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No.500  2005.06.13

正信偈の心を読む―第八講【弥陀章(光明摂化)―A】

●まえがき
太陽の光は、地球上の全ての命を育む力を持っています。太陽の光がなくなれば、地球上の生命は瞬時に絶滅致します。また、太陽の光は、太陽系の惑星全てを照らしておりますが、太陽からの距離と、地球を覆う大気と言う縁(諸条件)が揃わないと、生命は育たないようであります。

この太陽の光は生命を育み、一方、私達の心を育んでくれるのは、この地球を存在たらしめている宇宙の真理、すなわち、仏様の智慧であります。そしてこの仏様の智慧は、私達人間なら誰でも感得出来るものであり、それは丁度、地球上のあらゆる命が太陽の光を浴びているが如く、仏の智慧は仏の光として衆生に洩れなく降り注いでいるのだとお釈迦様始め、多くの祖師方は考えられたのでありましょう。

他の宗教では、罪を犯した者は地獄に突き落とし、善人のみが天国に召されると言う考え方が多いのでありますが、仏教は、悪人にも善人にも等しく仏様の智慧と慈悲は降り注いでいると考えます。そして仏様の慈悲には必ず救い取ると言う強い願いが込められているとして、浄土門では、これを本願力とも言い、他力本願とも申すのであります。そして私達が抱えている罪悪、煩悩も仏様の光を妨げることは出来ないという意味の『無碍光(むげこう)』と言う表現が、それを表しております。

従いまして、親鸞聖人がお名号(みょうごう)として使われたのが、「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」であります。親鸞聖人は、ご自分の煩悩を慙愧される一方で、この無碍光を特に有り難く思われたのであります。そして、これは自分だけにではない、全ての衆生に注いでいる光であるから、共に無碍光に帰命しようではないかと、90歳まで、仏法興隆に尽くされたのであります。

●弥陀章(光明摂化)原文
普放無量無辺光(ふほうむりょうむへんこう)
無碍無対光炎王(むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光(しょうじょうかんぎちえこう)
不断難思無称光(ふだんなんしむしょうこう)
超日月光照塵刹(ちょうにちがっこうしょうじんせつ)
一切群生蒙光照(いっさいぐんじょうむこうしょう)

●弥陀章(光明摂化)和訳
普(あまね)く無量無辺光
無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光
不断難思無称光
超日月光を放ちて塵刹(じんせつ)を照らす
一切の群生光明を蒙(こうむ)る

●暁烏敏師の講話からの抜粋
すべての群生、あらゆる衆生は皆この十二光のお照らしを蒙るのであります。御和讃のお言葉の中に「光暁(こうけう)かふらぬものはなし」とか、「光触(こうしょく)かふるものはみな」或いは「光沢(こうたく)かふらぬものぞなき」といってあるのは、みんな光を受けるということであります。

現に今晩私が皆さんと仏のお徳を讃嘆しておる。これが如来の光明が至らせられておる姿なのであります。この座敷に如来の光が輝いておるのです。皆を照らしておいでになるのであります。この仏のお照らしは自然と私を明るいところへ出して、冷たい胸を融かして、ほんのりと打融けて、仏の御名を呼ばずにはおれんように育てて下さるのであります。

これはこの智慧のお育てがあるからであります。この智慧の光そのものがお慈悲であります。阿弥陀様のお慈悲は盲目的なお慈悲ではない。暗い胸を明るく照らすお慈悲であります、わからんことを言うておるものをわかるようにして下さる。間違っておるものを間違わぬようにして下さる。ただ、人が可愛いから物を与えてやると言う、そんなお慈悲ではない。

本当のお慈悲はもっと奥に、食わさずにおれん、飲まさずにおれん、その命を愛する情であります。だから、その形が本当の命を妨げるような悪いことをやっておるなら、叱りもしよう、怒りもしようが、その智慧によってだんだん心を明るく育てて貰うて、何かにつけてこの日暮しを豊かにして貰うのである。苦を忘れて仏の名が口に溢れてくるのであります。だから名号がわしに与えられるということは、光明のお照らしによって与えられるのであります。

親鸞聖人は光明名号の因縁が和合して、わしの胸に信心がいただかれるとおっしゃったのである。それで、ここに光明のことをお味わいになってあるのであります。光明も名号も畢竟(ひっきょう)法蔵菩薩の切ない心で、一切衆生の疑いの胸を抱き寄せて下さるお心であります。それが智慧と現われて、共に自ら手を取り、皆と共に広々とした心で楽しく暮してゆくという、生まれてゆくという、あなたの願いとお慈悲とを、親鸞聖人によってここに味わわして貰うたのであります。

●あとがき
「月影の 至らぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」これは、親鸞聖人のお師匠さんである法然上人が詠われたものでありますが、「月の光は、地上の至るところを照らしているのであるが、この月の光を仰ぐ人の心にしか、その澄み渡る光は届かないのである」と言う直訳になると思われますが、法然上人は、「仏様の智慧も慈悲も、全ての人間の心の奥底にまで行き渡っているけれども、それに気付いた(自覚した)人にしか、仏様の智慧と慈悲の輝きはあらわれないのである」とお説きになられたのだと思います。

「叩けよ、さらば開かれん」と言うのは確かキリスト教の教えだと思いますが、仏教の場合は、「叩かなくとも既に扉は開かれているではないか、後はその門をくぐるかくぐらないかである」ということになるのではないでしょうか。「くぐらないのは、信じているのは自分の力を信じているのであり、仏様を疑っているからである」と言うことになります。

自分の力で何とかなるものだと、自力を頼りにしている限りは、心の底から「南無阿弥陀仏」は称えられないように思います。親鸞聖人は、自力に見限りをつけねばならぬ体験(修行であるとか、自己の心との葛藤)を通して、仏様の本願に目覚められたのではないでしょうか。

そして、この正信偈が生まれたのだと思います。

ここで一つ気を付けたいのは、一切の群上(ぐんじょう)と親鸞聖人が言われているお心です。恐らく、親鸞聖人は、人間だけを想定されて「群上」と言われたのではないでしょう。地球上の生きとし生ける全ての生命あるものと言うお気持ちを持たれてお使いになられたものと思われます。それは、歎異抄に「一切の有情(うじょう)はみなもて世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟(ぶもきょうだい)なり」と言われたとされているからであります(有情は衆生・群上と同義語であります)。ただ、本願力(ほんがんりき)を感得出来るのは、人間の命を賜ったからであると言うことにも感謝しなければならないと言うお心もまた、お持ちであったことは間違いありませんが・・・。


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No.499  2005.06.09

世界一の幸せが世界一の苦しみへと

大相撲の二子山親方(元大関、貴ノ花)が55歳の若さで亡くなられました。亡くなられた事よりも、その息子の若貴兄弟の不仲・確執の方が話題になっていることは、まことに痛ましいと思います。

結局は、遺産をどう分けるかと云うことの争いだろうと思われます。お互いが独身の時には、そんな問題は起こり得ないのでありますが、夫々に奥さんを持ち子供を抱え、奥さんの応援団である親族達がうしろに控えると云う状況では、残念ながら、こう云う殺伐とした人間関係にならざるを得ないと言うのが、一般的ではないかと思います。

貴乃花親方(元横綱、貴乃花)に問題があるとか、お兄ちゃんの花田勝さん(元横綱、若乃花)に問題があると言うのではなく、世間普通に起こっていることだと思います。

そのことよりも、二子山親方と離婚した藤田憲子さんが、通夜・葬儀に出席されておられましたが、私はほっと致しました。31年間連れ添った相手が、離婚したとは云え、通夜・葬儀に出席されないと言う事になりますと、物悲しいことでありますので、人間として持つべき最低限の情が失われていないことに、安堵した次第であります。

