2002.02.04

歎異鈔の心―第13條の2項―

●まえがき
  『袖すり合うも多少の縁』とか『ご縁がありまして』とか『前世からの因縁』『前世の報い』と言う言葉は、浄土真宗の門徒ではない一般の人々の間でも使われている。仏教開祖のお釈迦様は前世について言及されていないし、人間一人一人に前世・現世・後世があると言われていないはずであるが、親鸞聖人は、兎にも角にも前世を肯定されているようである。その前世というものをどう捉えているか、今は亡き親鸞聖人に確かめようが無いのであるが、私は、親鸞聖人の見解・立場は、やはり私の前世は人間であったとか、いや動物であったとかと言う、一人一人に特定の前世があると言うものでは無かったのではないかと推察している。
  現代、遺伝子の世界が解明され、太古からの進化具合が見て取れる時代になった。ばい菌や植物の遺伝子と人間の遺伝子には共通な部分が多く、最終的には同じ出発点の生物に帰結すると考えられている。私達の遺伝子には、太古からの情報・経験が埋め込まれている事は確かである。何十万、何百万の先祖の遺伝子を受け継いでいる事は事実である。
  未だ生命科学が発達していない時代の親鸞であるが、直感的に遺伝子の存在を感じとっていたのだと思う。それは、歎異鈔第5條の中の『その故は、一切の有情は皆もて、世々生々の父母兄弟なり』という文言に明確に表れている。
  そして親鸞は、私達人間が良い事をするのも、悪い事をするのも、先祖から受け継いだ遺伝子と、そしてこの世において受ける様々な縁(生まれた育った環境・条件等)によるものであると言いたいのだと思う。

●本文
よきこころのおこるも、宿善のもよほすなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆへなり。故聖人のおほせには、兎毛羊毛のさきにいるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき。またあるとき唯圓房はわがいふことをば信じるかとおほせのさふらひしあひだ、さんさふらうとまふしさふらひしかば、さらばわがいはんことたがふまじきかとかさねておほせのさふらひしあひだ、つつしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてさふらへども一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼへずさふらうとまふしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじとはいふぞと。これにてしるべし。なにごとも、こころにまかせたることならば往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり、わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしかれば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、本願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。

●現代解釈
善いこころの起るのも前世の善業から催すのであり、悪い事しようと思う、これも前世の悪業によるものである。故親鸞聖人の言われるには、兎の毛の先、羊の毛の先のチリのような小さい小さい罪にしても、前世の宿業によらないといえるものはないとおっしゃいました。
またある時も、『唯圓房よ、私の言う事を信じるか』とおっしゃいますので、『勿論信じます』とお答えしますと、『そうしたら、私の言いつけを必ず守るか』と重ねておっしゃいましたので、『つつしんでお受け致します』と申し上げると、『では、人を千人ころして見せてごらん、そしたら往生は間違いない』と言われた時、『折角の聖人の仰せではございますが、この私の器量では千人はおろか、一人だって殺せそうにはありません』とお答えしますと、『だったら何故先程、親鸞の言い付けに従うと言ったのか?』と迫られました。そして『これで分かったのではありませんか、何事も心の思うままに出来るならば、浄土へ往生するために、千人殺せと言われれば殺せます。けれども、一人でも殺せる業縁のないときは、殺せないものです。殺さないからと言って、自分の心が善いからではありません。またその反対に、殺すまいと思っていても、百人も千人も殺す事だってあるかも知れないのです』とおっしゃいました。
この仰せは、私達が宿業即ち前世の業によって善い事をしたり、悪い事をするのだと言う事に気付かず、自分のこころに任せて、善いと思う事をすれば、往生に都合が良い、悪い事をすれば、往生に都合が悪いと言う『勝手な計らい』をして、他力の本願の不思議によって、救われて往生すると言う事になかなか気付かない事を反省させられるお言葉であったのである。

