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No.660  2006.12.25

歎異抄に還って―第十章―@

● まえがき
この第十章で、歎異抄の前半が終わります。前半は、親鸞聖人の他力本願、他力の念仏とは何かと言うことを、著者唯円房が、親鸞聖人のお言葉を思い返しながら懇切丁寧に記述したものであります。そして、後半は、歎異抄の本論「前半で示した親鸞聖人の教えと異なる歎きを箇条書き的に書き記した」であり、私達後代の者に前半と後半で浄土の真宗の教えとは何かを語り継がれたのであります。

この十章の言葉のすぐ後に(改行することなく)、後半の序文とも考えられる200文字近い文章がありますので、この部分を含めて第十章とされる方も居られるそうですが、ここでは、それを『中序』として、別に取上げたいと思います。

この十章の現代訳に付きましては、白井成允先生、高史明師のものよりも、現代訳的であり、分かり易いと思われる山崎龍明師のものを先ず揚げさせて頂きました。山崎龍明師の訳では、「念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑに」と言う言葉は、親鸞聖人ではなくて、法然上人のお言葉とされています。前半の各章は、『云々』か『仰せ候ひき』のどちらかで終わっているのですが、『仰せ候ひき』で終わっている第三章と第十章は、山崎龍明師は法然上人が言われたお言葉としてお考えになられています。それは法然上人関係の著述にある言葉と一致するからであると云うことです。教えを理解する上では、親鸞聖人のお言葉としても、法然上人のお言葉としても、何も問題は無いと思いますので、特に問題視することではないと思います。

さて、この第十章は、前半の各章の総まとめとしてのお言葉であると考えるのが一般的であります。 念仏だけで往生出来るかどうかと疑うことも(第2章)、善か悪かと考えることも(第三章)、慈悲とはどう言うものであるかということも(第四章)、父母の供養をする為に念仏をしなければならないかどうかも(第五章)、師匠とか弟子とかに拘ることにしても(第六章)、他の教えや他の神々との関係がどうかと言うことも(第七章)、行とか善に拘ることも(第八章)、念仏が喜びの念仏になろうとなるまいと、浄土が恋しいとか恋しくないとか言うことも(第九章)、全ては、『はからい』であると云うことを示されているのが、この第十章だと言うことであります。

●第十章原文
念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。

●山崎龍明師の現代訳
本願他力の念仏にあっては、私たちが自分の頭などで、あれこれとはからわないこと≠根本の道理とします。なぜなら、念仏ははからい≠超えており、言葉でたたえ尽くすことも、説き尽くすことも、また、こころであれこれと思いはかることも出来ないからです、と法然上人が仰せになりました。

● 白井成允師の現代訳
「念仏には自らのはからいなきを根本義と為す。不可称不可説不可思議の故に」と言う仰せを承りました。

● 高史明師の現代語意訳
「念仏には、義なきをもって、義とす。不可称、不可説、不可思議のゆえに」との仰せが、親鸞聖人のお言葉でありました。

●あとがき
『はからい』を止めることは難しいです。私の日常を振り返りますと、すべて『はからい』ばかりであります。『はからいを無くす』と言う事は、禅門の表現を致しますと『無心になる』と言うことだと思いますが、それが出来ないから他力本願の門を叩いたのであります。

ここをどう考えればよいかと思案致しますとき、私は、無義即ち『はからわない』と言う意味は、「阿弥陀仏の本願のみをそのまま素直に信じることだけ」と言う事だと領解したいと思いました。 「ただ、念仏して」と言う言葉もございますが、一切はからわず#O仏すればそれでよいということでありましょう。

あまり、言葉を尽くそうと致しますと、それこそ、はからい≠ノなってしまいますので、この章は、この位にさせて頂きたいと存じます。


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No.659  2006.12.21

無相庵の宗教的立場について

少し前のコラム(No.653 2006.11.30悉皆成仏(しっかいじょうぶつ))に対しまして、ある読者から、コラムの中の一節『河川の水が必ず大海に流れ込むように、私たち生命あるものも必ずお浄土へ参ります(成仏、浄土往生します)。』に関しまして、次のようなご意見を掲示板に頂きました(内容が無相庵の掲示板に不適切であると判断し削除しました)。

『あなたこれヒンズー教の梵我一如ですよ 原始仏教から勉強し直しなさい、こういうたぐいの事は学会も言っています。自分が確たる信心を持っていないのにビラくばって人に説くのはどうでしょうかねえ・・ 僕なら恥ずかしくてできませんが。』

恐らくこの方は、私の考え方が仏教以前のインドの哲学思想の根本にある梵我一如(インドのウパニシャッド哲学の根本思想。宇宙にはその全体を貫く原理があり、ブラフマン(梵)とよばれるが、それは、われわれの本質である個我のアートマン(我)と等しいとする一元論的哲学説。)と同じ類のもので、仏教の無我説と異なり『仏法では無い考え方なのにあたかも仏法のように説いているのは世の中を迷わす、これは許せない』と考えられたのだと思います。

私自身は、この世に生まれてお釈迦様や親鸞聖人の教えに出遇えたことを喜びと感じておりますので、仏法的な考え方をしているとは思っていますが、仏法はこうでなければならないとは考えておりません。だからこそ『無相庵』と命名しております。従いまして、無相庵読者に対しまして、私が仏法とはこうだと言う説教をしている積りも持っておりません。この無相庵ホームページは、私の仏法勉強過程を公開し、ただただ「仏法とは何かと言う手掛かりになればなぁー」と言う考え方で開いておりますので、上述に掲載したご意見は全くの的外れだと思っております。

そしてまた、私の考え方がヒンズー教的だと言われましても、学会的(創価学会のこと?)だと言われましても、私はヒンズー教の詳しい教義も、創価学会の教義も知りません(法華経信奉であると聞いてはおりますが)し、多くの信者さんが居られる宗教団体を自分の一方的見解で否定するものでもありませんので、それは間違いだと反論する立場にもありません。そのような考えから、ご投稿内容が無相庵の掲示板に掲載しておくのには相応しくないと判断して削除させて頂いた次第であります。

仏法の三法印の一つである『諸法無我』について無相庵の考え方を申し述べておきたいと思います。化学を学んだ者としての私の見解は、人は亡くなれば、肉体は酸化してバラバラの微粒子に分解し、地球、広くは宇宙の大自然に還る、或いは一如となると考えておりますので、無我に近い考え方をしています。更に生命体として存在している現在も、私の体を構成している電子・原子・分子は自然と絶えず自由に交換されており、自然と一体・一如だと考えております。ただ、これも人間が感知し思考し得る能力の範囲内での考えでありますので、無我そのものの人間が、無我と言う考え方に拘わるのは如何なものかとすら考えております。