そして、憲子さんの涙ながらのコメントの中に「世界一の幸せを頂きましたが、また世界一の苦しみも味わいました」と言う言葉がありました。率直なコメントを述べられていることに好感を持ちますと共に、私達の人生の現実を象徴する言葉だとも思いました。

仏教で言うところの諸行無常ということは、世界一の幸せは、持続しないと言うことであります。世界一の幸せを得たならば、必ず逆の局面を迎えると言うことだと思います。私は世界一の幸せを得ない代わりに、世界一の不幸せも来ないのだろうと思います。持つものが大きければ、失うものも大きいと言うことでしょう。

花田一族は、多分お金には困らないのだと思いますが、お金は決して幸せを呼び込むものではなく、逆に、兄弟間、夫婦間の確執を生み出すものだと言うことではないでしょうか。私は今、お金に苦労しております。しかし、お金は無いと極めて不便ではありますが、お金で幸せを呼び寄せることは出来ないと思っております。お金の無い人物に近寄って来てくれるのは、本当の友と、借金地獄の人間を更に食い物にしようとするシステム金融とか悪徳街金だけであります。その他の人々は、貧乏神には関わりたくないと言うことで、綺麗に去って行くものであります。私は、今回の経済的な困窮によって、初めて、生涯付き合って行くべき真実の友が誰であるかをはっきり認識出来ました。そして、幸せは、そう言う人々と心通わせるところにしか無いと確信を得ることが出来ました。

お金は必要ではあります。しかし、余分なお金は、決して幸せを運んでは来てくれるものではないことは、世間で多く見られる悲劇が物語っています。また、社会的地位もあるに越したことはありませんが、これもまた、お金と同様、幸せとは無関係の持ち物であります。晩節を汚している大物政治化、一時代を築き上げたカリスマ経営者が物語っています。

西部の堤義明氏は、その康二郎氏から、「友人を作るな、友人は、おまえのために何かをしてくれることはない、おまえが何かをしてくれることを期待して寄ってくるだけだ」と言うような教育を受けたそうです。寂しい考え方だと思います。私は、人生で大切にすべきことの一つは、良き友を持つことであると、最近、その意味するところが分かりました。若貴兄弟に、果たして真の友達はいるのでしょうか?多分、心を許して話し合える相手をお互いに持っていないし、亡くなられた二子山親方から心を通わせる友達が一番の財産だと言う教育を受けなかったのだと思われます。しかし、お金が中心、相撲社会における地位が人生の中心だと洗脳されて頂点を極めた若貴兄弟は、私達凡夫にとって他人事ではないと思います。

本当の世界一の幸せを追い求めるならば、名誉・財産への欲はそこそこにして、近しい人々との心と心の交流と、仏教が説く「無財の七施(たとえば、和顔愛語)」に心を砕くべきではないかと・・・・・・、逆若貴フィーバーに思うことであります。


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No.498  2005.06.06

正信偈の心を読む―第七講【弥陀章(光明摂化)―@】

●まえがき
闇に破るのは光であります。私達凡夫の心の闇は仏の智慧によって明るくなります。この智慧を仏法では光明に譬えます。この光明を十二光に分けて、仏様の光明の素晴らしさ、強さを称えています。これは、親鸞聖人がと言うことではなく、大無量寿経と言う浄土経典で説かれているものであり、それを親鸞聖人が、この正信偈でも、引用されているのであります。

●弥陀章(光明摂化)原文
普放無量無辺光(ふほうむりょうむへんこう)
無碍無対光炎王(むげむたいこうえんのう)
清浄歓喜智慧光(しょうじょうかんぎちえこう)
不断難思無称光(ふだんなんしむしょうこう)
超日月光照塵刹(ちょうにちがっこうしょうじんせつ)

一切群生蒙光照(いっさいぐんじょうむこうしょう)

●弥陀章(光明摂化)和訳
普(あまね)く無量無辺光
無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光
不断難思無称光
超日月光を放ちて塵刹(じんせつ)を照らす

一切の群生光明を蒙(こうむ)る

●梅原眞隆師の解説
この弥陀章の第二科は、光明の摂化(せっけ:衆生を救い取り、利益を与えること)を述べたものである。名号は内因となり、この光明は外縁となって、群生(衆生)を救われるのである。

法蔵菩薩は本願を起こし、さらに修行して正覚をひらいて阿弥陀仏とならせられた。この阿弥陀仏はいたるところに無量光、無辺光、無碍光、無対光、光炎王、清浄光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光を放って、無数の国土を照らしたもう。すべての生きとし生けるものは、この仏光のお照らしを蒙って救われる。

さきの弥陀章(本願名号)では本願について述べられたから、進んでこの六句は光明について讃嘆せられたのである。仏は普(あまね)く無量光などの十二光を放って、塵のように数多い国土を照らす。これによって、この世のすべての人々はみなこの光明の照護をこうむると言うのである。

●暁烏敏師の講話からの抜粋
「無量光」というのは、無は無い、量は量(はか)るで、量り知られん、量ることが出来ない光ということです。有量の諸相―量ることの出来る有限なる諸々の相は、すべてこの量ることの出来ない智慧の光明に照らされて、光暁をこうむらないものはない。皆曙の光で照らされるのである。光暁は暁の光です。量り知れない大きな光明によって、小さな私共の心が照らし破られるのであります。長い間の心の闇が照らされて、ほのぼのと明るくなる。本当に明るいことが無量光の相である。

「無辺光」とは辺(ほとり)のない光のことです。阿弥陀様の智慧には際限がない。凡夫の秤に乗りきれない程大きい。それが無辺光である。阿弥陀様の光は到らぬところがないのである。これを無辺光と名付けてある。

「無碍光」とは、障りのない光である。如来様のことを尽十方無碍光如来という。太陽の光は木や家があれば蔭になったりして障りがある。が、仏様の智慧の光は障りがない。つまり、仏様の光を遮るものは何もないということである。凡夫のいかなる煩悩悪業にも妨げられずに、全ての衆生を利益される絶対救済の光である。

「無対光」は、並ぶもののない光、向かうもののない光であります。
「光炎王」は、炎は焔(ほのお)、ものを熔かす力がある。焔の阿弥陀様である。

この「無対光」と「光炎王」はの二つは、弥陀の光明の絶対性と卓越性とを表示して、
光明の徳相の尊高を明らかにされたものである。
「清浄光」は、清らかにきれいな、濁りのない光である。
「歓喜光」、これは喜びのお徳であります。
「智慧光」、これは明らかな智慧のお徳であります。仏様の光はそれ自身智慧でありますが、そこへまた智慧を添えたのであり、
この「清浄光」「歓喜光」智慧光」の三光は、光明の妙用を示されたもので、衆生の煩悩の主体である、貪欲・瞋恚・愚痴を照らし、鎮める光である。

「不断光」とは、断えることなくいつも照らしづめの光である。

「難思光」は、思い難い、不思議な光、南無不可思議光であります。

「無称光」、これだけと口に言えない、誉め尽くせないお徳のことをいうのであります。

「超日月光」は、日月の光に超えた光であります。お日様がお出になっても、お月様がお出になっても、私の心は暗い。ところがあなたのお側にいて、あなたのお顔を見ているとこの暗い私の心が明るくなる。だからあなたの心の光、あなたのお徳は、太陽よりもお月様よりももっと明るい、とおっしゃったのであります。これが超日月光です。

