2002.05.20

歎異鈔の心―第16條の3項―

西洋陶芸作品

  写真は、前回に引き続き、妻の西洋陶芸の作品です。高さは15cm。この西洋陶芸は、すべてレース生地を使用し、レース生地を粘土液に浸漬する工程を経てレース生地を陶器化し、ボリューム感、可憐さ、華麗さを演出させるのが特徴だと思います。

●まえがき
  会社の再出発に合わせまして、ホームページをリニューアル致しました。お時間がありましたら、覗いて見て下さい( http://www.plinst.jp/)。会社内外の状況から致しますと、厳しい再船出である事は間違いありませんが、小さい会社だからこそ出来るオンリーワン技術の追求と、信頼出来る他企業との協業・共生を基本的スタンスとして、人と人との縁を大切にして、水面下からの再浮上を目指したいと思います。陰ながらの応援を宜しくお願い申し上げます。

  歎異鈔の解説も、もう早、来週の月曜コラムで1年を迎えますが、阿弥陀仏の本願浄土、そしてお念佛と言う単語には、一般の方はなかなかなじめないと思います。特に科学知識を中心とした教育を受けた現代の私達には、どこか架空っぽく、非現実的物語と感じられると思います。
  しかし、『私の知識に無い事は信じられない、科学的に証明出来ない事は空想だ、迷信だ』と言うのは、私達の思い上がりではないでしようか。
  私達人類がどう頑張りましても、所詮人間の知識では、宇宙の現象に関しまして、全てを解明出来るものではありません。月まで足を伸ばし、火星探査機を飛ばした人類の知る宇宙は、宇宙全体から見れば、地球上に生える1本の木を見て、地球を見たと言う程度の事では無いかと思います。

  そして、自分そのものの生命、自分の住む地球上のあらゆる生命に関してでさえ、その生命を生み出す『生命の源』を解明出来ていません。具体的には蟻一匹さえ人類の手で創り出す事が出来ていないのが実状です。

  これから先も、人類にとりましては宇宙も、生命の源も『永遠に謎』だと思います。人類には計り知れない不可思議な宇宙の真実・真理と言うものがある事は間違いありません。

  そう言う宇宙を動かしている不可思議な力を、抽象的に『宇宙の謎』とか『宇宙の真理』と言う単語ではなく、『阿弥陀仏』とか『佛様』とか『神様』と擬人化して、私達人間にとって身近な存在にしたものと考えたいと思います。
  そしてこれは、人類史から言えば、ほんの2千数百年前に実在したお釈迦様、キリスト様のお智慧と言うだけではなく、有史以来これまで存在した人類が協力して完成させた智慧だと考えれば、私達現代人も納得、理解出来るのではないでしょうか。

  さて、この歎異鈔第16條は、回心(えしん、自力を翻して他力にお任せするしか無いと思えた瞬間)は生涯で1回きりだと言う事を私達に示しています。また、自然(じねん)と言う事に付きましても、『信心を得ても、やはり我が身が一番可愛いと言う煩悩の火は完全に消える事がなく、遂々してはならない事をしたり、言ってはならない事を言ってしまうが、信心を得た自然(じねん)の結果として、その都度ますます本願他力を信じる心は強くなり、御恩報謝の念佛生活を送る事になる、これを自然(じねん)と言うのだ』と著者は言いたいのです。そして、『信心を得たら、遂々してはならない事をしたりした時は、自然(じねん)の結果として、その都度回心懺悔しなければならないのだ』と主張する人達の、自然(じねん)と言う言葉の使い方を間違いだと指摘しているのです。

●本文
信心さだまりなば、往生は彌陀にはからはれまひらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあをぎまひらせば自然のことはりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべて、よろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと彌陀の御恩の深重なること、つねにおもひいだしまひらすべし。しかれば、念佛もまふされさふらう。これ自然なり、わがはからはざるを自然とまふすなり。これすなはち他力にてまします。しかるを自然といふことの別にあるやうに、われしりがほにいふひとのさふらうよしうけたまはる、あさましくさふらう。

●現代解釈
一旦、信心が定まりましたら、往生は、阿弥陀様にお任せしてしまう訳ですから、自分のはからいはなくなります。そして、自分の悪さを知れば知るほどに、本願他力を仰ぐようになり、おのずと柔和忍辱の心も湧き出すと言う事は、自然(じねん)の理(ことわり)だと思います。往生するには、どんな事があるにせよ、利口ぶらずに、ただただ阿弥陀仏のご恩が深く重いことを常に思い浮かべるようになる事だと思います。そうなれば、自然(しぜん)と念佛も称えるようになるものです。これ自然(じねん)の事です。自分が計らわない事を自然(じねん)と言うのです。これ即ち他力と言います。それを自然(じねん)と言う事が別の意味であるように物知り顔で言う人達がいるようですが、実に呆れたことです。

●あとがき
  回心して信心を得たら、本願他力にお任せしたのですから、もう何も迷う事も、煩悩に悩む事も、不安もないかと言うと、そうではないと思います。また、他人と争う事も無くなるかと言うと、これも違うと思います。これは、親鸞聖人の晩年の和讃を読めば、明らかだと思います。自己の心の有り様を嘆く内容と、そう言う自分に寄り添う阿弥陀仏の本願他力の有り難さを慶ぶ内容が共存しております。どちらも素直に心のあるままを表現したものだと思います。

  自己の心の暗い部分(煩悩一杯の自分)を嘆く事と本願他力を信じ慶ぶ事は、殆ど同時だと思います。それは自分の煩悩を知らせてくれるのは、本願他力(私達の心の中に誰でも持っている仏心)だからです。

  回心をして信心を得ても、心の中の仏心(仏性)が目覚めれば目覚めるほどに、煩悩の深さの深い事を知らされる訳ですから、嘆きも深く大きい反面、他力本願に出遇った慶びも深く大きくなるのは、何か分るような気が致します。そして、お念佛も出ると言うのが、自然(じねん)であり、これが他力本願だと言う事だと思います。
  これ非常に微妙なところですから、一般には難解ではないでしようか?

  私は、キリスト教の信仰を勉強した事がありませんから、間違っているかもしれませんが、キリスト教徒の心の安らぎは、神様の前で心からの懺悔をして、神様は救って下さると言うところにあると理解しています。
  もし、これが正しい認識だと致しましたら、極めて平易な表現をすれば、その神様への懺悔をする心を更に深く見据えたのが親鸞聖人だと思います。

  親鸞聖人の到達された(浄土の真宗の)境地は、懺悔すら出来ない自己の罪深さに気付かされ、そしてそれが他力の本願により計らわれた事であると目覚めさせられ、それが阿弥陀仏に出遇えた慶びに変換され、我が計らいではなく、全てを自然(じねん)にお任せすると言う心の落ち着きではないかと思います。そして、その感謝の心を表現する手段として、南無阿弥陀仏を用意して、自分にまで届けてくれた、お釈迦様を始めとする祖師方と、自分の今日の存在を有らしめた遠き宿縁を慶ぶと言う晩年ではなかったかと思うのです。

  最後に回心(えしん)に付いて私の知るところを付け加えたいと思います。
  回心は禅宗の悟りと同様に1回きりだと言う事は浄土真宗の正しい考え方です。そしてその瞬間を何年何月何時何分と、はっきりと自覚された方もありますが、一方、本当はそう言う瞬間を経験したはずであるけれども、日頃から回心回心と待ち構えていた訳ではありませんから、その瞬間を自覚出来ずに、『何時とはなしに…』回心された先生方も多いと承っています。
  これはどちらが正しいとか、間違いとか、また善し悪しの問題ではなく、その人の性格に依るものではなかろうかと言うのが、私の尊敬する、故白井成允先生や故井上善右衛門先生のご述懐でした。