●あとがき
  親鸞らしい思い切った手法で説き聞かせていると思う。殺人と言う極端な悪事を例に上げて、唯圓に説き聞かせようという訳である。理詰め好きの親鸞の面目躍如たるものがあり、私はこの箇所も人間親鸞を感じて好きである。
  殺人をしようと思っても出来るものではない。罪になるからとか、重い刑罰を受けるから殺人しないと言う訳ではない。事情と条件が整えば、私だって殺人をする事があるかも知れない。思わずカッとなって、殺人を犯す事を否定出来ない。例えば戦場という状況に置かれれば、自らの命を守るために、敵を何十人と殺すだろう。自らの意思ではない。事情と環境が許せば、殺人だって犯すと言う事を親鸞は言いたいのである。そう言う人間だからと実感すればこそ、自力を否定し、他力本願を信じて、往生するしかないと説き聞かせているのだと思う。
  ここで、誤解をされては困るのである。罪を犯して、これは自分が犯そうと思ってした事ではない、前世からの因縁でさせられてしまった、自分は悪くないという運命論・宿命論に置き換えられる可能性が充分にあると思うからだ。
  私はこの世の結果の全てが前世の因によるものだと考えてはいけないと思う。これまでのコラムで因・縁・果と言う事を再三再四取り上げているが、因があって、縁が働いて、結果となると言うのが仏教の根本思想である。因には遺伝子情報が勿論大きく寄与している事は間違い無いと思うが、遺伝子を受け継いで現に今生きている個人の意思も因として重要な位置を占めると考えたいのである。意思の働きにも縁が働いていると考えても良いが、兎に角、遺伝子情報だけで、すべてを説明する訳にはいかない。遺伝子が進化・変化して来た歴史が、今日の私を形成しているのである。私の意思が行動となり、行動・経験が脳細胞に影響を与えて、遺伝子に変化を与えるのだと私は仮説を立てているところである。
でなければ、進化論は成り立たない。遺伝子のみに組み込まれた情報に委ねる運命論・宿命論では、何も将来に向けての進化も無いし希望も無い事になると私は思うのだが、どうであろうか?
全文節の本願ぼこりにしても、親鸞は、本願ぼこりを認めている訳ではない。本願を誇って、悪い事をするのではないと言いたいのである。悪い事は、前世の業の現れである、止むにやまれずさせられた業であると言いたいのだと思う。


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2002.01.31

雪印食品事件に想う

  今、新聞紙上を賑わしているのが、雪印食品の肉に纏わる詐欺事件と、田中真紀子外務大臣の更迭であるが、今回のコラムは雪印に絞ろうと思う。
  私のコラムは一昨年7月13日の『雪印乳業事件に想う』(NO.001)から始まっている。1年半経過した今、再び雪印ブランドに傷がついた。もう雪印ブランドは無くなると言うより、劣悪のブランドになるだろう。雪印食品の親会社である雪印乳業は『品質は私達の良心です』と言いながら、良心を品質に造り込み切れなかった。今回の雪印食品は、良心どころか、詐欺師の心を込めて、輸入肉を国産肉に偽装すべく、函を詰め換えラベルを張り替えた。年商900億円、従業員数2100名の大企業が、高々数千万円のためにである。
  私が注目しているのは、直接手を汚した関西ミートセンター長と経営トップの在り方である。私は、雪印食品の半分位の規模の会社に約20年間在籍した事があるので、高度成長期以後の大企業内における指示命令の曖昧さと、責任の取り方の曖昧さを実感しているのである。
  関西ミートセンター長が先ず故意を認めた。そしてかなり日数が経過して、社長自身も承知していたと言う報道があった。雪印食品の社長が関西ミートセンター長に対して、『輸入肉を国産肉に見せかけて、国からの補助金を騙し取れ』と明確指示命令は出していないはずだ。大企業と言うものはそういうものである。大きい企業程、はっきりと命令・指示は出さないものだ。ミートセンター長も警察に対しては、最後まで自分の決断でした事だと、経営トップをかばっていた事も想像出来る。明確に命令されていないから、これもまた当然である。これは大企業において責任を逃れるための智慧(?)と言って良い。こうしなければ大企業のトップに上り詰める事は出来ないのも事実であると断言しても良いだろう。
  『こんな事をすれば、お客様の信頼を裏切りますから、私は出来ません』なんて言っていると、出世は出来ない。『品質は私達の良心です』と言うのは、大企業の建て前である。本心は、『品質も大事だが、無駄は徹底して排除し利益を追求せよ、クレームの真実の原因はお客様には正直に言うな、客が逃げてしまうし、経営トップの責任問題になる』である。雪印だけではない。クレーム処理を組織ぐるみで隠し通した三菱自動車も、同様である。いやこの2社は氷山の一角である。
  だから、サラリーマンは辛いのであるし、ストレスが溜まる訳である。これはサラリーマン失格の私の愚痴ではない。『会社の目的は利益ではない。利益は会社が社会に役立ち続けるために必要な、人間にとっての空気や水や血のようなものである』と言う基本に今一度立ち返らないと日本企業は再生出来ないと思うからである。
  私の会社も大変苦しい。こんな高邁な経営理念を言っている場合ではないが、私は、もし私の会社が倒産したら、この経営理念が間違っているのではなく、私の技術・管理能力に問題があったと考え、潰れるべくして潰れたと言い聞かせるだろう。決して経営理念の問題や、他人の所為、社会環境・経済情勢にはしない。
  どうしても、会社が大きくなると初心を忘れがちである。そしてお金に走りがちである。そこに落とし穴があると思う。『利益は手段であって目的ではない』これは大切な大切な起業の志しでなければならない。