これで、十二光を放たれる謂(いわ)れがわかりました。「塵刹を照らす」とは、十二光を放って普く塵の国土を照らす、塵のように穢れの多い心を照らし給うというのであります。

●あとがき
仏法を学んで参りますと、何れは、我が煩悩の執拗さに、ほとほと参ってしまうのでありますが、煩悩はなかなか退治出来るものではありません。親鸞聖人も、恐らくは、途方に暮れられ、難行苦行の比叡山を降りられて、法然上人の教えに遇って、煩悩を抱えたままで救われる道があることに目覚められ、信心を得られたのであります。

仏様を信じられなくても、仏様が私を信じ、必ず救って見せると言う強い願いを持っておられるから、私達は必ず救われるのだと言うのが、親鸞聖人が開発された道だと思います。その所以は、今日の十二光に示されているのだと思います。今生でその光が私の心に届くかどうかは分かりませんが、何れは必ず届くのだと言う確信が、浄土真宗の信心なのだと言ってよいのではないでしょうか。


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No.497  2005.06.02

偽りについて−JR西日本の事故処理に想う

JR西日本の福知山線で107人の死者と500人余りの負傷者をもたらした大惨事から、早、1ヶ月以上が経過致しました。事故調査委員会の原因分析が未だ完了していないにもかかわらず、JR西日本は再発防止策をまとめた「安全性向上計画」なるものを北側国土交通相らに提出したと言うことであります。福知山線以外ではこれまで通り運行が続いており、再発防止対策を早急に実施しなければ、別の線路で再発する可能性がありますから、急がねばならないのは勿論ではありますが、真因(本当の原因)に対する再発防止対策でなければならないことの方がより大切なことである事は言うまでもありません。

報道によれば、事故原因を過密ダイヤと日勤教育の内容が、運転手に過剰なプレッシャーを与えた可能性があること、そしてATSの不備により制限スピードを自動的に抑制出来なかったとして、それぞれに対しまして、改善策を提示して行く考えのように見受けられます。過密ダイヤと日勤教育内容の改訂は、運転手の精神的プレッシャーを軽減し、遅れを取り戻すための無謀運転を回避しようと言うものだと思われます。新型ATSの設置は、脱線を生じさせるスピードにならないように自動的にスピードを制御する装置であります。

私は、この再発防止策は、世間を欺くものではないかと思います。私が嘗て勤務した化学会社、ゴム会社の経験から、事故とか、災害・公害とかクレームを起こした企業がよく採る安易で安価に済ませられる再発防止対策であります。製造企業が起こすクレーム(製品苦情)の殆ど(90%と言うデーターがあることを聞いたことがあります)は、作業者のうっかりミス、思い違いミスによるものであります。

しかし、うっかりミス、思い違いミスは顧客に説得力のある再発防止対策を提示出来ません。精々、再指導、再訓練ということになりますが、顧客には不審が残りますから、作業マニアルに不備がありましたとか、作業環境に問題がありましたと言う事にして、再発防止対策が具体的に立てられる原因に摺り替えることがしばしば行われます。

報道によりますと、事故を起こした電車は事故時の運転手が運転する間に合計4回、自動的に急ブレーキが掛かっていたと言う記録が残っていると言う情報があります。これは、運転手に何らかの異常があったか、電車のブレーキ系統の整備不良と考えるのが先ずは常識的であります。

しかし、運転手の適性に問題があったとか、事故当日の体調不良に問題があったとかと言う事になりますと、運転手への昇格試験そのものを見直すことになる事は勿論、全運転手に関して再試験と言う事にもなりかねませんし、国土交通省による運転手の国家試験制度にまで発展しかねません。また、日常の運転手の体調管理を綿密に実施することになりますと、コストも然ることながら、いざと言うときのための代替運転手を用意しなければなりません。これは、言うは易く行うは難しで、場合によりますと、極端な話、当面全線運休と言うことになりかねません。

また、車体の整備不良と言うことになりますと、事は重大です。そもそも、毎回の運行前に飛行機のような整備作業は行われているのでしょうか。もし、車体に問題があったと言うことになりますと、整備のコストは勿論、折り返し運転も不可能となり、車両の増強、待機場の設営等など、それこそ莫大な費用が想像出来ます。

ATSの設置を前倒しする、日勤教育を見直す、過密ダイヤを緩和し、運転手に過度の負担が掛からないようにする等という対策は、上記の運転手の管理、車体の管理に比べれば、極めてコストは低く、且つ、表面的には説得力があるものです。しかも、今回の事故ではじめて世間全体に知れ渡り有名になった『日勤教育』を見直した事は、一般的には説得力があるものと言えるでしょう。

しかし、私は、罰則的側面を持つ日勤教育がすべて悪の根源だったとは思えません。全否定は、如何なものかと思っております。罰則的な側面も持つ日勤教育があるからこそ、運転手さん達の一部かも知れませんが、緊張感を持って任務を無事遂行し続けて来れた方もいらっしゃるかも知れません。もし今回の対策後にもし再発した場合、JR西日本は世間が責め立てたこれまでの『日勤教育』の正当性を主張し、逆襲に転じる道を確保したとも言えるのではないかと思います。

そう言う意味で、マスコミも世間一般も、JR西日本の安易な再発防止対策を許す結果になったことを知って欲しいと思います。

今日のコラムのテーマは『偽り』ですが、私は、JR西日本だけを責め立てる積もりは持っておりません。JR西日本のみならず、すべての企業と言っても良いと思います。そして殆どすべての私達人間は、偽りを平気で犯す存在と言ってもよい、そう言う着眼をするのが、仏教、とりわけて、親鸞聖人の浄土真宗であります。

今、当ホームページの『唯識の世界』と言うコーナーで、20随煩悩について勉強中でありますが、 覆(ふく)の“ごまかし”、誑(おう)の“たぶらかす”は、二つ合わせて、偽(ぎ)“いつわり”といえるのではないかと思います。

当ホームページからリンクさせて頂いている『紫雲寺』さんの3月の法話の中で、偽の語源について、下記のように申されています。成る程、昔の人は、良く洞察しているなと思うことであります。

煩悩にまみれた私たちが、この世で為すことは、善でも悪でもなくて、みんな「偽り」なのです。「偽り」という漢字は、「人偏」に「為す」と書くでしょう。「人」の「為す」ことは、みな「偽り」だということです。偽りのない「まこと」は、煩悩のない仏様の言葉だけです。

これは、聖徳太子の『世間虚仮唯仏是真』と言うお言葉にも覗えますが、私達は、消極的にも、積極的にも、他の人に自分を偽り、自分をも偽ってしまう業(ごう)を抱えていると言わざるを得ません。自分は偽ってなんかいない、正直に生きていると言える人は極めて少ないのではないでしょうか?自分の実態よりも、少しでも良く思われたいと無意識のうちに、或いは意識して見栄を張りますし、逆に、それ程苦しくもないのに、無意識のうちに、或いは意識して苦しみを誇張する事もあります。これら全て、自分可愛さから来る煩悩の仕業であります。

私は、JR西日本の事故処理を例に挙げまして、人間社会の偽りの実態を表現致しましたが、偽りを犯すのは、ひとりJR西日本だけではない事に気付き、私達自身が自己を振り返る縁としなければならないと思っております。

