2002.06.24

歎異鈔の心―總結の1―

  昨日の日曜日は、母の17回忌の法要を行いました。命日は、29日ですが、親族の日程を調整致しますと、こう言う事になりました。普通は、お坊さんをお呼びして、お経をあげて頂くところですが、私もお経をあげますし、母の生前のお経テープがあり、13回忌に引き続き、自前の法事をさせて頂きました。
  母も、あまりしきたりに拘る人ではなく、自前の法要を却って喜んでいると思っています。テープに残る母のお経も、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗のものが区別なく残っています。17回忌のお経も、宗派に拘らず、あげさせて頂きました。
  幼い時から仏教に関心の薄い兄が、一緒に正信偈を読もうと言ってくれたのが殊の外、嬉しく思いました。、母もおやっと微笑んでいるような気が致しました。   写真は、法要の模様です。

●まえがき
  歎異鈔も、いよいよ総結に辿り着きました。総結は、第1章と同じく、この歎異鈔を書き記した著者が後世の私達に伝えたい信心の大切さを、祈るような想いで書き記したものと思われます。米沢英雄師は歎異鈔が浄土宗的だとおっしゃっていましたが、私は、この著者が『信心が第一』と繰り返し強調されているように感じ、やはり親鸞聖人の浄土の真宗だと思っています。

  この総結の1項に紹介されている親鸞聖人の若かりし頃の物語は、私は昔から非常に興味深く感じていました。それは親鸞聖人の、ある種、信仰に関する挑戦的な熱情を感じ、親しみやすさを感じざるを得なかったと言うことです。

  『私の信心は、師匠の信心と同一だ』とは、普通の人には言えないことです。確かに『如来から賜りたる信心』であれば、どなたの信心も同じはずですが、普通は、自分と師匠の得たものを同等とは言えるはずがありません。そこを敢えて、『自分の信心は師匠と同じレベルの信心だ』と言う親鸞聖人は、確かに若かったと思いますが、逆にまた、信心を確立した自信と悦びに満ち溢れていたのだと思います。そして、法然聖人の下に集まる人々の信心の有り様に、少し疑問を持っていたのではないかと思います。それは、『おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ』と言うところに、親鸞聖人の法然聖人を想うが故の無念さを私は感じています。

●本文
右條々は、みなもて信心のことなるよりことおこりさふらうか。故聖人の御ものがたりに、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして、ご相論のことさふらひけり。そのゆへは、善信が信心も聖人の御信心もひとつなりとおほせのさふらひければ、勢観房念佛房なんどまふす御同朋達、もてのほかにあらそひたまひて、いかでか聖人の御信心に善信房の信心ひとつにはあるべきぞとさふらひければ、聖人の御智慧才覚ひろくおはしますに一ならんとまふさばこそひがごとならめ、往生の信心においてはまたくことなることなし、ただひとつなりと御返答ありけれども、なをいかでかその義あらんといふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非をさだむべきにて、この子細をまふしあげれば、法然聖人のおほせには、源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればただひとつなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまひらんずる浄土へは、よもまひらせたまひさふらはじとおほせさふらひしか。當時の一向専修のひとびとのなかにも親鸞の御信心にひとつならぬ御こともさふらうらんとおぼへさふらふ。

●現代解釈
  これまでの第11条から第18条は、どれもこれも根本の信心が間違っているところから来る異議だと思われます。亡くなられた親鸞聖人から、こう言うお話しをお聞きした事があります。親鸞聖人のご師匠であられる法然聖人様が未だご健在でいられた時はお弟子さんの人数も多かったのですが、なかなか同一の信心を悦ぶお仲間も少なく、ある時、親鸞聖人は、お仲間と議論を戦わせられた事がありました。その発端は、親鸞聖人が、『私、善信(親鸞の若い時の僧名)の信心も法然聖人様の信心も同一である』と言われたからです。そうしたところ、勢観房、念佛房を始めとするお仲間達は、もっての外として、『どうして、お師匠法然聖人のご信心と弟子である善信房の信心が同一であるのか』と問い詰められたのです。そこで『お師匠の法然聖人様のお智慧が優れ、才覚もひろくあらせられる事と、私が同一であると言うならば、それこそ大変な間違いですが、救われて往生すると言う信心においては、少しも違うことはありません。まったく同一だと思います』と返答なされたそうですが、それでも『どうしてそんなことがあろうか』と納得して貰えず、いよいよ法然聖人の前に出て、双方の是非を判定して貰おうと言う事になり、お師匠に子細をご説明しました。その時に法然聖人がおっしゃった事は、『この源空の信心も如来から賜った信心であり、善信房の信心も、如来から頂かれた信心である。してみれば同一である。源空と異なった信心を持っておられる人は、源空が参らせて頂く浄土へは決して参る事は出来ないだろう』と、おさとしになられたということです。

●あとかぎ
  『如来から賜り足る信心』、他力の信心は、これに尽きると思います。ただ、この言葉は、生きた阿弥陀様に出遭わないと、本当に自分のものにはならないと思います。
  生きた阿弥陀様とは、信心の確かな人も然る事ながら、自分には到底、阿弥陀仏とは思えない逆縁の出遇い、不幸と思える出遇いも、『如来から賜りたる信心』になって行く不思議さが、誓願不思議でもあると思います。

  凡夫私にとって良き人に遇う事は、確かに嬉しい事ですが、阿弥陀仏が私に与えて下さる世間は、もっと智慧と慈悲に満ちた逆縁の(出来れば遇いたくない)出遇いも多いと思います。なかなか、そう言う出遇いを有り難くは思えない私ですが、分らないながら、自分にそう言い聞かせながら、これからも生きて行きたいと思います。


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2002.06.20

続・世間について

  写真は、岡山に住む娘が父の日プレゼントに添えてくれたカードです。文字はカリグラフィーと言いまして、西洋書道とか、装飾文字とも言われています。カリグラフィーペンを使ってフリーハンドで書きます。ワープロやパソコンでは出せない装飾ができるのも手書きのもつ魅力で、レストランのメニューや結婚式の招待状、披露宴や2次会のウェルカムボードの作成に使用されるようです。
  ご興味のある方は、娘のホームページ(http://www3.ocn.ne.jp/~miomio/)を見てやって下さい。

  W杯サッカー、日本は決勝トーナメントにまで駒を進めましたが、1回戦の相手トルコに惜敗致しました。元はと言えば、W杯での初の勝ち点だけでも拍手喝采もの、初勝利で祝杯ものだったのですが、人間の欲は限りがありません。あのミスさえなければベスト8なのに………と、賞賛が愚痴になってしまいかねません。今回のテーマとも関係致しますが、闘いには勝つ意思を持たねばなりませんし、勝つための努力を続けねばなりませんが、勝ちと負けが必ずある勝負の世界ですから、相手の実力が勝れば負ける訳です。次回に向けて負けない努力をすると言うことに尽きます。2006年のドイツ大会を目指して、頑張って欲しいと思います。
  しかし、私も含めまして、ここまで日本国民に愛国心があるとは思いませんでした。オリンピックとは何が違うのかと考え込みました。

  コラムNO.183で、世間について、遷流・破壊・界畔と言う3単語で説明致しました。簡単に言えば、『世間は競争の世界』だと言う事です。私達は競争世界に生まれ、今、競争中であります。闘いの真っ最中です。一歩家を出ますと闘いです。いや家庭でもそれなりの闘いがあるでしょう。これは死ぬまで続くと思います。

  私も、物心付いてからは、勉強・勉強と母親に叱咤激励されながら、受験戦争を闘いました。クラブ活動のテニスにおいても然り、他の人に勝つために努力致しました。W杯サッカーもまさに国と国の闘いで、燃えました。

  政治の世界は、露骨に引き摺り下ろし合いに終始しています。権力闘争の舞台を見る想いが致します。よくよく吟味致しますと、政治の世界だけではなく、競争の伴わない世間の事柄は無いと言っても良いと思います。