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2002.05.16

ないものねだり

西洋陶芸1

  写真は、西洋陶芸を習い事中の妻の作品です。しばらくは、作品集を掲載させて頂き、妻の励みにしたいと思います。

  ずいぶん前(昭和54年7月)ですが、奈良康明師(駒沢大学名誉教授、元駒沢大学学長)が垂水見真会にご出講頂いた時のお話しの中で印象に残っている言葉が今回のコラムの題名『ないものねだり』です。
  私達は今の自分に満足せずに、常に、今、手に入れていないものを求めて、苦しんでいると言う事を平易な言葉で『ないものねだり』と言われたと思うのですが、禅の言葉『少欲知足(しょうよくちそく)』(欲を出さずに、現在の満足することを知りなさい)と裏表の関係にある言葉では無いかと思います。

  少欲知足が出来れば、悩み、不満も無くなり、私達は機嫌良く生活出来ると思いますが、反面、ないものをねだる事は、向上心を誘発するものでもあり、『ないものねだり』を完全否定致しますと、消極的人生を勧めるような事にもなりかねません。
  そう言う意味では、少欲知足の少欲と言う事の意味を噛み締めなければならないと思います。現代的な表現に変換致しますと、少欲と言うよりも、欲を自己コントロール出来る様に、と言うべきだと思います。

  仏教では、人間が本能的に持っている欲望(5欲、食欲、睡眠欲、金銭欲、性欲、名誉欲)を決して否定している訳ではありません。しかし人間の欲望は、放っておいたら、増大するばかりで、満足する事を知りません。仏教では、それが不幸の始まりと考えます。そして、それが、人間の苦の原因だと考えています。

  少欲知足とは、平易な表現をすれば、『そんなに欲を出さないほうが良いですよ』と言う事だと思います。ですから、『ないものねだり』とは、少し趣きが異なりますでしょうか。

  例えば、誰でもお金が欲しいのですが、では、どれだけあれば満足するかと言えば、限(きり)が無いと思います。お金を含めて、金銭・財産欲に関わる事ですが、私自身の人生を振り返りましても、常に満足と言う時はありませんでした。今も勿論、満足はしていません。しかし、確実に、給与は増えて、生活レベルは向上しています。
  具体的には、私の住まいも、新婚の2DKの木造アパートの借家住まいから、4DKの賃貸マンション、1戸建ての賃貸社宅、4DKの分譲マンション、建て売りだけど一戸建て、そして今は別注一戸建てと、住居レベルは確実に上がっていますが、満足度と言うか、不満足度と言うか、それは常に変わらなかったと言うのが現実です。このままでは、極論かも知れませんが、たとえ1000坪の豪邸に住んでも満足はしないでしょう。
  お釈迦様は、『人間の金銭欲は、たとえ、あのヒマラヤの山全体を金に換えても、満足させることは出来ないだろう』と、おっしゃったそうですが、本当にその通りだと思います。

  一方、名誉欲も、増大して行くものです。タレントも歌手も、『有名になってお金持ちにもなりたい』と言う切実な想いでスタートを切るのだと思いますが、希望通り有名タレントになった時には、マスコミに追っかけられ一挙手一投足を見張られ、買い物も好きな時に好きなところでと言う訳にはまいりません。そうなりますと、人間は勝手なもので『もう有名でなくて良い、誰にも知られずに、自由気ままに生活したい』と切実に思っているはずです。これも見事な、ないものねだりです。
  念押しの為にもう一つ、ないものねだりの経験者としての告白です。
  私は、サラリーマン時代、上司や部下、そして他部門に気を遣いながらする仕事の不自由さに身も心も疲れ果てて、自由を求めて脱サラをし、社長になりました。確かに、仕事を進める上では自分の思い通り、誰に気がねする必要もなく、進められるので、本当に気持ちの良いものですが、今では、大企業では心配しなかったお金の苦労が身に染みています。零細企業では、大きな投資をした仕事に失敗したら、会社も個人の生活も破綻する訳です。そう言う厳しさがある上に、私が以前に勤務していた大企業には仕事に必要な設備・試験機が有り余る程に沢山ありました。今、私の会社には、開発に必要な設備が全くと言って良い位にありません。あの設備があったらなぁー。これもないものねだりです。
  今想えば、サラリーマン時代、自分が本当にしたい仕事を経営者に直接アピールしていたら、いやアピール出来る能力(プレゼンテーション能力、説得能力と言って良いでしょう)と人事環境があったら、自分の思う存分の仕事が出来たのになあー、と思う事もあります。
  これ、後の祭りです。
  では、仏教は、ないものねだりを否定しているかと言うと、これもまた、そうでは無いと思います。少なくとも、私は、そう思います。
  お釈迦様の教えは、ないものねだりの矛先(ほこさき)を、是非、5欲の満足ではなく、人間としての生命の尊さへの感謝に向けて欲しいと言う事だと思います。具体的且つ平易に言いますと、『人間として生まれた事を尊く思い、他の人に優る能力を生かして、人類の幸せに貢献したい』と言う大欲に目覚めて欲しいと言うのが、私の心の中にある、仏心の叫びだと思います。
  人間には、個々人に、他の人に優れた能力・才能がある事は間違いありません。それを知らないままに人生を終わる人もまた多いのだと思います。
  今からでも遅くはありません。自分については勿論の事ですが、他の人の優れたところを見付けて発揮して貰う事に、気配りをしたいものだと思います。
  それが、ないものねだりを解消する王道だと思います。


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2002.05.13

歎異鈔の心―第16條の2項―

庭に咲く御柳梅(ぎょりゅうばい)

●まえがき
  写真は我が家の庭に咲く御柳梅(ぎょりゅうばい)と言う蒲桃(ふともも)科の花木です。
オセアニア、マレー半島原産で、ニュージーランドの国花だそうです。英国からニュージーランドに移住した人たちが、お茶の葉のかわりに御柳梅の葉を利用したことから英名「ティーツリー」とも言うようです。

  さて、今日の歎異鈔第16條2項では、回心(えしん、自力の心を翻して他力にお任せする自力無効に至った瞬間、信心を得た瞬間とも言えます)が生涯で1回だけであると言う事を理論的・客観的に説明しています。しかし『人間は何時死ぬか分らないのに、罪を犯す度に回心しなければならないと言うのはおかしい』と言う唯園の理屈は、私には、少々説得力に欠けるように感じています。この項で唯園から批判されている人達の言い分は、『一旦自力の心を翻して本願他力を信じるようになったとしても、煩悩が完全に無くなる事は無いので、やはり人と口論もし、遂々罪も犯してしまうものであるが、本願他力を信じたからには、自然の理にて、その罪を犯す度ごとに、回心しなければならない』と言うものだったのではなかろうかと推測しています。回心と言う単語の使い方には同意出来ませんが、全く間違いとも言えないと思います。
  私も、回心と言うものは、仏教を勉強し修行する上では、ただ1回だけあるものだと言う位置付けをしています。そして煩悩も決して無くならないと思いますので、日常生活で、仏様の真実に照らされて、『ああ、またこんな事をしてしまった、言ってしまった』と言う事は、度々、いや頻繁に生じると思います。そう言う時の心の転換は回心とは言わず懺悔と言うべきだと思います。懺悔もしてはいけないと言う事ではないと思います。
  唯園さんが言いたかったのは、回心と言う事を簡単に使わないで欲しいと言う事なのかも知れません。本当の回心も経験せずして、単に偽悪者ぶり、回心、回心とお念佛を称え、はたまた善行を積んで浄土往生を願う人々があまりにも多く、腹に据えかねたのかもしれません。

