No.270  2003.03.31

阿含経(あごんきょう)を訪ねて―12―

●今日の阿含経:『人の牛をかぞうるなかれ』

●まえがき:
今日の阿含経は、お経や聖典をうまく暗誦するだけでは意味が無い、それはちょうど『他人(ひと)が持っている牛をかぞえるようなものだ』とお諭しになったものです。

『人の牛をかぞうるなかれ』は、『他人様が飼っている牛が何頭かを数えても仕方が無い事だ』と言う事です。無相庵カレンダー4日のお言葉『他はこれ吾れにあらず』に通じるものだと思われます。

お釈迦様の生きておられた当時のインドでは、牛が財産だったのでしょう。一つの村があると致しますと、その村の周囲に森があり、その森に日中には銘々の家から牛を遊びにやるのですが、銘々の家から牛飼いをやる訳にはまいりませんから、共同で一人の牛飼いを雇います。彼は、朝、牛を連れて行くときに、「今日は3頭お預りします」と言って夕方はその3頭を返す。毎日彼はお客様の牛を勘定する。牛飼いはただひとの牛を数えるのみです。頼まれ仕事として、牛を毎朝、毎晩、勘定しています。しかし、ちっとも自分の牛が増えるわけではありません。

お釈迦様は、こう言う日常生活の営みの中に巧みに比喩を求められたお言葉を多く遺されています。ご自分の悟られた真理を何とかして伝えたいと言うお釈迦様のお気持ちの表れでもありましょうが、稀代の覚者でもあると同時に、稀代の教育家でもあられたと言うべきでしょう。

●阿含経(増一阿含経24):人の牛をかぞうるなかれ

無益なることを多く誦んずる(そらんずる)も、此のことは妙となすべからず。他の牛をかぞうるが如し。これ道を求むるものの要(かなめ)に非ざるなり。

●現代意訳:
お前達はいつも経文を競い合って暗誦しているが、無益で馬鹿らしいことだ。そんな事は大切なことではない。それはまるで他人様が飼っている牛を勘定しているようなものに過ぎない。それは、道を求める者の本当の遣り口ではない。

●あとがき:
お釈迦様は、お経とか聖典そのものを無益だとおっしゃっていないと思います。仏教を求めた最初の頃の新鮮な求道心(菩提心)を忘れて、お経を覚える事や礼拝の仕方が大目的になってしまってはいけないと言う事だと思います。ここのところは、宗教を求めていく時に能く勘違いし踏み迷ってしまいがちなところだと思います。

『論語読みの論語知らず』と言う古い教訓もございます、これを『聖教読みの聖教知らず』とも言い換えられてもいますが、私達仏教徒にとりまして、経文無しでお経をあげられたり、正しく座禅が組めたりする事が目的でないことは勿論ですが、得てして、形式に囚われ、本来の目的を見失いがちであります。

私も、こうして無相庵コラムを書いていますが、ただコラムを書き続ければ良いと言う訳でないぞと戒められている想いが致します。仏道本来の目的である自分自身を見詰め直していく機縁としなければならないと諭されている想いであります。

『驚かす甲斐こそなけれ村雀 耳馴れぬれば鳴子(なるこ)にぞ乗る』と言う古歌があります。鳴子と言うのは、雀を追い払うための農家の道具です。天日干(てんぴぼし)しているお米とかの作物を狙って寄ってくる雀も最初は鳴子の音に怖がって飛び去りますが、毎度毎度のこととなりますと、驚かぬようになるどころか、最後には、その鳴子の上に乗ってしまうと言う詠です。蓮如上人が、この詠を引用されて、聴聞(仏教のお話しを聞く事)を幾ら重ねても『この話は以前にも聞いた、自分は既に知ってる』と言葉の表面だけに囚われた姿勢では、耳慣れ雀になってしまい、何の為の聴聞か分らなくなると戒められています。

浄土真宗では『仏法は聴聞に尽きる』と説かれ、ご法話を聴き続ける事が肝要と教えられます。本当にそれは間違いなくそうなのですが、有り難いお話しも、馴れてしまえば、有り難く無くなってしまうのが、私達の常であります。

こう言う私達を想定されまして、お釈迦様は、それは他人の牛を数えるようなものではないか?聴聞を重ねて、お念佛が自然と口に称えられるようになるのも良い、何十年と座禅を組むのも良いし、南無妙法蓮華経のお題目を朝晩唱えると言うのも立派な事ではあるけれど、仏教を求めると言う本来の目的は何か?と問い掛けられているのだと思います。

人の牛をかぞうるなかれと聞きまして、私はそんな他人様の牛の頭数を数えるような愚かな事はしないと思われる方が多いと思います、私もその中の一人です。
しかし、考えて見ますと、他人様のお葬式に悲しげな風情でお参りは出来ましても、いざ自分の死に直面した時には悲しいと涙を流すだけでは済まされない、いや涙も出ない重大な局面に立ち往生するに違いありません。それが自分の死でなくとも、愛する家族の死を宣告されても、心は乱れて、落ち着きどころが無くなり、あれほど仏法を聞いていたのに……何を聞いて来たのかと言う時が必ず参ります。仏法を他人事に聞いていた事に気付かされる時が来るのです。

仏法を聞いて、死が辛くない、悲しくない、喜んで死んで行けると言う事にはなら無いと思いますが、知識としてとか、他人事として仏法を聞いていますと、それまでの人生観は瓦解(がかい)してしまいます。浄土真宗のご法話で『後生の一大事』と何回もお聞きしながら、やはり人の牛をかぞえていたと言う事になってしまいます。

井上善右衛門先生が常々、『法は身をもって聞く』と言う事を説いて下さいました。これは、浄土真宗では多くの方が慕われた金子大栄先生の『物は心をもって受く、法は身をもって聞く』と言うお言葉を、井上先生ご自身がそれこそ身をもってお聞きになられたからだと存じますが、このお言葉も、今日のお釈迦様のお言葉を言い換えられた尊いものだと存じます。

●次回の阿含経:紫金(しこん)の華(はな)いまだ供となさず

紫金の華、輪の如くなるを仏のうえに散らすとも、いまだ供となさず。この現身(うつしみ)に無我に入るもの、乃ち(すなわち)、第一供と名づく。


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No.269  2003.03.27

校長先生の自殺

3月9日(日曜日)、広島県尾道市の小学校校長が自らの命を絶たれました(56歳でした)。昨年、広島銀行の東京支店副支店長から、民間人校長に挑戦された方でした。

2000年に学校教育法施行規則改正により、教員免許や教職経験のない民間人が公立校の校長になれるようになったようです。既に18人の民間人校長がおられ、この4月からは51人に急増すると聞きます。

恐らくは、学級崩壊、学校崩壊、登校拒否などの状況から企画されたものだと思いますが、決して悪い発想ではないと思います。ただ、教育と言う重要な仕事、しかも教育の専門家である先生達を統括する校長と言う立場に送り込むには、少々手抜きし過ぎたきらいは否定できませんし、今直ぐにでも、新任の校長先生のスタートには配慮してあげて欲しいと思います。

報道によりますと、研修は二日間。午前10時〜午後4時、国の教育方針や広島の現状と課題、教育法規などを県教委職員が説明しただけだったと言うことです。
自殺された校長は、採用面接で、『子供が元気に育っていく姿に情熱を注ぎたい』『実社会の多方面で活躍出来るたくましい人材を小学校の頃から育てる』と言う気概を示されていたようです。