  私達人間は、幼い時から、競争に勝たねばならないと言うマインドコントロールを受けていると言い、宗教は、このマインドコントロールを外す役割を持っていると言われたのが、京都紫雲寺ご住職です。私は前のコラムで、信仰もマインドコントロールそのものであり、マインドコントロール同士の闘いだと申しましたが、今回は少し見る角度を変えたいと思います。

  宗教と競争・闘いは相容れないもののように見えますが、実は、競争があるからこそ、闘いがあるからこそ、私達凡夫は宗教を求めるのだとも言えます。考えて見ますと、静寂な世界に信仰は無用です。

  仏教の浄土門系には『私達が宗教を求めざるを得ないように、競争世界に生まれせしめられた』と言う考え方があります。世間があるからこそ、覚りの世界を求めるのだと言う訳です。これを浄土真宗では『煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)』と言い、煩悩があるからこそ覚りを求めると申します。それと対になって大切な言葉として『不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)』があります。これは、一般の方には理解し難いと思いますが、煩悩を無くさずに、そのままで覚りを得ると言う事です(これは後日のテーマとさせて頂きます)。

  だから世間は私達に取りまして大切なものです。浄土門で言う『阿弥陀仏の本願』の現われが世間と言うものだと言っても過言ではないと思います。だから、仏教の礼讃文に『今生に、覚りに至らないと、何時の世に覚れるだろうか』と決意を示されている訳です。これはお釈迦様の決意でもあり、私達への慈悲の呼び掛けでもあります。

  しかし競争は辛いものです。家族・親族を世間から守らねばなりません。屋敷も守らねばなりません。会社も世間の競争から守らねばなりません。会社も、私の知らない間に、知らない人達が潰しに掛かっている事が、はっきり分ります。金融機関も潰れそうな会社にも個人にも、お金を引き上げに参ります。お金持ちの会社や個人には、お金を借りて欲しいと言い寄ります。これが競争社会の世間の現実です。
  従って、競争社会に疑問を持ち、静寂な世界を求めて、信仰の扉をノックする人もいます。

  しかし、信仰の世界に足を踏み入れましても競争社会から離れる訳にも参りませんので、信仰と競争社会の矛盾に翻弄され続けます。信仰を求めた事により、実は、ますます辛い精神状態に陥ることもございます。信仰と世間の生活の2重生活に悩む事も多々ございます。やはり信仰によっても、私は救われないかとさえ思ってしまいます。

  それは、未だ競争のマインドコントロールが効いているからでしょうか。信仰態度、考え方に問題があるからでしょうか。しかしそのうちに、仏教の説く因縁果の道理が少しずつ分って来て、他力と言う意味も分って来るのですが、自力・我執は、そんなに簡単に失せるものではありません。しかも、世間に身を置く限りは、競争世界=自力・我執とも言う自縄自縛状態です。『自分が乗った板を自分で持ち上げる事は出来ない』と言う表現も使いますが、どうする事も出来ない自分に出遇います。

  この闘いも凄まじいものがございますし、時として、とても長い間悩まされます。それに加えて、四苦八苦と言う問題も出て参ります。四苦八苦の根底にある『死の不安、恐怖』との闘いも始まります。立ち往生してしまうしかございません。しかし、ここまで来ますと、お釈迦様、阿弥陀仏に掴えられてしまったも同然です。覚りへの扉に手を掛け、後戻りは出来ないと思います。

  競争社会での不安、死への恐怖心との闘いは、何処まで続くのでしょうか。それは闘いでは無くなるまで………と言う人騙しのような結論にならざるを得ないようてず。得ないようですと、他人事のような言い方しか出来ませんのは、私が未だ解決したと言えないからてす。

  完全に死の恐怖が無くなるかどうかと言う事も私には分りませんが、何時も例としてあげさせて頂きます、故白井成允先生のお詠、『いつの日に、死なんもよしや、弥陀仏の、み光りの中の、御命なり』とございますような心境になりたいと思っている次第です。また、この心境に至り得るのは、競争社会の世間があるからこそではないかと思います。

  それと、最後に付け加えさせて頂かねばなりませんが、信仰は信仰、世間は世間(競争は競争)と言う割切り方は間違いだと思います。競争社会では負けるが勝ちとは言ってはならないと思います。やはり勝たねばなりません。私は競争を否定したり、勝ち負けを達観する事が信仰の行き着く所ではないと思います。スポーツにおける勝利祈願の神頼みも如何かとは思いますが、別に勝っても負けても良いと言うのが宗教の世界、信仰の世界ではないと思います。

  貧乏よりお金持ちを目指す事、社会的地位が低いより高い事を目指す事、それ自体は間違いではないと思います。むしろ、その努力は賞賛しなければならないと思います。どの宗教も、それを否定してはいないと思います。

  勿論仏教も否定していませんが、しかし競争社会で勝つ事だけで人生の幸せが掴めるかと言うと、そうではないと言う事を説いています。また、人里離れて山奥深く、自分の信仰のみに生きる事が正しい仏道かと言うと、それも違うと言います。

  世間の勝ち負けも、それはそれでまた尊い。柳は緑、花は紅。事実が真実。真実を空即是色と拝んで生きて行く心境になりたいものだと思います。それは、世間に生きている間にしか出来ない事であります。


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2002.06.17

歎異鈔の心―第18條の2項―

  我が家は3年半前、神戸市の宅地分譲に応募して、4倍と言う低い競争率のお陰で、建築出来たものです。15年前ならば、神戸市の分譲は民間に比べてかなりの割安感があり、何十倍と言う競争率が普通でしたから、隔世の感を抱いたものです。でも、やはり時代を反映して144区画の土地分譲予定に対して40区画が売れ残りました。

  一昨日から、売れ残りの土地を各ハウスメーカーの協力を得て販売を始めたのですが、私達が購入した土地価格よりも約2割下げて販売しています。それでも、人々の購買意欲に火を点けるには至らないようです。閑古鳥が鳴くと言う表現がありますが、まさにその表現がぴったりの状況です。

  写真は、我が家から道路を隔てた向いの区画の状況ですが、ご覧の通り、訪れる人は殆ど見当たりません。それ程に、消費意欲が冷え切っている訳で、淋しさを漂わせる風景です。W杯サッカーで沸き立つ状況とは好対照の、何か物悲しささえ覚えます。

●まえがき
  さて、歎異抄解説も最終條、最終項のものとなります。

  梵語で『ダーナ』と言うのは、『施す(ほどこす)』と言う意味です。日本語で、檀那(だんな)と書きますが、梵語を音訳したものです。昔から亭主を旦那(檀那)と言いますが、人々に施す立場にある男性と言う意味で檀那(旦那、だんな)と呼んだ訳です。檀家、檀那寺も、このダーナから来た日本語です。

  この項で出て来る檀波羅蜜は、檀那波羅蜜とも言い、布施の行の事を言います。般若心経解説で説明致しましたが、波羅蜜も、梵語のパーラミターの音訳で、覚りの世界へ至る行と言う意味と考えて良いと思います。

  お寺に寄付する事が、如何にも大切な仏道修行の一つであるかの様に主張していたグループがあったのでしょう。そう言う事は、他力浄土門では全く関係ない事で、信心が第一であると唯園は、歎異抄の最後の條を締めくくった訳です。

  この文章があるからと言う訳ではないのかも知れませんが、浄土真宗では、他宗派や新興宗教と比較しますと、寄進・寄付は、強要もしませんし、自ら派手に行う人もいません。私の母が、『み恵みを、受くる事のみ多くして、捧ぐる心、常に貧しき』と自戒を込めて詠に遺していますが、仏教講演会を主宰していた立場上、運営費を工面する事に心を砕いていたらしく、『なかなか仏法にお金をだしてくれる人はいないものよ』と、心を痛めていた事を思い出します。

  そう言う母も、年に2、3回ご出講して頂いていた井上善右衛門先生が、毎年末、講演料の殆ど、或いはそれ以上を講演会にご寄付して下さっていた事に、いたく感激していた事を思い出します。今更の如く、私には真似出来ない尊いご行為だったのだと思わざるを得ません。仏法興隆の為に寄進する、その金額の多少は問題ではなく、その心は、やはり信心が無ければ出来ない事でありましょう。