  先週の木曜コラムの『歎異抄ざっくばらん』の著者、米沢先生は、その本の中で、歎異鈔の第1條に『摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり』と書いてあるが、その利益(りやく)の内容が歎異鈔の何処にも示されていないと、不満を言われています。
  言い換えれば、この條で問題となっている回心(えしん)を果たした結果、どんな良い事があるのかと言う事が、この歎異鈔には書かれていないと言う事です。信心を得てどうなるのか?と言う事でもあります。この事については極めて大切な事柄ですのであとがき−2にて考察したいと思います。

●本文
一向専修のひとにおいては、廻心といふことただひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては、往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまひらするをこそ、廻心とはまふしさふらへ。一切の事に、あしたゆふべに、廻心して往生をとげさふらうべくは、ひとのいのちはいづるいきいるほどをまたずして、をはることなれば廻心もせず、柔和忍辱のおもひにも住せざらんさきにいのちつきなば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおはしますべきにや。くちには願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願不思議にましますといふとも、さすが、よからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力をうたがひ他力をたのみまひらするこころかけて、邊地の生をうけんこと、もとも、なげきおもひたまふべきことなり。

●現代解釈
  ひたすらに、阿弥陀仏の本願を信じて念佛する人においては、廻心(えしん)と言うのは、生涯にただ1度だけであるべきです。そもそも廻心とは、本願他力で救われると言う真宗の教えを知らない人が、永い歳月をかけて漸く、阿弥陀仏の智慧を頂いて、今のままでは往生出来ないと思い、自力の心を翻して、本願他力に任せ切るようになった瞬間を言うのです。身に為し、口に言い、意に思うあらゆる業について、その度ごとに廻心してはじめて往生出来ると言うのならば、人の命は息の出入りする瞬間に終わるものだから、廻心もせず、穏やかな心にならない中に死ぬ事もあるのだから、そんな事では、摂取不捨と言う本願の意味が無くなってしまいます。こう言う人達は、口では本願力に頼りお任せすると言いながら、心の中ではそう言う悪人をこそ救うと言う本願の不思議を言いつつ、実は善人をこそ救うと思っているに違いありません。こう言う人達は、本願を疑い、他力に任せる心が欠けているから、真実のお浄土に生まれずして、その傍らの辺地に生まれるであろうが、実に残念な事です。

●あとがき−1
  邊地(へんぢ)と言う一般には馴染みの無い単語が出て来ておりますが、この後の17條が、『邊地堕獄の異議』の條ですので、そこで詳しく勉強したいと思います。ここでは、仮の浄土と言う事で、真実の往生が遂げられないと言う程度に留めたいと思います。
  歎異鈔を出来るだけ、一般の人々に理解して貰おうと、自分の勉強も兼ねて解説に挑戦している訳ですが、歎異鈔に忠実であろうと致しますと、どうしても、単語の説明に終始して、親鸞聖人の教えの内容を正しく伝える事が疎かになって来ており、反省をしているところです。まえがき、あとがきで、少しでも取り返している積もりですが、未だ回心を経験していない私には自ずから限界があるようです。
  しかし、この機会に読んでいる、他の先生方の歎異鈔解説書や、親鸞聖人に関する書物、浄土真宗の学僧方の著書、それに以前に解説した般若心経の解説書、趣きの異なる禅僧の著書等を併せ読みますと、お釈迦様が説かれようとした事、親鸞聖人が至られた心境、信心、深信が、おぼろげながら、しかし確実に自分の心に現れて来つつあるような気がしているのも、また確かである事を申し添えたいと思います。

●あとがきー2
  さて、信心を得たり、回心をした後には、どう言う良い事が待っているのか?米沢先生は、歎異鈔に書かれていないと申されていますが、私は、第7條に、明確に示されているように思いますが、私の領解が間違っているのかも知れません。それはさておき、米沢先生は、親鸞聖人自身が作成された和讃の中にある『摂取不捨の利益にて、無上覚をば悟るなり』から、無上覚を悟る事だと言われていますが、無上覚を悟ったら、どう言う良い事が、この世で待っているかには言及されていないのです。これでは、念佛を称える事自体が悦びであると言われるのと殆ど変わらないと思います。
  回心、悟り、信心を得れば、無碍一道と言う人生が待っていると思います。米沢先生がおっしゃったように、今の世の中、お念佛を称える悦びを宣伝しても、誰も集まってくれません。浄土真宗が葬式の為にあると言う認識を誰も変えてはくれません。お念佛すれば、死んでお浄土に往生出来ると言っても、殆どの現代日本人の心を動かす事は出来ません。現に今生きている人生に利益(りやく、効果、救い)が無ければなりません。親鸞聖人も、決して死後の事で悩んで、法然上人に遭って、回心されたのではないと思います。生きている身の辛さ、悩ましさが解決された訳です。
  その結論の一つが無碍の人生を生きられるようになった事でしょう。言い換えれば、般若心経の『無有恐怖』、即ち恐怖の無い人生が待っているのです。或いは、『転悪成善』(苦難が苦難でなく、すべてが幸せに受け取れる)の人生と言っても良いでしょう。
  生きている限りは、5欲が無くなる訳ではなく、煩悩が消える訳でもありません、苦難・災難・不幸を免れることもありませんが、それがそのまま悩みとはならず、人間として生まれて良かったと言う充実感溢れる人生に転換されて行くのが、信心・回心・悟りの効用であると、私は考えております。
  一般の仏教信者、特に浄土真宗系の学者さんも、お坊さんも、信者さんも、決してこう言う現世利益的な効用をはっきりとおっしゃりはしないと思います。ある意味では、米沢先生が嘆かれている通り、親鸞聖人の求められた求道の目的から離れてしまっていると言っても良いかも知れません。
  お念佛を口で称える事そのことが人生の目的や悦びならば、『南無阿弥陀仏』ではなくて、『アーメン』でも良いと思います。お仏壇を大事にし、先祖の供養を決まり通り勤め、ご法話を聞いて、お念佛を皆で称える事が、親鸞聖人の願いではない事は間違いありません。
  あの世の幸せではなく、この世で幸せになると言う事が宗教の、信仰の目的でなければならないと思います。ただ、幸せの内容が5欲の満足には無く、『人間の生命を頂いて、本当に良かったなぁー』と思える事だと言う事であります。
  そして、更には、そう思わせて頂いたのは、私の力ではなく、お釈迦様を生み出し、達磨大師、善導大師、聖徳太子、親鸞聖人をこの世に送り出して頂いた、大いなる働き、即ち仏様のお陰と『南無阿弥陀仏』と言えるところに、遠く宿縁を慶ばせて頂く、仏教徒の悦びがあると、私は思います。そして、その慶びを自分だけのものに留めず、広く伝えていく事が、大乗仏教の面目があるのだと考えております。

  今朝、アメリカのゴルフツァーにおける丸山茂樹選手の優勝が伝わって来ました。日本人のアメリカでの2回の優勝は、初めてと言う事です。心からその偉業を称えたいと思います。
  イチロー選手もそうですが、世界レベルの偉業を打ち立てるまでには、仏道の修行と同様の厳しい、自己愛との闘いがあったに違いありません。