自殺された校長は、就任直後からギブアップシグナルを県教委に送り続けていたと聞きます。校長が頼りにしていた教頭先生が就任後間もない5月に脳出血で倒れた後、唯一の支えを失った校長先生は情緒不安定になって休暇を申請されたらしいし、8月にはうつ病とも診断され、11月には転任希望も出されたらしいのですが県教委は対応してくれなかったと言います。そして年明けて、二人目の教頭も心筋梗塞で入院すると言う八方塞がりの中、校長はPTA役員、教員14人とともに創立130周年記念花壇の整備に参加した後、校舎わきの非常階段で命を絶たれました。

私は、このニュースを他人事とは思えませんでした。勿論、自殺された校長にも、何故?と言う問い掛けをしたい部分はあります。困難にぶち当たって死を選ぶ事しか出来なかったと言うのは、元々教育の世界には馴染まない資質だったのではないか、だから校長への転身は甘い考えではなかったか?と言う厳しい世間の問い掛けもあると思います。

実は、私もサラリーマン時代に企業内の転身で、ほぼ同様の経験をした事がございます。私の場合は、技術課係長から製造課長への異動でした。私は、一介の技術者から何も知らずに製造現場に入り込みました。技術部門にいて、製造現場のあり方に多少の疑問と不満を持っていた私は、むしろ理想の製造現場の構築に燃えて意気軒昂に乗り込みましたが、製造部門と技術部門はすべてにおいて異なりました。別会社と言っても良い位に異なりました。
技術部門ではどちらかと言いますと、物と情報と現象を如何に扱うかと言う事が主体になりますから、知識と言う能力が決め手です。しかし製造現場は人をどうコントロールして効率の良い生産をするかがテーマですから、私がそれまで蓄積していた知識は全く役に立たなかった訳です。技術者とのコミュニケーションで要求されるものとは別次元のコミュニケーション能力が必要だったのです。しかもそれに気が付いたのはサラリーマンを辞めた随分後の事です。

そして当時は、円高不況の真っ只中で、工場全体に余裕がなく、上述の校長先生と同様、上司をはじめ、周りからの指導・アドバイスも支援も殆どなく、孤立無援と言う状態でした。登社拒否と言う状態にまで追い詰められましたが、私の場合はプライドも何もかも捨ててギブアップ宣言して、技術部門に戻して貰いました。

戻った技術部門も以前の部署ではなく、上司も部下も人間関係が一からのところでしたので、1年半後に再びギブアップし、今度は退職を申し出ました。その時も不思議に自殺と言う道は選びませんでした。死ぬ事が怖くて選べなかったと言うべきかもしれませんが、多分、お釈迦様の教えの影響だと思いますが、私にしか出来ない役割と能力がこの会社以外のところに用意されていると言う楽観的な考えがあったと思います。

脱サラしてからも今回のような倒産寸前・自己破産寸前の危機にも遭遇していますし、自殺が頭をかすめた事もありますが、でもこれまでのところは、最終的には自分の可能性を信じて未来に希望を抱いて生きています。

自らの命を絶たれた方には死ぬよりも辛い事があったのだと思いますので、私には批判出来ませんが、上述の校長先生にも校長先生以外の職業に素晴らしい能力を持っておられたはずだと思います。

人間には必ず苦境が訪れます。その苦境に真正面から立向かい乗り越える努力も貴いとは思いますが、乗り越える必要のない苦境もあると思います。天から自分だけに与えられた役割と能力があるはずだと思いますので、私はこれからも自らの命を大切にしたいと思います。

校長先生の自殺の報道から、自分の過去を思い返し、そして明日からも頑張ろうと想いを新たに致しました。


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No.268  2003.03.24

阿含経(あごんきょう)を訪ねて ―11―

●今日の阿含経:『二つの辺(はて)を離る即ち中道(ちゅうどう)なり』

●まえがき:
仏教の大切な教えとしての中道と言う言葉は、これまでのコラムで何回か紹介させて頂いておりますが、お釈迦様のお言葉としてご紹介するのは初めてではないかと思います。

現在の政府与党である公明党が立党に当って、『中道の精神』と言う言葉を使われた事を覚えておられる方もいらっしゃると思いますが、公明党の母体である創価学会は日蓮聖人を御本仏とされる仏教宗派の一つですので、中道を立党の精神とされたのだと思います。

ただ、『二つの辺(はて)を離る即ち中道(ちゅうどう)なり』と聞きますと、両極端の真ん中を歩む道であると思われるかも知れませんが、それは少しニュアンスが違います。

中道を歩むとは、極端に走らない、片寄った考え方をしないと言う事です。

お釈迦様は、インドの小さな国の皇太子としてお生まれになり、一般庶民とはかけ離れた裕福な生活を満喫され、何人かの夫人がおられたと言うことです。5欲の限りを尽くした生活を満喫されたと思われますが、29歳の時、そう言う生活に疑問と退屈、そして不安を感じられ、皇太子と言う地位と妻子を捨てて、悟りを求められて山に入り、苦行に挑戦されました。しかし、6年間の苦行にも拘わらず、心の満足は得られませんでした。

色々な説がございますが、兎に角、お釈迦様は、5欲(財産欲、名誉欲、性欲、食欲、睡眠欲)の限りを尽くしても心の平安・満足は得られないし、それらの5欲から全く離れた苦行生活でも、心の平安・満足は得られないと言う結論に達せられ、極端に走ることは無意味だと悟られたのだと思われます。

そこで、今日の阿含経のお言葉が生まれたのかも知れません。私自身も、そして世間を眺めましても、極端に走り易いのが人間では無いかと思われます。子供が可愛い、孫が可愛いと言って自省なく可愛がってしまいます。恋人が出来れば、周りの意見を無視して突っ走ってしまうのも人間です。財産・名誉・地位を求めて犯罪まで犯してしまいます。

信仰におきましても、私達は極端に走る誤りをする事があります。妄信・狂信と言われるものです。そこまででなくとも、形だけの信仰に迷い込み、儀礼・慣習に囚われて、真実の信仰から離れてしまうこともあります。浄土真宗におきましても、だだお念佛を称えることだと言い張る人もいれば、阿弥陀仏の本願を信ずる心があれは、お念佛をわざとらしく称える必要はないと言う人もいます。極端な信者は、仏壇の飾り方、御焼香の仕方に異常な拘りを押し付けてきます。

ある宗派ですが、折角の旅行見学コースになっている神社参拝を頑なに拒否して皆と別行動をとる仏教徒も現実に存在致します。信仰の自由ではありますが、信仰もそこまで頑なになりますと、仏教の宗派とは言えないと思います。お釈迦様は中道と言う教えで頑なさを否定されているのだと思います。

●阿含経(中阿含経43・56):二つの辺(はて)を離る即ち中道なり

極めて賤しき欲楽の業を求めて凡夫の行をなすなかれ。亦、みづから聖行に非ざる、義(ことわり)にかなわざる苦行を求めざれ。この二つの辺を離れなば即ち中道なり。

●現代意訳:
人間として極めてあさましい欲望に身を任せる事はしないがいい。また、神聖でもなく、道理にも適っていない苦行もしないがいい。この両極端を離れる事を中道と言う。