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2002.01.28

歎異鈔の心―第13條の1項―

●まえがき
  親鸞は、『善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』(歎異鈔第3條)と、悪人こそ救われて往生すると、受取り方によれば、悪を奨励しているよう発言をしている。だから、実際にそう言う風に受け取って、悪い事をしながら、念佛を唱えていた人々もいたのであろう。
そして一方、そう言う人々は間違っていると批判していた念佛者も当然居たであろう。『本願ぼこり』と批判していたのである。本願を誇りながら利用している(悪事を働いている)と言う事で『本願ぼこり』と名付けたのであろう。
私も『本願ぼこり』はいけないと考えていたが、親鸞はそうでは無くて、本願を誇って悪い事をするのではない。悪い事も良い事も、自分の意思でやるのではない。前世からの因縁でするのであるから、本願ぼこりと非難する人自身、本願を信じ切っていない証拠だと言いたいのである。
そして、親鸞らしく例をあげて、歎異鈔著者の唯園に説き聞かせていたのである。

●本文
彌陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて往生かなうべからずといふこと。この條、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。

●現代解釈
阿弥陀仏の本願は有り難いものだから何をしても救って下さると言って、悪い事を平気でするのは『本願ぼこり』と言って、往生はおぼつかないと言う人々がいる。これは、本願を疑う心から出ている事であるし、また善悪が宿業(しゅくごう)に基づいている事を知らない証拠である。

●あとがき
  『罪を憎んで人を憎まず』と言う言葉がある。これは、『誰も悪い事をしたくて、している訳ではない、前世からの因縁と言うか、受け継いだ遺伝子に、させられているのだ』と言う意味であろう。
私も、そうとは思うが、現実に当て嵌めてしまうと、殺人鬼を許してしまう事になるので、これは心得て使用するべき言葉ではある…………。

  私は極最近、とんでもない事件に遭った。いや今遭っている最中である。倒産するかも知れない状況の中で、追い討ちを掛けられた想いをしている。殺人をされた訳ではないからかも知れないが、罪は憎んでいるし、その人自身を許す事も出来ないが、憐れだと言う感情も湧き出ている事も確かである。浄土真宗では罪を宿業(宿縁のなせる業)と言う言葉で表わすが、自分の先祖(16代遡れば、私達一人一人の先祖は約13万人とコラムNO.015に検証している)にも確実に犯罪者はいると思う、殺人鬼もいても不思議ではないから、その遺伝子も受け継いでいるはずである。私は今までのところ、法律によって裁かれる罪を犯していないが、環境とか条件・事情が整えば、犯す可能性を否定出来ない。それを宿業と言う。私は宿業が無いから今のところ犯罪者ではないのである。
警察官が泥棒をする。判事がセクハラをする。先生が生徒を陵辱する。『あの人が、こんな事をするなんて、信じられない』と言うコメントは、しょっちゅう聞かされる。宿業なんだと思わざるを得ない。