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2002.05.09

歎異抄ざっくばらん

チューリップの花

  大分の田畑先生とも縁を結んで頂いた方が、庭先でお育てになったチューリップの写真。今年の2月にメールに挑戦され、そして今はデジカメ写真を駆使されるようになられました。
今の時代、お若いとは言え60歳を越えておられます。しかも機械操作には弱いはずの女性です。そのチャレンジ精神には敬意を表したいと思います。実は、前回のコラム写真も、その方のナイスショットを拝借させて頂きました。

  今日のコラム題名『歎異抄ざっくばらん』は、米沢英雄と言う福井のお医者さんのご著書名です。米沢先生は、12年前に亡くなられましたが、お医者様且つ親鸞聖人の熱烈信奉者であると言う希少価値もあったからでしょう、全国各地の法話会から声が掛かり、在家の布教者としてご活躍なさいました。私どもの垂水見真会にもお越し頂きました。井上善右衛門先生とは趣きが異なり、単刀直入・誰に遠慮もしない、ズバッとした話し振りが印象的でした。
  しかし浄土真宗と言う宗派・教団には極めて批判的な立場(期待故の歯がゆさだと思いますが)を取られていたと言う事は、後になって知りました。

  親鸞聖人ご自身が浄土真宗と言う単語を用いられましたが、それは親鸞聖人が到達された信心の境地を表現されたものでありまして、決して宗派とか教団としての浄土真宗と言う意味ではありませんでした。親鸞聖人は、教祖として組織に君臨されていたのではなく、仏前でお経をあげた事もありませんし、お葬式や法事を営まれた事もありませんでした。師匠の法然上人の浄土宗から袂を分けて、浄土真宗と言う宗派をお立てになったのではありません。

  親鸞聖人がご存命中は、ご家族の生計は、関東の信者から送られて来る寄付・志で立てておられたようですが、親鸞聖人亡き後は、その関東からの送金も止まり、生計を立てる道を思案した結果、継続的、安定してお金を集めるべく、親鸞聖人を信仰の対象とする聖地を作り、親鸞聖人のお弟子さん達を中心として、寄付を募ったのだと思います。それが今日の教団、本願寺になったものと思われます。そして、寄付の対価として、お葬式や法事の儀式を取り仕切る仕組みが出来て行ったのではないかと思われます。

  米沢先生は、こうして親鸞の浄土真宗を葬式仏教になり下げた本願寺教団の責任を追及されていますが、一方これは生活の為には致し方ないとしても、お念佛を称える事に中心を置いている(口称念佛)僧侶の布教のあり方を特に批判されています。

  そして、歎異抄についても、お念佛を称える事を大切とする浄土宗的なものであると、論陣を張っておられます。少なくとも、歎異抄は、晩年の親鸞聖人が至られた信仰境地を表わしたものではない、88歳に書かれた自然法爾章と言うのが、親鸞聖人の至られた境地であると主張されています。

  私は、親鸞聖人のご著書、関連著書を系統的に勉強しておりませんので、はっきりと反対意見を披露する事は出来ませんが、歎異抄の第1条2項で、『信心を要とすとしるべし』と、信心が大切と言う表現がとられていますし、歎異抄全体を貫いている考えも、必ずしも、『先ず念佛ありき』とは受け取れません。

  ただ、米沢先生が、今の宗派としての浄土真宗及び門徒衆、信者さん達は、親鸞の浄土真宗ではなく、先ずお念佛を称える事、『ただ念佛して』と言う浄土宗的教えに傾いてしまっている向きがあると嘆かれている事には、同感の想いを表明したいと思います。

  やはり、何事も中道がよろしいかと思います。信心が要(かなめ)ですが、お念佛も信心を頂くまではしてはいけないと言う頑なさも問題だと思います。一方、信心の伴なわないお念佛を強要するのも如何なものかと思います。

  米沢先生は、『自力無効の私に気付く』『人間に生まれて来て良かった』が南無阿弥陀仏とも言われていますが、こう言う説き方も現代には必要だと思います。禅の悟りも、疑って疑って、自力が無効になった時に悟りの瞬間があると聞きます。浄土真宗も、他力・他力と言うハカライを離れた時に本当の回心があるのではないでしょうか。

  極最近、宗教社会学と言う学問がある事を知りました。その中の学者のお一人のホームページ(http://www.kinet-tv.ne.jp/~benjamin/index.html)の論説に、宗教も進化すると言う表現がありますが、宗教を求める動機も、求めるところも時代が変わっても『苦からの解脱』である事は変わらないと思いますが、科学が急速に進歩し、知識量が激増し、生活状況も激変している、ここ150年間位の近代、仏教も、浄土真宗の説き方も進化しなければならないと思います。

  『歎異抄ざっくばらん』を含めて、米沢先生は、親鸞聖人の求められたものに回帰すると同時に、進化への挑戦を試みられようとされたのではないかと、私は思います。そして、米沢先生のご遺志を継いで、鎌倉時代に親鸞聖人や道元禅師によって進化された仏教を、これからの数世紀にわたって生きる仏教に進化させるのが、この時代の日本に生まれ、遇い難い仏法に出遭わせて頂いた者の使命だと思います。


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2002.05.06

歎異鈔の心―第16條の1項―

鯉のぼり

●まえがき
  昨日は子供の日、街には『鯉のぼり』が泳いでいました。
  ユトリ教育と言って、今年から学校も週5日制となりました。『先生にも、社会にもユトリが無いのに、子供にユトリを教えられるはずがない』と言う皮肉っぽい意見など、色々な議論があるようですが、教育のあり方そのものに具体的な議論と対策が出て来た事は、歓迎すべきだと思います。
  元々『鯉のぼり』は、水の流れに逆らって上流へ上って行く鯉の如く、苦難を乗越えて生長して欲しいと言う親の願いの表われだと思います。私にも3人の孫がいます。其々が生まれ持って来た別々の資質を伸び伸びと生かしてくれたらと思います。
  鯉のぼりが親の願いの象徴と致しましたら、仏法は、私を生かしている『自然と言う親』の願いだと思います。浄土真宗的な表現をしますならば、お念佛は、私と言う人間を生み育ててくれている生命の親(自然)の願いだと言う事になりましょう。これが本願と言う事ですが、子供が親の願いを『ああーそうだったのか』と気付かしめられるには相当な歳月と経験を必要と致しますように、私達が仏様の願い(本願)に気が付くには、遠く宿縁を慶べと言われる通り、自分の力では無いと思います。それも含めて他力、他力本願だと言う事だと思います。

  『ああーそうだったのか』と気付くのを、浄土真宗では廻心(えしん、回心とも書きます、)と言います。回心は一回あるのみと言うのが、浄土真宗の正しい見解で、罪を犯すたびに回心する必要があると言う考え方に異議を唱えたのがこの條です。また、この條でも出て来る『自然』は、漢音では『しぜん』、呉音では『じねん』と読みます。仏教語としては、『じねん』と読ませますが、意味は自然(しぜん)と言う解釈で良いと思います。自然を自然と言うのは、仏教から来たのかも知れません。自は、おのずから。然は、しからしむ。自然は、『おのずからしからしむる』と言う事で、宇宙を動かしている力の働きのままにと言う事を言っている訳ですから、真に仏教そのものの考え方だと思います。この條では、『自然』の解釈についても、間違いがあるのだと指摘していると言われています。

●本文 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあひて口論をもしては、かならず廻心(えしん)すべしといふこと。この條、断悪修善のここちか。

●現代解釈
  信心を頂いてお念佛する人々ならば、もしも自然の結果として、腹を立てたり、世間常識的に間違った事をしたり、同じ仲間と口論する事があった場合には、、必ず回心(心を翻して)懺悔しなければならないと言う人達がいるけれども、これは、悪を断って、善に勤しまなければ、救われないと言う間違った考えであるとともに、回心と言う事についても、自然と言う事の解釈についても間違っています。