●本文
かつは、また檀波羅蜜の行ともいひつべし。いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にほどこすとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も佛法のかたに入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくば、それこそ願の本意にてさふらはめ。すべて、佛法にことをよせて、世間の欲心もあるゆへに、同朋をいひをどさるるにや。

●現代解釈
  また、仏前にお供えをする事は、聖道門における檀波羅蜜と言って、布施の行とでも言いたいのかもしれませんが、仏前にどんな財宝を積もうとも、またお師匠に施しても、その人に信心が無ければ、全く意味のない事です。たとえ、紙1枚、銭半銭も供えなくても、他力の救いに心を打ち込んで、信仰心が深ければ、それこそ、本願の思し召しに適うのです。
  結局、こう言う人は、仏法にかこつけて、財物を貪ろうと言うあさましい心がある訳で、お念佛の仲間を惑わすのです。実に嘆かわしい事です。

●あとかぎ
  檀波羅蜜(布施波羅蜜)は、覚りに至る為の仏道修行、六波羅蜜の一つですが、この布施行は、三輪清浄と申しまして、私が、何を、誰に布施をしたと言う三つの想いが残っていては、布施とは言えないと言います。

  私達は、両親を始めとして、多くの人々からして頂いた数々の恩を忘れ勝ちですが、誰かにしてやった事は細かく記憶しているものです。そんな私達に、本当の布施が出来るはずがありません。そこのところを、浄土の真宗では、『何れの行も及び難き身なれば』と、阿弥陀仏の本願を素直に頂いて念仏するより外に救われる道はありませんと説きます。

  しかし本当の凡夫は、更に、阿弥陀仏の本願さえも、ろくろく信じる事も出来ないのが現実であります。どこまでも自我・我執から離れる事の出来ない身を、この歎異鈔の総結の中で、著者唯園は、親鸞聖人のギリギリのご心境を次の言葉で私達に伝えています。

  『聖人のつねにおほせには、弥陀の5劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるをたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ、と御述懐さふらひしことを、いままた案ずるに、善導の、自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して出離の縁あることなき身としれ、といふ金言にすこしぞたがはせおはしまさず』
  仏教では、下品下生(げぼんげしょう)と言う言葉を使いますが、最も下級の人間と言う事です。下級とは貧乏とか社会的地位が低いと言うものではなく、品位とか行い、考え方が下級と言う事です。これは自分の心の中を抉り出せば(えぐりだせば)、こうとしか表現出来ない自分を発見出来るのではないでしようか。

  抉り出すと言うことは、古い池を思い浮かべれば分ると思います。池の水が満杯ならば、美しい池面しか見えない池も、水が引けば、池の底からは、様々なゴミ・ガラクタが一杯顔を出します。

  私の心の正体も表面的には見えないけれども、心の底は、我執・驕慢のガラクタがうごめいています。しかし、仏様の清浄な鏡に写しますと、私の、貪り(むさぼり)、瞋り(いかり)、妬み(ねたみ)、諂い(へつらい)、偽り(いつわり)、綺り(かざり)、憎み、怨み、争い、盗み、殺し、と言う姿が見えて来る訳です。これを下品下生と言いますが、下品下生の私には、それをまた徹底して自覚出来ないのです。

  自分の心が見えますと地獄行きしかないと言う落ち着き場所を得ると同時に、仏法(仏様)に出遇ったが故の慶びもまた、ふつふつと湧き出て来るのだと思います。ここが浄土の真宗と、他の宗派との根本的な違いだと思います。そして著者唯園が、この事を後世に伝えたい為に歎異鈔を遺してくれたのだと思います。


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2002.06.13

マインドコントロール

コーンフラワー3

  コーンフラワーの写真のトリは、我が家の階段のニッチを飾る花束です。これ以外にはないと思う程の相性だと、私達夫婦は思っていますが。

  マインドコントロールと言う言葉は、統一教会の合同結婚式、オウム真理教のサリン事件で、一般的に知られるものになりました。その所為もあって、何か恐ろしいイメージが付きまとっていますが、マインドコントロールは、もっともっと私達に身近なもので、しかも人生に関わる大切な心理学的手法ではないかと思っています。破壊的カルト(社会に悪影響を及ぼす狂信的宗教団体)に悪用されているのも事実ですが、仏教における聖道門の悟り、浄土門の回心も、マインドコントロールの成果だと言って良いと私は思っています。

  私は、心理学を未だ本格的に勉強しておりませんので、ここで述べる内容はすべて聞き噛りと独断と偏見になりますが、ご興味のある方は、このコラムを手かがりとして、更に研究されて、むしろ私の考え方の間違いをお教え頂きたいと思いますし、私も信仰心を深めると共に、信仰に関して、心理学的なアプローチをして、仏教流布の一助としたいと思います。

  20世紀初頭、人間が無意識と言う意識に支配されている事を提唱したのは、オーストリアの心理学者フロイトですが、そのフロイトの後継者、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングは、人間の精神を氷山にたとえ、意識の光が当たっている部分、すなわち海上に顔を出している部分(顕在意識)は、氷山のほんの一部分に過ぎず、実はその何十倍もの部分が海中、すなわち無意識の世界に横たわっている、と指摘しています。ユングは無意識の領域を、幼少時から現代にいたるまでの個人的な経験から形成される個人的無意識と、その更に奥深くに広がる集合無意識とに分類しました。集合無意識とは、個人の経験的な枠を超えた、人類に共通の無意識領域です。

  無意識領域を潜在意識と言って良いと思いますが、個人的無意識領域には、私達が価値観と呼んでいる意識も含まれており、集合無意識領域には、本能が含まれているのではないかと思います。
  マインドコントロールは、個人的無意識領域(個人的潜在意識)に働き掛けて、顕在意識をコントロールしようと言うものだと思います。

  前回の木曜コラムでご紹介した紫雲寺のご住職、伴戸昇空師は、『宗教の役割は、幼い時から受けた社会的マインドコントロールから私達を解き放つものである』と逆説的に説かれていますが、もう少し、はっきり言わせて頂くと、『宗教と言うマインドコントロールで、煩悩に苦しむ私達を精神的自由な世界に解き放つ』と言う事だと思います。伴戸昇空師は、真宗大谷派(東本願寺)と言う組織に属される僧侶と言うお立場上、仏教信仰をマインドコントロールとは言えなかっただけだと思います。
  エゴ(自我、我執)と信仰心は、マインドコントロール同士の闘いだと思います。

  顕在意識と潜在意識の関係について例をあげて説明致しますと、人種差別の問題があります。人種による差別はあってはならないと言うのが建て前の常識ですし、私もその通りだと顕在意識では思います。しかし、幼い時から受けた家庭教育、地域社会、マスコミ等からの情報により、植え付けられたのだと思いますが、どうしても、白人種を高等と思い、有色人種を下等と思ってしまいます。東南アジアの人よりも、アメリカ・ヨーロッパの人を上に見てしまいます。これは、今更変更の効かない意識です。これが潜在意識に書き込まれたマインドコントロールです。

  また、『職業に貴賎はなし』と言うのが、道徳教育上正しい考えです。建て前では誰も反対出来ませんが、これも幼い時から、母親はじめ、周りの人々から繰り返し繰り返し吹き込まれた情報で、お医者さん、大学教授、弁護士さんの社会的地位が上、尊い職業と思っています。そして小学校の先生よりも、大学の先生の方が、地位も人格も上のように思ってしまいます。これまた、今更変更の効かない意識です。知らず知らずの中に潜在意識に書き込まれた価値観で、これをマインドコントロールと言って良いと思います。

  これらを、薬剤を使用したり、脅迫や暴力を利用したりして、短期間の中に潜在意識に、情報を書込むのが、破壊的カルト・マインドコントロールと言うのだと思います。
  また、企業内教育において、泊りがけの集合教育を行ったり、毎朝の社是合唱等も一種のマインドコントロールだと思います。今全世界の注目を浴びているW杯サッカーも、私達は、FIFAや国々のサッカー協会のマインドコントロール作戦(マスコミによるカウントダウン等)に乗せられて、知らず知らずテレビに釘付けにさせられているのだと言えない訳ではない。