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2002.01.24

コミュニケーション

  一昨日(1月22日)、私の会社は設立10周年を迎えた。厳しい状態ではあるが、私は従業員に新しいスタートを宣言した。本当はささやかでも記念行事をしたいと思い続けて来たが、さすがにそう言う気にはなれなかった。20周年の2022年1月22日を目指して頑張りたい。
  さて、私達は色々な人間関係の中で生きている。多くの人は、会社の中の人間関係と家に帰ってのプライベート(近所、親類)の付き合いもある。人間関係は、言葉と表情でお互いの想いを伝え合うところに成り立っている。そして、少し言い過ぎだろうが、この人間関係の処し方で、人生の幸不幸が決ると言っても良いかも知れない。いや多分そうだろう。悩みを辿ると根本は人間関係に行き着くのではないか?
  そう考えると、人生を左右するのは、その人の人間関係力即ちコミュニケーション力だと思う。
  翻って私にコミュニケーション力があるかと言うと無いと言えるだろう。家族から指摘されているから、正しい評価と受け取らねばならない。北島三郎の演歌『兄弟仁義』の2番の節に、『俺の目を見ろ、何にも言うなぁ、男同士の腹の中』とあるが、私はこの義理人情の世界に極めて近い雰囲気の時代を生きて来た。恐らく、団塊の世代は共感出来ると思う。
  私は、『これは言わなくても分かっているだろう』と思って、本当は伝えないといけない事柄を伝えていない事を今思い起こしている。『そう言えば、こんな事になったのも、あの時、キチンと伝えていれば、こうはならなかった』と言う経験をかなりの頻度で思い出させてくれている。
  想いは口に出して言う。そして繰り返して言わないと伝わらない。こんな事を56歳にして勉強させられている。


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2002.01.21

歎異鈔の心―第12條の5項―

●まえがき
  この歎異鈔作者は、信仰上において、学問する事が悪いと言っている訳ではありません。
学問して、本願に関する理解を深めて、一般の人々に対して、本願の意味とかを懇切丁寧に教えてあげれば良いものを、学問しないと、往生出来ないと言いふらす信者もいたのであろう。学問と信仰とは、別次元のように思う。学者だから、深い信仰者とは決して言えない。

●本文
學問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の廣大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢(ぜんあくじょうえ)なきおもむきをもとききかせられさふらはばこそ、學生のかひにもさふらはめ。たまたま、なにごころもなく本願に相應して念佛するひとをも、學問してこそなんどいひをどさるること、法の魔障なり、佛の怨敵なり。みづから他力の信心かくるのみならず、あやまて、他をまよはさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、彌陀の本願にあらざることを。

●現代解釈
  学問するからこそ、如来のお心を知り、阿弥陀仏の本願の広さと大きさも知って、凡夫の身のままで往生する事は出来ないだろうと心もとなく思っている人にも、本願は善人悪人の区別も、綺麗とか汚いの区別も無い事を説明して上げられるならば学問した甲斐もあると言えますが、ただ本願を信じて念佛しているだけの人に対しても、学問しないと往生は出来ないと脅かす人がいる。これらの人は、誠に仏法の敵です。こんな人こそ、他力の信心も分かっていないと言うばかりではなく、他人を迷わすだけの人物です。本当におそろしい事ですし、親鸞聖人のお心に背いており、阿弥陀仏の本願にも背いており、憐れな事だと思います。

●あとがき
私も、お説教を聞くだけで、素直に阿弥陀仏の本願を信じて、御念佛が出ると言う人格ではない。阿弥陀仏と言っても、人間が考え出した架空の存在に過ぎないではないかと、思ってた事がある。今は色々と人生経験を積んで、人間を超えた大きな力によって生かされて生きていると実感させられているので、ああ、この大きな力を阿弥陀仏と言うのかな?と思うようになった。しかし、信心に至ってはいない。自力から抜け出ていないと言うべきだろうと思う。


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2002.01.17

56歳の挑戦―最終章―

  今、1月17日午前5時46分である。7年前の今、神戸・淡路大震災が発生し6432人の命が奪われた瞬間である。今、黙祷を捧げたところである。私も震源地に近い神戸市西区に住み、建屋2階で40、50cmの横揺れを感じて目が覚め、このまま家が倒壊し、死ぬかも知れないと思った瞬間である。今日、私の会社にも別の激震が起るかも知れない。