●あとがき
  世間一般常識としては、悟りをひらいたり、信心を得た人は、腹も立てないし、他人と争そうような事はしないと考えられていると思います。
  しかし、少なくとも、浄土真宗では、必ずしもそうでは無いと申します。人間は、肉体を持っている限りは、我執(自分が一番可愛いと言う自己愛)の心から開放される事は無いのだと考えます。
  私は、若い頃、この考え方には、納得が参りませんでした。『では一体信心とは何だと、何の為の信仰か?』と疑問を抱いておりました。極最近までも、その疑問を持ち続けていました。今も全く払拭している訳ではありません。
  この條で、批判されている人達も、同様の考えに立っていたのだと思います。だから一旦、回心をして信心を得ても、肉体を持っている限りは、一生罪を犯し続けるものであるから、その度毎に、回心をしなければならないと言う見解だったのでは無いかと思われます。
  回心とか自然(じねん)に関する定義は別に論ずるとしても、信心を頂く事、即ち仏様になるかどうかに付いての論議は、私は非常に微妙な問題だと思いますので、簡単にやり過ごす事は避けたいと思います。
  宗教は倫理そのものではありませんし、道徳を説くものでもありません、しかし道徳と全く関係が無いとは申せません。むしろ道徳・倫理の底に宗教心が無ければならないと申しても良いかと思いますので、信仰心は持っているが、普段の生活態度は以前と全く変わる事が無いと言うのも、如何かと思います。
  片方、肉体がある限り、遺伝子の支配から逃れる事は出来ない訳でありますから、動物的本能の闘争心、征服欲、自己防衛心も無くならないと言う事も充分理解出来るところです。

  親鸞聖人は、死ぬまで自らの我執を嘆かれて、和讃として遺されていますが、これは自虐的、偽悪的なものではなく、自らの心の動きの真実を見られての言葉だと思います。そしてこう言う我執の心は、真実に目覚めさせられた(佛様に出遭った)お陰で感得出来るものであり、そこに本願を実感として受止められ、信仰の慶び、仏法に出遭った慶びを、『遠く宿縁を慶べ』と言われたのだと思います。
  そこには、道徳とか倫理、世間常識を超えた心境と生活態度が見られたのではないかと思います。
  道徳とか倫理とかを云々している間は、信心を云々する段階には無いのではないかと、反省させられます。


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2002.05.02

マイナス思考・プラス思考

我が家のツツジ

  我が家の玄関先のツツジが盛りである。高さが30cm位だから、五月躑躅(サツキツツジ)と言うのだろうか。近くの公園も、家々の庭先にもツツジが咲き誇っている。

  下記の言葉は、最近では読売ジャイアンツの4番バッター松井秀喜選手が大切にしているものだと言う。

心が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人柄が変わる。
人柄が変われば、運命が変わる。

  これは、アメリカの心理学者の言葉と言われたり、中国とかユダヤで古く生まれた言葉とも言われたりしている。最後の一節に、運命が変われば、人生が変わるが付け加えられる場合もあるらしい。
  結論は「心が変われば、運命が変わる」となり、心の在り方、もち方によって人生は変わるのだと言う主張である。逆に、今の境遇を変えたければ、心の持ちようを変えなさい、と言う主張である。

  私もかなり以前から知っている言葉ではあるが、少し疑問を持っている。それは、心を変えるにはどうすれば良いかと言う事である。心とは何か?、また人の心は簡単に変えられるものではないと思っているからである。ある時は、価値観を変えればと言い換えたりしていたが、これも『?』が付いたまま今日に至っている。そしてごく最近、どうすればマイナス思考をプラス思考に転換出来るかと言う問い掛けに出会った。

  私が読んでいるメルマガ『がんばれ社長!今日のポイント』(経営コンサルタントホームページは、■http://www.e-comon.co.jp/)で、プラス思考・マイナス思考に関係するテーマ名「我々のOS」に関して、メルマガ読者(1万6千人)の一人からの下記の質問が紹介されていたのである。
(メルマガ原稿内容の詳細は、「我々のOS」をダブルクリックして下さい)

『私は、「がんばれ社長!今日のポイント」を楽しみにしている者の一人です。主人は常にネガティブ思考(特に仕事に関しては)です。そんな彼に今回のメルマガ原稿をみせたところ、「そんなこと誰でもわかってるんだ、分かっているけどそれが出来ない人間が多いんだよ」と反対に叱られてしまいました。こんなとき、何と答えますか?』

  経営コンサルタント氏もさすがに即答はされてなかったが、難しい問題だと思う。完璧な解答があれば、それはノーベル賞ものではないかと思う程である。

  私の現時点での結論を述べる前に、精神医療的な見地から、次の見解をメル友の一人から貰っているので、紹介したい。

『プラス思考出来るためには、物事の両面性・多面性を想像出来る事が前提となり、これには右脳を活性化する必要がある。右脳活性化は丹田呼吸法、リラックスなどなど方法がある。それができれば右脳は活性化する。カウンセリングでは共感という方法で、クライエントの右脳を元気付ける』

  成る程、マイナス思考は、物事を一面からしか捉えられない事から生じると言うのは分かる。それは右能の働きが悪いからと言う事も、何となく理解出来る。禅でも、やはり腹式呼吸法を指導して、本来の自分を見つけるべく座禅させる。舞台であがらないためには腹式呼吸だとも聞いている。病は気からと言うのとは逆に、肉体の有り様を整えて、精神をコントロールすると言う事も、これまた正しいと思う。これを習慣化する事が大切だとメル友氏のコメントがあった。これはマイナス思考と自認する人は是非試して欲しいと思う。

  私の人生を振り返った時、私には、マイナス思考の時もあったし、プラス思考の時もあったと思う。そして、それは、どうも人間関係と密接な関係があったような気がする。即ち、良き人間関係の中で人生を送っている時は、プラス思考。それが悪い人間関係の中の時にはマイナス思考だった様な気がする。これは多分私以外の方にも当て嵌まるのではないかと思うが、どうだろうか。
  だからと言って、人間は常に良き人間関係に身を置き続ける訳にはいかないと思う。お釈迦様も、人生の苦として、愛する人と別れなければならない反面、憎しい人と出遭わねばならないと申されているのである。だから、良き人間関係に身を置く努力をする事を、マイナス思考から脱出させる直接的な対策として謳いあげる事は出来ないのである。

  私は今、会社の人員を七分の一、工場は半分にと事業を縮小した直後であり、マイナス状況の真っ只中にあるが、不思議とマイナス思考ではない。そうかと言って、プラス思考かと言うと、そうでもない。マイナス状況でプラス思考出来ると言うのは、単におめでたいだけだと思う。
  私が考える、マイナス思考にならない為の考察を以下に述べたいと思う。

  仏教の因縁果の道理によるべきだと考えている。これは一宗教の考え方と言うよりも、誰も否定し得ない真理だと思う。
  因縁果の道理と言うのは、下記の通りである。
  『この世で(宇宙でと言っても良い)生じる現象(結果)には、全て原因があるが、原因があって結果があるのではなく、その原因に色々な条件(縁)が働いて、結果が生じるのである』
  具体的な例を上げておきたい。例えば此処に一つの花の種がある。種は因である。種があれば必ず花が咲くかと言えば、そうではない。花は果である。種だけでは花は咲かない。土と太陽と雨、炭酸ガス等があり、一定の時間が経過して初めて花が咲く。土、太陽、雨炭酸ガスが条件であり、縁である。其々の働き加減で花の咲き様が異なるのである。因に縁が働いて果が生じるのである。