そして、仏法の教えるところは、「このような偽りを犯すな」と言う事ではなくて、「このような偽りを犯さざるを得ない自己の実態を凝視し、数々の偽りを犯しながらも、多くの恵みに(他力)よって生かされている事に感謝し、少しでも社会に或いは大自然が喜ぶ事をしよう(利他行)ではないか」と言う事であります。

今朝の朝日新聞に、JR西日本が事故を起こした反省と安全向上計画の全容が掲載されておりますが、事故の真因を徹底的に追求する姿勢からは程遠く、“とおりいっぺん”の反省と再発防止に対する考え方だと私は思いますが、きっと偽りの無い本音を発表すれば、世間からバッシングを受けることもまた間違いの無いことでありますから、発表内容は致し方無いにしましても、是非、交通以外の面でも、社会が喜ぶ貢献を果たす事と言う積極的な考え方もして頂きたいものだと思っております。


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No.496  2005.05.30

正信偈の心を読む―第六講(弥陀章(本願名号)―C)

●まえがき
今日は、弥陀章―本願名号の最後のお言葉『重誓名声聞十方(じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)』の心を読み取りたいと思います。『名声(みょうしょう)』というのは、お念仏、「南無阿弥陀仏」の事ですが、仏様は十方の一切衆生の口から「南無阿弥陀仏」と称える声が聞こえるようにしたい、そうならないと仏にはならない、と宣言されたと言うのがこのお言葉であります。

昔お聞きした法話では、阿弥陀仏は既に西方浄土で説法されておられるから、願いとか誓いは成就されており、我々衆生は既に救われている、ただ気付いていないだけなのだと言う様な事をお聞きしたことがありますが、なかなか納得が出来なかったことを覚えております。これは今も完全納得とは申せませんが、仏様の智慧と慈悲が常に自分に降り注いでいることは、長い人生を渡って来まして、色々と苦しい目に遇い、そしてその苦しみがあるからこそ、心が開かれて行くような気が致します時に、かすかに感じる次第であります。

仏様の智慧と慈悲に本当に気付けば、母の愛に気付いた赤ちゃんが「ママ、ママ」と呼ぶように「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と口から出るのが必然ではないかと思われます。「南無阿弥陀仏」が未だ素直に出ない私は、仏の智慧と慈悲に未だ心底気付いていないからなのだなぁと思っております。

暁烏敏(あけがらすはや)師の解説文で、成るほどと教えられました事でありますが、「ママ、ママ」と呼ぶ子供と、南無阿弥陀仏を称える人の心持に共通点があるようであります。私の4番目の孫は、もう直ぐ11ヶ月になります。未だママが数時間そばに居なくても、泣き出しはしません。その点は祖父母としては、ママの代役はやり易いのでありますが、やがて知恵付いて人見知りをし出しますと、自分を可愛がってくれる唯一の人物であると確信しているママを探して、「ママ、ママ」と、ぐずり出すに違いありません。そうなれば祖父母は手の施し様がなくなることでしょう。阿弥陀仏の智慧と慈悲に気付かずに、勝った負けた、儲けた損したと別のものを追っ掛けている凡夫は、未だ知恵付いていない1歳以下の赤ん坊と同じ存在だと言う事でありましょうか・・・・。

●弥陀章原文
法蔵菩薩因位時(ほうぞうぼさついんにじ)
在世自在王仏所(ざいせいじざいおうぶっしょ)
覩見諸仏浄土因(とけんしょぶつじょうどいん)
国土人天之善悪(こくどにんでんしぜんあく)
建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)
超発希有大弘誓(ちょほつけうだいぐぜい)
五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)
重誓名声聞十方(じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)

●弥陀章和訳

法蔵菩薩因位の時
世自在王仏の所(みもと)に在(ましま)して
諸仏浄土の因
国土人天之(の)善悪を覩見して
無上殊勝の願を建立し
希有の大弘誓を超発せり
五劫に之を思惟し摂受す
重ねて誓たまうらく 名声十方に聞こしめんと

●暁烏敏師の講話からの抜粋
法蔵菩薩が四十八の願をお建てになって、その願を皆の前でお述べになった。その後に、重ねて三つの願いを起こされた。それが偈文となっておる。その偈文を「三誓偈」という。「三誓偈」の中に、

我仏道を成ずるに至りて 名声十方に超えん
究竟して聞こゆるところ靡(な)くば 誓ひて正覚を成ぜじ
とあります。わしが仏になったならば、わしの名が十方に響き渡るようになり、どこかに聞こえぬ処があるようだったらわしは仏にならぬ。こういうお誓いである。「重ねて」とあるのは四十八願を建てその上に又念を入れて三つの誓いをなされたので、「重ねて」とあるのであります。

四十八願の中、第十七願は諸仏称名の願であります。

説(たと)ひ我仏を得んに、十方世界の無量諸仏、悉く咨嗟(ししゃ)して我が名を称せずば、正覚を取らじ。
わしが仏になったならば、十方の世界の諸々の仏さま達が、すべてわしの名を誉め称えてくれるようになりたい。若(も)しそうでなかったらば正覚を取らない。こういう意味の願が第十七願である。それが「三誓偈」では、わしの名が十方に聞こえ渡りたいという願いをせられる。

そこで、十方に名前が聞こえたいというこの重ねての願いはどういうところから出たのであろうか。

善導大師は、「名をもってものを摂す」とおっしゃった。「名をもってものを摂す」とは、自分の名前、名号で、一切の衆生を助け給うということである。阿弥陀仏は、自分の名によって我々を助けて下さるのである。何を我々に与えて下さるのか、ということを善導大師は味おうて、「阿弥陀如来が衆生を助け給うただ一つの御方便は、南無阿弥陀仏の御名号を成就せられたことである。南無阿弥陀仏の六字の御名号によって衆生を助けて下さるのである。仏様の限りない命、限りない光、やるせない大慈悲の心、明るい智慧のお心、それがわれわれの救いになり、力になって現れて下さる。その相はどこにあるかというに、自分の口に現れ出て下さるこの南無阿弥陀仏の御名号がそうだ」と味おうて下さったのである。

足る足らん、勝った負けた、儲かった損した、そういうような差別の境界にあって、そういう言葉を口にかけておる者が、その口の中から、南無阿弥陀仏という広大な言葉が溢れ出て下さる、これがもうお助けに預かっておる証拠だ。こんなにもおっしゃるのである。これまで仏とも、法とも、南無とも知らんで日暮しをしておった人が、この世のいろいろのことに突き当たり、自分の智慧才覚で切り開きがつかんような苦に出遭う。ここにどうかなりたいという心が起こり、善知識に遇い、阿弥陀仏の因位のお心から果上のお徳をだんだん聴聞して、自分の胸の中に未だ嘗てなかった影を見るようになる。それは丁度、一国の王様であった法蔵菩薩が、世自在王仏のお話を承れて、わしも仏になりたいという願いを発して、修行に取りかかられた、その時のお心のようなものが湧いてきたのである。

仏を望み、仏になることを願う心が出てくる、それだけでお助けの毎日だ。人間には、いい着物が着たい、いい家におりたい、学者になりたい、権勢が得たい、金持ちになりたい、というような願いがあるのである。そういう願いばかりあった者が、心の中に仏になりたい、という願いが湧いてきたのだ。金に参ったり、強い者に参っておった者が、仏にお詣(まい)りする、仏の名を称えるという気になる時は、はや違った身になっておるのだ。

