仏様の御手の中だから大丈夫

青山俊董老尼

『本来』と言う言葉を『仏』『仏性(ぶっしょう)』などと申しますが、仏性の展開としての一切の存在を『悉有(しつう)』と言いまして、仏教や禅でよく使われる言葉に、『悉有仏性』があります。この『仏性』が『本来の面目』の『本来』にあたり、『悉有』を『面目』という言葉にあてはめてもいいかと思うのです。

『悉有仏性』には、二つの見方があります。従来の言葉の受け止め方は、『悉(ことごと)く仏性有り』です。みんな仏様になる資格を持っている。仏様になれる性格をもっている。可能性をもっているという意味です。

たとえば、『唯識(ゆいしき)』という仏教の深層心理学といえる学問がありますが、そこでは『種子(しゅうじ)』という言葉を使います。仏さまになる可能性という意味で『仏性の種子』をもっている、という受け止め方をしています。

犬であろうと猫であろうと、この地上の一切のものが、仏としての種子、仏さまになる可能性をもっているという受け止め方です。『南泉斬猫(なんせんざんみょう)』『狗子仏性(くしぶっしょう)』という問答も、その仏性について語ったものです。

この『悉く仏性有り』という見方は、たとえばさくらんぼの中に種があるように、私の中に仏性の種と言う尊いものをもっているから、持ち主の私も尊い、というような考え方となり、切り口によっては尊くないところばかりになりかねないという一面もあります。

道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中に、『仏性の巻』というのがありまして、『みみずを二つに切った。両方動いているが仏性はどっちに行った?』というお話が出てまいります。もっているとか、いないとか、ある、ないという読み方になると、一つのものの中に尊い仏性と、尊くない場所があるという受け止め方をしたくなりますが、道元さまの受け止め方は違うのです。

『有』というのは、『ある』『なし』だとか『もっている』『いない』という読み方をせず、そういう見方にはならない。『有』は『存在そのもの』、『一切の存在は、仏性そのもの』というのが道元様の読み方です。猫という存在、犬という存在、花という存在、私という存在そのものが仏性そのもの。一分(いちぶん)ではない、全分(ぜんぶん)なんだ、一つなんだという受け止めです。

分かりやすいたとえとして、まどみちおという方の『水は、うたいます』という詩を、よく引用して理解の助けにしています。

水は  うたいます
川を  はしりながら
海になる日の  びょうびょうを
海だった日の  びょうびょうを
雲になる日の  ゆうゆうを
雲だった日の  ゆうゆうを
雨になる日の  ざんざかを
雨だった日の  ざんざかを
虹になる日の  やっほーを
虹だった日の  やっほーを
雪や氷になる日の  こんこんを
雪や氷だった日の  こんこんを
水は  うたいます
川を  はしりながら
川であるいまの  どんどこを
水である自分の  えいえんを

『海になる日のびょうびょうを 海だった日のびょうびょうを 雲になる日のゆうゆうを 雲だった日のゆうゆうを』というように、過去形、未来形、過去形、未来形と織り成しながら、一つの水が、同じ液体であっても、川の姿をとるとき、海の姿をとるとき、雨の姿をとるときがあり、或は、条件が変わる事によって、気体になります。その気体も、さまざまな雲の姿をとったり、夢を見るような虹の姿に変わってみたり、一つの条件が変わることで、雪や氷というような固体になったりとさまざまに変わります。

たった一つの水が、縁に従って、液体となり、気体となり、固体となる。そうした具体的に姿をいただくと、初めがあり、終わりがある。たとえば私という具体的な姿をいただくと、必ず初めがあり、終わる日があります。

しかしながら、なくなってしまったのではなく、変わりつつ永遠のいのちを生き続けているんです。条件次第でさまざまな姿に変わりますが、無限の展開をしたに過ぎないんです。水からいただき水に帰るいのち、仏からいただき仏に帰るいのち、『帰命』という言葉はそれですね。どこへも行きはしない、変わりつつ永遠のいのちをいただいているという受け止め方、これを、まどみちおさんの詩にたとえると、仏性と悉有のかかわりというものを理解する助けになる気がします。




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