  マイナス思考と言うのは、悪い結果ばかりを想定してしまうと言う事である。プラス思考と言うのは、良い結果を想像すると言う事であるが、私達の人生を振り返れば分かる様に、自分の思う通りの結果になった事は意外と…と言うよりも、極めて少ないはずである。それは、自分の想定しない環境の変化、事情の変化、他人の協力或いは逆に妨害があるからである。
  私自身の人生を振り返った時、入学・就職・結婚・転職・転勤・退職・会社設立・引っ越し、どれを取っても、自分の当初想定した通りには、運んでいない。何れも、思わぬ人が関与したり、環境・状況が変化したり、予期せぬ出来事があったりしての結果である。

  だから、私は、マイナス思考するのは、自分の力だけですべて決ると勘違いしているからだと考えている。因縁果の道理を知れば、自分だけの力で全てが決るとは思えないはずである。
  これは単なる運命論ではない。運命が決っているから、何しても仕方が無いと言うのではない。やはり、私の意思は必要である。こう有りたい、こうなりたいと自身の意思・希望は持つべきである。そして、精一杯の努力をすべきであるが、自分の努力だけで結果が生じるのではなく、様々な縁によって結果が生じる訳であるから、結果を予想する事にエネルギーを消費せず、結果は縁に任せ、自分のなし得る事に精一杯の努力をし、縁によって生じた結果を心静かに受け容れるのである。心静かにと言う事は、この結果ですべてが終わるのではないからである。この結果をまた因として、また想定出来ない縁が働き、別の結果が待っているからである。そしてこれは、生きている間中、また自分自身が亡くなっても、子孫や周りの人々に因縁果の連鎖が続くのである。

  この考え方が、これまでのコラムで再三披露して来た『天命に安んじて、人事を尽くす』と言う事でもあり、これが心の底から理解出来ると、無理なプラス思考をしないようなるし、マイナス思考もしなくなると思う。これに複式呼吸が身に付けば更に完璧ではなかろうか。

私は、冒頭の言葉を自分なりに、こう書き換えたい。

―因縁果の道理を知れば、人生が変わるー

因縁果の道理を知れば、思考が変わる
思考が変われば、態度が変わる
態度が変われば、行動が変わる
行動が変われば、習慣が変わる
習慣が変われば、人柄が変わる
人柄が変われば、人間関係が変わる
人間関係が変われば、人生が変わる


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2002.04.29

歎異鈔の心―第15條の3項―

蘭

  お祝い事の手土産・進物品として使用される『』、場合によりましては、3、4ヶ月華やかさを演出してくれるものですが、その後の運命は、悲しいものがあります。2年前に家を新築した時に頂いた蘭も、結構長持ちして、私達の目を楽しませてくれました。その後の処理について、友人が『2年程軒下に置いていたら、また花が咲きますよ』と言うアドイスをくれました。その通り、今年になって、写真の如く、可憐な花が咲きました。
  自然の生命の不思議さと確かさを感じました。

●まえがき
  この條項で出て来る「和讃」と言う単語は、一般の方には全く馴染みがないものだと思いますので、少し説明しておきたいと思います。和歌は、五七五、七七。俳句は、五七五と言う言葉の単位で表現される日本特有の古来からの詩ですが、和讃も、七五調1句を4句並べて表現する詩なのです。これは平安時代の中頃から生まれたようですが、当時の流行歌(はやりうた)が、この形式をとっていたと言う事です。そう言うところから、在家仏教を念願としていた親鸞聖人は、敢えて、この一般庶民の慣れ親しんだ口調を選ばれたのではないかと言われております。親鸞聖人は、実に多くの和讃を遺されておりまして、浄土真宗門徒の中には、朝夕仏壇の前で、正信偈に続いて、和讃を読み上げるのが通常です。

  親鸞聖人の和讃には、3帖和讃と言って『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』の3つがあり、全部で352首が遺されています。親鸞には『教行信証』と言う著書がありますが、これは漢文であり、現代人には難解なものである一方、これらの和讃は、親鸞聖人が至った心境をはっきりと、しかも人間性溢れる表現で遺されているもので、歎異鈔と共に、親鸞聖人の教えを輝かしいものにしたのだと思います。
  この條項の和讃は、その一つ『高僧和讃』の中の1首です。

  それからまた、六道を輪廻すると言う表現もありますが、六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上を言い、悟りを開かないうちは、自分で作る業によって、この迷いの世界の6段階を生まれ変わると言う考え方ですが、これはお釈迦様が直接言われた事ではないし、人間の知り得る事実ではないので、私は、生きている間に、そう言う精神世界と言うものがあるかも知れない位に捉えています。

●本文
和讃にいはく、金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、彌陀の心光摂護して、ながく生死をへだてけるとさふらうは、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまはざれば六道に輪廻すべからず。しかればながく生死をばへだてさふらうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらうをや。
浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくと、ならひさふらうぞこそ、故聖人の、おほせにはさふらひしか。

●現代解釈
  親鸞聖人が、御自身の和讃で『金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、彌陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける』と詠われていますが、これは信心が定まった時、阿弥陀仏が摂取して捨てられる事が無い故に、六道輪廻を繰り返す事が無くなり、そして生死と言う迷いの世界から永く離れられると言う事であって、これを即身成仏と同様の悟りと言い張るのは本当におかしい事で、納得が参りません。
  浄土真宗では、この世に生きている間に阿弥陀仏の本願を信じて、あの世に往生して悟りをひらくと(師匠の法然上人から)教えて頂いていると、親鸞聖人がいつも申されていた事です。

●あとがき
  この條は、親鸞聖人のお教えは、信心を得て、浄土へ往生して悟りをひらくと言う事がこの世において確定する(正定聚の位として)ものであり、この生身の体のままで悟りをひらくと言う即身成仏ではない事を宣言しているものです。
  私は、この歎異鈔の著者唯園が、何故これほどに、浄土真宗における信心を得ると言う事が即身成仏でない事に拘るのかが分かりません。即身成仏が自力の歌い文句だからでしょうか。
  肉体がある限りは、食欲もあり、睡眠欲、性欲もあるでしょう。死も全く怖くないと言う事はない、煩悩は死ぬまで消えないと言う立場からかも知れませんが、私は今のところ、死後の事につきまして、どうでも良いとは申しませんが、議論するべきものではないと思っています。生きているこの身、この心が救われると言う事が大切であり、死後に悟りがあるとか無いとかは、そう重要とは思えません。
  少なくとも、お釈迦様は、死後の事については、『無記』として、語られていないと聞いております。そうなると浄土真宗と言うものが成り立たない事になりますでしょうか?この点に付きましては、人生における宗教の根本的な役割に関するものであり、もう少し勉強しなければならないと考えています。


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2002.04.25

爪の上の砂

庭のバラ

  我が家の庭のフェンスにバラが咲き始めました。ミモザ(あかしや)、花ずおう、ハナミズキ、そしてバラと、順番に咲き誇る有り様は、自然の確実さと豊かさを感じさせます。

  さて、地球上に生命が誕生したのは、40億年前位と申します。そして生命の種類は、数千万種とも数億種とも言われます。そして、その1品種である人間の数を表わす地球人口は、現在、60億に近付いていると言われます。
  そう考えますと、今、私が、私と言う人間の生命を得ている事実は、想像を絶する稀少さ、尊さだと言う事になります。