しかしながら、人間死ねば肉体が滅してそれっきり仕舞いであると断定的に考えているのでもなく、私固有の霊魂があって、次々と生まれ変わり死に変わり流転輪廻すると言う考え方を断定的に否定する立場でもありません。それは誰も根拠を持って証明出来ないのでありますから、むしろそれを論じる意味が無いと思っています。生命は不可称不可説不可思議だと言うことでよいのではないかと思っております。ただ、お釈迦様が気付かれた因縁果の道理はこの宇宙の真理だ信じておりますので、漠然と、この世があれば前の世もあの世もあると云う風に考えており、そしてそのあの世≠浄土門では浄土と呼んでいるのだと、今のところ領解しております。従いまして、今の私は「自分が確たる信心を持っていないのに」と言うご指摘通りであり、浄土とはこうだと言う信念を確立出来ていません。信念も信心も確立しておりませんが、ただ、前述させて頂いた通り、私が模索しているところをこの無相庵サイトで公開し、それを手掛かりとして読者のどなたかお一人でも信心を固めて頂ければ幸いと考えております。

無相庵は飽くまでも勉強中の身であります。恐らくはこの勉強は私が亡くなるまで続くものと存じております。


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No.658  2006.12.18

歎異抄に還って―第九章―C

● まえがき
この世では私に肉体がありますが故に煩悩があり、従って苦悩が尽きない訳ですが、この肉体が滅しますと煩悩も滅し、従って苦悩も無くなり、其処がお浄土と言われる世界なのかも知れません。私は苦悩が無い世界に憧れるのでありますが、しかし、そうかと言いまして浄土門が説くお浄土へ早く参りたいとは思ってはいません。現に苦悩を抱えていますのに、お浄土よりもこの世の方に出来る限り永く居たいと言うのが本音のところであります。自分でも矛盾しているとは思いますが、これこそ煩悩のなせる業(わざ)であり、その煩悩があるからこそ、阿弥陀仏の本願があり、私達の浄土往生は間違いないのだよ、と、親鸞聖人がおっしゃられたと言うことであります。

すごい論法であります。聞き方を間違いますと、正信偈の中にある「不断煩悩得涅槃」と同様、親鸞聖人の教えは「煩悩肯定論」乃至「煩悩賞賛論」と言うことになってしまいます。それは勿論違います。それは違いますが、しかし、どう違うかと言う説明を一般の人々に分かるように説明することは非常に難しいと思います。言わば、他力本願の教えの要とも言うべき一点でもありますから、本当は適切な説明が欲しいところでありますが、私も永年法話を聞いておりますが、試験問題に対する模範解答のような説明に出遭ったことはございません。

でも、我が煩悩が仏道を求める出発点となって、そして煩悩と闘いながら漸く他力本願の教えに辿り着いた者には、やはり「煩悩があるからこそこの世で南無阿弥陀仏に出遇い得たのではないか」と言う親鸞聖人のお言葉に救われる想いがするのではないでしょうか。私は未だその域に達してはおりませんが、そのように推察しているところであります。

●第九章原文
念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんき)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為(しよい)なり。しかるに仏(ぶつ)かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里(くり)はすてがたく、いまだ生まれざる安養(あんにょう)浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころのなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひしなましと云々。

● 白井成允師の現代訳
「私は念仏を申しておりますが、躍り上がるほどの歓びが心の奥から湧いてまいりませんし、また速く浄土へ参りたいと言う心もありませんが、これはどうしたことでありましょうか、とお尋ね申し上げたところが、聖人の御答えには、親鸞もかねてからそのような不審を持っていたのに、唯円房よ、そなたもやはり同じ心であったのだな。」「よくよく考えてみると、天に踊り地に踊るほどに喜ばねばならぬはずの心を抑えて喜ばせないのは煩悩の仕業である。ところが仏はかねてからこれをしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたのだから、他力の悲願はこのような私共のためにであられたのだと知られて、いよいよたのもしく思われるのである。」「また速く浄土へ参りたいという心もなく、少し病気にでもかかるとすぐに死にはしないかと心細く感ぜられることであるが、これもやはり煩悩の仕業である。遠い遠い古から今日まで迷いさすろうてきた苦悩の故里はすてさりがたく、また生まれたことのない安養の浄土は恋しくない。これまことに煩悩がよくよく盛んにおこるためなのである。ほんとうになごりおしいことであるけれども、どうすることもできず、力が尽きてしまって命の終わる時にかの浄土へは参るようになっているのだ。仏の大悲の御心には、私共のような、速く浄土へまいりたいという心のない者をとりわけ憐れみくださるのである。これにつけてこそいよいよ仏の大悲大願はたのもしく、往生は決定していると思うばかりである。」「もしも私共に念仏申すとともに、天に踊り地に踊り身も心も歓び喜ぶというような状があったり、また速く浄土へ参りたいという念いもあったりするならば、煩悩具足の凡夫と仰せられた仏の語に違い、私共には煩悩が無いのだろうかと却って怪しく思われることであろう、と云々。」

● 高史明師の現代語意訳
念仏を称えましても、こころの中は隙間だらけで、踊躍歓喜と言われるような歓喜があまり湧いてまいりません。また急いで、浄土へ参りたいという思いにもなってまいりませんのは、どのように考えたら、よいことなのでありましょうか、とお尋ね申し上げましたところ、(かねてより)親鸞もこのことを不審に思っていたのですが、唯円、あなたも同じ心もちでありましたか、と(お応え下さり、続いて言われました。しかし唯円よ、それでもって心配することはありません。)よくよく思案してごらんなさい。そうすれば、天におどり地におどるほどに喜んでよいことを、喜べないという(私たち)であればこそ、いっそう往生はしかと決定されていると思われてよいのであります。喜んでよいはずのこころを抑えて、喜べないようにしているのは、煩悩のせいであります。そうでありますから、仏様はかねてより、よくお見透しであって、私たちのことを、煩悩具足の凡夫と仰せられておられます。(この仏様の眼差しを、よくよく考えてみれば)他力の悲願は、煩悩の深い私たちのためのものであったと知られて、(いよいよもって、すべてをお任せできる)たのもしいものと思えてくることでありましょう。また、浄土へ急いで参りたいというこころがないということですが、(その一方で人間は)ちょいとした病にでもとりつかれると、すぐさま、もう死ぬのではないかと、こころ細くなってしまいます。これもまた、煩悩のなせるところでありましょう。久遠劫というはるかな昔から、いまに至るまで、流転のつづきであつた苦悩の故郷は捨てがたく、未だ生まれざる安養の浄土は、切なる思いでもって慕わしく思われてこないということ、まことに、煩悩とは、よくよく興盛なものでありませんか。(とはいえ)どんな名残り惜しく、別れがたくとも、娑婆の縁尽きて、力なくして寿命の終わるときがくれば、(どなたも)かの土へ参ることになります。(仏様は)急いで参りたいというこころのない者を、ことに憐れみたもうておられます。それ故にむこそ、大悲大願をいよいよ頼みとして、(すべてをおまかせして)往生はすでにして、決定されている、とたのもしく思われてよいのであります。踊躍歓喜のこころもあり、急ぎ浄土へ参らんと思われるのだとしたら、(かえって、その人には)煩悩がないのであろうか、怪しく思われてまいりますまいか。

● あとがき
このコラムに取り組んでいる日【12月16日(土)午後12時9分】に、私の娘に長女が誕生致しました。私に取りましては、5人目の孫(男2人、女3人)になります。どんな過去を背負い何処から生命を授かってこの世に生まれ出て来たのか、そして、私を祖父として生まれる縁の不思議を思わずには居られません。