●あとがき:
日本人は、なかなか自分の意見を主張しない、良く言えば慎ましい、遠慮深い、悪く言えば、 曖昧(あいまい)、どっちつかずの民族だと言われます。中道も少し間違いますと、どっちつかずの道と解釈されるかも知れませんし、日本人がこうなったのも、仏教国家であった影響が悪く現れているのかも知れません。

しかし、仏教本来の中道と言いますのは、曖昧な道とかどっちつかずの道ではなく、目的に即し道理に適った道と言うべきものです。

例えとして、今まさに最中のイラク問題を例として考察致します。
今回のイラク問題の国連安保理決議に際して、安保理事国は武力行使容認派と査察継続派に分かれ、態度を明確にしなかった9ヶ国がありますが、その9ヶ国を中道派とは言わない事は勿論でございます。

では、今回のイラク問題で中道とはどう言う姿勢を言うのでしょうか、色々な意見があると思いますが、仏教の中道思想から申しますと、目的は何かと言うところを出発点と致しますので、目的は何かを議論し、その目的を達成するための方法を初心に戻って議論して決めるべきだったと思います。

大目的は世界平和でありますが、それに至るための当面の目的は、武力行使でも無いし、査察でも無かったはずです。大量破壊兵器をイラクから排除する事だと思います。その為の方法論として、大量破壊兵器を保有し得るフセイン政権を武力で打倒する事は一般市民の犠牲を考えれば決して好ましいとは言えないし、かと言って、査察によって大量破壊兵器の存在を付きとめる事は、砂漠の中に落とした宝石を見付けるような非現実的解決方法だと思われます。話し合って結論を出す努力を続けるべきだったと思います。

お釈迦様が説かれた中道精神は、人間社会の運営あり方に関して言うならば、和の精神と言い換えても良いと思います。即ち、話し合うと言う事です。今回の国連安保理の成り行きを見ていますと、話し合いは見られませんでした。一方的な主張のし合いにしか見えなかったと思います。

また、お釈迦様の中道精神を私達個人個人の生き方に関して言うならば、抑制心と言って良いと思います。一方向に流され易い自分の心を見詰め直し、一時的な感情や損得に流されていないか、道理に適っているかどうかを問い直すと言う気持ちを持とうと言う事ではないかと思います。

中道と言う言葉は、私達が世間を行き抜く上でも、信仰においても、また、人類が存続して行く上におきましても、決して忘れてはならないお釈迦様から現代人への貴重な遺言だと思います。


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No.267  2003.03.20

大疑堂(たいぎどう)

元南禅寺管長、故柴山全慶老師のご講演『妙好人と禅』の中で、白隠禅師ご開山(かいさん)の龍澤寺に大疑堂と言う座禅堂があるとおっしゃっています。最近久し振りにお聞きした講演テープで思い出しました。

禅と浄土真宗は、趣きを異にする、極端には相反し対立的な宗派の様に考えられている向きもございますが、柴山全慶老師のお話しをお聞きしますと、実はそうでは無いようなのです。

難しい説明を省きますと『禅宗は自力で悟りを開きこの世で仏になる。一方、浄土真宗は、他力(阿弥陀仏の本願力)に依って信心を頂きあの世で仏になる』と一般的には解釈されていると思います。

浄土真宗は、阿弥陀仏の本願を信じる事が一つのゴール地点で、まさしく『信』が信仰のキーワードと言って良いと思いますが、一方、禅は徹底して疑うのだと申されます。だから、白隠禅師は、修行道場に大疑堂と名付けられたのでしょう。禅は『疑』が修行の主たるキーワードになっていると言えるでしょう。

こう考えますと、禅と浄土真宗は、やはり信と疑と言う対立点を持っているかのように思えますが、しかし考えて見ますと、阿弥陀仏そのもの、或いは阿弥陀仏の本願を信じようと思っても、なかなか信じられないのです。勿論信じる努力を致します。しかし私などは今も信じられずに立ち往生していますし、親鸞聖人ご自身も『信じる事は難中の難である』とおっしゃっています。従いまして浄土真宗も禅と同様、疑って疑い抜いている事になるのだと、私は柴山全慶老師のお話しを聞いて思いました。

禅も、自分とは何か、仏とは何か、自分は生まれる前は何だったのか、心とは何か、想うと言うのは、誰が想っているのか、そう考えている自分とは何かと、徹底して疑い抜いて、最終的には疑う力が尽き果てたところに、忽然と、宇宙と一体の自己に目覚める瞬間が訪れるとお聞きしています。

これが、自力から他力への転換と思います。昔から、禅宗は、自力聖道門(じりきしょうどうもん)と言われていますが、禅宗の方が自ら自力聖道門とは申されていません、他力浄土門が禅宗をそう言っているだけであります。禅宗も最後は他力によって宇宙と一体の我が身を自覚せしめられ、救われるのだと言って良いと思います。

柴山全慶老師も、その講演で、結論としては禅宗も浄土真宗も行き着くところは同じだと言われています。禅の悟りも浄土真宗の信心も同じものだと言われていますが、大疑堂と言う事と、阿弥陀仏の本願を信じたいのに信じられない私自身を想い、成る程そうかもしれないと思った次第です。


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No.266  2003.03.17

阿含経(あごんきょう)を訪ねて―10―

皆様に、重ねて、掲示板への投稿をお願い致します。お互いに意見を述べ合うところに、真理への道が拓けると思います。宜しくお願い致します。

●今日の阿含経:『智者はつねに憂いをいだく』

●まえがき:
今日の阿含経に愚者(ぐしゃ)と言う言葉が出て来ます。反対語としての智者(ちしゃ)と言う言葉も出て来ます。
愚か者と言う言葉を聞いて、『ああ、私の事だ』と思われた方は、悟りを開かれたお釈迦様に等しい智者と申して良いと思います。普通は、周りを探して、『あいつの事だろう』と思ってしまいます。

『自分は酔っ払っていないと言う人こそ、酔っ払いだ』と申しますと同様、愚か者は自分を愚か者だとは思いません。自分にも愚かなところはあるけれど、世間一般から比べれば、まだましな方だろう、と思っています。

ただ、一般世間で言われる愚か者と今日の阿含経にある愚者とは意味合いが少々異なります。仏教で言う愚者(愚か者)とは、真理に明るくない者、すなわち邪見(じゃけん)の者、すなわち、因縁果の道理に気付いていない者だと定義して良いと思います。智者は勿論、その真理を体得している人だと言えます。

●阿含経(増一阿含経24):智者はつねに憂いをいだく

愚者はつねに喜悦すること、亦(また)、光音天の如く、智者のつねに憂いをいだくこと、獄中の囚人に似たり。

●現代意訳:
愚かなる人は、常に自分の喜びだけを求めているもので、光音天の住人の如くである。それと違って智者は、常に憂いを抱いている、それは獄中の囚人の如くである。

注)光音天とは、喜びを食べ物として、非常に安楽に住んでいる天界(神々の世界)の事です。

●あとがき:
お釈迦様は、今日の阿含経のお言葉で何を伝えたいと思われたのでしょうか。自分の喜びだけを追いかけているうちは、愚か者だよと言う事でしょうか。

そう言う意味合いもあるかも知れませんが、ここは『智者の憂い』がテーマだと考えるべきだと思います。憂いと言うのは悩みとは異なります。自分の苦が問題となるのが悩みであり、憂いは、他人の苦に関するものでしょう。仏教で慈悲と言う言葉がありますが、『憂い』は、慈悲の『悲』と考えて良いと思います。