  その、人間と生まれる希少価値を、2500年前に強調された方がいらっしゃいます。それは、お釈迦様です。

  ある時、お釈迦様は、お側に仕えていた阿難(アナン。葬式の時に聞くお経の中で、アーナンダと言う言葉をお聞きになった事があると思いますが、これは、阿難よ、と言う呼びかけです。その阿難です)に大地の砂を手の平に取られて、尋ねられました。

「阿難よ、この手の平の砂と大地の砂と、どちらが多いと思うか」
「世尊、大地の砂は限りなくたくさんで、手の平の上の砂はわずかです」
「そうだろう。この世の中に生命をもって生まれてきた生物は、大地の砂ほど限りなくあるが、人間に生まれたものは、手の平の砂ほど少ないのだよ。自分の生命も他人の生命も大切にしなければならんぞ」と、教えられました。

しばらくして、右の手の砂を左の親指の爪に落とされて、
「人間に生まれたものは、手の平の砂ほどあるが、人間に目覚めて生きるものは、この・爪の上の砂・ほど少ないのだよ」と、訓されたのであります。
生命多しといえども、有難くも人間に生まれた尊い生命であるから、甲斐ある人生、値打ある人生を完うしてほしいと、願いをこめられた言葉でありましょう。

お釈迦様が、『人間に目覚めて』と言われた意味は、人間だからこそ苦があり、その苦を因として、仏心に目覚められるのだと言う事だと思います。仏心とは、真っさらな、素直な心です。私と他人を区別しない、無我の心です。

また、お釈迦様が言われた甲斐ある人生、値打ちある人生とは、どう言う人生でしょうか。
お釈迦様は、王子と言う裕福な生活を捨てて、苦からの解脱を目指され、6年間の苦行をされ、その苦行の無意味さを覚られ、沙羅双樹の木の下で瞑想されました。そして、暁の明星をご覧になられて、忽然と自分の心の中の仏性を悟られました。そして、自分だけではない。全ての生きとし生きるものはすべて同じく仏性を持っていると。
甲斐ある人生、値打ちある人生とは、名誉を追い求め過ぎず、自分の財産を築く事のみに東奔西走せず、他の人に勝つ事ばかりに心を奪われず、私の説く法(仏法)を聞いて、迷いの生活から脱出する道を歩みなさい。そして永遠の命に目覚めなさいと言う事ではないかと思います。

今日のコラムは、紀伊得生寺の加藤弘明住職のお話しを引用させて頂きました。

仏教に、礼賛文と言うのがあり、私は、幼い時から、朝夕、家族でこのお経を仏前で読まされました。1行目が、人間に生まれそして仏法に出会うと言う事は、爪の上の砂程の希少価値だと説いているのです。

●礼賛文:
人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依したてまつるべし。

  自ら仏に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、  大道を体解して、無上意を発さん。
  自ら法に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、  深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
  自ら僧に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、  大衆を統理して、一切無碍ならん。

人間に生まれる事は、なかなか無い事であるけれど、今こうして人間に生まれさせて頂きました。そして仏法に出遭う事は更に難しいのに、今こうして仏法のお話しをお聞かせ頂いている。折角こうして生まれさせて頂いたこの世で、仏法をお聞かせ頂き、迷いの境涯から脱出出来なければ、もうそんなチャンスは来ないであろうから、是非とも解脱したいものです。 私一人だけではなく、有縁の方々と一緒に、心を込めて仏法僧に帰依したい。

ざっとこの様な意味です。


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2002.04.22

歎異鈔の心―第15條の2項―

庭のハナミズキ

●まえがき
  『先人の跡を求めず、先人の求めたものを求めよ』と言う言葉がありますが、別の表現の『月を指差す指先に眼を凝らさず、月を見よ』と同じ事だと思います。これは仏教の道を求める時に限らず、あらゆる習い事にも、また何か行動を起こす時に歴史に学ぼうとする場合にも当て嵌まりますし、大切にしたい考え方だと思います。特に宗教の場合に、是非、心に留め置きたい言葉です。
  私は親鸞聖人を尊敬し、そのお教えは、仏教史上においても、輝いているものだと思いますが、親鸞聖人を宗祖・開祖とする浄土真宗の世界(東西本願寺及び龍谷大学とか大谷大学に関係する人々)とは直接的な関わり合いはございません。むしろ、親鸞聖人のお教えを歪めて、一般の人達の仏教離れ、お念佛離れを来たして今日に至った責任は、これらの集団の僧侶を含めた人々にあるとすら思っており、自省を求めたい気持ちで一杯です。

  ですから、親鸞聖人が、悟りを開く事が、生きている間に可能なのか、いや死んでからでなければ有り得ないとお考えになっていたのかどうかと言う議論に心を奪われては、何の為に道を求めているかと言う事になるのではないかと思います。
  浄土真宗に限らず、キリスト教でも、遺されている文字としての聖教に拘らず、その根本にある心を掴む事にエネルギーを費やしたいものです。
  そう言う観点から、この歎異鈔も読むべきだと思います。

●本文
  おほよそ今生においては煩悩悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶、なをもて、順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行慧解、ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、盡十方の無碍の光明に一味にして一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてさふらへ。この身をもてさとりをひらくとさふらうなるひとは、釈尊のごとく種々の應化の身をも現し、三十二相八十隨形好をも具足して、説法利益さふらうにや。これこそ、今生にさとりをひらく本とはまふしさふらへ。

●現代解釈
  考えますに、この世に生きている間に煩悩や罪深い本性を断ち切って、佛になると言う事は、有り得ない事です。真言や法華を修行する清浄な気持ちを持っている僧侶でさえ、即身成仏とか六根清浄とか言いながらも、なかなか悟りに至るのは難しく、次の世での悟りを祈ると言う有り様です。ましてや、戒律を実践もせず、仏の智慧も頂けない私達凡夫は、この世で悟りをひらくのは思いも依らない事ですが、有り難い事に、弥陀の本願の船に乗せて貰って、生死の苦海を渡り(人生を生き通して)、お浄土に辿り着いた時には、たちまち煩悩の黒雲は晴れ、みるみる中に、法性の月影が現れるのです。そして、何の妨げもなく十方を照らす仏様の光明に私自身が照らされて、そして、すべての衆生を救う事が出来るのです。これを他力本願の悟りと言っても良いと思います。生きている身のままで悟りをひらける人と言うのは、お釈迦様のように、あらゆる人の機に応じて色々な説法し、色々とお姿に変化して衆生を救ったり出来る人の事であり、それで初めて、この世で悟りをひらいたと言えるのであり、普通の人が、悟りをひらいたと言っても、それは真の悟りではないと思います。

●あとがき
  私は、私達人間も、そして動物も植物も、その生き様の有り様は遺伝子と言うものに支配されているように思います。全ては遺伝子のなせる業では無いかと思っております。そして、遺伝子と言うものには、学習して記録して行くと言う部分もあり、それが進化に関係があるのではないかと考えています。これは飽くまでも私の推測仮説です。   この世で親鸞聖人のお教えに回り逢ったのは、偶々ではなく、私は、私の細胞に組み込まれた、アメーバー時代から養われて来た遺伝子のなせる業だと思うのです。
  私達は、様々なものを親からだけではなく、祖先からも受け継いでいると思います。運動神経もあるでしょう、芸術の才能も、学者として才能も、そして体質的なものも受け継いでいます。私は、それだけではなく、宗教的資質も、遺伝子として受け継いでいるのだと思います。いや、そう考えないと、説明が付きません。同じ兄弟姉妹でも、また親子でも、仏縁の有無があるのは間違い無い事実だと思います。この世で夫婦になると言うのも、極めて有り難い縁だと思いますが、仏縁は別物だと思います。私の知る限りでも、夫婦共に仏縁深いと言うご夫婦は残念ながら、極めてと言う位に少ないです。
  私にも兄弟姉妹が5名ありますが、私と他の4名は仏縁の深さが異なります。今のところ私が最も親鸞聖人のご縁を頂いているように思いますが、これはすべて、私の遺伝子が、祖先から頂いた遠き宿縁を慶ぶべきだと思っています。私の手柄ではありません。