さて、私の名(南無阿弥陀仏)が十方の衆生の口から洩れ出るようになりたいということは、十方衆生と打ち融け、親しみ合うてゆきたいということである。それは自分が助かる道であるばかりでなく、十方の衆生も共に助かる道である。自分の名前が一切衆生の口に洩れ出るようにあらしめたい、この願いを成就して、十方の衆生の口から自分の名前(南無阿弥陀仏)が現れるようにならなければわしは仏にはならぬ、とおっしやった。

子供が何で「お母ちゃん、お母ちゃん」と母の名を呼ぶのだろうか。子供が名を呼ぶ前に、子供をして名を呼ばしめるように母親の愛がある。乳を飲ます、世話をする。その世話の奥にある慈悲、それによって、毎日育(はぐく)まれておる。だから、子供の口から母の名が洩れ出るようになるのであります。だから、子供の口から呼び出される呼び声は、呼び出さしめる人の徳である。故なくして人の名は呼ばぬ。呼ぶような何かが湧いてくるので、呼ぶようになるのであります。

●あとがき
しかし、私達は、いわゆる自我が芽生えて、反抗期を迎えるあたりから、ママの愛情がうっとうしくなります。さも自分一人で大きくなったように思い、殆どの人は、両親に背を向けて社会を渡って参ります。今思っても恥ずかしいのですが、私は大学2年生の頃に、「母の愛は無明」と言う一文を『女性仏教』と言う雑誌に投稿致しました。母の愛は、動物の本能に基づくもので、仏様の慈悲や愛とは天地の差があると言う“生意気”な内容でありました。

そんな事を書かれながらも、息子の文章が雑誌に掲載された事を我が事のように喜んでいた母を最近になって思い出す時、目頭が熱くなる想いを致すとともに、若気の至りで、大きな考え違いをしていた自分を恥ずかしく思う次第であります。

窪田空穂さんの歌として有名な「今にして、知りて悲しむ父母が、我にしましし、その片想い」の心は、恐らく、孫を持ち、体が若い時ほど動かなくなった60歳以降に、ますますその想いを深く感じるのだろうと思われます。私の母は、80歳で亡くなりましたが、神戸市垂水区の一戸建て独り暮しを続けました。庭も60坪はあったと思いますので、さぞや庭の手入れは老いの身に大変だっただろうと今思いますが、その当時は、そんなことさえ気付かずに・・・・親不孝を続けていたなぁーと申し訳無い気持ちになります。これだけではなく、その他数え切れない親不孝を働いて来た事しか思い出せない自分であります。そして、今苦境にある私を気を揉んで見ているしか無い母親に、今も親不孝中の自分を済まないと思い、事業を再興して普通の暮らしに戻して安心させねばと思いますとともに、せめて母が生涯願っていた仏法興隆の一助となればと、これからも、出来る限り、無相庵から発信して参りたいと思っているところであります。

母の愛情に一時は背を向けて暮らした私も、年老いて再び母の愛情の深さに気付かされつつありますが、私達凡夫も、お金儲けや地位が幸せであると信じ、自力の限りを尽くして後、最後は、この私を見守り続けて下さった阿弥陀仏の“智慧と慈悲の懐”に帰えることが、本当の安心なのだと、そしてそれが親鸞聖人が至られたご心境ではなかったかと・・・・、暁烏敏師のお言葉から学ばせていただきました。

今日で、弥陀章の本願名号の偈文に関する勉強は終わりますが、この偈文の心を読んでいるうちに、法蔵菩薩は別に架空の菩薩ではなく、昔から沢山の法蔵菩薩がお出ましになられており、そして現在も、形を変え姿を変えた法蔵菩薩が沢山いらっしゃると思うようになりました。そして、私自身が法蔵菩薩に願われ、また法蔵菩薩になるように願われているように思う次第であります。


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No.495  2005.05.26

小泉首相の靖国参拝問題

小泉首相は先週の国会答弁の中で、「どのような追悼の仕方がいいかは他の国が干渉すべきでない」と述べたことで、中国サイドが「日本の指導者が靖国神社の参拝について繰り返し中日関係改善に不利となる発言をしたことは大変不満だ」として、中国副首相に小泉首相の会談をドタキャンさせ帰国させたと言う報道がありました。

朝日新聞は、この問題を内政干渉として切り捨てる小泉首相を批判し中国側に立った社説を掲載しました。その理由を、『A級戦犯の戦争責任は、日本がサンフランシスコ講和条約で東京裁判の判決を受け入れたことで、国際的に決着のついたことである。その責任をあいまいにする靖国神社参拝に、当事者でもある中国が不信を表明するのを「干渉」とはねつけるわけにはいかない』としています。

恐らく、小泉首相の靖国神社参拝には、日本国民の中でも賛否両論あると思われますが、もう60年も前の出来事として全く無関心な人もかなりいるのではないかと思います。私はちょうど終戦の年の昭和20年3月生まれですが、父が私達兄弟に靖彦・国彦と、靖国神社から一文字ずつを取って名付けた経緯もあり、無関心では居られません。父も大尉として戦争に参加致しましたから、恐らくは生き残った申し訳無さと共に戦没者への追悼の意を、その様な形で表したのかなと、今思う次第であります。

戦後教育を受けて育った私は、日本があの戦争を起した経緯や、中国や朝鮮半島に出兵した日本軍隊がどのような事を相手国に為したのかについても教えられた記憶はありません。むしろ、アメリカの広島・長崎への原爆投下によって30万人にも及ぶ死者が出たと言うわが国の被害の方がクローズアップされて来たように思いますので、今にして思えば、戦争に関する国民への情報提供や教育において日本政府は片手落ちではなかったかと言う想いがしているところであります。そして、その片手落ちによって、今日の日本政府も私達日本国民も、戦争責任をひしひしと感じる当事者意識を持ち合わせておらず、それが中国と朝鮮半島の政府と国民に敏感に感じ取られているのではないかと推察しています。

そう言う意味から小泉首相は中国と朝鮮半島が不快感を露わにする靖国神社参拝は首相就任の年から控えるべきではなかったかと考えますが、小泉首相が参拝する心を「戦争で亡くなられた方々に哀悼の意を表すと共に、二度と戦争をしないことを国民の代表として誓うためだ」と説明している事もまた、うそ偽りではないと思います。そして小泉首相が靖国神社参拝を決断した背景には、首相就任以前から中国・朝鮮半島の抗議が内政干渉であると言う信念を継続して持ち続け、中国・朝鮮半島からの抗議に応じて参拝を中止した中曽根首相や、私人としてしか参拝しなかった歴代の首相への“ある種、反発・無念”な想いを抱いていたからではないかと推察しております。従いまして小泉首相は今年も靖国神社参拝を続けるものと私は思っていますし、参拝を止めれば止めたで、理屈が成り立たず、国内外で批判が噴出する上に、中国・朝鮮半島との関係が一挙に解決するとも思えません。

また、小泉首相が中国や朝鮮半島の意向を無視してまで靖国参拝を続けるもう一つの背景は、小泉首相はアメリカとさえ緊密度を保っていれば日本は安泰だと、アメリカの核の傘の下で守って貰うのが日本の歩むべき道だと、これもまた強い信念に似た想いを抱いているからだと思います。だからこそ、敢えてアメリカのアフガニスタン攻撃、イラク攻撃への協力・支援を決断したのだと思います。最近私はこれも日本が世界平和に貢献する一つの見識かも知れないと思うようになりました。

