありません。

そして、この原子の循環、遍満を演出しているのが、生命力であると言えるでしょう。そしてこの生命力は、地球を動かし、太陽と地球の位置関係を保ってくれる宇宙を動かす力でもあるのでしょう。 その生命力から生まれた人間であるが故に、この生命力はどうしても解明する事が出来ない事であると、『無記(むき)』とおっしゃり、お釈迦様は論ずること止められたと聞いております。

親鸞聖人は、この宇宙を動かす働きを不可称、不可説、不可思議の阿弥陀仏のお働きの一つであると受け取られて、生死の事は、阿弥陀仏の本願力に一切お任せして、ただ念仏申されたのではないでしょうか。


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No.312  2003.08.25

修証義に啓かれてー第17節―

●まえがき:
『幼子が、次第次第に、知恵付きて、仏に遠くなるぞ、悲しき』
と言う詩句は、確か山田無文老師からお聞きしたものだと思います。
地球上のあらゆる生命は、生命を頂く瞬間は、人間も他動物も植物も同じ生命を頂くのだと思いますが、どうやら人間だけは、頭脳と言う細胞機関を持ち合わせるために、外界から色々な知識を学習・習得し、他の動植物には無い『幸せ感』と共に『悩み』をも抱えるようになるのだと思います。

上記の詩句の中の『知恵』とは、『自己愛』と言い換えても良いと思います。生れ立ては、本能に従って、母親のお乳を求めて、そして生理現象として排泄するだけですが、周りの人間達から誉められたり、叱られたり、美味しいものを与えられたりしながら育つに従って、欲望を増大させ、煩悩を育てていくのだと思います。

20年間も人間を続ければ、欲望の塊(かたまり)になり、三大煩悩(貪欲・瞋恚・愚痴)の住家となってしまうのは、当然の帰結だと思われます。

禅宗では、本来の清浄心(しょうじょうしん)に立ち返る事を目標として努力する訳ですし、浄土門も、その清浄心を仏心と言いますが、20年間もかけて育てた自己愛・煩悩を自分の力で除去し、本来の清浄心が如何なるものかを感知出来るようになるのは、並大抵の事ではないと思われます。

●修証義―第17節
諸仏の常に此中に住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、群生の長(とこしな)えに此中に使用する、各各の知覚に方面露(あらわ)れず、是時十方法界の土地草木牆壁(しょうへき)瓦礫(がりゃく)皆仏事を作(な)すを以て、其の起す所の風水の利益に預る輩、皆妙甚不可思議の仏化に冥資せられて親(ちか)き悟りを顕わす、是を無為の功徳とす、是無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。

●西川玄苔老師の通釈
諸々の仏がたは、いつも三帰、三聚浄戒、十重禁戒という大清浄心そのものの働きに安住し持続しておられるから、生活のあらゆる方面において、水の流れるごとく、何の思い煩いも執着もなく活躍なされておられ、私ども衆生も、懺悔、受戒せし者は、いついつまでも、この本来具足の大清浄心の働きにより、生活すべての方面の気配りにおいて、水の流れるごとく、思い煩いも執着もなく、処置していくのである。このような大清浄心の働きのときは、その人の環境の十方世界のその土地でも草木でも、垣根、壁、瓦や石ころにいたるまで大自然ひっくるめて、清浄心の活躍がなされており、逆に又、その大自然の地水火風空の清浄心の利益を蒙る私どもは、皆はかりしれない清浄心に、知らず知らずのうちに助けられて宇宙一杯の大清浄の働きとぴたりと波長が合って、宇宙一杯がわが身であったという、本来の自己に目覚めるのである。これが、何のはからいも作為もなく自然に法のままなる、大功徳の現れた生命実際の運転であり、このような法そのままの働きが、菩提心自らの力で菩提心を発起し運転しているというのである。

●あとがき:
浄土門では、自己の罪悪深重(ざいあくじんじゅう)なることを心深く認識出来たと同時に、そう言う私をどうしても救わずにおられないと言う『本願』に目覚めしめられ、『回心(えしん)』即ち、心の転換が起こり、禅宗で言うところのお悟りに至るのだと思います。

ただ、自己の罪悪深重は、本来の清浄心を鏡としてしか映し出されない訳でありますから、禅宗と浄土門における心の転換の瞬間の表現が裏表であると言うだけであると思います。

そして、いずれにしましても、自力を尽くし尽くして、矢尽き刀折れて、どうしようも無くなった時に、初めて感じる『生かされている命』、『他力に生かされている命』ではないでしょうか。私たちは、『私が何とかして・・・・・』と言う想いを手離すことはなかなか難しいと思います。親鸞聖人は、それを『難中の難』と言われたのではないでしょうか。