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2002.04.18

経営は私の良心です

庭のハナズオウ(花蘇芳)

  雪印乳業の大阪工場の標語に『品質は私達の良心です』と言うのがありました。テレビカメラが皮肉っぽく大写ししていたのを記憶されている方も多いと思います。
  従業員の良心と言うよりも、やはり経営陣に良心があれば、雪印は、今日のような事態を迎え無かったのではないかと、私は思っています。
  この良心とは、我田引水になりますが、私は仏心だと思います。人間の胸の奥底にある良心、それが仏心、仏様の心です。
  私は、この仏心に尋ねて、経営をして行きたいと思っています。

  どなたの人生も、苦難に満ちていると思います。サラリーマンはサラリーマンなりの苦難、管理職は管理職でなければ分からない苦労があります。大企業のトップ経営者も、政治家も、官僚トップにしても、昨今の不祥事を見聞しますと、決して気楽な地位ではないようです。社会人になれば、誰しも、悩みの毎日と言っても過言ではないと思います。多分、自分の思い通りにいかないと言う人間関係上の悩み・ストレスが100%だと思います。その点、オーナー企業の経営者は、自分の思い通りに事を運べますので、そう言う悩み・ストレスはありません。しかし、全ての結果責任は自分が背負わなければなりません。後始末は誰もしてくれません。言い訳のしようがありません。自分に言い訳を言っても、どうなるものではありませんから当たり前ですが、厳しいと言えば厳しいものです。

  厳しいと言えば、私の会社の経営状況報告が途絶えて2ヶ月経過致しましたが、4月8日からは、私を含めて3名体制になりました。年初に考え発表した通りではありますが、会社設立(1992年、平成4年)当初の1時期は、3交代勤務があったりして40数名の従業員を抱えていましたから、バブル崩壊の日本、そして世界の工場として目覚しい発展を遂げた中国が、我が国の零細企業に与えた影響の実例の一つと言っても良いと思います。現在の経営状況を示す具体的数字の羅列は、コラムの性格上差し控えますが、極めて厳しい現実である事は確かです。オーナー企業経営者が、一番陥りたくない状況だと思います。本来は、だから、脱サラすべきではなかったと後悔するところである状況である事は間違い無いと思います。

  しかし、『なるようにしかならない、なるようになっていく』と言う心境は、いよいよはっきりとして参りました。人間と言うものは、絶対絶命になると、却ってジタバタしないものなのかも知れない、と言うのが実感です。苦難を予想している時の方が、苦難の真っ只中よりも辛いのだと思いますし、死も案外と、『死とは何だろう?死の瞬間はどんなだろう?』と想像している中は恐怖で一杯でしょうが、死とまさに向き合った瞬間には腹が決るのではないだろうかと思ったりしています。
  この様に考えられるのは、私に幼い時から聞き噛った仏教的な考え方があるからかも知れません。もし私に仏教が無ければ、こんな目に遇ったのは、直接取引先や、その先の一流大企業の所為だと恨み、更には仕事を奪って行った中国を恨み、延いては製造業を守らない日本政府が悪いと、自分の周り全てに責任を押し付け、恨みを抱いていたに違いありません。そして他社、他人に多少の迷惑が掛かっても、自分の会社が損をしない事、自分個人が損をしない事、更には目先の得になりそう事に汲々として、自らの努力で立ち直ろうと正当な努力をしなかったのではないかと考察しています。

  私は、会社設立の時から、今為すべき正しい事は何かと、自分の胸の奥底にある良心に耳を傾けて事に当り、決断をして参りました。そして一昨年の7月に始まった経営危機以降、今現在も、これから先も、その良心に耳を傾けて自らの進む道を選択して行くと思います。いやむしろ、そうするより外しようがないと言う方が正しいです。
  この自分の胸の奥底の良心こそ、冒頭で申しました、仏教で言うところの仏心(ぶっしん)、或いは仏性(ぶっしょう)であり、浄土真宗で言う阿弥陀仏の本願(弥陀の誓願)と言うものだと言って良いと思います。

  お釈迦様も、自らを拠り所にしなさいと言われました。世間一般的には、皆が自分の思う通りにしたら、世の中無茶苦茶になると考えるものですが、そうではありません。自分の仏心に気付き、それを大切にして生きて行きなさいと言う事ではないかと思います。この教えは、自灯明・法灯明と言いまして、重要なものです。本願寺の説明文がございますので、詳しくお知りになりたい方は下記ホームページをご覧下さい。
  (http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/next/bukkyo.htm#pagetop

  経営指南を生業としている経営コンサルタントは実に多いですが、その中の99.9%は、利益を上げるにはどうすれば良いか?自分が得するにはどう考えれば良いか?と世間の声に耳を傾けなさい、世間に目を凝らしなさいと指導致します。これも全くの間違いではないと思いますが、時代を超え、世代を超えて永遠の命を頂ける企業になるには、私は、仏様の声に耳を傾けて経営して行く事でしか実現しないと考えています。

  しかし一方、仏教信仰だけで経営危機を改善し、快方に向わしめられるかと言いますと、そうではない無い事は極めて明白です。経営を改善するには、科学的実力(製造業の場合は技術力)と人間関係力が必要です。仏教信仰によって、直接的なご利益があり、商売繁盛すると期待するのは、お門違いです。そう言う宣伝をする宗教は偽物であると考えるべきだと思います。
  私も今まで、会社の将来の繁栄を願って、仏様を拝んだ事はありません(戎神社には商売繁盛を願ってお参りした事はありますが……効果はありませんでした)。製造業の会社の経営を建て直すには、他社にない技術力によって、社会の人々の欲する新製品を生み出し、他社の追随を許さない価格で提供するしか方法はありません。しかしまた、技術力だけでは目的を達成出来ません。製品を開発し、拡販して行くのも、自分一人で為し得る事ではありません、多くの人々の支援・協力が不可欠です。仕入先、納入先との揺るぎ無い、心の通った信頼関係を構築する必要があります。こう言う、世間を生きていく上で必要な力を身に付け、確実に実行して行くのも、座禅と同様に仏道を行じる事なのかも知れません。

  経営する事とは、仏道を行ずる事そのものであると思います。いやむしろ、仏道を行ずると言う事が大目的であり、経営は、たまたま経営をしていると言う事ではないかと思います。
  人によりましては、たまたまサラリーマンを、たまたまお医者さんを、たまたま政治家と言う仕事をさせて頂いている、しかし、仏道を歩んでいるのだと言う事がはっきりすれば、何も恐れる事はない、無相庵カレンダーの言葉の『天下無敵』(参照)と言う事になると思うのです。

  自分の胸の奥底にある仏様の言葉に耳を傾けて、人生を力強く歩んで行く。結果は、仏様にお任せ。それしか無いと思います。そして、自らの仏心を見詰め直し、問い正して行くには聞法(仏教のお説法を聞き、本を読む)あるのみと言う事だと思います。
  私は、仏教徒ですから、こう考えますが、どうでしょう。どんな人間にも、地位や名誉や損得や、そして勝ち負けなんかには拘らない真っ白な良心(仏教では仏心と言う)があるのでは無いでしょうか?その良心を頼りに生きていく事が、晴れやかな人生を生きていく事になると、私は思います。


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