  私達は、今の自分の考え方、価値観、人生哲学を自分が考え出したと錯覚していますが、すべては幼い時からのマインドコントロールによるものです。ただ、誰もマインドコントロールを受けたと言う意識が無いだけです。これは、破壊的カルト・マインドコントロールにおいても同じだそうです。誰もマインドコントロールを受けたと言う意識がないのです。だから怖いものだと言えます。

  次に集合無意識に関する考察ですが、私は、浄土真宗で言うところの本願は、ユングの言う集合無意識からの呼び掛けだと考えています。そして、浄土真宗における回心は、浴びる程の法話を聞き、そして善知識と言う自分が心から尊敬する師匠とも言うべき人に出会い、顕在意識による本願の認識が、個人無意識にまで落とし込まれた時に成立するものではないかと推論しています。

  また、集合無意識と言うのは、自分の祖先から受け継いだ膨大な情報量が書き込まれた遺伝子そのものではないかと思われます。自分の祖先は、ずっとさかのぼれば、地球上に生命が誕生したであろうと言われている35億年前の単細胞微生物になります。従って、遺伝子に書き込まれている情報量は想像を絶する膨大なものです。畜生の様な弱肉強食の意識も持ちあわせている事は間違いありません。また反対に、よりよく生きたいと言う崇高な意識も持っているに違いありません。ただ、個人個人、その遺伝子の情報量の比率が異なり、お釈迦様やキリストのような生き仏となる人格もあり、動物的本能にのみ支配されて、殺人まで犯す人格も存在するのだと思います。

  勿論生まれながら仏様とか殺人者になる事が決っているのではなく、その集合無意識に、後天的性格とも言うべき、個人無意識と言う、生まれてからのマインドコントロールによる性格形成、価値観形成によって、生き仏になる人格もあり、凶悪殺人者にもなり得るのではないかと思います。

  ですから人の性格、人生観、そして人生そのものも、遺伝子に左右される事は間違いないと思いますが、生まれてからの環境から受けるマインドコントロールによっても、大きく変わるものであろうと思われます。

  仏教信仰にしても、例外もありますが、先ず日本に生まれなければなりません。しかし、日本に生まれて、仏法に出遇いながら、全く関心を示さない人も多いわけです。これは、一つは、集合無意識に詰まっている情報(即ち遺伝子)にも大いに関係があるのです。浄土真宗では、親鸞聖人の教えに出遇うには、七代に亘るお育てがあると言います。つまり、七代前の先祖のどなたかが、浄土真宗に帰依された事に始まると言う訳です。七代前の先祖は、128名です。この中の誰か1名が起点となって、私にまで、受け継がれていると言う訳です。確かに、私の場合は、母と祖父と、その前までは確認出来ていますが、七代前かどうかは別に致しまして、それ程に遇い難き御教えであると言う事であり、本願の強さ、不思議さを表現したものだと考えます。

  それに、更に成長過程でうけるマインドコントロールにより形成される個人的無意識も同じ位の影響力があると思います。私は、赤ん坊の時から、母の背中で、法話を聞いていたと良く母から聞かされていました。他の兄弟姉妹は、どうも違うようです。ですから、同じ遺伝子を受け継いでいたとしても、個人的無意識が異なりますから、兄弟でも、仏教に接する姿勢に温度差があると言う事は致し方ないと思われます。

  ですから、今私が親鸞聖人の教えに傾倒しているのは、自分の意志であるかの様に思っている訳ですが、そうではなくて、遠い遠い祖先、両親、友人のお陰なのです。これを仏教仲間では、遠き宿縁と言う訳です。

  少し難しい話になってしまいましたが、信仰はマインドコントロールそのものであると言う観点から、法話を繰り返し繰り返し聞き、また、法の上での先輩や友人と接して、信仰心を個人的無意識の領域(潜在意識)まで深めなければならないと思っている次第です。


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2002.06.10

歎異鈔の心―第18條の1項―

コーンフラワー2

  ニッポン万歳!久し振りに日本国民が団結した。そんな雰囲気を感じさせる昨夜のW杯サッカー、対ロシア戦でした。国民の何%が観戦したかは分りませんが、あのシドニーオリンピックの時にも感じられなかった国民の一体感が伝わって来ました。日本国民にも、未だ愛国心があったのかとさえ思った事です。これから更に盛り上がるに違いありません。

  写真は、引き続き、コーンフラワーです。壁掛け用にデザインされたもので、娘の結婚祝として頂いた作品ですが、20代の娘夫婦の部屋に相応しいエレガントさがあります。

●まえがき
  歎異抄も、お蔭様で、いよいよ最終條になりました。この第18條の後に長い總結と附録、奥書が続きますので、解説は、未だ終わりませんが、歎異抄本文はこれで終わりとなります。

  締めくくりであるこの第18條も、親鸞聖人の浄土の真宗が自力宗ではなく、他力宗であると言う事を、仏事の寄進・布施を例にあげて、念を押しているのだと思います。

  信仰は、自力の虚しさに気付いて行くところに、人として生きる値打ちを私達に与えてくれるものだと思います。『自力』と言うのは、『自分の努力』を短縮した単語です。この自分と言うのは、他人に対しての自分と言う事ですから、自他を分けて考える自分です。自分とは、自分が一番大事、一番最も可愛いと言う『我執(がしゅう)』そのものですから、『自分の努力』と言うのは、『我執に支えられた努力』と言う事になります。

  浄土真宗の信仰とは、我執が如何に自分を苦しめているかを知って行く事だとも言えますから、自力を幾ら積み重ねても『我執に支えられた努力』である限りは意味の無い事だと言い、他力に委ねるしか救われる事はないと言う考え方をします。

  他力とは、自分ではない力、つまり我執に支えらたものではない力の事であり、決して他の人の力ではありません。自分に働き掛けて来ている力、即ち、前回コラムで表現した『命の故郷(いのちのふるさと)』から呼び掛けてくる力です。親鸞聖人の他力信仰は、この力を信じざるを得ないと言う事を出発点としていると思います。

  お念佛を多く称えるとか、お坊さんに多額のお布施をするとか、ボランティアに励むとか、信仰の利益(りやく)を得る目的で行う自力の行は、すべては我執に基づくものであり、無効であると言う事です。

  勿論、ボランティアを否定しているのではなく、ボランティアをする心の奥底に潜む『我執』に気付きなさいと言う事だと思います。お布施も悪い事ではありませんが、お布施をして、何かご利益を期待していませんか、と言う事なのだと思います。

  真の仏教信仰とは何かと言いうと、自力を離れて他力にお任せすると言う事に尽きる訳です。それは、聖道門も浄土門も同じ事だと思います。すべての人間は、生かされて生きているのですから、他力にお任せするしかないと言うのは、自然(じねん)の事だと言わねばなりません。

  私が幼い時から、ご指導頂きました、臨済宗の山田無文老師(元妙心寺管長)が、結核と言う病に伏せておられた時に『大いなる、ものに抱かれある事を、今朝吹く風の、涼しさに知る』と言う詠を遺されていますが、この『大いなるもの』とは、他力そのものです。

  自力聖道門と言われる禅宗で覚りを開かれた人(勿論、禅宗の人自身が、自宗を自力とは言っていません)も、他力に気付かしめられた瞬間が覚りの瞬間であるのだと思います。

  しかし、幼い時から、自力を大切にする教育を受けて育つ私達人間には、なかなか他力に任せられない自己矛盾を持っています。

●本文
  佛法のかたに施入物の多少にしたがひて、大小佛になるべしといふこと、この條、不可説なり、々々。比興(ひきょう)のことなり。
まづ、佛に大小の分量をさだめんことあるべからずさふらうか。かの安養浄土の教主の御身量をとかれてさふらうも、それは、方便法身(ほうべんほっしん)のかたちなり。法性(ほっしょう)のさとりをひらひて、長短方圓のかたちにもあらず、青黄赤白黒(しょうおうしゃくびゃくこく)のいろをもはなれなば、なにをもてか、大小をさだむべきや。念佛まふすに、化佛(けぶつ)をみたてまつるといふことのさふらうなるこそ大念には大佛をみ、小念には小佛をみるといへるか。もし、このことはりなんどにばし、ひきかけられさふらうやらん。