私の様な凡夫は、悟りを開けば、苦が無くなって、悩みは消え、心穏やかで、喜悦に満ちた人生が開かれると考えてしまいますが、お釈迦様は、そうではないのだ、本当の智者ならば、自分の喜悦に留まる事は出来ない、自分以外の人々の苦と悩みが気になり、憂いが増すのだとおっしゃる訳です。

普通、『悲しい』と言えば、自分の不幸が悲しい訳ですが、これは『凡夫の悲しみ』と言う事でしょう。『智者の悲しみ』は、他の人々、社会、或いは人類全体の不幸に想いが行き届く憂いと言う事ではないでしょうか。更には、因縁果の真理に目覚めずに、一喜一憂する愚かなる者に、何とかして目覚めせしめられないものかと抱く憂いではないかと思います。

私は、この事から、キリスト様が十字架に架けられている姿をも思い浮かびました。キリスト教の神の愛にも悲しみを含まれているのだと思われます。お釈迦様も、同じお心だったと言う事が、今日の阿含経のお言葉から察しられます。

自分だけの悟り求めるのを小乗仏教(しょうじょうぶっきょう)と言いますが、自分だけの悟りに安住せずに、世の中の人々と共に救われる事を目指す大乗仏教(だいじょうぶっきょう)へと進化して行ったのは、今日のお釈迦様のお言葉を起点としたのかも知れません。

友松円諦師は、今日のお言葉に次の様な註釈を与えられています。

仏の境地、それは決して蓮の上であぐらでも組んで喜びを食っている存在ではない、仏陀というものは、最も強い憂いを持ち、その憂いの中に自分の人生の意味を見出し、世間の事を放り捨てて、じっとしては居られない気持ち、社会道義的な良心的な情熱と申しましょうか、そういった宗教的情熱の中に人生を生きておられた。そこでは、智の憂いと悲の情とが一つに溶け込んでいます。これは仏教の言葉で申しますと『本願』です。何とか世の中を良くしていきたい、何とかして世間の人々を本当の人生に目覚めさせていきたい、と言うような釈尊の道義的情熱であります。その情熱は自ら智慧の憂いから発し、民衆をして憂いの法種を宿さしめ、その正しい憂いに目覚めさせていこうという一つの強い本願であります。仏とは、こうした本願をもつ人です。世間の上に良心のうずきを感じている人です。囚人の如くに、日夜に憂いを抱く人です。個人の憂いではない。執着や欲望の憂いではない。大きな慈悲の憂いです。世間の人々を愛護する至誠からほとばしり出る真理の憂いです。この憂いに住し、この憂いにもどかしい気持ちを持っているのが、仏でありましょう。


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No.265  2003.03.13

和して同ぜず

論語に『君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず』(くんしはわしてどうぜず、しょうじんはどうじてわせず)と言う教訓があります。先日、NHKテレビ番組の中で、アメリカ女子バレーナショナルチームの一員として2度のオリンピックで活躍されたヨーコ・ゼッターランドさん(1969年生まれ)が、『和して同ぜず』と言う論語を引用された事にびっくりしました。ヨーコ・ゼッターランドさんはアメリカ生まれの日本育ちで、中学から大学まで、日本でバレーの腕を磨かれましたが、日本の組織プレーには馴染み難かったのか、単身アメリカに戻られて、才能を開花されました。
(ヨーコ・ゼッターランドさんのホームページ。なかなかの勉強家です)

私自身、サラリーマン時代、人間関係で悩んだ時、この言葉に出遭って、成る程自分は君子ではなく小人だと反省させられましたので、懐かしく思い出されました。

そのNHK番組は、日本と欧米の文化と違いに関するトーク番組でしたが、個を殺す日本バレー、個性を生かすアメリカのバレーとの違いにも言及されていたように記憶致しますが、団体競技であるバレーである事に違いはなく、アメリカでも、日本のバレーチームと同様、やはり集団の中での人間関係に悩まれた時期があった故の『和して同ぜず』の引用ではなかったかと推察しております。

考えてみますと一つの組織に集う者の目的は一つです。人類全体としては平和、国ならば平穏・繁栄、会社なら利益、スポーツチームは勝利・優勝、家庭なら家族全員の幸せと言ったところでしょうか。

しかしながら、目的は一つでも目的を達成する上での手段に関する見解が異なりますから、平和の為に戦争すると言う矛盾が起こります。国の平穏・繁栄を実現する手段が異なるので、与党と野党の間で争います。政権を守る事が目的の一つである与党内でも、政争に明け暮れ致します。一致結束しても与党と対等な闘いが出来ない野党内ですら主導権争いが繰り広げられています。スポーツでも、勝利の為に、一致団結が必要ですが、個人的な好き嫌いや作戦の取り方の違いから言い争い、団結が崩れます。

目的は一緒、手段が異なるならば、とことん手段についての議論を行えば、きっとまとまると思うのですが、悲しいかな人間は、そう言う議論を戦わす前に、感情論に陥ってしまう様に、私には映ります。斯く言う私も、そう言う立場に立ちますと、自分の意見に反対する人を、自分と言う人間を否定しているかのように思ってしまうところがあります。 現在行われている国会討論に致しましても、またイラク問題の国連安保理の現状に致しましても、正しくその状況に見えます。どう考えても議論は無いように思えます。

『和』とは、目的達成の為に、相手の意見に耳を傾けると言う事だと思います。相手を尊重すると言う事でしょう。尊重し合うところに信頼が生まれます。生まれ育ち、経験、知識が異なる訳ですから意見が異なる事は当り前ですが、相手の意見が生まれ出た背景・根拠を知れば、頷けるところも出て来るのではないでしょうか。それには先入観を混じえずに耳を傾ける事から始まるのだと思います。

国会の野党と閣僚の質疑応答は、『和せず』の典型だと思います。野党議員は首相や閣僚の意見の揚げ足を取る事しか考えていないように感じますし、首相と閣僚は、失言しまい、揚げ足を取られまいと言う答弁に終始致しております。そこには信頼関係が全く見当たりません。

『和』と言えば、『和を以って貴しと為す』と十七条憲法に明記された、和国の教主と言われた聖徳太子様が先ずは思い出されます。聖徳太子が『我必ずしも是にあらず、彼必ずしも非にあらず、共に是れ凡夫のみ』とおっしゃられた背景には、耳を傾けようと言うお心が窺われますが、十七条憲法のトップに『以和為貴』と言う言葉を持って来られたと言う事は、聖徳太子の時代も、『和』と言う事が為し難かったと考えるべきでしょう。

さて、『同じて』と言う事は、どう言う事でしょうか?『心にも無い事だけれど表面的に合わせる、付和雷同する、魂を売る』とでも言えるでしょうか。会議の中で、自分の意見は違うけれども、大半の人々が賛成するので、自分も如何にも賛成のような態度を取ったり、会社で言えば社長と言うようなボス的存在の人が強圧的に述べた意見だから、心ならずも、皆と一緒に、賛成したと言うような事が私にもあったように思います。そして、会議が終わってから、本当は私の意見は違うのだけれどと心情を吐露する。こう言う態度を『同じて和せず』と言うのだと思います。