生まれて来る縁の不可思議を思う時、死に往く縁もまた私達には不可思議(感知し得ない)であろうと思いますが、この世で出遇えた仏縁、親鸞聖人の他力本願との出遇いは、自分の一生を振り返ります時、何か必然のような気が致します。そして、こうして歎異抄に出遇い、白井成允先生の現代訳、高史明師の現代意訳をご紹介させて頂きながら拙い解説をしている事自体、不可思議な縁が働いていると申すしかございません。


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No.657  2006.12.14

真理は一つ切り口の違いで争わぬ

我が家にもかなり頻繁に宗教・倫理団体からのアプローチがあります。冊子が投函されている事もあります。実践倫理宏正会、キリスト教、生長の家、崇教真光が主な団体です。私は教えの詳細を勉強しておりませんので、論評を控えたいと思いますが、キリスト教は世界の三大宗教の一つで、最も信仰人口の多い宗教であり、勿論いかがわしいものではありませんし、他の3団体も、病気が治ると言う一部の文言を除いては、倫理的に間違ったことを勧めていないようであり、カルトと言われる狂信教団とは同列に無いものであります。

以前にも申し述べましたが、宗教は個々人との相性があると思います。相性と言うよりも、持って生まれた性格或いは、抽象的な表現ではありますが、生まれる以前から背負っている過去(遺伝的素質、仏教では業と申します)が異なりますので、キリスト教で救われる人もあれば、仏教でなければ救われない人も居ると思います。そして、倫理・道徳を実践する事で、心を清め、人格を高めて行くことを目的としている団体に属して、幸せな人生を送れる人も居ると思います。たとえば、実践倫理宏正会は、次の誓いを唱和するそうです。       ※ 三つの恩…親の恩、師の恩、社会の恩  三つの無駄…物の無駄、時の無駄、心の無駄
私は、上記の五つの誓いの中のたった一項目すら一日として守ることは出来ませんが、守れる人も居るのだと思います。
私自身は仏法を人生の拠り所としていますが、特定の宗派に属しているものではありませんし、仏法の説くところ全てに忠実である事を心掛けている訳でもありません。真理に忠実でありたいと思っていることは確かでありますが、何が真理かを探し続けていると言った方がよいかも知れません。そう言う意味では、私が尊敬する尼僧さんである青山俊董尼(曹洞宗、愛知尼僧堂堂長)の『真理は一つ切り口の違いで争わぬ』と言う一文に共感を覚えるものでありますので、下記に転載させて頂きます。他宗教を批判したり、他の人の仏教に関する領解を非難したり、蔑んだりすることは、厳に慎まねばならないと思います。勿論他方では、カルトのように反社会的教団や教祖を認める訳には参らないことは当然のことであります。

青山俊董尼の法話からの転載:
世界連邦の宗教者会議の席上で、私は次のようなことを語った。
欧米、東南アジアなど、異なった宗教や、文化圏に赴くたびにー日本国内においても同じであるがー心に期する一連のことがある。
まずは「真理は一つ切り口の違いで争わぬ」ということ。たとえば、円筒形の茶筒を横に切れば切り口は丸くなり、斜めに切れば楕円になり、縦に切れば矩形となる。切り口は違っても、茶筒そのものに変わりはない。

真理を表す「法」という文字は、もと「灋(ほう)」という文字の略で、「悪事を退ける公平なのりの意」とか、「水の平らかなるさま」を表わす文字であるという。いかなるところにあっても水は平らかであり、また略字の示すように水は高きから低きに流れる。これは古今を超え、洋の東西を超えて変わらない。時と処を超えて変わらぬ道理を真理と呼ぶ。その真理は一つという信念、そこにあらゆる文化の違いを超えて手を結ぶ広場があるはず。

沢木興道老師の言葉に「飲み方に流儀はあっても、胃の消化の仕方に流儀はない」というのがある。茶の飲み方には表千家とか裏千家とか、いろいろの約束事はあろう。しかし胃が表千家流に消化するということはなかろう。「胃の消化の仕方」という言葉で語ろうとしていることが天地の法則であり、「法」という文字で表そうとしている中身である。飲み方とか流儀は人と人との約束事であり、約束事は時と処で変わる。いわゆる切り口の違いであり、違いを突っ張らず、柔軟に対応してゆけばよい。

次に大切なことは、真理は一つに違いないが、切り口しか見ることができない、という謙虚さがなくてはならないということである。われわれはとかくほんの一部分しか見えていないのに全体を見得たと思い込み、自分の切り口を主張し、相手に押し付けたり訂正を強要したりしがちである。どんなに逆立ちしても、われわれは自分の持ち合わせのモノサシの長さしか測ることは出来ず、自分の貧しい経験という色眼鏡を通してしか受け止めることができないのである。

笑い話のような話がある。信州の山の中で炭焼きを仕事としている人と、佐渡の海で漁をして暮らしている人とが浅草の観音さまへお詣(まい)りに行き、同じ宿に泊まった。「太陽はどこから出るか」という話になり、信州の山の中で暮らしている人は、「山から出て山に入る」と言って譲らない。海で暮らしている人は「海から出て海に入る」と言って譲らない。どうしても話がまとまらないから宿の番頭さんに仲裁を頼んだら、番頭さん曰く「屋根から出て屋根に入る」と。

笑い事ではない。われわれは毎日これをやっているのだという自省がないと争いになる。つまり切り口しか見ることが出来ないという謙虚さこそが大切と思うことである。

今一つ、切り口の違いは必要あってのものだから、互いに尊重しあい、学びあっていこうという姿勢が欲しい。たとえば砂漠の遊牧民族という中で生まれたキリスト教は、厳しい姿をとらざるを得ないであろうし、モンスーン地帯の農耕民族という条件の中で生まれた宗教は、融和的な姿をとるように。この、切り口しか見えないという自覚と謙虚さと、さらに積極的に違いは尊重しあい、学びあってゆこうという姿勢は、国とか民族という大きな単位から、人と人との上に至るまで、大切な心構えであろう。

ー転載終わり

政治課題や国際問題も、与党と野党や国と国が互いに切り口しか見えないと言う自覚と謙虚さと、さらには積極的に違いを尊重し合い、学びあってゆこうという姿勢があれば、紛争・戦争が無くなり、庶民が悲惨な目に遭うことも無くなると思うのですが、恐らく、政治課題・国際問題は、真理に相当する理想・目標・目的自体から異なり、更に方法論も異なりますから、争いは永遠に続くと言うことになるのでしょう。人類の悲しい現実だと思いますが、人類がこの現実から脱け出るためには、方法論を戦わす前に、宗教家を交え、真理に立ち返って、人間の幸福とは何かに関して意思統一を図る事でしか有り得ないと思う次第であります。