●現代解釈
  仏事におけるお布施の多い少ないによって、浄土往生して成仏する時の仏としての身の大小が決ると言う人達がいますが、これはとんでもない心得違いです。
  先ず、仏様の御身に大小と言う分量を定めることはあるべきではありません。あの安養浄土の教主であらせられる阿弥陀仏の御身の分量について、観無量寿経と言うお経に説かれてはいますが、それは、私達の思慮分別に合わせて、飽くまでも方便として、仏様の大きさを示されたものです。
  私達が浄土往生して、仏になる時には、長いとか、短いとか、丸いとか四角だとかと言う形を離れ、また青、黄、赤、白、黒と言う色も離れてしまうのでありますから、何を以って覚りの境界の大小を定める事ができましょう。念佛を称えると化佛を見奉ると言う事があるので、大声で念佛すれば大きい佛を見、小さい声で念佛すれば小さい佛を見ると言う事が『大集月蔵経』と言う中に確かに書かれているので、この事を当て嵌めているのであろうが、甚だしい誤りです。

●あとがき
  浄土に往生して成仏すると言うのが、浄土真宗の教義ですが、人間の思考はまた、ここで計らいが生じる訳です。どんな仏になるのだろうかと、言う事になるのでしょう。他力と言いながら、任せきれないのです。

  そして、沢山のお布施をした方が、大きな仏になれるのではないか、大きな声で念佛した方が、大きな仏になれるのではないかと言う事になる訳なのだと思います。

  これは現代でも続いている誤った考え方ですが、それ程に、他力にお任せする事が難しいと言う事でもあります。易行難信と言われる所以です。

  浄土真宗の信者と自称する人の中には、古来から禅宗を自力聖道門と断定する人がいるのですが、この人達こそ、他力を標榜しながら、我執を捨て切れない、仏を傷付ける人だと思います。

  故山田無文老師が、逆説的な表現で、『他力を離れた時に初めて他力の信心が本物となる』と言う事を言っておられましたが、まさに至言だと思います。それほど、私達には本願他力は、近くて遠い力なのだと思います。



  W杯サッカー、大方の人は、日本の決勝トーナメント進出が目前だと感じていると思いますが、スポーツは、そう甘いものではありません。次回のコラムのテーマ『マインドコントロール』と関係があるのですが、スポーツには、目前の敵以外に、潜在意識と言う厄介な敵がいます。勝てるだろうと言う潜在意識です。引き分けでも決勝トーナメント進出が決る対チュニジア戦は、日本国民の多くは、私も含めて、楽観視していると思います。また、選手達も多分同じ気持ちがあるに違いありません。『油断せず、気を引き締めて』と監督も言うとは思いますが、潜在意識を変える事が出来ません。
  『勝つと思うな、思えば負けよ』と言う有名な歌詞がありますが、これは、潜在意識に負けると言う事だと思います。スポーツの世界で一流になるには、技術と体力だけではなれません。潜在意識との闘いに勝つ心を養うメンタルトレーニング、精神修養努力が最後の乗り越えるべき大きな壁となります。技術の卓越したプロ同士の闘いは、もともと心と心の強さの闘いと言っても良いのです。

  日本チームがそう言うメンタルトレーニングを積んでいなければ、潜在意識に打ち勝つ技術の差が無ければ、チュニジア戦には勝てないと思います。そう言う眼で観戦する事も、一つの楽しみ方かも知れません。


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2002.06.06

親鸞の求めたもの

コーンフラワー

  写真は、これまでの西洋陶芸作品から、『コーンフラワー』と言う、トウモロコシの白い粉粘土を成形し、油絵の具で彩色した花にかわりました。女子社員のお母様から頂いたものです。目を近付けて見ても、生命があるとしか思えない程、リアリティのある作品です。作者の三昧(ざんまい)の心が現れた素晴らしい作品です。

  さて、私達の人生で一番気に掛かるテーマは『死』のはずです。しかし、日常生活の中で、『死』と言う言葉は自分の頭から消し去っているのではないでしょうか。一番心配すべき『死』を何処かに追いやって、私達の頭の中では、5欲(名誉欲、金銭欲、食欲、性欲、睡眠欲)の満足を追い求め、すでに過ぎ去った過去に関する愚痴と瞋恚(しんに、怒りの事)と、全く予想の付かない、しかも来るかどうかも分らない未来に関する予見と対策案が駆け巡り、渦巻いています。

  しかし、私達が『死』を重要視している証拠に、知り合いのお葬式には、何をさておいても出席し、命の儚さに心を暗くします、涙する時もあります。そして肉親の死は、しばらくの間、人生をストップさせてしまうほどの重大事です。ましてや我が死が現実となった時は、それまで気になっていた世間の事も、あれほど執着していた名聞・利養・勝他コラムNO.161「宗教を求める心」参照)も一切忘れ果てて、死の恐怖との闘いが始まります。これ、私達の現実です。

  本当は、死の問題を解決しておかねば、人生の幸せも、安らかさも、砂上の楼閣なのです。それも頭では分っていますけれども、真剣に考えようとはしないのです。自分の死よりも近所の動向が気になり、テレビの番組が気になり、明日の天気の方が気になると言う人間の愚かさは、何処から来るのでしょうか。

  この愚かさは我執(がしゅう、他人よりも先ず自分を一番大事にする心)と言うものから来ると思います。しかし我執はこの世に生まれてから身に付けたものです。本来自分の持ち物ではありません。生まれたての赤ん坊は、清浄無垢です。清浄で涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の世界から命を貰って来た証拠だと思います。

  しかし、赤ちゃんは我執に取り囲まれて生長しますから、10年も人間世界を経験しますと、すっかり自分の『命の故郷』(いのちのふるさと)を忘れて、我執中心の人間(修羅と言います)になり、世間(遷流、破壊、界畔コラムNO.183「世間について」参照)に没頭してしまいます。

  世間は楽しい時もあり、有頂天になる時もありますが、それはほんの一瞬で、楽しさは必ず苦しみに変わります。苦しみの源は、死への不安です。お釈迦様は、生・老・病・死を人間の四苦と言われましたが、苦の根源を辿れば死が待ち構えているからこその他の三苦です。死にたくない、死が不安なのです。死の不安の源を辿れば、それは『命の故郷』を忘れさせた我執です。

  これではいけない、これでは折角人間に生まれて来た意味が無いと自覚(菩提心を起す)されたのが、お釈迦様であり、親鸞聖人です。20年間の修行の後、29歳で比叡山を下り、法然上人を訪ねた時の親鸞の決意とも言うべき想いは、礼讃文(三帰依文)と言う文書に示されているものでは無かったかと思います。

  これは『命の大切さが分る人間として生まれ、しかも遇い難い仏法に出遇った今を逃しては、もう永遠に死の恐怖を乗り越える事は出来ないはずだ、この世で必ず死の問題を解決するぞ』と言う力強い宣言だと思います。

  そして親鸞は、法然上人から浄土の真宗を受け継ぎ、浄土の真宗に出遇えた報恩感謝を念佛して生きる訳ですが、浄土と言うのは、『命の故郷(ふるさと)』の事を言います。これを『いのちのいのち』と言われた先生もいらっしゃいます。死んで初めてお浄土へ行くのではなく、もともとの生まれ故郷がお浄土だった事に気が付かれた訳です。

  私達は、その『命の故郷』から生まれ、そしてその故郷へ還っていくのです。浄土門では、その『命の故郷』を憶念する気持ちを『南無阿弥陀仏』と表わすのです。これこそ親鸞が法然上人を善知識として信じるに至り、越後、関東、京都の民衆に説き続けた浄土の真宗だと思います。

  私達の『命の故郷』であるお浄土は、清浄な世界です。煩悩もなく、涅槃寂静の世界です。或いは光り輝く眩しい世界(不可思議光世界)です。私達は、その世界から生まれ、その世界へ還って行くのです。だから、私達の本心は、生まれ故郷に憧れている訳です。それを仏性とも言います。また本願とも言います。