その意味は、一部の識者や政治家の中に「アジア圏に在る日本はアメリカ一辺倒の外交から、親中国、親朝鮮半島の外交に舵を切るべきだ」と言う意見がありますが、中国は所詮北朝鮮と同じ共産主義国家であり、4月に起きた突発的反日デモ騒ぎや今回の外交日程のドタキャンと言う自由主義国家では考えられない国内の政府批判を押さえ込む為の対応が続くものと思われます、東アジア共同体等と言うEU的な関係が構築される可能性は極めて低い上に、もし日本が親アジアに舵を切るならば、日本はアメリカの核の傘の下から外され、結果的に日本は核保有国への道を歩まねばならなくなり、却ってアジアの緊張が高まり、世界全体も一発触発の核戦争の危機を迎えかねないからであります。技術力も経済力も世界のトップレベルにある日本を核武装に走らせることの危険性を最も恐れているのはアメリカであり、その危険性に全く思い及んでいないのが中国と朝鮮半島だと思います。

中国は、すでに孔子が生きていた時代の“礼節を重んじ信義を大切にする”中国ではありません。また、仏教国でもありません。官民格差が激しい独裁的な共産主義国家となっています。市場経済を導入したために、日本企業の進出には目覚しいものがありますが、政冷経熱(せいれいけいねつ、政治の関係は冷たいが経済は加熱している)と言われる関係も中国が共産主義国家であり続ける限りは、いずれは外交が断裂し経済面でも破局を迎える事になるのはそう遠くない将来ではないかと考えるべきではないでしょうか。

そう致しますと、あからさまなアメリカ一極外交も如何かとは思いますが、隣の国だからと言う理由のみで、一方的とも言える抗議に屈するのも如何と思うのです。中国と朝鮮半島が、靖国神社参拝に反対しているのは、あの戦争を主導したA級戦犯と裁かれた当時の内閣・軍部のリーダー達が靖国神社に合祀されているからであります。私は、日本民族としての古くから受け継がれてきた「主従も敵味方も一如・一体である」と言う考え方がある事を小泉首相は説明すべきだと思います。「だからこそ、原爆投下したアメリカに対して日本全体としては“恨み”を引きずってはいないし、戦争責任をA級戦犯達にのみ押し付けていないと言う考え方に基づいてこれまで参拝を続けて来た」事を冷静に粘り強く説明すべきではないかと思います。「罪を憎んで人を憎まず」とか「人はすべて死ねば仏になる」と言う言葉では日本国民にも違和感があると思われますから、他国からの理解は得られないのではないでしょうか。

さて、冒頭に戻りまして、小泉首相の国会での「どのような追悼の仕方がいいかは他の国が干渉すべきでない」と言う内政干渉を拒否する公式発言は信念に基づくものでありましょうが、隣国を不必要に刺激するものであり、好ましいものでは無かったと私も思っております。私達庶民の日常生活の場においても、価値観の異なる隣家とは得てしてトラブルが生じ易いところがあります。孔子の論語に「君子危うきに近寄らず」とか「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」と言う至言があります。孔子に言わせれば、小泉首相の今回の発言は「愚者は同ぜず、和せず」と言う過ちを犯してしまったのではないかと思います。コミュニケーションは大切でありますが、どうしても話の通じない相手も存在することはどなたにも経験があるところだと思います。小泉首相に限らず私達の日常におきましても、価値観の異なる相手には刺激的な言動は避けるのが賢明な処世術ではなかろうかと思う次第であります。

私の意見にも賛否両論があるものと思いますが、ご意見は掲示板に頂き、多くの方々の意見が寄せられることを期待致します。


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No.494  2005.05.23

正信偈の心を読む―第五講(弥陀章(本願名号)―B)

●まえがき
今日は、五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)の心を読み取りたいと思います。歎異抄に紹介されている親鸞聖人の有名なお言葉に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」がありますが、その背景にあるのが今日味わう『五劫思惟之摂受』であります。

●弥陀章原文
法蔵菩薩因位時(ほうぞうぼさついんにじ)
在世自在王仏所(ざいせいじざいおうぶっしょ)
覩見諸仏浄土因(とけんしょぶつじょうどいん)
国土人天之善悪(こくどにんでんしぜんあく)
建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)
超発希有大弘誓(ちょほつけうだいぐぜい)
五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)
重誓名声聞十方(じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)

●弥陀章和訳
法蔵菩薩因位の時
世自在王仏の所(みもと)に在(ましま)して
諸仏浄土の因
国土人天之(の)善悪を覩見して
無上殊勝の願を建立し
希有の大弘誓を超発せり
五劫に之を思惟し摂受す
重ねて誓たまうらく 名声十方に聞こしめんと

●暁烏敏師の講話からの抜粋
法蔵菩薩は世自在王仏から色々な教えを受けられた。それから『五劫(ごこう)』という長い間これをされたのです。一劫というと、四十里四方の大は盤石を、3年に一度ずつ天人が天下ってその羽衣でその上を撫でる、そしてその磐石が全く削り尽くされる程の長い間を言うのである。五劫と言うのは、それが五つです。大した長い間です。

「五劫に之を思惟し摂受す」の「之」をいうのに先に二句がある。「無上殊勝の願を建立し希有の大弘誓を超発せり」この、願とあり弘誓とあるのは阿弥陀仏の本願である。その本願をさして「之を」とある。無量寿を体解するために四十八願を建立された、まだその前に五劫の御思惟があった。四十八の願には、五劫の御思案が裏付けられてあるのであります。

願いは右左から起こってくるのだが、確かなものが出来たらその願いのために命がけにやる。法蔵菩薩は四十八願を建てられる前に五劫の御思惟があったことを味わわなければならぬ。そうして後に「摂受す」という言葉のあるのは味のある言葉である。摂はおさめる、受は受ける。摂受は、摂め取ることだと先日話してあと、思えば思うほどこの摂受の味は深い気持ちであると思うた。思い返して、思い返して、すべてのものを自分の中に抱きしめる心である。

善導大師が「一々の誓願は衆生のための故なり」とおっしゃった。四十八願の一願一願は私のためだとこうおっしゃるのだ。親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」とおっしゃった。中国の善導大師にどうしてこんなお心が起こったのか、日本の親鸞聖人のお心にどうしてこんな思いが湧いたのか、ということを考えてみるときに、わしはこの摂受というお心がよく味わわれる。撥ね除けるものはない。そこに摂受の心がある。阿弥陀様の心は十方衆生と一体になる心である。捨てる神あれば助ける神ありというが、阿弥陀様の本願に撥ね出されるものは一人もないのである。本願の一つ一つは衆生のためじゃと善導様の喜ばれたのはこれである。四十八願はわし一人のためじゃと親鸞聖人の喜ばれる本が出たのはここである。一切衆生一人も捨てておけぬ、五劫に之を思惟して摂受する。・・・・有難いお心だ。考えて考えて考え抜いて一切衆生一人も洩らさんぞという本願だ。それが十方衆生を摂受するというお言葉になって出てくるのである。

●あとがき
他の宗教の神様は、神様の言うことを守るものは天国に召されるけれども、神様に背く者は地獄に落とすと聞いておりますが、仏教の仏様は罪深い者をこそどこまでも追いかけて救い取られるという慈悲深さをお持ちであります。それが阿弥陀仏の本願であります。

そして、救われるのに難行苦行が必要ならば、難行苦行に耐えられない者は救われないのでありますが、誰にでもた易く称えられるお念仏だけで救われるというのが、阿弥陀仏の本願であるというのが、浄土門の説くところであります。