『和して同ぜず』は、君子と言いますか、大人の態度だと思います。しかし『和する』には、謙虚さと寛容と忍耐、そして博学が必要だと思います。『同じない』ためには、勇気が必要だと思います。

皆さんはどう言う評価をされているか分りませんが、私は亡くなられた小渕首相が野党の議員の発言に対して、身体をその発言中の議員の方に向けて、真摯にお聞きになっている姿が非常に印象に残っています。小渕首相は、聞く耳を持っておられる珍しい首相だと密に尊敬していましたが、今テレビ放映されている国会中継を見る時、『和して同ぜず』とはあまりに対照的であり、皮肉っぽく申しますと『和せず同ぜず』と言ったところですので、『和して同ぜず』の風情があった小渕首相が思い出されます。

国を動かす政府、国会の人間が『和』を忘れている今日、アメリカ生活が長く、未だお若いヨーコ・ゼッターランドさんから『和して同ぜず』と言う論語を聞き、大きくは、イラク問題を解決する上での国連のあり方や日本外交のあり方に関して、小さくは私達の日常における人付き合いのあり方に関しまして、有効なサジェッション(示唆)を得た想いがしましたので、コラムテーマとさせて頂いた次第です。


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No.264  2003.03.10

阿含経(あごんきょう)を訪ねて ―9―

先週末から無相庵トップページをリニューアル致しました。掲示板コーナーを設けましたので、コラムのご感想のみならず、世相に関するご意見や日頃感じておられる事(単なる愚痴でも結構です)をご投稿頂き、無相庵を開かれた、気軽に立ち寄れるホームページにして頂きたく、ご協力をお願い申し上げます。

●今日の阿含経:『来るによろこばず去るに憂いなし』

●まえがき:
私達の人生は、出遭いと別れ、その繰り返しと言っても良いでしょう。対象が人であったり、物であったり致しますが、出遭いは楽しく、別れは辛いと言うのが普通一般的な感覚でしょうか。怨憎会苦(おんぞうえく)と言う事もございますから、必ずしも良い出遭いだけではありませんが、出遇う時、或いは新しい物を手にする時は、良い事を期待してしまうものです。

しかし、お釈迦様は今日の阿含経のお言葉で、出遭いを喜ぶな、また別れを悲しむな、悔やむなと言っておられます。

この言葉は、人生を永く生きれば、頷(うなず)けるところが出て来ます。60年近く生きて来た私などは、何回となく、出遭いに大喜びしながら、その出逢いが自分自身を苦しめる結果になった事がありますので、身に染み入るお言葉です。と言いながら、また繰り返すものと思います。

そして、これはと思った気の合った人々との別れも経験しました。そして、時が経てば、その別れの瞬間の悲しみや無念さが癒されていき、何れは別れたその事自体も恩讐の彼方に消えていると言う経験もしておりますので、お釈迦様のお言葉は、素直に頷(うなず)けます。

しかし一方、このお言葉には反論もあろうかと思います。『喜ぶべき時は精一杯喜び、悲しい時には一杯悲しむと言うのが人間らしいではないか、喜ぶべき時に喜ぶな、悲しい時に悲しむなと言われても、愛する家族を失ったら、やはり悲しいものは悲しいではないか。それがいけないと言う仏教は人間の感情を軽視し、人間性に欠けるのではないか?』こう言う意見が出て来ると思います。

私も、昔からそう思って来ましたし、今もその通りだと思います。ただ、これはお釈迦様の言葉の伝わり方の問題でありまして、お釈迦様は、そんな極端な事をおっしゃったはずがないと、最近思うようになりました。

前回のコラムでも申しましたが、中道(ちゅうどう)と言う教えは、お釈迦様の基本だと思います。『極端に走るな!』と言う事です。『何事も過ぎるなよ!』と言うお諭しだと考えたいと思います。

喜ぶなは喜び過ぎるな、悲しまずは悲しみ過ぎるな、と解釈したいと思います。

●阿含経(雑阿含経38):来るによろこばず去るに憂いなし

来る者にも歓喜することなく、去る者にも又、憂い悲しまず。染まず、また、憂いなし。二つ心ともに寂静なり。

●現代意訳:
来る者を迎えるのに、喜び過ぎる事もなく、去る者を見送るにおいても、悲しみ過ぎる事がないようにしたい。執着せず、また後悔することもない、実におだやかな静まりきった心でありたい。

●あとがき:
お釈迦様は、山奥にこもられた6年間の苦行の後に、その苦行の無意味さに気付かれ、山を下りられ、菩提樹の下で人生を深く瞑想されました。皇太子としての贅沢三昧の生活、そして苦行と言う両極端をうち捨てられた訳です。そこで中道(ちゅうどう)と言う真理を悟られたのではないでしょうか。

お釈迦様の教え、すなわち仏教を知るキーワードとして中道(ちゅうどう)と言う単語は実に適切だと思います。今日の阿含経のお言葉もその一つですが、『小欲知足(しょうよくちそく)』も、欲を無くせと言うのではなく、欲を程々にして、足る事を知れと言う教えですが、これも中道と言う考え方ではないかと思います。また、親鸞聖人の『不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)』と言う煩悩に関する考え方も、煩悩を排除すると言う極端を離れて、煩悩があるからこそ安心(あんじん、悟り)が得られるのだと言うものですが、これも中道精神から生まれたものだと考えてもよいと思います。

中道精神は、世間を渡る智慧としても実に有用なものだと思います。私達は、どうしても極端に走りがちです。そして考え違い、思い違いを致します。

湧き起こる感情を止める事は出来ないと思いますので、感情を押し殺す必要は無いと思いますが、一方で、その感情に無批判であってはいけないと思います。喜び過ぎずと言う事は、中途半端に喜べと言うことではなく、喜びは喜びとして大いに喜べば良いけれども、いつまでも続くものであるとか、喜びを独占しようとか無批判に喜ぶなと言う事だと思います。

無批判でないところに慎みも出て来て、世間と調和した生活を営むことになり、穏やかな人生を歩むことになると思います。お釈迦様の人生に対する深い洞察をお言葉の表面的な意味合いだけではなく、行間にも読み取りたいと思います。


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No.263  2003.03.06

世間と仏法

蓮如上人が『仏法を主(あるじ)として、世間を客人(きゃくじん)とせよ』と言うお言葉を遺されています。御一代記聞書(ごいちだいきききがき)と言う書物にあります。

蓮如上人のこのお言葉は、このコラムでも何回かご紹介させて頂きましたが、蓮如上人から直接説明を受けておりませんので、本当のお心はどうだったかは興味のあるところですが、ご先輩方々のご説明を総合致しました私の解釈は、下記の通りでございます。

『世間は煩悩渦巻くところである。その世間を上手に渡る方法を教えるのが仏法ではない。人生を生きていく上での中心は、仏法を聞いて仏法を実践して行くところにおかねばならない。しかし、そうかと言って、世間を離れて仏法がある訳では無い、世間を渡るに当っては、お客様をお持て成しする時の様に慎重に丁重に、且つ仏法から外れていないかと言う気配りをしながら世間を渡って行くのが念佛者の正しい姿勢である』