  地球上の生命は、すべて『命の故郷』から生まれ、『命の故郷』に還るのだと思います。これを浄土往生と言うのだと思います。そしてこれは必然なのだと思います。自然法爾(じねんほうに)です。

  そして、この世間にいる中に、『命の故郷』を思い出せたら、この世にありながら、すでに浄土の風光を感じられるのだと思います。それが可能なのは何億種かある命の中で人間だけに与えられた能力です。素晴らしい能力ではありませんか。

  その能力開発の手掛かりこそ、実は、煩悩であり、我執です。『煩悩即菩提』(ぼんのうそくぼだい、煩悩こそ覚りへの手掛かり)と言う訳です。

  この能力開発の慶びを、広島大学で倫理学を研究されていた故白井成允先生は、次の詠に表わされました。これは、親鸞聖人の三帰依文の答えであり、親鸞聖人の求められた世界だと思うのです。

  浄土の光耀を感じるには、浄土からの召喚(呼び招く)の声が聞こえなければなりません。声は、絶え間なく響いていますけれど、私達がこの世間の雑事に紛れている限りは聞こえません。浄土門では、南無阿弥陀仏、聖道門では瞑想座禅、『命の故郷』を憶念する時に聞こえて来るのだと思います。

●あとがき:私とお念佛について
  私は、物心付く前から、母に背負われて、ご法話を聞き、お経を聞いて育ったと聞いています。勿論、物心付いてからも、母と5人の兄弟姉妹と一緒に仏前で毎朝夕お経をあげていました。真似事でお念佛も称えていました。しかし、ある時から念佛に抵抗を感じるようになりました。

  お念佛が出なくなった言い訳の一つに、葬式と法事で生業を立てている浄土真宗の坊さんの念佛への抵抗感があると思います。はっきり申しまして、お念佛には、何百年に亘って染み付いた臭み(くさみ)がある事は事実です。一般の人に念佛のイメージを問うならば、葬式・死そのものと言う答えが返って来ると思います。

  たとえば私が、電車の中でお念佛を称え出したら、周りの乗客は気持ち悪がって、離れて行くにちがいありません。それ程にお念佛は、忌み嫌われるものになっているのです。

  私は、そう言う念佛を称えたくないと思って来ました。私が心の底から尊敬する先生方のお念佛も知っていますから、お念佛を称えるとしても、せめて信心を得て、自然とお念佛が口を衝いて出る時まで、敢えて念佛は称えるまいと思って来ました。

  しかし、今回、大分の田畑先生のご紹介でアクセスした、京都の紫雲寺と言う真宗大谷派のお寺の住職さん(伴戸昇空師)の法話を読ませて頂き、念佛を行として称えて見ようと言う気持ちになりました。

  あれほど念佛に抵抗感を持っていたのにです。これこそ縁なのでしょう、不思議です。皆さんも、一度紫雲寺のホームページ(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/)を見て下さい。そして、「釋昇空法話集」をちょっと覗いて見て下さい。


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2002.06.03

歎異鈔の心―第17條の2項―

西洋陶芸作品NO.6

●まえがき
  『阿弥陀仏の誓願不思議に救われて、往生すると信じて念佛を称えようと思い立った瞬間が、即ち信心を得た瞬間である』
と、歎異鈔の第1條にありますが、阿弥陀仏と言う事も、誓願(本願)も、往生も、念佛と言う事も、頭では理解出来たとしても、心の底から、『ああそうなのだ』とは思えないのが、この私です。そう言う疑い深い私を見越して、邊地往生を考え付いて頂いたと思うのです。こう言う私を、『そう言う事では、たとえ邊地往生出来たとしても、結局は疑いが晴れる事がないから、君は地獄に落ちるぞ』と主張する人達が今もいると思います。

  この條では、『そうでは無いのだ、必ず浄土往生させて頂けるのだとお釈迦様がおっしゃっているではないか』と、歎異抄著者が庇って(かばって)くれたのだと思います。

  しかし、私の心の底を尋ねて見ます時、私には未だ、浄土往生も、邊地往生も希う(こいねがう)気持ちが無い事に気付かされました。

●本文
  信心かけたる行者は、本願をうたがふによりて邊地に生じて、うたがひのつみをつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそうけたまはりさふらへ。信心の行者すくなきゆへに、化土におほくすすめいれさふらふを、つゐに、むなしくなるべしとさふらうなるこそ、如来に虚妄をまふしつけまひらせられさふらうなれ。

●現代解釈
  お念佛を称えても信心が徹底してない人は、本願に未だ疑いを抱いているから、先ずは邊地に往生し、疑いの罪償いをしてから浄土往生を遂げると親鸞聖人から聞いています。本当の信心を得た念佛者が少ないから、どうしても邊地に逝く人が多くなるのは仕方が無いと言うのに、これらの人々すべて、結局は地獄へ落ちると言うのは、合点がいきません。こう主張する人々は、『邊地往生は阿弥陀仏の慈悲深い方便である』とお経に説かれたお釈迦様が偽りを説かれたとでも言うのでしょうか、全く根拠も無く独断的で、人々を惑わす許し難い言い掛かりです。

●あとがき
  知識の世界、理屈の世界から考察致しますと、邊地往生は、私も成る程と思います。手廻しが良いと言うのは余りにも世俗的です。慈悲深い配慮であり、智慧の方便と言いたいと思います。

  浄土真宗に救いを求める人の中には、善行を積んで往生を願う人、お念佛をしっかり称えて往生を願う人、往生は阿弥陀仏のご本願に任せ切って、ただお念佛をする人と色々な段階があります。本当は、三番目の、本願を信じて念佛を申さんと思い立って欲しいと言うのが、阿弥陀仏の、そして親鸞聖人の願いですが、『信心を得る事は難し』です。そこで、自力念佛でも他力念佛でも、阿弥陀仏の浄土往生を希う(こいねがう)人をすべて、浄土へ迎え入れる方便として邊地往生を説かれたのだと思います。

  この條で著者が嘆かれる背景には、一方で、本願を信ずる心よりも、念佛を称える事を第一義とするグループ(多念念佛派)があり、もう片方で、信心の伴なわない念佛を否定するグループ(信心至上派)の存在がありました。そして、著者は、両方共に良しとはしなかったのですが、信心至上派が、多念念佛派を批判して、ただ単なる称名念佛だけでは、たとえ邊地に往生する事が出来たとしても、結局は地獄に落ちるのだと主張していたのを嘆き窘めたのでしょう。
  現代でも、浄土真宗信者間、東西に分かれた本願寺グループ間にもこの立場の違いがあると感じます。
  この事に関して、次回の木曜コラムにて、親鸞が求められたであろうところを、私の個人的見解を申し述べたいと思います。


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2002.05.30

世間について

  14年前にビデオ収録した西川玄苔師(名古屋市の禅僧であり且つ念佛者)のご講話を久し振りに見させて頂きました。その中で、世間とは、遷流(せんる)破壊(はえ)界畔(かいはん)の3つの単語で表わされると言うご表現がございました。このビデオは私が収録したものですから、勿論一度お聞きしている訳ですが、14年も経過致しますと忘れてもおり、またお聞きした時の私とは、私自身が変わっていますから、全く新鮮で、世間の荒波に出会ったお蔭で、深く思い当たるものがございました。

  この遷流(せんる)破壊(はえ)界畔(かいはん)は、一般的な単語ではございませんし、また、この娑婆世間を端的に且つ的確に表わしたものだと思いましたので、皆様にご紹介したいと思った次第です。

  先ずは、世間を捉えた過去の代表的な表現例をご紹介し、その後、3つの単語を一つ一つ、説明させて頂きたいと思います。

  『世間虚仮唯仏是真』(せけんこけゆいぶつぜしん)は、聖徳太子のお言葉です。世間と言う単語は仏教語ですが、太子は、世間と言うものは虚しいものだ、仮のもので真の価値が無いものだ、仏法だけが真実であると言われたのですが、恐らくは、蘇我氏と物部氏の争いなど、政治的に混乱する人間社会を見てのご実感を言われたのだと想像致します。

