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No.450  2004.12.20

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第210条

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―信心の人を見れば尊し

●まえがき
信心(しんじん)を獲得(ぎゃくとく、と読みます)すると言う事はどう言う事でしようか。単に仏様や阿弥陀様を信ずる事では無いと私は思います。信心に付きましては色々な表現の仕方があると思いますが、私はこの世に生まれて来た意味を知り、しっかりと頷(うなづ)ける(膝を叩いて納得出来る)ことではないかと思います。頷けた証(あか)しは、利他(りた、周りの人々の為に働く)の行為に顕れると思いますし、報恩感謝の気持ちの顕れが、浄土真宗では南無阿弥陀仏ではないかと思います。

親鸞聖人は、「法然上人にお会い出来なかったとしたら、今生もまた無駄な一生になるところだった」と述懐されていますが、このお言葉も、生まれて来た甲斐があったと言い換えることが出来ると思います。それは、親鸞聖人が法然上人を通して、真実に出遇われたと言う事に外ならないと思います。そして、その報恩感謝の気持が、南無阿弥陀仏の念仏に顕れたのだと思います。その報恩感謝の気持は、法然上人へのものであるとともに、大いなる宇宙の御働き、即ち仏様へのものであったと思います。

真実と言う事を言葉に説明しようと致しますと味気ないことになりますが、「私はあらゆるものに生かされて生きている存在である事」「私も地球も何もかも変化し続けているものである事」「私も植物も犬も猫も木石も地球も、同じ一つの命である事」等など・・・・であろうと思いますが、幾ら言葉を並べましても、真実とは何かを伝え切ることは出来ないように思われます。表現すればする程に真実は遠のいて行くような気すら致します。

しかし、信心を獲得された方は、見るからに尊いのだと今日の聞書で言われております。真実は、必ずや顕れると言うことでありましょう。そして、それはその人が尊いのではなく、その人に顕れている真実そのもの(仏智)が尊いのだとも念を押されています。真実が人に顕れると言う事は素晴らしいことでありますが、また一方、偽物の信心は他人には分かると言う事でありますから,厳しいことでもあります。よくよく自誡しなければなりません。

井上善右衛門先生は讃解文の中で、奥ゆかしくも実名を挙げられてはおられませんが、白井成允先生に真実を拝まれたものと推察出来ますが、私は、その井上先生を通して真実を感じております。ご生前中はそれほど強く感じ得ませんでしたが、仏法の道を歩めば歩む程に、先生の真実が身に染み入る感じが致します。

私は井上善右衛門先生以外にも、西川玄苔老師、青山俊董尼と言う真実信心の先生にもお出遇いする幸運に恵まれております。何としても、今生を無駄には出来ないと言い聞かせている次第であります。

●聞書本文
信心治定の人は誰によらず先ず見ればすなはちたふとくなり候。是れ其の人のたふときに非ず。仏智を得らるるが故なれば、弥陀仏智の有難き程を存ずべき事なり。

●現代意訳
真実信心を其の身に受けた人は、誰でも見るからに尊く感じられるものである。これはその人が尊いと言うわけではない。仏の智慧を得たが故に尊く感じるわけであるから、仏智不思議を感得しなければならない。

●井上善右衛門先生の讃解
まず、「信心治定の人は」とありますが、信心とは如来の悲心の全徳を領受する身となることであり、仏心がこの煩悩具足の汚泥の水にさながら来り宿って下さることであります。おうけなくも如来の真実が、われならぬわれになって下さる事実が信に外なりません。

信の原語プラサーダが中国に伝わったとき、これを的確に表す漢語がありません。中国に無かった宗教体験をそのまま表す言葉が無いのは当然です。それで結局、漢字の"信"を以って当てたわけです。信とは本来「まこと」の義であり、それが同時に「たがわず」の意をもちます。たがわずとは一致を意味します。一致せぬ故に惑いと疑いを生じるのですから、その疑いをさしはさむ余地なき状態として信の字を当てたのは適当でしょう。

ですから信はまず真実との一致を本来の義とするものと言わねばなりません。世上一般に無条件に鵜呑みにすることとか、主観的に盲従することを信心と思いなしているのは大きな誤解といわねばなりません。信心とは人間の相対的な"はからい"が破られ、絶対的な真実、南無阿弥陀仏に値遇して、煩悩具足の身が勿体無くもその真実に摂め取られる事実としての境地に外なりません。それを今「信心治定の人」と申されています。

しかし、信は私のものであって私のものではありません。足利浄円先生がよく「私は空っぽです」と申されました。『歎異抄』に「ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること常におもい出しまいらすべし」と。まことにこの濁水の胸に来り宿り輝いて下さる本願の御心をただほれぼれと仰ぎまいらすばかりです。

だからわが心に保持したり握ったりするものは何もありません。今まで頼りにしていたわが心の計らいは散じますから空っぽです。その空っぽの腹中を無量寿無量光の風が絶え間無く吹き通って下さる。「わが肚裏(とり、腹のなか)は五月の鯉の吹ながし」と言った方がありますが、私には有難い言葉です。

勿論、人生の業風も吹き込みます。しかしその業風が光寿無量の清風に融かされ流されて、吹き通しの鯉の尻尾から抜け出てゆきます。業風は避けることは出来ませんが、出口を閉じるのは愚かな事です。白井成允先生の詩の一節に、