しかし、「た易くして往く人少ない」、「難中の難」と親鸞聖人も言われておられますが、私たちが持っている色々な計らい心で称えるお念仏では、本当の安心(あんじん)は得られないのだと思います。しかし、そんな私でも、阿弥陀仏の本願により、五劫もすれば必ず救われるのだと・・・・・。母が称えていたお念仏はきっとそう言うお念仏ではなかったかと思いだされます。

私は未だそのような念仏が自然と口に出ませんが、私もいずれは・・・・・と思っている次第であります。


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No.493  2005.05.19

婦人と社会性について

私の母は19年前に他界致しました。1906年(明治39年)生まれですので、存命していたら、今年99歳です。その母が所蔵していた本(仏教書が大半の約300冊)の中から、極最近『新しい日本の女性として』と言う題名の地域団体(垂水婦人有権者連盟、神戸市垂水区にあった昔の任意団体)が出版した小冊子を見付けました。敗戦後4年経過した当時の主婦達(34名が寄稿)が、どのような考え方をしていたかが記されております。その中に、私の母が一文を寄せてあるのを見付けました。

1949年(昭和24年)の出版物ですから、私は未だ生まれて4歳、母が43歳の時のものであります。私が4歳の頃の母がどのような考え方をしていたのか、非常に興味を持って読みました。仏教講演会の『垂水見真会』を主宰し始める前年のことでありますが、当時の一主婦としては、社会の有り方に関心を持ち、提言して行こうとしていた母は、やはり普通の“お母さん”ではなかったことが確認出来ました。昭和12年4月15日、小学校入学したての長女を病気で亡くし、山手女学校の教師として働いていた母は自分の生き方(子供の養育をお手伝いさんに任せて働きに出ていた事)を後悔し、心の救いを仏法に求め、戦争と言う生活苦も経験しながら、仏法への信仰を深めていたのだと思われます。そして、自分が救われた仏法を世間の人々の救いにもなれかしと、昭和25年に垂水見真会を発足させたのでした。

文面上は仏教を感じさせる語句は使用していませんが、仏教的考えが背景にあることは私には容易に分かり、『垂水見真会』を立ち上げる意欲すら感じ取れました。母を現代に蘇らせてあげたいと言う想いと、当時の社会情勢を紹介したい気持から、コラムにした次第であります。

下記が冒頭の小冊子に投稿した文章の総てであります。

婦人と社会性についてー大谷政子

社会性は文明人の持つべき、重要な条件であります。昔の様な自給自足の時代にありましては、家庭の人として円満な人であれば、それでよかったのでありますが、今日の様に我々の生活と社会との、つながりが大きくなり、不離の関係を持つ時代となりましては、我々は個人であると同時に社会人であり、その為すところは常に社会性を持つべきことは、当然のことであります。 この意味に於いて、その人の持つ社会性の多少は、教養の程度を表す尺度とも、言うことが出来ましょう。

我々の衣食住の一切は、社会から供給されない物はなく、教育に文化に社会の恩恵を蒙ることは、限りなく広大なもので、もし一日たりとも社会との交渉が絶たれるならば、途方にくれ生きる道さえ失ってしまいそうです。

それにも係わらず、私達はこの生かされる測り知れない大きな力に対する心は、まことに微々たるもので、心の隅の方に追いやってしまって、どうすれば自分に都合がいいかということを心一杯にひろげている様に想われます。

個人の幸福と社会の幸福は、同時であるという理解は、知識としては充分承知しているのでありますが、そのなすところは自己本位を第一にかざして、大勢のかげにかくれ、自分一人はこうであってもいいと言う、自分勝手な解釈を許して、社会の幸福に背いているのではないでしょうか。

こうした精神の総和が、今日のますます苦しい生活の大きな原因となっていると思います時、私達一人一人がもう一度、新たに足許をながめ、静かに反省すべきではないかと思います。 戦時中も、木綿がなくなると聞けば、 「靴下に糸にキャラコ、一生不自由しない程、買いましたよ」 と、自慢そうにおっしゃった或る奥様のお言葉を聞いて、返答が出来なかったことを、今も思い出します。

無くなると言えば買いだめをし、高くなると言えば急いで買い集めるということが、生活に余裕のある中以上の婦人に多いと言うことは、まことに悲しむべき事実であります。そして、その事が国家の経済上に、大きな影響を与え、それ以下の階級を如何に生活苦に追いやっているかを考えますとき、その罪の深いことを恥じねばなりません。折角買いだめをした物を焼失したり、それを売らなければ 今日の生活が立たなくなっている人々を見ますにつけ、不自然な我欲は許されないものだという、自然の因果の道理がある様に思われます。

「焚くほどは風がもてくる落ち葉かな」という、良寛さまの名句や、「窮すれば通ず」という古人の体験上の名言を、今日こそ身に覚えさせていただく時であります。

是非とも必要な物は、自然に与えられ、物が与えられなければ、不思議な工夫の智慧が授かって、無い中に作り出していく心豊かな生活こそ、今日の世に最も望ましいもので、私達消費者として国家経済に貢献する、唯一の道でありましょう。

私有財産は許されて居りましても、貨幣は自分一個の所有物ではなく、社会に流通してこそはじめて、その価値を生ずるものでありますから、その使途については大いに、責任のあるところであります。

こうして、経済を社会的に考えています時、日常心すべき事は限りなくあります。特に今の世に忘れてはならないことは、出来るだけ他の人の欲望をそそり立てない事であります。人より贅沢な学用品を持たせたり、こんな時代に真っ白なお弁当を持たせて、得意としたり、また汚れてもいないのに、時々衣服の真新しいものを着せたりする事は、社会を害する行為として慎むべき事でありましょう。

社会性は単に、経済上のことに止まりません。衛生上、道徳上心すべき数々の内容を持って居ります。こうした社会性の教育は、幼少の頃から次第に母の生活態度によって、育まれる事がもっとも大きいのでありますから、私達婦人が社会の意識を強くし、子女をかく教育してこそ、次代のよりよき社会が期待されるでありましょう。


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No.492  2005.05.16

正信偈の心を読む―第四講(弥陀章(本願名号)―A)

●まえがき
正信偈原文は、もちろん親鸞聖人が書かれたものです。本当は活字化したものより、聖人ご自筆の原文を読んで、親鸞聖人の息遣いを感じながら読み進むことで、親鸞聖人の心をこの身に受け取りたいものですがそれは叶いませんので、せめて、原文の一字一字を聖人が心を込めて作成されたものである事を常に頭において読んでいきたいと思います。そして、更に、この正信偈を書き表された時代は1224年頃であり、源頼朝の死(1199年)後、北条氏が執権政治を行ない、承久の乱(京都の朝廷と幕府方の戦い)などが起こって日本国中が騒然としていた時代であることも頭において読みたいと思います。

親鸞聖人は法然上人をお師匠さんとして、念仏で安心(あんじん)を得られたのでありますが、法然上人のご著書の題名『選択本願念仏集』にもありますが、浄土門は『本願』と言うことが信仰の源にあると思います。従いまして、親鸞聖人もこの正信偈で、最初に本願の云われを説かれているのだと思われます。

本願は、迷いの世界に在って、苦悩する私達衆生を必ず救い取ると言う阿弥陀仏の意志であり、根本的願いであると考えられます。そして、この本願があるからこそ、お釈迦様がこの世に出られ、この正信偈で紹介される七高僧がインド、中国、日本に生まれ出られたと親鸞聖人は考えられました、と言うよりは、確信を持たれたのであります。そして、本願を確信致しますと同時に、それは称名念仏となるのが極めて自然の理なんだとお考えになられたのだと思います。