  一昨年7月から始まった私の会社の経営危機も、いよいよ最終局面を迎えた。最終局面と言う意味は、明日(1月18日)で売上高の85%を占めていた製品の製造設備の撤去工事を開始し、1月末を以って工場を二分の一に縮小、従業員リストラを実施するからである。また私の誕生日は3月8日なので、56歳も後2ヶ月足らずと言う時期になっているからでもある。勿論会社の生き残りを賭けた挑戦が終わる訳ではなく、57歳の挑戦こそは熾烈を極めるに違いない。
  57歳の挑戦に勝算が無い訳ではない、挑戦するに充分価値があると自負する特許技術があるからだ。しかしこの技術は基礎工業的な材料製法技術(連続気泡多孔性プラスチックと言う)であり、大ブレークするニーズと巡り合わなければ、日の目を見ないまま敢え無くノックアウトだ。
  今は、残念ながらマリンスポーツ用の耳栓とゴルフシューズ用のインソール(中敷き)の商品開発に成功しているだけであるが、これで済むはずの無い世界的に有用な技術であると私は自負しているし、多くの企業の技術者達もその有用性は認めてくれている。レベルは全く異なるが、ノーベル賞の白川博士の導電性プラスチックス(ポリアセチレン)も、評価されるまでに30年を要している。用途との結び付きがあってのノーベル賞なのである。私に運があれば、57歳中にもニーズとの劇的な巡り合いがあるだろう。無ければ、敢え無い結果が待っている。
  思えば、10年前の1月22日に会社を設立したのであるが、丁度10年目にこのような非常事態が待ち受けているとは考えもしなかった。甘い考えで脱サラして、甘い考えで一流企業への変身を夢見ていたものである。
  しかし私は、会社がこんな状況になった原因を、バブル崩壊、中国の世界の工場化など予想出来なかった経済・社会環境の変化や、携帯電話・パソコンの技術革新に求めている訳ではない。やはり経営者としての事業見通しの甘さを大いに反省している事は勿論であるが、それ以上に組織運営の考え方、経営哲学の実践において、大きな誤りをして来た事が原因であると自戒している。そして多くの従業員に失業と言う不幸な目に合わせなければならなくなったと自責の念に駈られている。
  大きな誤りと言うのは、私の経営理念・経営信条(会社ホームページ参照乞う)を徹底出来なかった事である。いや、実は経営理念・信条を掲げてから徹底しようと考えた事自体が間違いであったと再認識させられているのである。

  今『ビジョナリーカンパニーA飛躍の法則』(日経BP社出版)と言う本を読んでいる最中であるが、この本は、普通の会社から偉大と言われる会社に飛躍した会社(数年間にわたって株価の推移が、市場平均の何倍かに向上し、持続している会社)が、普通の会社と何が異なるかを過去の新聞・雑誌記事などを綿密に調べて、飛躍した会社に共通する要因を探し当てた結果を発表しているものである。この本の結論は、『普通に良い会社から偉大な会社に飛躍するには、経営陣のみならず、従業員も共通の性格と価値観を持たねばならない、教育や説得によって、経営理念・信条を共有する事ではない、もともとそう言う共通の価値観を持つ人間集団で事業を始めなれればならない。先ず会社の目的・目標を明確にする前に、人を選ぶ事から始めなければならない』としている(これはこれまでの組織論の常識から外れているものであろう)。また、目的・目標・方針を決めるに際しては(普通から偉大へと飛躍した会社は、平均的に4年の歳月を掛けて決めていると言う)、『この事業をすれば世界一になれると言う事と、この事業をする事に情熱を持てると言う事と、この事業をする事で大きな経済的原動力が得られると言う、3点をすべて満たす事』が基本になければならないと分析している。
  また、人を管理するのではなく、システムを管理しなければならないとも言う。会社の価値観に合致しない人材を採用するから人を管理し、ルールを次から次と策定する羽目になると言う。また、経営陣についても、そもそも価値観の違うメンバーの集まり故に、無駄な会議を頻繁に開き、意思統一を図ろうと、いや皆で仲良く責任を取りたいためだけに、経営会議を頻繁にひらくと言う結果になると言う(確かに、こんな会社は、私の周りには五万とある、いや殆どの企業の姿ではないか?)。
  私も、会社を設立した当初は、自分と価値観が一緒の人々と苦楽を共にしたいと考えていたが、やがて、自分との相性だけを重視してメンバーを募る事は、仲良し倶楽部になって、所謂片肺飛行になり、バランスの取れた会社にならないと、一見、清濁合わせ飲むと言う達観状態、今にして思えば初心を忘れた状態になっていたようにも思う。そして結局はビジネスマナーを文章化したり、労務規定を大企業並みに制定したりと、結果的には人を管理する事に神経を使っていたように思う。
  弊社の経営理念・経営信条は、私が傾倒する仏教の価値観が基礎になっている。私は企業において宗教を強要する事は信教の自由と言う観点からも間違いだと考えていた(これからも宗教を会社内に持ち込む事は無い)。価値観を共有する事は大切だと考えてきたが、価値観に疑問を感じながらも、いや人格的に共感を覚えない人でも、何れは軌道が修正されると言う甘い考えをして来た面がある(仕事の能力は指導・教育で向上するが、性格・価値観は教育では変わらないと言うのが、上記の本の見解である)。
  組織の団結力、組織の力は、やはり一人でも異分子が存在する集団では、充分に発揮されないと言う事だ。弊社の経営信条の中に、『感動を与え、感謝する心を仕事に現したい』と言う項目があるが、これは、『会社仲間を含む他人や他企業に真心の限りを尽くし、会社仲間は勿論、他人、他企業を含めて周りの存在のお陰で今、自分がこうして仕事出来て生活出来ている事に感謝しましょう』と言う事なのであるが、こう言う言わばお人好し的価値観から程遠い人物でも、作業能力が高いと言うだけで、価値観の共通性に重きを置かずに、今日まで来てしまったようである。やはり組織は人の和が大切である。聖徳太子の『和を以って尊しと為す』、これは現代の、しかも海の向こうのアメリカの企業研究者達が調査研究の上で、『凡庸から偉大な企業に飛躍する組織のあるべき姿』の結論なのである。それは人の和が企業の無駄を省くからであり、人の和が極めて強力な推進力を生むからである。私もこの原点を見失う事なく、56歳から57歳の挑戦へと向かいたいと思う。
  勿論、私の価値観、わが社の価値観に合わない人が人間として駄目だと言う訳では決して決して無い。強い偉大な企業にするには、同じ価値観を共有しなければならないと言う事なのだ。逆に言うと価値観を共有出来る企業に遭遇する事が働く個人としても、生き甲斐のある仕事が出来ると言う事ではないか。そしてそれが偉大な人生を送るひとつの方法だと思う。