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No.656  2006.12.11

歎異抄に還って―第九章―B

● まえがき
浄土へ行く条件を論じているサイトで、『浄土に参る唯一つの条件は、心を低くしてと全てを許すことだと思う、そうすれば誰だって行ける』と言うある人のコメントに対して、サイト管理者は『浄土へ行く為の、唯一の条件は、「他力の信心を獲得(ぎゃくとく)したか、どうか」これしかない。「信心正因」とは、「浄土往生するための唯一の条件が、他力の信心である」と言う意味です。その根拠は、「涅槃の真因は唯信心を以ってす」(教行信証信巻)、「信心の業識あらずば、光明土に至ることなし」(教行信証信巻)、「正定の因は唯信心なり」(正信偈)、「信心定まるとき、往生また定まるなり」(末燈抄)、「真実信心を得れば、実報土に生まると教えたまえるを浄土真宗とす」(唯信抄文意)等に示されているからです。いずれも、親鸞聖人ご自身のお言葉に間違いありませんのでこれを否定するならば、もはや親鸞学徒ではありません(歎異抄は、親鸞聖人ご自身の言葉ではありませんので)。』と言う確信に満ちたコメントがありました。

私が気になりましたのは、親鸞聖人のお考えかどうかの判定が、親鸞聖人が直々に語られた言葉が記されている著述であるかどうかであるとされている点であります。特に、歎異抄が親鸞聖人ご自身の言葉ではないから、歎異抄は親鸞聖人のお考えではないと言う文言があることに、私は異議を持つものであります。

親鸞聖人が直々に書かれたから、それが親鸞聖人の真意であると疑いなく断定してしまうのは如何かと考えます。何故ならば、文章にした事と喋った事が全く異なると言うことが有ってはならないとは思いますが、鈴木大拙師もおっしゃっていた事でありますが、文章化する場合には前後の整合性や曖昧さを避けようとする気持ちが強く働きますので、却って真意を表し得ていない場合もあるのではないかと思います。逆に、この歎異抄第九章のように、日常会話を聞き手が記憶して表現した場合の方が、話し手の真意に近いこともあると思うのです。

昔から、歎異抄は親鸞聖人のお考えではないとか、かなり若い時のお考えであり、教行信証こそ、親鸞聖人の真意であると主張する方々がおいでになりますが、私は、歎異抄にせよ、教行信証にせよ、他の著述であろうとも、その中に示されている文字になった言葉の一つ一つを詳細に読み取ることが、親鸞聖人の真意を汲みとる正しい姿勢であるとは思えません。遺されている一つの一つの言葉・内容を手掛かりとし、自分自身がどのように真実・真理を思考するのかと言う事が大切であり、自分が主役でなければならないのではないかと思います。つまり学問的アプローチではなく、求道者として著述を読む姿勢でなければならないと言うことであります。

その点、唯円房は議論のための議論でも机上の空論でもなく、常日頃から信心の有るべき理想の姿から程遠い自己の心の状況について、お師匠さんである親鸞聖人に思い切って質問されたのでありますが、それに対しまして親鸞聖人は「自分も同じ不審を抱いているが、しかし、念仏を喜べないからこそ往生は間違いないのではないか、それは阿弥陀仏の願いが煩悩だらけの私達凡夫を救う事にあるからだと考えてはどうか。そう考えれば本当に有り難いことではないか」と唯円房と同じ目線になって語られているのでありますが、その親鸞聖人は「信心定まるとき、往生また定まるなり」と断じられる毅然とした信仰者ではなく、裃を脱がれ、私達と同じ世界に生きる生身の親鸞聖人であるだけに余計に説得力があると思うのは私だけではないと思う次第であります。

●第九章原文
念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんき)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為(しよい)なり。しかるに仏(ぶつ)かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里(くり)はすてがたく、いまだ生まれざる安養(あんにょう)浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころのなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひしなましと云々。

● 白井成允師の現代訳
「私は念仏を申しておりますが、躍り上がるほどの歓びが心の奥から湧いてまいりませんし、また速く浄土へ参りたいと言う心もありませんが、これはどうしたことでありましょうか、とお尋ね申し上げたところが、聖人の御答えには、親鸞もかねてからそのような不審を持っていたのに、唯円房よ、そなたもやはり同じ心であったのだな。」「よくよく考えてみると、天に踊り地に踊るほどに喜ばねばならぬはずの心を抑えて喜ばせないのは煩悩の仕業である。ところが仏はかねてからこれをしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたのだから、他力の悲願はこのような私共のためにであられたのだと知られて、いよいよたのもしく思われるのである。」「また速く浄土へ参りたいという心もなく、少し病気にでもかかるとすぐに死にはしないかと心細く感ぜられることであるが、これもやはり煩悩の仕業である。遠い遠い古から今日まで迷いさすろうてきた苦悩の故里はすてさりがたく、また生まれたことのない安養の浄土は恋しくない。これまことに煩悩がよくよく盛んにおこるためなのである。ほんとうになごりおしいことであるけれども、どうすることもできず、力が尽きてしまって命の終わる時にかの浄土へは参るようになっているのだ。仏の大悲の御心には、私共のような、速く浄土へまいりたいという心のない者をとりわけ憐れみくださるのである。これにつけてこそいよいよ仏の大悲大願はたのもしく、往生は決定していると思うばかりである。」「もしも私共に念仏申すとともに、天に踊り地に踊り身も心も歓び喜ぶというような状があったり、また速く浄土へ参りたいという念いもあったりするならば、煩悩具足の凡夫と仰せられた仏の語に違い、私共には煩悩が無いのだろうかと却って怪しく思われることであろう、と云々。」

● 高史明師の現代語意訳
念仏を称えましても、こころの中は隙間だらけで、踊躍歓喜と言われるような歓喜があまり湧いてまいりません。また急いで、浄土へ参りたいという思いにもなってまいりませんのは、どのように考えたら、よいことなのでありましょうか、とお尋ね申し上げましたところ、(かねてより)親鸞もこのことを不審に思っていたのですが、唯円、あなたも同じ心もちでありましたか、と(お応え下さり、続いて言われました。しかし唯円よ、それでもって心配することはありません。)よくよく思案してごらんなさい。そうすれば、天におどり地におどるほどに喜んでよいことを、喜べないという(私たち)であればこそ、いっそう往生はしかと決定されていると思われてよいのであります。喜んでよいはずのこころを抑えて、喜べないようにしているのは、煩悩のせいであります。そうでありますから、仏様はかねてより、よくお見透しであって、私たちのことを、煩悩具足の凡夫と仰せられておられます。(この仏様の眼差しを、よくよく考えてみれば)他力の悲願は、煩悩の深い私たちのためのものであったと知られて、(いよいよもって、すべてをお任せできる)たのもしいものと思えてくることでありましょう。また、浄土へ急いで参りたいというこころがないということですが、(その一方で人間は)ちょいとした病にでもとりつかれると、すぐさま、もう死ぬのではないかと、こころ細くなってしまいます。これもまた、煩悩のなせるところでありましょう。久遠劫というはるかな昔から、いまに至るまで、流転のつづきであつた苦悩の故郷は捨てがたく、未だ生まれざる安養の浄土は、切なる思いでもって慕わしく思われてこないということ、まことに、煩悩とは、よくよく興盛なものでありませんか。(とはいえ)どんな名残り惜しく、別れがたくとも、娑婆の縁尽きて、力なくして寿命の終わるときがくれば、(どなたも)かの土へ参ることになります。(仏様は)急いで参りたいというこころのない者を、ことに憐れみたもうておられます。それ故にむこそ、大悲大願をいよいよ頼みとして、(すべてをおまかせして)往生はすでにして、決定されている、とたのもしく思われてよいのであります。踊躍歓喜のこころもあり、急ぎ浄土へ参らんと思われるのだとしたら、(かえって、その人には)煩悩がないのであろうか、怪しく思われてまいりますまいか。