これは飽くまでも私の現在の受取り方であり、仏法の先輩方にはご批判があるかも知れませんが、世間を離れてしまっては仏法はその輝きを失うのではないかと言う事を、今週月曜日の阿含経コラムでも申し述べさせて頂きました。

世間を渡る上で仏法に外れていないかと言う吟味が大切であると申し述べましたが、それと同時に、損得とか善悪が基準となっている世間を渡る上では、仏法のみを頼りとせずに、世間の基本的な知識と智慧も必要である事は申すまでもありません。

世間には仏法と次元を異にする世間法、即ち公に定められた様々な法律や人間社会の慣習や道徳、そして常識的な約束事があります。これらを無視して仏法だけに頼った身の処し方や、見解を申し述べるだけでは、世間に受け容れられない事もあるでしょうし、更には世間の厳しさに翻弄され、身を滅ぼしてしまう事も有り得ると思います。

仏法で中道(ちゅうどう)と言う教えがあります。これは両極端に偏ってしまう事を戒めている教えです。それは決して両極端の真ん中を歩めと言うものでもありませんし、両極端を排除するものでもありません。仏法だけが大切ではない、世間を正しく生きる事も大切だと言う事です。お寺参りしてお説教を聞いているだけで良いと言う訳ではありません。世間にあっては、社会の一員として、世間法に従って近隣の人々と調和して、世間の役に立たねばなりません。

閉鎖的な宗教社会の中で、信仰対象を同じくする者同士だけで喜び合うと言うだけでは、正しい信仰生活とは言えないと思います。

世間を離れて仏法はありませんし、仏法無くして幸せな(生き甲斐を感じられる)世間も無いと私は思います。そこのところを蓮如上人が、冒頭の『仏法を主として、世間を客人とせよ』と言われたのではないでしょうか。

3月8日、私は58歳になります。56歳の挑戦( No.062 2001.04.02 56歳の挑戦)から丸2年が経過していますが、今もその世間との闘いは続いております。未だ勝負は続いています。いえ勝負はいよいよこれからです。あまり先々の事を考えずに今日と明日だけ、遠い先と言っても精々1週間先位に留めおいて、一日一日を生きて行こうと、自らに言い聞かしています。

このコラムも、やがて丸3年になります。時々は読者の方からご感想を頂きますが、週に1名と言うところです。皆様もお忙しいとは思いますが、コラムの感想と言いますか、自分はこう思うと言うご意見や、ご質問でも結構ですので、お気軽に、メールを頂きたいと存じます。意見交流の場と出来れば有り難いと存じます。


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No.262  2003.03.03

阿含経(あごんきょう)を訪ねて ―8―

●今日の阿含経:『白き蓮花(れんげ)は泥水に著(つ)かず』

●まえがき:
お仏像が蓮台(れんだい)と言う、蓮(はす)の葉っぱで装飾された台座の上にいらっしゃる事にも表れていますが、蓮の花と仏教の結び付きは古くて深いと言う表面的なものだけではなく、蓮の花が仏教そのものと言っても良いのではないかと私は考えます。

それは、今日の阿含経にあるお釈迦様がお譬え(たとえ)になられた蓮の花のお話しが始まりだと思われるからです。泥水の中だからこそ、あの美しい白蓮華(びゃくれんげ)が生まれ育つと言う自然の妙を、泥水は人間の煩悩、白蓮華を悟りの象徴と見て取られたのだと思います。

このお譬えは、親鸞聖人が説かれた『煩悩を断ぜずして涅槃を得る(不断煩悩得涅槃)』と言う他力浄土門の教えの根拠になっているのではないかと私は考えます。このお釈迦様のお言葉を頼りとして、煩悩を抱えたままで安心(あんじん)を賜(たまわ)る、浄土往生させて頂ける、或いは悟りを開らかせて頂くのだと言う親鸞聖人の確信になったのではないかと思います。

そして、浄土門七高僧のお一人である源信僧都(往生要集を著わした方)は、『妄念の中より申し出したる念仏は濁に染(し)まぬ蓮(はちす)の如し』と横川法語(よかわほうご)に引用されています。また、観無量寿経の中には念仏する人を芬陀利華(ふんだりけ)と名付けるとあります。芬陀利華とはフンダリーカと言う梵語を音訳したものですが、白蓮と云う意味で、お念佛を称える人自身が白蓮華だと言われています。

●阿含経(中阿含経29):白き蓮花は泥水に著かず

白き蓮華の水に生じ、水に長養(ながいき)すれども、泥水はこれに著く能わずして、香は妙えにその色は愛楽(あいぎょう)すべきが如く、最上の覚者(ほとけ)は世に生まれ、世間に行ずれども、欲の染むるところとならざるなり。

●現代意訳:
あの白い蓮華が水の中から出まして、その水から滋養分をとっておりますけれども、しかしその泥の水にはちっとも穢れ(けがれ)たり、濁されたりすることがない。その香りはまことに美しく、その色も大変気持ちがいい。ちょうどそれと同じように、この上もない、悟った方、すなわち仏陀でありますが、最上の仏陀と言うものは、我々と同じく世間に生まれ、この世間で大きくなり、いろいろと生活し、いろいろと行為をせられたにも拘わらず、世間から少しも穢れず、ちょうど泥水の中から出てきた白い蓮華がちっとも泥に穢れないように、欲のために色の付くようなことがない。

●あとがき:
お釈迦様は菩提樹の下で瞑想され、悟りを開かれたと言われています。悟りを開けば、もうそれでご自分は救われた訳ですから、それで良いではないかと言う想いを抱いても不思議ではありません。

しかし、お釈迦様は、悟りを自分一人だけのものとして悦ばれずに、先ずは一緒に修行を始めた家来達に悟りの境地とそれに至る道筋を説かれました。そして更に、山奥から普通の世間にお戻りになり、一般の民衆を救う為に、インド各地を廻られたとお聞きしています。

山奥で修行に励めば、色々な誘惑も少なくて、悟りを得やすい環境である事は確かでしょう。
だからと言って、山奥に行って修行すれば誰でも悟りを開く事が出来ると言うものではありせんが、私達の生活する世間は、悟りを開く上では、真に大変厳しい環境であります。常に欲望を刺激されます、常に煩悩の炎を燃やすには充分過ぎる条件が整っています。

それが所謂(いわゆる)、泥水の中と言う事であります。世間はどろどろとした泥水の中であると言っても良いのてす。決して綺麗事だけで済むところではありません。以前このコラムで、『世間とは、遷流(せんる)破壊(はえ)界畔(かいはん)の3つの単語で表わされる』と申しました( 詳しくはNo.183 2002.05.30 世間について、を参照下さい)。『世間は、激しく変化し、互いに壊し合い、傷付け合い、また今日存在するものも明日は亡びていくものである。また、互いに縄張りを主張し合うのが世間である』と言われますが、全くその通りだと思います。

表面的には静かで美しく見える事もある世間ですが、現実は、事実はそんなものではありません。私もこの度会社危機が現実となり、個人の生活も苦しくなって見ますと、世間はお金を持っていなければ、何ともならない、一人前に認めて貰えない、非常に辛く接せられると言う事を知りました。誠意だけが通じる世界ではない、真心だけで生きていける世間ではない事が身に沁みました。いざとなれば、頼りとし共に励まし合えるのは、夫婦・親子だけかも知れないと言う極限も味わいました。