そして、この本願の云われを説くために、阿弥陀仏の因位である法蔵菩薩を最初に登場させられたのであります。

●弥陀章原文
法蔵菩薩因位時(ほうぞうぼさついんにじ)
在世自在王仏所(ざいせいじざいおうぶっしょ)
覩見諸仏浄土因(とけんしょぶつじょうどいん)
国土人天之善悪(こくどにんでんしぜんあく)
建立無上殊勝願(こんりゅうむじょうしゅしょうがん)
超発希有大弘誓(ちょほつけうだいぐぜい)
五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)
重誓名声聞十方(じゅうせいみょうしょうもんじっぽう)

●弥陀章和訳
法蔵菩薩因位の時
世自在王仏の所(みもと)に在(ましま)して
諸仏浄土の因
国土人天之(の)善悪を覩見して
無上殊勝の願を建立し
希有の大弘誓を超発せり
五劫に之を思惟し摂受す
重ねて誓たまうらく 名声十方に聞こしめんと

●暁烏敏師の講話からの抜粋
無上殊勝の願とは、一切衆生を仏にする、智者も愚者も、男子も女人も、すべてを仏にせずば私は仏にならぬ、という願である。だから、大弘誓という。世の中のすべてが自覚者になった生活が出来るようにという願である。この世に一人でも自覚せぬものがある時は、阿弥陀仏様の成仏はないのである。いつも法蔵菩薩である。世の中が明るくなった時は、我々の上に阿弥陀仏が成仏せられたのである。

親鸞聖人が法蔵菩薩のお心をお味わいになりました時に、浄土の因は何か、とお考えになった。立派な学者を見る、或いは徳者を見る、その時、その人の成功した結果を見るよりも、どうしたらそういう人になるか、と原因を見なければならぬ。在る国が衰えた。我々はその国を見た時、どうしたら衰えたのかとかんがえてみる。在る国が栄えておる。それを見た時、どうしたらその国は栄えたのかと考えて見る、と言うことが大切である。私は先年外国に行った時、その国の中を見ると同時に、どうしてこんなになったのか、ということを考えてきた。仏の国は、平和の国、悩みのない国、明るい国だ。どうしたら仏の国はこんなに明るいのだろうか、楽しいのだろうか。

法蔵菩薩はその因を世自在王仏によく訊かれたのである。ところが、その原因は心にあることを教えて貰った。あなたがあなたのお浄土を建てるならば、あなたの心をはっきり見よ。それから国土人天の善悪を見よと言われた。この国土は浄土のことではない。国というものがあり、そこには生きとし生けるものが住んでおる、従ってそこには善悪がある。その悪いところを見、善いところを見、善悪をすっかり見よとおっしゃった。先ず初めに観察するのです。どこが悪いかどこが善いか、悪ければ悪い因を、善ければ善い因を検べる。観察、研究せよ、即ち覩(み)よと仰(おっしゃ)ったのである。

●あとがき
法蔵菩薩と言う修行者が実在したはずはありません。親鸞聖人も、恐らくは、歴史上の実在した方だとは認識されていなかったと思います。 しかし、親鸞聖人は、20年間に及ぶ比叡山での修行を経ても心安らかな信心が得られず、京都の六角堂に100日の参籠を決断され、その95日目に法然上人を訪ねよという夢のお告げを 受けられ、そして法然上人に遇われて、安心決定(あんじんけつじょう、禅門で云うお悟り)を得られましたが、法然上人に出遇われた事も含めまして、総ては、仏様の本願であり、大無量寿経にある法蔵菩薩の願いによるものだと確信されたのだと思います。

今の私にはその親鸞聖人と同じ確信を得るに至っておりませんが、私が敬愛する井上善右衛門先生、白井成允先生は、親鸞聖人と同じ確信を得られていましたので、私も時節が来れば、そのような確信が得られるのだろうと思っていますし、それを心から願っています。しかし無理やりに信じられぬことを信じる訳には参りません。『信』というのは、理性とか知性の延長線上にあるものではない全く次元の異なるもので、確信に満ちたものであると私は思います。そしてそれは勿論、ある特定の人や、その人の仰せを狂信的に信じると言う信仰姿勢とは大きく異なるものだと思っております。


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No.491  2005.05.12

ルールを守る意味について

私は、ルールを守りたい人間だと自分では思っています。ルールを守らない人に出遭いますと不愉快になります。しかし、ルール・法律を守っていなくとも、他人に著しい迷惑や危険が及びそうにないケースにつきましては、問題視致しません。それは、ルール・法律は社会を形成するお互いが快く、安全にそして平等・公平に過ごせるためにあるものだと思っているからであります。

そんな私がこの日曜日に近隣のおばさんからルール破りを注意された事に付きまして、反省も込めながら、ルールとは何の為にあるのかと言うことを考察し、コラム読者諸氏のご見解をお聞きしたく思い、恥じを忍んで公開するものであります。

私の家から歩いて1分位のとろに、公園があります。全長にして約700メートル、幅は50〜100メートルの結構大きな公園です。その公園に並ぶ立て看板に表示されているのは、「犬の糞放置禁止」「ゴルフ禁止」「バーベキュー禁止」「他人に対して危険なボール遊びは禁止」「火の使用は控えて下さい」です。

私は、日曜日、久し振りに慰問に来てくれた友人と、夕方、薄暗くなった頃を見計らい、上述の公園の一番外れで、殆ど飛ばない軟らかい(最大で15メートルの飛距離の擬似ボール)ボールを使って、遊び始めたところ、犬の散歩に来ていた近隣のおばさんが、「ここはゴルフ禁止ですよ!」と注意をして来ました。

確かに直ぐ側に『ゴルフ禁止』の立て札がありますし、注意されてまで続ける訳にもいかず、楽しさも一瞬に失せましたので止めは致しましたが、ルールを破って済まないと言うよりも、周りに人も居ませんでしたし、本物のゴルフボールは危険だからこその『ゴルフ禁止』と言う意識もあり、非常に不愉快な気分になりました。

ルールは守らなければなりません。しかし、他人に迷惑の掛からない駐車違反、殆ど車の往来が無い交差点での信号無視、周りの車の流れに応じた速度違反等などを咎める行為は、人間関係を悪くしますし、場合によっては、殺人事件にもエスカレートすることもあり、私は賛成出来ません。今週の日曜日も晴れた絶好の行楽日和でありましたから、近所の公園は、バーベキューを楽しんでいるグループ、キャッチボールを楽しんでいる人々で大賑わいでした。しかも、公園沿いの道路は駐車違反の車列が並んでいましたが、ささやかなリクリエーションを楽しんでいる人々に注意をする人が居たとしたら、ルールを大切にする立派な人と言うよりは、非社会的な人物と言わねばならないと想います。

規則・ルールは、人間関係が円滑に行く為にあるべきものだと言っては言い過ぎかも知れませんが、規則・ルールを守ることは目的ではなく、気持良い社会を実現する為の手段であることも共有化したいものだと思う次第です。

ただ、今回の出来事を唯識の世界から眺めますと、私の我慢(われ正しい、賢いと言う想い)から来る随煩悩『忿(いかり)』が相手の煩悩と衝突したものだなぁーと、自分の煩悩を見せ付けられるものともなりました。煩悩同士の衝突は、相手を傷付け、自分を傷付けるものだということが、良く分る結果ともなりました。

勿論、今後は公園でゴルフクラブを振ることを含めて、自粛するつもりでありますが・・・・・。


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