● あとがき
また、浄土真宗の信者ならば、浄土が恋しいはずであるのに、私の現実はそうではないから、やはり私は間違っているのだろうかと不安な気持ちを吐露した唯円房は、実に率直な質問をされたのでありますが、親鸞聖人はこれに対しましても、「私だってちょっと体調不良になると死ぬのではないかと不安に駆られるが、これも煩悩の為せる業(わざ)である。だからこそ阿弥陀仏の本願があるのではないか」と自分の心の解決の有り様をお示しになられています。決して「唯円房、それは信心が定まっていないからだよ」とは申されていないのです。

私は、親鸞聖人もお亡くなりになるまで煩悩を抱え続けられ、この歎異抄第九章に見られる親鸞聖人から大きくご心境が変化されたとは思えません。他力本願への信心はますます強くはなられたことではありましょうが、それは浄土を恋しく想う気持ちが強くなってのでもなく、念仏が喜びを増した訳でもないと推察しております。

それは85歳の御和讃、『弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人は皆 摂取不捨の利益にて 無上覚をば証るなり』に窺えると思います。「信ずべし」と言いますのは、言うまでも無く、人に「信じなさい」と強く勧めているのではなく、ご自分に言い聞かせておられる言い回しであります。これは推測でしかありませんが、長男である善鸞に裏切られ、我が子を勘当しなければならないと言う面子丸潰れの目に遭われ、本願を信じる気持ちが少し揺れ動くと言うご経験をされた上での、けじめと心の落ち着きどころの表白ではないかと思うからであります。

浄土真宗の宗派がどのように解釈されているかは存じませんが、他力本願の信心によって、喜びに満ちたお念仏が称えられるようになるのでもなく、死後の極楽浄土往生を確信するようになるわけでもないと思います。また、煩悩がある限りは喜び、楽しみと同様に、苦しみも悲しみも無くなることは無いと思います。しかし、その煩悩故に、他力・本願力が確かなものとして強く感じ取れるようになるのではないか・・・最近はその様に他力の信心を考察しているところであります。


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No.655  2006.12.7

宗教嫌いの神秘好き

12月5日の朝日新聞夕刊に『カルト問題』(カルト教団とは、特定の教祖や教義を熱狂的に信じ、しばしば反社会的な行動をする教団)を北海道大学院教授の桜井義秀さんと、日蓮宗僧侶の杉若恵亮(すぎわかけいりょう)さんが語られている記事が掲載されておりました。その中に「宗教嫌いの神秘好き」と言う言葉がありまして、現在の日本人の宗教感覚をよく言い表しているなと思い、下記に転載させて頂く次第です。

(桜井さん)
大学生の意識調査をすると、宗教への不信感は高まっているようです。オウム事件の影響でしょうね。一方で血液型判断、姓名判断などの占いをマニアックに信じる人が増えています。スピリチュアル(精神世界)や霊的なものへの関心も高く、テレビに頻繁に出演する人が発言すると、影響力は大きい。

(杉若さん)
私の檀信徒でも、霊界のことを話す人がテレビで「お盆のお飾りはこうです」と言うと、どうかなと思うことでも、そっちを信用する。なんだかメディア教という感じです。

(桜井さん)
宗教嫌いの神秘好き、なんでしょうか。価値観が大きく揺らいでいる時代に、若い人は、自分がどこへ行ったらいいのか分からない。居場所を探しているのです。そこで「あなたは、そのままのあなたでいい」と、だれかに抱擁してもらいたい。メディアで権威づけられた人なら、なおよし。本当の自分を映し出してくれる鏡のような存在の人物と出会いたいのだと思います。

(杉若さん)
仕事や子育て、夫婦の問題に悩む30代の人たちも、はまっていますね。ひところのサイババらインドの聖者ブームを支えたのは30代ですよ。日本の宗教者はだめなんです。聖者に、ちょっとハグ(抱きしめられる)されるため、インドにわざわざ出掛ける。ハグされることで、今の自分がまるごと認められた気がするのでしょう。

(桜井さん)
たぶん「あなたは世界でオンリーワン」と、権威ある人に言ってもらいたいのだと思います。霊的な能力があるとされる人たちから「あなたの前世はこうです」と言われると、平凡な自分にも特別な物語があって、神秘的な世界につながっている気分になれる。占いや予言で、本当の自分が何をしたいのかを示してくれ、自分の可能性を引き出してくれたと信じたいのですよ。実は、その人が考えていそうなことを言うだけなんですけどね。

―転載終わり
メディアで権威付けられたと言うのは、恐らく細木数子氏あたりの事をイメージされているのだと思いますが、彼女は見るからに強そうな有名タレントなんかに対して、「あんたは本当は心の弱い人間で、ただ強がっているだけだ」と断言する。人間は誰でも突き詰めれば弱い存在ですから、言われた本人は「見透かされている」と畏敬の念を抱き、見ている視聴者も「凄い人だ」と尊敬してしまいます。単なる占い師、ただし演出が上手く迫力があるだけなのですが、今や超能力者としての地位を築いてしまいました。最近亡くなった丹波哲郎氏が霊界信奉者でしたが、テレビタレントや有名人の文化レベルが日本の一般庶民に与える影響は実に大きく、宗教嫌いの神秘好きになっている要因の一つではないかと思われます。

ただ、「宗教嫌いの神秘好き」とは、はっきり言えば、「仏教嫌いの神秘好き」だと思います。今の日本人の成人総数は約1億人と言われていますが、その中、仏教を真理を説く法として真剣に求めいる人はどの程度居るでしょうか。私は、ひいき目に見積もっても0.1%、10万人程度かと思います。つまり、1000人あたり1名ですが、あるいはそれ程すらも居ないかも知れません。瀬戸内寂聴さんの法話には結構な聴衆が集まるそうですが、そのことによって判断を誤ってはならないと思います、寂聴さんのお話は法話ではなく倫理話を面白おかしく話しているだけですから、集まっている人々は、仏法を求めているのではないと私は考えています。そして、もう直ぐお正月です。初詣で何百万人と言う人々が神社にお参りして一年の福を祈ります、お寺にもお参りする人もいますが、神社の代わりのお寺参りでしよう。仏法は何処へ消えてしまったのかと、末法の世を噛み締めている次第でありますが、そう嘆いてばかりいる訳にも参りません。

来年は、近隣の人々対象の経典(般若心経、歎異抄、修証義)勉強会を立ち上げようと密かに計画しております。先ずは、近隣500軒にチラシを配布しようと思いますが、一人も来ないだろうと言うのが親族達の見方であります。0.1%の見積もりが正しければ、そう言うことになりますが果たして結果は・・・・?