今世界の問題となっているイラク問題にしても、『武力行使はバクダッドの一般市民を不幸にする、是非とも平和的解決を』と言う理想論だけで片付くものかどうか楽観は許されません。アメリカにしても、世界からテロを根絶するためであると同時に、イラクの市民をフセイン大統領の独裁覇権主義から解放してあげるのだと言うけれども、ただそれだけではなく、石油利権を含めた自国の損得を推し量る気持がなかろうはすがありません。

これが人間社会の現実であり、世間の事実であります。こう言う世間は、泥水の中に等しい訳ですが、だからこそ、安らかな世界に憧れ、悟りを求めさせて頂け、そして、実際に安らかな心境(安心、あんじん)を得る事が出来るのだと言うのが、お釈迦様のお考えであり、また親鸞聖人の到達されたところだと思います。

まさに、泥水の中にこそ、白蓮華が生まれ育つ様に、この煩悩の渦巻く世間にあるからこそ、その煩悩が因となって、仏法を求めずにはいられない様になり、そして様々な経験が縁となって、安らかな世界を感得出来る(安心を得る)様になるのだと思います。

ここのところを、友松園諦師は、次の様に説明されています。

一概に泥水を嫌がりますが、この美しい蓮の花だって、泥の水があるからこそ、ああいう綺麗な白い花がさくのであります。泥水の中から滋養分(じようぶん)が取れるからこそであります。泥池がなければ白蓮もありません。それと同じく、この汚れた世間があるからこそ、私達はお互い、こうやって生きていけるのです。商売取引が汚れているからといって、これなしには世の中はまわっていきません。これを一概にけなしつけながら、その商人の施物で托鉢しているというのでは筋が通りません。人間はこの穢れている世間から滋養分をうけているのですから、その穢れのよさを味わい、噛み締めていくところに、本当の悟りが開けて来るのではないでしょうか。一口に穢れた世間と言いますが、この穢れ、迷いこそが人間悟道の一本道です。穢れがいいのではない。大勢集まれば穢れて来るものです。その穢れを因縁として、いい修行道場として悟りに入ってくるのです。
親鸞聖人は、公に恵信尼と結婚され、世間から逃避すると言うよりもむしろ世間と言う泥池の中に敢えて自らの身を投じて、仏道を歩まれ、私達が救われていく道を切り開かれました。 お釈迦様と同様、お言葉だけで終わるお説教だけではなく、真に勇気有る尊い姿を私達に示されたと思います。

末法の時代にある私達も、世間と言う泥水の中にありながらも、心は泥だらけになる事が無いように、お釈迦様や親鸞聖人の仏法を聞きながら、やがては白蓮の花を一輪、一輪咲かせていきたいものであります。


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No.261  2003.02.27

仏様はいらっしゃいますか?

成仏する(死ぬと言うことではありません)、すなわち私自身が仏になると言うのが仏教であります。仏様を拝んで、何らかの欲望の実現をお願いすると言う教えが仏教ではないと言う事は、仏教徒ならば、『耳たこ』と言って良いくらいに聞かされています。

しかし、現実生活において、仏教徒は仏壇に、或いは仏像に、或いは南無阿弥陀仏と書かれたお名號(みょうごう)の前で、仏様を想い、阿弥陀仏を想い、手を合わせて礼拝したり、お念佛を称えたり致します。そして、それは感謝(仏教では報謝と申します)の心を表わすものでなければならないと申します。

それでは本当のところ、仏教徒は仏様の存在に関しまして、或いは阿弥陀仏の存在についてどの様に受け取っているのでしょうか?それは、仏教の宗派によっても、信仰の段階によっても様々だと思いますし、仏になると言う事をどう受け取っているかとなりますと、実に様々だと思います。

仏様はいらっしゃいますか?と言う質問にも、明確に『いらっしゃいます』と答えられる方は少ないのかも知れません。私自身も、現段階で答えると致しましたら、次の様になると思います。

『仏様や阿弥陀如来様と言う方が歴史上存在していらっしゃったとは思えませんし、現在、宇宙の何処かにおられるとも思えませんが、宇宙を動かし、地球を動かし、人間を含めた地球上の生命を生み出す源のような力が存在し、更には、この私に、「折角人間に生まれたからには、欲望のまま、本能のまま、煩悩に身を焦がす様な生き方をせず、死の恐怖からも目覚めて、心安らかな人生を送らねばならない」と想わしめる働き掛けがある事は確かであり、この働き掛けを擬人化して、仏様と言うのではないか、阿弥陀如来とお呼びするのではないかと思っています』

少々分析的で、如何にも信仰的ではありませんが、立証主義的教育を受けて育った私の、現時点での偽らざる回答です。

さて、お釈迦様は2500年前におられた、歴史上実在された方でいらっしゃいます。キリスト様も2000年前に実在された方でしょう。人類の歴史は多分幾ら溯(さかのぼ)りましても数百万年だと思いますが、人類が他の動物が持ち得ない、現代の私達と同様の煩悩を抱え出したのは、ここ数万年程度の事ではないでしょうか。現代人の文化に結び付く人類へと進化したのは、1、2万年前からと考えられます。人類の永い歴史から考えますと、大昔の方と考えがちのお釈迦様は、実は極々最近の方であります。

お釈迦様は、特定の個人としては恐らくは初めて、人間の苦悩に関する考察と、苦悩から解放(解脱、覚り、悟りとも言う)される道を示されたのですが、人類史上突然にお釈迦様の様な方が出現されて、初めて、苦悩を解決する道を示され、遺されたのではなく、お釈迦様以前から、人類は煩悩に苦しみ、解脱の方法を探っていたと考えるのがごく自然だと思います。

事実、インドでは、お釈迦様以前にも既に、ウパニシャットとかベーダと言われるヒンズー教に属するとされる聖典が解脱への道として伝承されております。インドの聖典として次の様に紹介されています。

『インドの歴史は古く、紀元前2500年のインダス文明にまでさかのぼるとされる。この起原から現代に至るまでの間に、まざざまな人間により数々の聖典、哲学書が書かれた。これらの総称をヒンズー教と呼んでいる。仏教、ジャイナ教(マハトマ・ガンジーはジャイナ教徒)もその一派である。そのため、教義は多岐に渡りさまざまな形態があり、時代によってさまざまな流派が興隆する。いわば、インドのカルト宗教の総称であるが、ブラフマンの達成が目指されている点では共通である。その達成方法は、恐るべき苦行の実行、動物のいけにえ、人間のいけにえ、財産の放棄、瞑想、禁欲、ヴェーダの哲学的分析、ヨガ等、諸派さまざまである』

であるにも関わらず、お釈迦様が歴史上光り輝き、仏様、或いは阿弥陀如来が人間としてこの人間界に顕れられたと言われ、その教えがインドから中国、そして日本へと伝えられたのは、苦行とかイケニエ、禁欲等と言う無理な方法から、自覚と言う革命的な道を説かれたからだと思われます。そして、所謂、霊魂が輪廻すると言う、それまでの考え方と異なる立場に立たれたからだと思われます。しかし、それは、それまでの宗教思想、哲学があったからこそ、お釈迦様が思索出来た訳であり、そう言う意味から、お釈迦様がこの世に現れるまで数万年の準備期間が必要だったと考えるべきだと思います。