  次回の現況レポートは、2月に入ってから『57歳の挑戦に向けて』と言うテーマ名とする積もりである。


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2002.01.14

歎異鈔の心―第12條の4項―

●まえがき
  以前にも申しましたが、新興の宗教は、何時の時代でも、迫害を受けるものです。鎌倉時代に盛んになった浄土門系、即ち念佛するだけで往生出来ると言う簡単そうな教えは、学問が必要ではなく、一般の民衆に爆発的な人気を博した事は充分想像出来る。一方、古くから仏教の中心であった奈良の旧仏教宗派、比叡山の天台宗等は、心穏やかではなかった事も理解出来る。
  因みに私は創価学会の教義に付いての勉強が不足しておりますので、創価学会の人々が、頑なに神社に参拝する事を拒む事や(社員旅行中に見学コースにある有名神社にも、独り参拝せず、別行動を取られた経験があります)、浄土系、禅宗系の仏壇を粗末に扱うと言う事にかなり抵抗を感じて来た事は確かです。私は、節操なく神社にも参拝しますし、浄土門系の学者の本を読む一方、禅宗のお寺さんともお付き合いがあります。勿論、創価学会の教義の基である法華経も勉強致します。創価学会を否定はしませんが、しかし、あまりに頑なな言動を一般の学会員に見ますと、疑問を感じざるを得ません。
  同じ様な事が、鎌倉時代の浄土真宗、即ち親鸞聖人の教団や門徒衆に見受けられたのではないかと想像致します。
  この歎異鈔でも繰り返し強調していますが、念佛するだけで往生する事はないのです。阿弥陀仏の本願を信じて、念佛を唱えようと思った瞬間に、往生が確定すると言う事です。信じる事が肝要です。阿弥陀仏の本願も承知せず、ただ何かまじないのように『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで、往生出来ると言う事は有り得ない事ですが、門徒衆の中には、信者獲得のために、念佛を唱えるだけで極楽浄土へ往生出来ますよと悩める一般人を勧誘したに違いありません。
  阿弥陀仏の本願を信じるには、自力に頼る限り有り得ない事です。また他力、他力と言い聞かせても、信の段階には至りません。
  だからと言って、学問をして論理的に教義を研究すれば信じられるかと言うと、そうではありません。歎異鈔の著者の歯がゆさが伝わって来る一節です。