  実は、出世と言う単語も仏教語です。本来は、苦に満ちたこの娑婆世間から解脱して覚りの世界に行くと言う意味で出世間(しゅっせけん)と言い、これを短縮して出世rと言うのだと聞いた事があります。

  また、お釈迦様が、この世に生まれ出て来られた事も、世間に出ると言う意味で、正信偈(しょうしんげ、親鸞聖人作)と言うお経の中で、『如来所以興出世、唯説彌陀本願海』(お釈迦様が、この世にお生まれになった意味は、唯一、私達衆生に阿弥陀仏の本願の世界をお説きになる為でありました)と出世が使われています。

  何れにしましても、私達が生活している場所を世間と言われてはいますが、あまり楽しい所ではないと言うニュアンスで使われています。

  こう言う世間を3つの単語で現わしますと、遷流(せんる)破壊(はえ)界畔(かいはん)になると言う事です。

遷流(せんる)について、
  殆どの人は、毎日の生活に変化が無く、面白く無いと言う愚痴が出ますが、本当は刻々と変化しており、1年前と今を比較しますと、大きな変化を認めざるを得ません。また世の中の移り変わりが激しい事は、テレビのニュースを見る時に強く感じます。メインニュースは週間単位で移り変わっています。大きなニュースが尽きる事がありません。
  そして、私のこれまでの人生も、毎日は同じ事の繰り返しのようですが、振り返りますと、実に次から次へと急速に変化して来ました。
  激しく変化して行く世の中(世間)と言うは、実感です。

破壊(はえ)について、
  昨年の同時多発テロでは、とても壊れそうにないニューヨークの世界貿易センターツインビルが一瞬の中に壊れました。私の住む神戸も大震災では、多くの建物が壊れました。『形あるもの、やがては壊れる』とは言いますが、その通りであると実感致します。一方、人間は破壊し合います。実際に破壊行動として目に写るだけではなく、心の中、精神面で破壊し合っているのだと言われれば、破壊の中で生きているようなものです。闘いの人生でもあります。家に有っては、嫁と姑の闘い、夫婦の闘い、親子の闘いがあります。ご近所とのもめ事もあるでしょう。政党間、政治家同士の闘いも激しいものです。経営者としては、会社間の潰し合いは身を持って感じています。国同士も破壊し合う生々しさはテレビで報道されている通りです。この破壊し合う状況は、地球が続く限り、永遠に続きます。

界畔(かいはん)について、
  闘いは、自分の縄張りを守り、広げるためのものでもあります。人間は、目に見える縄張り(土地、建物)だけではなく、目に見えない人間関係の縄張りを持ったり、他人に踏み込ませない心の領域を持ったりもします。中国の瀋陽の事件も、日中ともに、縄張りを巡って一歩も退けない状況です。大きな縄張りを目指すもの、小さな縄張りで諦めるもの、個人の縄張りから国の縄張りまで、これは色々ですが、皆、自分の安住出来る縄張りを求めて、頑張っているのです。

  こう言う世間に毎日身を置きながら、あくせくと人生を渡り、やがて人間には死が待っています。豊臣秀吉が『露とおき、露と消えぬるわが身かな、浪花の事も夢のまた夢』と言う辞世の詠を遺していますが、大方の人は、死ぬ瞬間、『一体自分は何をやって来たのだろう』と嘆じ(たんじ)つつ、世間を離れて永遠の眠りに就くのではないでしょうか。

  これでは、余りにも空しい(虚しい)と、人間に生まれて来た意味を求め、人間に生まれて来て良かったと生きて行ける道、死んで行く道を求めたのが、お釈迦様でした。そして仏法を説かれました。その口伝された仏法を、後世の信者達が結集して記述したものが、お経なのです。

  世間は、流されて生きるならば虚仮(こけ)です。遷流(せんる)破壊(はえ)界畔(かいはん)と言う人生を生きながら、その渦に巻き込まれるのではなく、自己の人生を冷静・客観的に観察し、遷流・破壊・界畔の現象そのものが事実であり、それを真実と見て、その奥に潜む真理を悟り、自由自在に生きたいものです。

  自由自在の生き方を川の水に喩えられて『岩もあり、木の根もあれど、さらさらと、たださらさらと水の流るる』と詠われたのが、京都女子大学創始者でもあり念佛者であられた、故甲斐和里子女史ではないかと思います。

  私も、小さな製造会社の経営者として10年間、遷流・破壊・界畔そのものの世間の波に翻弄され続けました。そして今、会社と個人の生き残りを賭け、そして世間の勝利者を目指している訳ですが、デフレ状況下でもあり、非常に厳しい闘いとなっています。駄目かも知れないと思う時もありますが、どうなろうとも、これが事実であり真実であると、常に第三者的に、この世間の有り様を見詰めながら、一瞬一瞬を大切に、そして自分で出来る限りの対応をして行くと言う想いでいます。
  そう想う背景には、死ぬまで世間の勝負は決りませんし、世間における勝利とは何か、人生の勝利者とはどんな人を言うのか、答えを模索している段階だからです。

  聖徳太子の『世間虚仮唯仏是真』(せけんこけゆいぶつぜしん)、親鸞聖人の『念佛のみぞ真にておわします』のお言葉に現れています様に、自己を問い尽くして自力無効を知り、すべてを仏様にお任せして、生死を超えた永遠の生命を感得出来ると言うのが、世間の真の勝利者ではないかと、今のところはそう思っています。
  簡単に言えば、『人間に生まれて来て本当に良かった』と言う辞世の詠が遺せたら、誰が何と言おうとも、人生のチャンピオンだと思います。


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2002.05.27

歎異鈔の心―第17條の1項―

妻の西洋陶芸作品

  調べて見ますと、昨年の5月28日からこの歎異鈔の解説が始まっていますから、今日5月27日で、歎異鈔解説に取り組んで丁度1年となりました。自分の努力と言うよりも、それこそ人間を超えた大きな力の働きとしか言い様がありません。気紛れな自分が、こんなに地道にこつこつと積み重ねて来た事に驚かされています。この人間を超えた目に見えない力を他力と言うのだなぁー、そして、この他力を阿弥陀仏と言い本願他力と言うのだなぁと、おぼろげながら思えるようになったのは、極々最近の事です。他力とは、自分を取り巻くすべて、それも現在だけのものではなく、遠い過去も含みそして未来も含んでの働きかけでもあります。
  身近な他力としては、このホームページを編集管理してくれている長男、そして毎回、最終校正をしてくれている妻です。そして度々投稿して頂く約40名の愛読者の方々の存在は他力そのものであり、感謝申し上げます。

  今日は、私達夫婦の31回目の結婚記念日でもあります。来年の今日もこのコラムを送り出せる様に、他力に感謝しつつ、社業に励みたいと思います。
  今日の西洋陶芸は、結婚記念日に因みまして、ウェディングドレス姿の作品(高さは25cm)と致しました。

●まえがき
  さて、第17條は、私達が死んだ後に参る世界に関する記述です。死んだ後の事は経験者がいませんから、議論は出来ても、結論は出ません。現代の私達の常識世界から致しますと、議論する事自体が無意味で、『だから宗教には抵抗を感じる』と言う人も多いのだと思います。

  確かに宗教は現在生きている人が心安らかに生きるための教えです。死者を弔う宗教の代表と見なされている浄土真宗と言う宗派も、本当は生きる人の為に、親鸞聖人が私達と同じ生活をしながら至られた心の世界を拠り所にして立宗されたものです。
  お葬式でお坊さんが読んでいるお経も、決して死者に手向ける内容ではなく、人間として生まれて来た事の慶びを謳いあげたものです。