科学の世界では、科学を画期的に進める一大発明や一大発見がありますが、お釈迦様の至られた解脱の心境とそれに至る道筋(解説中の四つの真理)は、宗教思想、哲学思想の世界における一大発明・一大発見だったと思います。しかし、申し上げましたように、科学の世界の発明発見と同様、突然と言うものではなく、それまでの永い永い人間の精神文明の積み重ね、そして精神文明が生まれる以前の人類のとてつもない太古からの歴史があって、漸くにしてお釈迦様で結実したと見るべきだと思います。

これを親鸞聖人が、阿弥陀仏の五劫(ごこう、とてつもない永い年月)の思惟(しゆい)と言う表現で感謝されたのだと思います。そして、仏教は、お釈迦様がこの世にお生まれにならなかったならば、私達に伝わらなかったし、私が救われる事はない訳でありますから、私達をどうしても救う為にお釈迦様をこの世に送り出して下さった宇宙の意志と力を仏様とか阿弥陀仏として感謝すると言う事だと思います。そして、私達を救わねばなら無いと言う力を、阿弥陀仏の本願力と言い、また他力と呼ぶのだと私は思います。

以上は私の現時点での知識を基に精一杯に思考した阿弥陀仏の御物語でございますが、私に今、こうしてお釈迦様のお教え、そして親鸞聖人のお教えが伝わっているのは、間違いない事実でありますからには、宇宙の意志を擬人化した阿弥陀仏と言う存在を疑う事は出来ませんし、阿弥陀仏をはじめとする諸仏を総称した仏様はいらっしゃいますとしか言い様が無いのではないかと思います。

しかし、世間一般では、阿弥陀仏とか仏様と言う概念は、なかなか受け容れられる状況にはありません。受け容れられるようにしようと言う真剣な取組み方が私達に今一つ足りないからだと思います。

ある浄土真宗のお坊さんが、次の様なお話しをされ、仏教に関心を示さない現代人を批判されていますが、私は、お坊さんも含めまして、私達仏教徒の側に問題があると反省しています。以下が、そのお坊さんの述懐です。

私はかつて恩師からこんなお話を聞いたことがあります。先生が毎月或るお寺の宗教講座に行っておられましたが、この講座によくお参りされる婦人が訪ねて見えて、こんな対話をかわされました。

『先生、今の学校の先生は困ったものですわ』
『どうされたんですか』
『私の家の離れに独身の女の先生が下宿しておられます、日曜日でひまそうにしてお られましたので、今日はこれからお寺で、立派なお坊さんのお話がありますが、あなたも聞きに行かれませんか、と勧めましたら「ええ有難う、でも私は目に見えないものは一切信じないことにしています」こんな事を言われるのですよ』
『それは賢そうな顔をした馬鹿の言うことだ』
  私はこの対話を聞いて、先生の鋭い一語に胸のすくさわやかさを覚えました。
その女の先生の気持は、自分達のような高い教育を受けた者は、そんな非科学的なものは信じない。宗教はつまり学問、教養の低い人が聞くものだという気持でしょう。そこを先生は賢そうな顔をした馬鹿と言われたのです。即ち、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、五感に感ずる世界しか解らないものは、犬畜生の部類であります。五感を超えた、又経験的な知識を超えた永遠の真実の世界を感じ、それにうなずけるところに、人間の特質があるのです。即ち宗教を持つところに人間のすばらしさがあると言わねばなりません。
しかし合理主義、立証主義の科学の洗礼を受けた現代の人々には、そんな事は有り得ないと否定して、とうていこのままでは信ずる事は出来ないでしょう。現代人の宗教離れの原因の一つは実にここにあると言わなければなりません。
  よくお寺参りを勧めると、お浄土があると言っても誰も見て来たものがないからという答が返って来るのもその為であります。ではこの物語をどう理解すればよろしいのでしょうか、そこを明らかにすることが今日最も大切なことであります。

ざっとこう言うご述懐ですが、私も合理主義、立証主義の科学教育を受けて育ちましたので、この女先生の発言は他人事とは思えない部分があります。私は、その科学教育を責めても、そう言う教育を受けた人々を批判しても何にもならないと思います。そう言う意識をどう転換させて行くかに仏教に関わる者は心を砕かねばならないと思います。

また、阿弥陀仏のご修行時代の名前である法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の存在について、ある大学教授が神話だと言って問題になりました時に、上記のお坊さんが『神話と見る事は間違いである、それは、歴史的事実では無いが宗教的真実だ』と下記の様に述べられたそうですが、これも説得力が無いと思います。

  法蔵菩薩ついて宗門大学の某教授が、或る研修会の席で、法蔵菩薩の物語は神話だと言って問題を起こされた事があります。神話とは古代の人々が素朴な心情、願いから語り伝えられた物語でありますので、従って法蔵菩薩の物語りを神話と見ることは勿論間違いであります。
ではこの法蔵菩薩の物語りを私達はどう受け止めればよいのでしょうか。この法蔵菩薩の発願修行の物語は先ず結論から言いますと、言うまでもなく、歴史的事実ではなくて、歴史を超えた宗教的真実であります。ここで見落としてはならないことは、事実と真実とは違うということです。


以上がお坊さん達のご見解でございます。一部の独善的なお坊さんの見解だとは思いますが、仏教に関心が無い人を馬鹿呼ばわりしたり、真実と事実は違うと言う、煙に巻いた説得方法を取るのではなく、懇切丁寧に仏教の門を開いて見せてあげる努力をしたいものだと思います。いきなり、仏様、阿弥陀如来、法蔵菩薩、お浄土、と聞かされましても、月着陸を果たし、火星探査機を宇宙に飛ばした現代人に拒否反応があって当たり前では無いかと私は思います。

残念ながら私自身が、仏様、阿弥陀如来、お浄土について、立証主義的科学教育を受けて育った同年代の人々に説明し納得させ得る宗教的心境に至っておりません。何れは是非そうありたいと心から願っていますが、現時点では、私の善き師(善知識)である故井上善右衛門博士(元神戸商科大学学長)が、阿弥陀如来やお浄土を宗教的事実として捉えられおられましたので、何れは私も仏様、阿弥陀仏、お浄土を間違いのない宗教的事実として受け取れるはずだと思っています。

更に付け加えますと、鎌倉時代、あの比叡山で経典を隈なく勉強され、私の及ぶところでない博学の親鸞聖人が信仰された訳ですから、それを疑う方が愚かであると思っていますのが、私の現時点での心境です。

もしも親鸞聖人が生きておられまして、私が『仏様はいらっしゃいますか?』とお聞き出来たと致しましたら、どうお答えになるでしょうか?私の様な迷いに迷う凡夫には推測する事も難しいことですが、多分『仏様はいらっしゃいます』と直接的にお答えにならないと思います。やはり、歎異鈔にも示されているお言葉ですが、『親鸞におきましては、善き人(私の尊敬するお師匠の法然上人)の仰せを信じて、お念佛を申す外にございません、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……』とおっしゃられるのかも知れません。

一方、浄土門とは趣きを異にする禅宗、臨済宗の中興の祖とも称される江戸時代の白隠禅師にお聞き出来たと致しましたら、多分『何処を探しているのか、そこにいるではないか!』『えっ、何処にですか?』『えっ、と言うお前さんこそが仏様ではないか』『私が………?』と言う禅問答になるのかも知れません。


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