●本文
故聖人のおほせには、この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、佛ときおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる、またひとありてそしるにて、佛説まことなりけりとしられさふらう、しかれば往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまて、そしるひとのさふらはざらんにこそいかに信ずるひとあれども、そしるひとのなきやらんともおぼへさふらひぬべけれ。かくまふせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。佛かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがひをあらせじと、ときおかせたまふことをまふすなりとこそさふらひしか。いくの世には、學問してひとのそしりをやめ、ひとへに論議問答をむねとせんとかまへられさふらうにや。

●現代解釈
亡くなられた親鸞聖人の仰せに、お釈迦様は、我が教法を信じるひともいるし、謗る(そしる)人もあろうと、お説きなされたことであります。だから私が既に信じた法をまた謗る人がある事を見ても、お釈迦様が仰せになった事は間違いがなかったと思い知らされる訳です。
佛説に間違いがないと知らされたなら、いよいよ念佛して往生する事は間違いないと信じられたらどうですか?もしも謗る人がなかったら、何故、信じる人のあるのに謗る人がないのかと佛説が不審に思われることでしよう。しかしだからと言って、どうしても謗られなければならないと言う事ではありません。ただ、仏様があらかじめ信じるものもあれば謗るものがある事を見抜かれて、謗るものがいるからと言って、教法を疑うことが無いように、お説きになられた事を言うのであると、親鸞聖人は仰せになられました。それにも拘わらず、今の世の中の様子では、学問して理論的に人の謗りを押し止めようとか、論議問答ばかりに力を入れて相手を負かそうとしているようですが、これは、とんでもない事だと思います。

●あとがき
信仰の世界での討論は無意味なものだと思う。自分がどう考えるか、自分が何を信じるかと言う事であり、他人がどうと言う問題では無いと思う。お互いの宗教を認め合うべきだと思うが、宗教の違いから戦争まで起しているのが現実である。何のための宗教なのか、反省が必要である。


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2002.01.10

天命に安んじて…再び

  年明け早々のコラムを読まれた数人の方から、ご心配とお励ましのメールを頂きました。忝(かたじ)けない事ですが、人の心の優しさと温かさに触れた想いが致しました。有難うございました。
  ありのままの状況と心の動きをコラムにしています。ご心配をお掛けする事が有るかもしれませんが、コラムが続いている限りは、踏ん張っているのだとご理解頂きたいと存じます。

  さて、人の寿命は誰にも分からない。人間は死刑日が確定していない死刑囚だと言った先人もいる。まさしくそうだと思う。そして確定していないからこそ、根底には不安があるけれど、しばし死の恐怖を忘れて、一見、安心しているが如く日々生活しているものだ。これがどうだろうか?私は現在56歳であるが、20年後の76歳には必ず死ぬと宣告されても、あまり驚く事はないだろう。10年後でも同じかも知れない。しかし、それが5年後、3年後、1年後となると、段々恐怖感が現実として湧いてくるものだ。後1年でこの世とのお別れと言う事になると、そう安閑とはしていられない。皆さんはどうですか?現実的には、死の瞬間は明日かも、いや次の瞬間なのかも知れないのですけれど………(神戸震災を体験した者としては、フトそう実感されます)。
  われに返って、私の会社が存続するかしないかが決るまでの猶予は、後長くて6ヶ月、短くて4ヶ月である。未だ随分あると思うか、もう殆ど無いと思うか、これは打つ手の多少に関わる事だろうが、微妙なところだ。サラリーマン時代なら、殆ど成果を期待出来ない時間の短さだと思う。しかし今の私には充分とは思えないが、未だ可能性を求めるに足る時間だと考えている。そして今は未だ『天命に安んじて、人事を尽くそう』と思っている。しかし、この心境が何時まで持つかに付いては自信が無い。最後の最後と言っても、倒産に至る1ヶ月前ならば、もう天命が下っていると思っているかも知れない。しかし、ぎりぎりの瞬間に救いがあるかも知れない。天命に安んじると言っても、どの瞬間までならば、安んじていると言えるのだろうか?
  でも、そう言う考えは間違いですね。もう今、このコラムを書いている時、心穏やかに、ただ人事を尽くすと言う心境で無ければならないと思う。
  『天命に安んじて、人事を尽くす』と言う事は、なかなか私の様な凡夫には難しいと、苦境が現実になるに従って実感させられているのである。