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No.654  2006.12.4

歎異抄に還って―第九章―A

●まえがき
無意識のうちにお念仏が口から出ることが無い凡夫の私から見ますと、浄土真宗の聖者と云われる方々ならば、きっと日常生活は心穏やかで、喜びに満ちたお念仏を称えて居られるであろうと想像してしまいます。親鸞聖人のお念仏も妙好人方のお念仏も同じく慙愧と歓喜のお念仏≠ナあったとお聞きしますと、自分との違いがあまりにも明らかでありまして、「未だ道遠し」と云う気が致します。恐らく歎異抄の著者である唯円房も、40歳年上のお師匠様でいらっしゃった親鸞聖人に関しまして常々その様に想像し、在る時、意を決して質問をされたのであろうと思います。

それが、この第九章の「私、念仏を称えておりますが(お師匠様のように)歓び勇む心が湧いてまいりません、お浄土も恋しく思えないのですが、これは一体どうしてでしょうか?」と言う親鸞聖人への質問であります。この質問は念仏の教えに学ぶ誰しもが常々心に抱いているものだと思いますが、なかなか口に出すまでには至らないものだと思います。まして何十年と聞法(もんぽう)を続けている者と致しましては、「何を今更、そんな質問をするのか、今まで何を聞いてきたのか」、と非難され、恥ずかしい想いをすると言う自分のプライドを守ろうとする自己愛の心が働きますから、喉のところまで出ている質問をついつい飲み込んでしまうものではないかと思います。

そう考えますと、このような質問が素直に出来た唯円房は相当信心が深まって居られたのか、或いは、そのような質問をしても受け止めて下さる確信を親鸞聖人の日常から抱かれていたと思うのであります。

案の定、親鸞聖人は「私親鸞も唯円房と同じ疑問を持っているのであるが・・・」、と唯円に安心感を与えられた上で、ご自分の領解(理解しているところ)を説かれ始めておられるのであります。

●第九章原文
念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんき)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為(しよい)なり。
しかるに仏(ぶつ)かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里(くり)はすてがたく、いまだ生まれざる安養(あんにょう)浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころのなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひしなましと云々。

● 白井成允師の現代訳
「私は念仏を申しておりますが、躍り上がるほどの歓びが心の奥から湧いてまいりませんし、また速く浄土へ参りたいと言う心もありませんが、これはどうしたことでありましょうか、とお尋ね申し上げたところが、聖人の御答えには、親鸞もかねてからそのような不審を持っていたのに、唯円房よ、そなたもやはり同じ心であったのだな。」「よくよく考えてみると、天に踊り地に踊るほどに喜ばねばならぬはずの心を抑えて喜ばせないのは煩悩の仕業である。
ところが仏はかねてからこれをしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたのだから、他力の悲願はこのような私共のためにであられたのだと知られて、いよいよたのもしく思われるのである。」「また速く浄土へ参りたいという心もなく、少し病気にでもかかるとすぐに死にはしないかと心細く感ぜられることであるが、これもやはり煩悩の仕業である。遠い遠い古から今日まで迷いさすろうてきた苦悩の故里はすてさりがたく、また生まれたことのない安養の浄土は恋しくない。これまことに煩悩がよくよく盛んにおこるためなのである。ほんとうになごりおしいことであるけれども、どうすることもできず、力が尽きてしまって命の終わる時にかの浄土へは参るようになっているのだ。仏の大悲の御心には、私共のような、速く浄土へまいりたいという心のない者をとりわけ憐れみくださるのである。これにつけてこそいよいよ仏の大悲大願はたのもしく、往生は決定していると思うばかりである。」「もしも私共に念仏申すとともに、天に踊り地に踊り身も心も歓び喜ぶというような状があったり、また速く浄土へ参りたいという念いもあったりするならば、煩悩具足の凡夫と仰せられた仏の語に違い、私共には煩悩が無いのだろうかと却って怪しく思われることであろう、と云々。」

● 高史明師の現代語意訳
念仏を称えましても、こころの中は隙間だらけで、踊躍歓喜と言われるような歓喜があまり湧いてまいりません。また急いで、浄土へ参りたいという思いにもなってまいりませんのは、どのように考えたら、よいことなのでありましょうか、とお尋ね申し上げましたところ、(かねてより)親鸞もこのことを不審に思っていたのですが、唯円、あなたも同じ心もちでありましたか、と(お応え下さり、続いて言われました。しかし唯円よ、それでもって心配することはありません。)よくよく思案してごらんなさい。そうすれば、天におどり地におどるほどに喜んでよいことを、喜べないという(私たち)であればこそ、いっそう往生はしかと決定されていると思われてよいのであります。喜んでよいはずのこころを抑えて、喜べないようにしているのは、煩悩のせいであります。
そうでありますから、仏様はかねてより、よくお見透しであって、私たちのことを、煩悩具足の凡夫と仰せられておられます。(この仏様の眼差しを、よくよく考えてみれば)他力の悲願は、煩悩の深い私たちのためのものであったと知られて、(いよいよもって、すべてをお任せできる)たのもしいものと思えてくることでありましょう。また、浄土へ急いで参りたいというこころがないということですが、(その一方で人間は)ちょいとした病にでもとりつかれると、すぐさま、もう死ぬのではないかと、こころ細くなってしまいます。これもまた、煩悩のなせるところでありましょう。久遠劫というはるかな昔から、いまに至るまで、流転のつづきであつた苦悩の故郷は捨てがたく、未だ生まれざる安養の浄土は、切なる思いでもって慕わしく思われてこないということ、まことに、煩悩とは、よくよく興盛なものでありませんか。(とはいえ)どんな名残り惜しく、別れがたくとも、娑婆の縁尽きて、力なくして寿命の終わるときがくれば、(どなたも)かの土へ参ることになります。(仏様は)急いで参りたいというこころのない者を、ことに憐れみたもうておられます。それ故にむこそ、大悲大願をいよいよ頼みとして、(すべてをおまかせして)往生はすでにして、決定されている、とたのもしく思われてよいのであります。踊躍歓喜のこころもあり、急ぎ浄土へ参らんと思われるのだとしたら、(かえって、その人には)煩悩がないのであろうか、怪しく思われてまいりますまいか。

● あとがき
「私親鸞も唯円房と同じ疑問を持っているのであるが・・・」と言うのは、上手なコミュニケーションの在り方を意識してのものではなく、親鸞聖人がご自身の経験から本当のところを語られたものであると思うのですが、勿論、29歳で法然上人の下で他力本願の教えに目覚められた親鸞聖人であり、ましてやそれから数えても、四、五十年間も念仏の道を歩まれている親鸞聖人でありますから、唯円房と全く同じ立場ではなかったことも確かでありましょう。

「そのように念仏を称えることに喜びが伴わないことやお浄土が恋しくないこと自体、他力(阿弥陀仏のお働き)の、或いは本願力の救済対象の自分である何よりの証拠であるから、浄土往生は間違いないと考えてよいのではないか」、と噛んで含めるように、そしてご自分にも言い聞かせられるようにお答えになられたのだと思われます。

「煩悩の所為(しょい)なり」とは、簡単なお言葉ではあります。『所為』は、しょい≠ニ読んだり、せい≠ニ読んだり致しますが、私は、親鸞聖人がこのお言葉を使われた背景に極めて深いお心を感じます。ご自分が煩悩と闘われた長く苦しい比叡山での20年間を始めとして、それ以後も約50年、煩悩と共にあった年月、そしてこの第九章の会話をされている時ですら、煩悩と共に在るご自分が、その煩悩故に阿弥陀仏との縁(えにし)があると云う不思議な喜びと確信を語られたものと思います。