でありますから、自分が救われたいと言う、悟りを求める心がある限りは、本当の菩提心が開発されたとは言えないのだと思います。

自分の悟りを求める限りは悟りには至らないと言う事は、一般的な思考方法では理解出来ないことでありますが、これは仏法の真実だと思います。
そのあたりの事が、次節以降に述べられているのだと思います。

●次週の修証義―第18節(第4章発願利生(ほつがんりしょう))―
菩提心を発すというは、己れ未だ度(わた)らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも早く自味得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし。


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No.311  2003.08.21

取り越し苦労して想う事

3年前の夏から始まった私の経済危機は、新しい夏を迎える毎に厳しくなっています。しかし、今年も、まだ出口の明かりが見えないままではありますが、破綻には至らないままに夏を迎える事が出来ました。今年になりまして、昨年の夏には未だ兆候も無かったスタンプ製品の売上が続いていたり、 考えもしなかった知人から個人への経済的支援を頂いたりと、不思議に何とか凌いで来れたように想います。しかし、家の売却が想うようにいかなかったり、色々と取り越し苦労も重ねても参りましたし、今も、正直なところ、取り越し苦労の連続であります。

人間と言うものは、特に生活上に大きな問題が無い順境におきましては、その状態が何時までも続くと言う錯覚を致します。そして、逆に大きな問題を抱えて、悩ましい日々が続く逆境におきましても、その状態が何時までも続くと言う、これまた錯覚をして、更に自分を追い込んでしまうものです。

人間は、順境にあっては実にめでたき存在であり、逆境にあっては実に助け難き存在であります。どちらも真実が分かっていないと言う『無明(むみょう)』に根ざすものであると、仏教は説きます。
仏教の言う真実とは、この世のあらゆる現象と存在は、縁によって生じ、縁によって滅すると言う『縁起』の道理(因縁果の道理と言っても良いでしょう)と、更に、縁によって生滅するからこそ『無常』(すべては移り変わって行く)であり、『無我』(すべての存在は、他の存在と無関係に存在する事は無い)であると言う真理を言います。

そして、私たちの苦しみは、無常であり無我であるところの自己そのものに執着する自己愛(我執)から生じていることも間違いありません。

ここまでのところは、仏教のお話を聞いたり、解説書を読めば、誰にでも理解出来ると思います。しかし理解は出来ますが、では自己愛がなくなり、あらゆる執着が消え去って、苦から解脱出来るかと申しますと、そうは参りませず、依然として解脱出来ない自分でしかありません。

私の今の状態がその通りでありますが、多くの方々におかれましても、そう言う状態を経験されているのではないでしょうか。大変歯がゆい状態であり、悩ましい状態であります。簡単には抜け出ることが出来ない蟻地獄状態であると言ってよいと思います。

この状況を先師は、『自分が乗っている板を自分で持ち上げようとしている状態である』とか、『ザルで水を掬い取ろうとしているような状態である』と説明されています。どちらも、徒労に終わるであろう事は直ぐに分かりますが、こう言う説明が昔からあると言う事は、私たちが陥り易い状態であるからなのでしょう。

自己愛を自分の努力で放棄しようとすることは、まさに自分が乗っている板を自分が持ち上げようとする努力に相当するでしょうし、仏法を何とか自分のものにしようとする努力は、ザルで水を掬い取ろうとするようなものであると思います。

では、この徒労から脱出する道は何処に見出せるのでしょうか、親鸞聖人は、『煩悩を断ぜずして涅槃を得る』と言う難しいことをおっしゃっていますが、『煩悩を断じる事は出来ないけれども、悟りは得られる道があるのだよ』と、私たちに示されています。

私が存じ上げ、尊敬申し上げている、故井上善右衛門先生、西川玄苔先生、そして故白井成允先生、青山俊董尼などの方々は、間違い無く、親鸞聖人の至られた世界を実感なされた方々であると存じます。その世界に至る方法は、口で説明して頂き、頭で理解出来ると言うような次元のものではないのであろうと考えています。

この私が陥っている蟻地獄は、親鸞聖人をはじめとして、多くの先師方も経験されたものだと思われます。親鸞聖人は、20年にわたる比叡山でのご修行と、六角堂への100日間の参籠に継いで、その直後の、やはり100日間法然上人の法座(法話を聞く会)に通われました。そして漸くコペルニクス的な心の転回を為され、法然上人と念仏に帰依されました。

この親鸞聖人のコペルニクス的心の転回を『回心(えしん)』と申しますが、これは天動説から地動説に転回した如く、『私が生きているのではなく、天地宇宙一杯の働きの中で生かされている自己に目覚めた』と言うものであろうと想像致しますが、あくまでも想像であります。

道は遠くて、私には見通せませんが、先師の辿られた道を信じて、焦ることなく、一歩一歩歩むことしかない、しかし必ず到達出来る道なのだと言い聞かせているところであります。


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