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2002.01.07

歎異鈔の心―第12條の3項―

●まえがき
  会社の状況からすると歎異鈔の解説をしている場合では無い事は充分認識しているけれど、逆にそう言う状況だからこそ、続けなければならないと思っている。この命綱を切ってしまうと、嵐の中の荒海で船の碇から外れた船の様に、何処に漂流してしまうか、何時沈没してしまうか分からないとも思っている。人間とは極めて極めて弱いものである。癌を告知されて自殺した禅僧、銃弾の行き交う戦場で小草を盾に身を守ろうとする戦士、これは決して他人事ではない。私もその立場になれば同じだろうと思う。
  仏教の教えがどこまで私を救ってくれるか今は分からない。しかし今は仏教を拠り所として、刀折れ矢尽きる最後の最後まで、この苦境と闘いたいと思う。結果ではなく、闘う事自体が、仏教を行じている事だと思う。

  この歎異鈔の條から、仏教が栄えた鎌倉時代にもやはり、浄土宗と禅宗の間に言い争いがあった事が窺える。勿論それは信者同士の間での言い争いである。現在も、それぞれに凝り固まった信者の中には、浄土真宗でなければならないとか、禅宗こそお釈迦様の教えだと言い張る人を見受ける事がある。誠に残念である。浄土真宗にせよ、禅宗にせよ、道を極めた人達は、さすがにその様な狭い了見はない。

●本文
當時専修念佛のひとと、聖道門のひとと、法論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりたりといふほどに、法敵もいできたり、謗法もおこる。これしかしながら、みづから、わが法を破謗するにあらずや。たとひ、諸門こぞりて念佛はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやしといふとも、さらにあらそはずして、われらがごとき下根の凡夫、一文不通のものの信ずればたすかるよし、うけたまはりて、信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自餘の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざればつとめがたし。われもひとも生死をはなれんことこそ、諸佛の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからずとて、にくい気せずば、たれのひとかありてあだをなすべきや。かつは、じょう論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの證文さふらふにこそ。

●現代解釈
この頃念佛門の人と、聖道門の人とが法義の優劣を論じて、自分の宗旨こそ優れている他人の宗旨は劣っていると言うから、法敵も出来、また仏教を悪くも言われるようになっている。
こう言う事をすることは結局、自分の宗旨を悪い立場におとしめる事になっているのではありませんか?たとえ全ての宗派が一斉に『念佛はつまらない人のために設けられたもので、念佛の宗旨は浅薄な低級な教えてである』と言われても、それに対して少しも言い争うことはしないで、『私どものようなつまらない凡夫、文字ひとつわからない愚か者を目当てに、ただ本願を信じれば救われると言うことを、そのまま信じています。あなた方のような優れた人々には低級な教えでも、私達にはこの上ない優れた教えなのです。たとえ他の教えがどんなに優れていても、私達の能力ではとても及びつかないことで成就出来ないと思います。
とにかく、生死の境界を離れるのが諸仏のご本意だと思いますので、私どもの念佛を妨げないで下さい』と憎らしい言い方をせずに弁明すれば、誰も敵にはならないと思います。そして、言い争うところには色々と煩悩も出て来ます。思慮深い人は、言い争いから遠ざかって避けるべしと言う證文もあるではないですか。

●あとがき
当時の浄土真宗は、恐らく新興宗教と言う位置付けだったと思う。従って、旧仏教からかなりの批判が寄せられたはずである。そして、信者達の中には動揺もあったのではないか。この條から、生々しく伝わって来る。


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2002.01.04

いよいよ

  いよいよ年が明けた。率直なところ、おめでとうとは言えない心境で年明けを迎えた。これまで、この様な心境で元旦を迎えた事はない。私だけではなく、多くの人が、大なり小なり重苦しい気持ちの年越しだったろうとも思う。
  重苦しさは、先が見えない不安感から来るのだろうと実感するとともに、この不安感との闘いがしばらくは続くものと臨戦態勢に入った想いである。また、56年間生きて来た自分の力が試される正念場だとも思う。自力の限界に挑戦し、新たな心境に目覚められるように、精一杯、真正面から取り組む積もりである。


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