  しかしよくよく考えますと、宗教が生き方や生きている意味、価値を説いているものである事は間違いの無い事でありますが、宗教の難しいところは、死んだ後を無視する事もまた出来ない事だとも思います。もし、『人間が死んだら肉体は若干の無機物質と炭酸ガス、一酸化炭素と水になり、すべては無に帰します。宗教は生きている間の事であり、死後の事は一切関係ありません』と、現在の科学的知識で説明したら、どうなるでしょうか。『どうせ死んだら、この世の事は全く無になる。悩もうが、悩むまいが、いい事しても、悪い事しても、この世限りだ』と言う極端な想いを抱く人々も出て来ると思います。知識人好みに、死ぬまでの幸せしか説かない宗教でありましても、私達凡夫は、更に迷うものです。
  また、人間は、行き先が分らないのもまた不安ですから、私達が迷わぬために、死後の世界まで言及されたものと、私は思います。そこに人類の智慧が、阿弥陀仏の智慧と慈悲が現れていると思うのです。
  こう言う事を踏まえた上で、この第17條を読みたいと思います。

  親鸞聖人は、『阿弥陀仏は信心を得た人を摂取不捨の利益にて救う』と宣言されましたが、しかし、それでは、信心を得られなかった人は救わないと言う事になります。そこで親鸞聖人は、阿弥陀仏は浄土の真宗に帰依した人々すべてを救うと言う立場に立たれて、善行を積んで往生をしたいと願い続ける人も、お念佛を称えたら往生が出来ると信じ続けた人も排除せず、仮のお浄土を設定されたのかも知れません(地獄一定の身と言われた親鸞聖人が、本当に仮の浄土の事を言われたのかどうか、私は根拠となる文献を存じません)。
  逆に言いますと、それ程に、生きている間に本当の回心をする(信心を得る)事は難しいと、親鸞聖人は思われていたのではないでしょうか。易行難信(念佛を称える事はた易いが、他力を信じる事は難しい)と言う事だと思います。

  そして、仮のお浄土を邊地(へんぢ)と名付け、浄土真宗に帰依したけれど回心に至らなかった人をすべて迎えいれるとしたのだと思います。そして、邊地は、言わば予備校みたいなもので、勉強(他力本願にお任せするしかない事を体得する勉強)すれば、直ぐに浄土へ往生する事を生きている人々に約束をされたのだと思います。
  それ程、当時の世の中は、生き地獄と言う事がそのまま当て嵌まる世情であり、死後の世界にしか安らぎを求められない状態では無かったかと思います。
  身近に戦争が絶えない鎌倉時代とは異なり、現代の日本社会は、結構楽しい事も溢れており、親鸞の思いやりは通用しないのではないかとも思います。

  さて、当時も本願他力を理解せずに、ただお念佛をすれば良いと言う人々がいたのだと思います。一方、こう言う人達を批判する人々もいました。そして、浄土往生を念じて一心にお念佛する人達は、結局は他力にお任せしていないのであるから、一旦は邊地に往生するけれども、結局はお浄土へは行けずに地獄に落ちると批判したのだと思います。この條では、そう言う批判をする人達を逆に批判しているものです。

●本文
邊地往生をとぐるひと、つゐには地獄におつべしといふこと。この條、なにの證文にみへさふらふぞや、學生たつるひとのなかにいひいださるることにてさふらふなるこそ、あさましくさふらへ。経論正教をば、いかやうにみなされさふらん。

●現代解釈
死んだ後、辺地(すなわち浄土の直ぐ側にある仮のお浄土)に往生する人は、最終的には地獄に落ちると言う人がいるが、これは、どのお経のどの文章に、その証拠があると言うのだろうか。学者と言われる人々から出ている事であるから、なお更、不思議でたまらない。経論や聖教をどのように解釈して、この様な事を言うのであろうか。

●あとがき
  学校で化学の勉強をし、理屈の世界を生きて来た私も、ただお念佛さえ称えれば浄土往生出来ると言うものではないと思って来ました。むしろお念佛にも、浄土往生と言う事にも抵抗を感じて来たと言うべきでしょう。そして抵抗なく疑いもなくお念佛を称える人を羨ましくもある反面、本当に本願の深い意味や、『懺悔も出来ない自分』と言う程に自己を問い直した上でのお念佛なのかと疑い、批判する心が、私の中にあります。この私のような人々が、当時も存在したのは容易に想像出来るところです。

  しかし、この條を読んで私は、この歎異鈔の著者である唯園師にたしなめられた想いが致しました。遠き宿縁によって、浄土の真宗に興味を持った人はすべて、最終的には浄土へ往生出来ると言う事を言いたいが為に、邊地を設定して頂いたのだと私は理解します。それ程、信心を得ると言う事は、難しいのだと言う事だと思います。

  もっと言えば、信心を得るなんて、私には無理なのだと思います。いや、我執の源である肉体を持っている限りは絶対と言って良い位に無理だと思います。だから親鸞聖人も、『何れの行もおよび難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし』と言われたのだと思います。

  極楽往生出来ると思った瞬間から、地獄に落ちるのかも知れません。そう言う立場に立ちますと、邊地往生を説いて下さった事は、何と先見の明があるかと、感謝するしかありません。
  うっかりすると邊地往生は、他人事になります。私はお浄土に往生出来るけれど、あの人は邊地往生だろうと………。私も、今の今まで自分は浄土へ往生して、邊地往生は他人事と思っていました。
  しかし、親鸞聖人は、自分は邊地往生さえも無理で、地獄行き間違い無しと自覚されました。だからこそ、自分をすべて放り出して、阿弥陀仏の本願他力に救いを求める境地に至られました。世間で言うところの一番の下座に座られました。一番の下座が正定聚の位(浄土往生が確定した位)だと思いますが、賢いと思っている私には、なかかな座れる位ではありません。

  このコラムを書いている今、激しい春雷の音が鳴り響きました。かなり近い!春雷の音がするかなり前から、人間には聞こえない音を感じ取っていた我が家の老犬を家の中に入れてやりましたが、普通は家に入れれば吠えないのに、恐怖のあまり吠えています。私も、やはり気持ちは悪い。そして『まさかこの広い地域の中で、選りによって我が家には落ちまい』とは言い聞かすけれども『どうか我が家には落ちないでくれ』と言う我が身可愛さが計らずも出て来ました。計らずもと言うところが、如何にも実に悲しい事です。
  突詰めれば、他人の家に落ちても、他人がどうなっても、私は助かりたいと言う根性です。こう言うところを親鸞聖人は、『小慈小悲も無き身にて』と嘆かれたのだと思いますが、そこが私と親鸞聖人の違うところです。私は自分を悲しい(情けない)とは思うけれども、慙愧(ざんき、恥じ入る気持ち)が起りません。
  これを罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫と言うのでしょうが、それでも地獄行きとは思えない自分との闘いは、果てしがありません。


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2002.05.23

日本の業(ごう)―瀋陽総領事館事件に想う―

  亡命を求めて、瀋陽の日本総領事館に駈け込みながら果たせなかった北朝鮮の5名は、今朝午前4時過ぎ、中国からフィリピンを経由して韓国の仁川空港に無事到着した。人権上の面では、先ずは、めでたし、めでたしである。
  しかし、これから日中間で、事実の解明と外交問題の決着に向けての交渉が始まるが、この事件は、あまりにも多くの現実を私達日本国民に突き付けてくれた事により、どんな政府間決着になろうとも、日本にとっては、一件落着とは到底言えないと思う。
  この事件が私達に投げかけた問題点について、私の仏教的な受け止め方を披露し、これからの日本のあり方に付いて、自分の意見を述べたいと思う。
  少し長い文面なので、要旨を冒頭に付けますので、興味のある方には、内容までお読み頂きたいと思います。

●要旨
  この事件は、過去に戦争を起し、敗戦に至った日本の業(ごう)の現われであり、単純に、領事館員一人の責任や、外務省、日本政府の責任にすべきではなく、日本国全体、日本国民一人一人の問題として、仏教の業思想(ごうしそう)に立ち戻って自己を問い直し、価値観を転換してこれまでの人生の歩み方を翻し、世界の中で自立した1人前の国として扱われる様になる契機として、今回の事件を捉えなければならない。
  そして、一部政治家に日本国の業(即ち将来)を任せずに、今こそ私達国民の一人一人が自分の意志を明確に表明して、どの国にも隷属しない日本国としての意思を持たねばならないと思う。それは、国の防衛も含めてである事は勿論である。


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