無相庵カレンダー第一号に『花に蝶々 衆生と仏 離れられない わけがある』と言うお歌がありましたが、この離れられない訳とは、『煩悩』の事でありましょう。「私達衆生と仏様とは、煩悩と云う糸で繋がっているんだなぁー」と言う切なくもあり喜びでもある気持ちを歌い上げたお歌だと思いますが、第九章の親鸞聖人が説かれたお教えとぴったり一致するものではないかと思っている次第であります。


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No.653  2006.11.30

悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)

歎異抄の第一条には、『弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて、往生をば遂げるなりと信じて念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち摂取不捨の利益(りやく)に与(あず)けしめ給うなり』と親鸞聖人がおっしゃられたことが述べられています。少し理屈を申しますと、「それでは、阿弥陀仏の誓願を信じなければ摂取不捨の利益には与らないと言うことになりますね?」と言う質問が成り立ちます。阿弥陀仏は、救い取る人と救わない人を取捨選択されると言うことになりましょうけれども、これはどう考えればよいのでしょうか。

摂取不捨の利益とは、この世に在りながら少しお浄土の風景を垣間見ることが出来、成仏(浄土へ参る)する身である事が確定することでありますが、親鸞聖人の他力浄土門の教えは、本当に阿弥陀仏がそのような取捨選択されると言う考えに基づくものなのでしょうか。親鸞は『唯信鈔文意』の中で、「仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海のこころにみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏す(悉皆成仏)と説けり」と書いておられるようでありますが、このお言葉と歎異抄の第一条のお言葉との関係は、どう考えればよいのでしょうか。

歎異抄第一章のお言葉を拡大解釈致しますと、凶悪犯罪を犯した死刑囚は決して成仏しませんし、罪人でなくとも、念仏とは全く関係の無い生活をしている人や、他宗教の人も成仏(お浄土へ往生)することは無いと言うことになります。

一般の念仏信者ならば、「お念仏を称えることにより、死んでからお浄土へ参りたい、生きている間も、お念仏の利益に与れる」とおぼろげながらも考えていることでしょう。恥ずかしながらも、私もその一人であります。何も望むことなく、「ただ念仏して・・・」と言う高い境地には程遠い私であります。この世で一杯悪いことをした人、他人様の迷惑を全く顧みない人も、全ての人は亡くなればお浄土へ往生すると言うことは、どうしても納得がいかない事ではないかと・・・凡夫の心が騒ぎます。

私は永年この疑問を抱いておりましたが、最近、少し頭の整理が付いてきたように思います。結論を先に申しますと、悉皆成仏は、生命のあるものもないものも(山川草木国土)全ては成仏すると言う考え方でありますが、命あるものに限定して考えますと、「全ての生命は、命が無くなればお浄土へ還る、法律を犯した罪人も、世の中の善人も悪人も、信仰を持った人も、持たない人も、全ての生命は、一味の世界に帰する。しかし、もし幸いにして他力浄土門の教えに回り遇い、阿弥陀仏の誓願を知り、そして信じ、念仏を称えようと思ったその瞬間、生きながらにして、しかも煩悩を抱えながらも、お浄土の風光を味わうことが出来る身(現生正定聚の位)となる」と、親鸞聖人の教えを私なりに解釈しています。

お浄土が実在するかしないかを論じる意味はありません(誰も結論は出せません)。私が考えるお浄土というものは、喩えて言いますと大海をイメージします。海には多くの河川から千差万別の水が流れ込みます。人間社会から流れ出た汚物、産業廃棄物、産業排水、浄いものも汚いものも流れ込みますが、海には天然の浄化力があります。すべてを一味にして浄化してしまう力がありますが、その海は、浄穢(じょうえ)を取捨選択することなく全てを受け入れます。私は、お浄土をそのような概念で考えております。

河川の水が必ず大海に流れ込むように、私たち生命あるものも必ずお浄土へ参ります(成仏、浄土往生します)。しかし、凡夫は迷いが多くそしてその迷いは執拗なものでありますから、なかなか成仏を信じることが出来ません。それ故に、親鸞聖人は、大無量寿経に説かれている『正定聚の位』と言う、生きながらにして浄土往生が信じられるゴールを自ら信じ、お示しになられたのだと思います。

以下は、親鸞聖人が、性信房と言うお弟子さんに『正定聚』について書かれたお手紙ですが、親鸞聖人も、この正定聚の教えに安心(あんじん)と安心(あんしん)を得られたのではないかと思われます。

 信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒とおなじと説きたまへり。

  さて、『大経』(下)には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば弥勒におなじ位なれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。
浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にその心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会のあかつきと申すなり。浄土真実のひともこのこころをこころうべきなり。
  光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』には、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(意)と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたり、といふこころなり。これは弥勒とおなじといふことを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来とひとしと申すこころなり。
  正嘉元年丁巳十月十日    親鸞
  性信御房


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No.652  2006.11.27

歎異抄に還って―第九章―@

●まえがき
多くの人にとりましてこの第九章は親鸞聖人を慕わしく思う気持ちをより強くする、思い入れ深い一章ではないかと思いますが、私はそれに加えまして唯円房を羨ましく思ったものであります。 その羨ましさとは、優しいお師匠さんを持ったというだけではなく、本来は質問し辛い、叱られるかも知れない初歩的とも言える疑問を、何ら飾ることなくぶつけられる間柄を羨ましく思うのであります。

私の推測でしかありませんが、師弟の関係でこのような質問が出来るのは、他力本願の教えの下にある師弟でなければ為し得ないものだと思います。同じ仏門でも聖道門の禅宗の師弟では先ず有り得ないでしょうし、ましてや、教祖や教義への服従的信仰態度を重んじる新興教団にあって唯円房のような初歩的質問をしたと致しますと、「教団に何年も属しながら、未だそんな事を言っているのか」と厳しい叱責を受けるに違いありません。

「親鸞は弟子一人も持たない、皆、阿弥陀仏の前では対等の仏弟子である」と言う親鸞聖人のお考えを他力の教えに生きる者は決して忘れてはならないと、この章を読み返す度に切に思うことであります。

先ずはこの原文の意味を、いつもの事ながら、白井成允先生と高史明師の現代訳と意訳によりまして、全体を把握して頂きたいと思います。

●第九章原文
念仏申し候へども、踊躍歓喜(ゆやくかんき)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為(しよい)なり。しかるに仏(ぶつ)かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里(くり)はすてがたく、いまだ生まれざる安養(あんにょう)浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころのなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひしなましと云々。

●白井成允師の現代訳
「私は念仏を申しておりますが、躍り上がるほどの歓びが心の奥から湧いてまいりませんし、また速く浄土へ参りたいと言う心もありませんが、これはどうしたことでありましょうか、とお尋ね申し上げたところが、聖人の御答えには、親鸞もかねてからそのような不審を持っていたのに、唯円房よ、そなたもやはり同じ心であったのだな。」「よくよく考えてみると、天に踊り地に踊るほどに喜ばねばならぬはずの心を抑えて喜ばせないのは煩悩の仕業である。ところが仏はかねてからこれをしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたのだから、他力の悲願はこのような私共のためにであられたのだと知られて、いよいよたのもしく思われるのである。」「また速く浄土へ参りたいという心もなく、少し病気にでもかかるとすぐに死にはしないかと心細く感ぜられることであるが、これもやはり煩悩の仕業である。遠い遠い古から今日まで迷いさすろうてきた苦悩の故里はすてさりがたく、また生まれたことのない安養の浄土は恋しくない。これまことに煩悩がよくよく盛んにおこるためなのである。ほんとうになごりおしいことであるけれども、どうすることもできず、力が尽きてしまって命の終わる時にかの浄土へは参るようになっているのだ。仏の大悲の御心には、私共のような、速く浄土へまいりたいという心のない者をとりわけ憐れみくださるのである。これにつけてこそいよいよ仏の大悲大願はたのもしく、往生は決定していると思うばかりである。」「もしも私共に念仏申すとともに、天に踊り地に踊り身も心も歓び喜ぶというような状があったり、また速く浄土へ参りたいという念いもあったりするならば、煩悩具足の凡夫と仰せられた仏の語に違い、私共には煩悩が無いのだろうかと却って怪しく思われることであろう、と云々。」

●高史明師の現代語意訳
念仏を称えましても、こころの中は隙間だらけで、踊躍歓喜と言われるような歓喜があまり湧いてまいりません。また急いで、浄土へ参りたいという思いにもなってまいりませんのは、どのように考えたら、よいことなのでありましょうか、とお尋ね申し上げましたところ、(かねてより)親鸞もこのことを不審に思っていたのですが、唯円、あなたも同じ心もちでありましたか、と(お応え下さり、続いて言われました。しかし唯円よ、それでもって心配することはありません。)よくよく思案してごらんなさい。そうすれば、天におどり地におどるほどに喜んでよいことを、喜べないという(私たち)であればこそ、いっそう往生はしかと決定されていると思われてよいのであります。喜んでよいはずのこころを抑えて、喜べないようにしているのは、煩悩のせいであります。そうでありますから、仏様はかねてより、よくお見透しであって、私たちのことを、煩悩具足の凡夫と仰せられておられます。(この仏様の眼差しを、よくよく考えてみれば)他力の悲願は、煩悩の深い私たちのためのものであったと知られて、(いよいよもって、すべてをお任せできる)たのもしいものと思えてくることでありましょう。また、浄土へ急いで参りたいというこころがないということですが、(その一方で人間は)ちょいとした病にでもとりつかれると、すぐさま、もう死ぬのではないかと、こころ細くなってしまいます。これもまた、煩悩のなせるところでありましょう。久遠劫というはるかな昔から、いまに至るまで、流転のつづきであつた苦悩の故郷は捨てがたく、未だ生まれざる安養の浄土は、切なる思いでもって慕わしく思われてこないということ、まことに、煩悩とは、よくよく興盛なものでありませんか。(とはいえ)どんな名残り惜しく、別れがたくとも、娑婆の縁尽きて、力なくして寿命の終わるときがくれば、(どなたも)かの土へ参ることになります。(仏様は)急いで参りたいというこころのない者を、ことに憐れみたもうておられます。それ故にむこそ、大悲大願をいよいよ頼みとして、(すべてをおまかせして)往生はすでにして、決定されている、とたのもしく思われてよいのであります。踊躍歓喜のこころもあり、急ぎ浄土へ参らんと思われるのだとしたら、(かえって、その人には)煩悩がないのであろうか、怪しく思われてまいりますまいか。

●あとがき
私も「念仏を称える喜びをしみじみと味わえるようになりたい、この娑婆よりも、浄土を恋しく思いたい」と言う気持ちを持ったことがあります。今も「浄土よりも穢土と言われる、この世に少しでも長く居りたい」と言うのが正直なところです。念仏も、称えることがあっても喜びに満ちたものであることはまことに稀であります。

この念仏を称える上での気持ちに関しまして、白井成允先生のお話を思い出します(井上善右衛門先生からのまた聞きであります)。それは、白井成允先生が40歳を越えられてからだと思いますが、それまで念仏を喜んで称えられていたのだと思いますが、色々な苦難に遇われてからの念仏にどうも喜びが感じられない、これはどうしたことかと、京城(現在のソウル市、白井成允先生はその時、京城帝国大学の教授として赴任中)より遥々、九州の臼杵祖山師を訪ねられて質問されたそうであります。それに対する祖山師のご返答は「私の念仏は砂を噛むような念仏です」と言うもので、それを聞かれた白井先生は全てを理解され、祖山師に御礼を申し上げて帰途につかれたそうであります。

私たちは、とかく念仏を称えることに何かを期待し、ついつい幻想を抱いてしまうものでありますが、それは他力の念仏ではなく、自力の念仏だと言うことだと思います。祖山師の短いお言葉をお聞きになられて直ぐにそこに気付かれた白井成允先生は、苦しい境遇にありながらも、恐らくは晴々とした心持で京城へと帰られたものと思います。


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No.651  2006.11.23

自然法爾・法爾自然(じねんほうに・ほうにじねん)

無相庵カレンダーの10日のお言葉に、『自然法爾』がございます。自然は、仏教語としては、『じねん』と読みます。『然(ねん)』も『爾(に)』も、「しかり、その如くある」と言う意味ですから、『自然法爾』は、「自ずからしかり、法のごとくしかり」と直訳され、自然法爾でも、法爾自然でも、どちらでも全く同じ事であると考えられています。

実は、親鸞聖人のお師匠である法然上人のお名前が、この法爾自然の言葉から生まれたそうでありますが、私は、まことに不勉強でありまして、極最近まで存じ上げていませんでした。それで、あぁ、そうなのかと思うことがございます。それは、親鸞聖人が最晩年、自然法爾と言うお言葉を非常に大切にされ、実際、自然法爾抄と言う有名な著述がございますので、法然上人と親鸞聖人の最終的に至られたご心境、言い換えますと、信心の世界が全く同じであったと言うことでございます。

『自然法爾』とは、「あるがまま」と、平易な言葉に言い換えてもよいと思います。受け取り様に依りましては、消極的な姿勢と考えられましょうが、なかなかあるがまま≠ノ任せることは出来ないものであります。むしろ私達は何に付けましても計らいたがるものであります。朝起きてから寝るまで、計らいっ放しと言っても良いかも知れません。

今月曜コラムで勉強中の歎異抄第8章の『念仏は行者にとっては非行・非善である』と言いますのも、念仏は、私達が計らって、即ち、何かを目的にして称えるものではなく、他力の働きによってせしめられている#O仏であると説かれているものですが、『自然法爾の念仏』と申してもよいかと思う次第であります。

法然上人と親鸞聖人の出会いは、『自然法爾』の教えを後世に残すために阿弥陀仏の御計らいで為されたもので、これはお釈迦さまがこの世に出現されたのと同じ意味合いを持つと言っても過言ではないと思いますが、この出会いこそ、自然法爾そのものであると申してよいのではないかと思います。


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