業風吹いて止まざれども ただ聞く弥陀招喚の声
声は西方より来りて 身をめぐり髄にとほる
慶しいかな
身は娑婆にありつつも 既に浄土の光耀を蒙る
と詠じられておられるのも、こうした奇しきよろこびの御心でしょう。

この汚濁の胸を洗除して下さるのは、仏徳の独り働きです。それが信楽の賜物であります。これを頂戴する人の心情は、ただ慙愧と歓喜の二語に尽きます。如来の徳は真理の力です。その真実の仏徳が執我の垢を流して輝くところに、言葉では言い尽くせない奇しき清清しさが人格に滲み光る。それを私は恩師(白井成允先生)の上に親しく拝みました。本条に「先ず見れば、すなはちたふとくなり候」とはこの消息を語る言葉でありましょう。

●あとがき
世間的に立派な人と尊い人とは、全く次元を異に致します。世間的に立派な人は、立派で無くなる時が来ることも少なからずあります。しかし、尊い人は、永遠に尊い人だと思います。あらゆる面で裏切られることが無いと思います。

母が主宰していた仏教講演会である垂水見真会に年2回はご出講頂いていた井上善右衛門先生は、ご講演の御礼金に見合う程の額を年末にご寄付下さいました。ご講演料はご講演料としてお受け取りになり、後にご寄付としてお返しになる、深いお志に母と毎年末に深い感銘を受けた事を思い出します。

また、後に臨済宗妙心寺派官長になられた山田無文老師は、母が垂水見真会の講演会館を建設するために、1円貯金を会員の皆様にお願いしていましたが、それを知られて、講演に来られる度に、ご自分で貯金された1円玉をご持参下さいました。これにも母は、いたく感銘を受けていたことを思い出します。

尊いことが極自然に出来る、そんな尊い多くの人に出遇った私は、そんな人になりたいものです。

本当の信は凝り固まることではないと思います。念仏に凝り固まる、坐禅に凝り固まる、ある教祖や師匠に凝り固まるのは本当の信では無いと思います。もっと広やかな、そして明るい、柔軟な世界が、信の世界だと思います。


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No.449  2004.12.16

北朝鮮の不実について

北朝鮮から横田めぐみさんのものとして持ち帰った遺骨は、DNA鑑定の結果、別人の骨、しかも別人二人のものだと言う事であります。横田めぐみさんのご主人と自称するキム・チョルジュ氏から直接受け取った遺骨だけに、北朝鮮の不実に拉致被害者家族会はもとより日本国民は怒りを新たにしています。

横田めぐみさんのご両親の今回の結果が出るまでのご心労は勿論私達の想像をはるかに超えるものでありましょうが、それに加えましての27年間にも及ぶ長期間のご心労は察するに余りあります。私達夫婦も、もしこれが自分の娘だったとしたらと、何時も娘に置換えて、ご両親のお心を思い遣っては心を痛めておりますが、多くの国民も同じ想いであろうと思います。

私達夫婦も、これまでの人生で、とんでもない人にも出遭った事もございます。同じ人間とは思えないような理不尽・無法な行為にも遭遇し、警察力の無力さに歯痒い想いをした事がございます。法治国家の日本ですら、このような状況であり、まして国交もなく、国際法も及ばない北朝鮮と言う国家の犯罪に関しての当事者家族会の遣り切れないお気持ちは私達の到底思い及ぶところではないと思います。

北朝鮮の今回の不実は決して許せる事ではありません。しかも、今回の日本のDNA鑑定結果を捏造と言う声明すら発表しております。所謂どうしようもない国家の体質であります。

ただ私は、家族会の方々のお気持ちを逆撫ですることにならないことを祈りながらも、仏教国日本はお釈迦様或いは聖徳太子の願いを受けまして、一方的に相手国を非難する国家であってはならないと思います。北朝鮮だけが不実か?我が日本国は過去は不実ではなかったか?現在も不実な事をしていないか?未来永劫にわたって不実な事をしないと断言出来るかと、他国の不実を責める一方で、客観的に冷静に我が身、我が国のあり方を振り返る事も怠ってはならないと思います。

1941 年 12 月 8 日午前 3 時 20 分(東京時間)、日本はアメリカのハワイ真珠湾を予告無く奇襲し、多くの人命を奪っています。戦争とは言いながら、日本軍人は中国で或いは韓国で、規模に関する史実については議論があるにしましても、他国の一般市民を虐殺し、或いは従軍慰安婦問題となるような無法で野蛮な行為を行って来たのも事実だと聞いております。

アメリカに致しましても、昭和20年8月、既に抵抗力を全く失った日本に対して、広島・長崎の一般市民30万人余を虐殺しております。アメリカだけではありません。ロシアも中国もドイツも、その他歴史を遡りますとどの国も、北朝鮮の拉致に優るとも劣らない卑劣・無法・残虐な行為を行って来ています。その反省を持ち合わせる事なく、北朝鮮の現在の不実のみを追及する姿勢だけでは、拉致問題は解決し得ないと思われます。

国家間であれ、個人的関係であれ、誠意だけで物事が解決するものではない事も確かであり、外交上の駆け引きも重要でありますでしょう。しかしそれでも交渉にあたっての心の奥底に、過去と現在の現実を客観的に注視し、自己を顧みる柔軟心(にゅうなんしん)無くしては、相手の譲歩を引き出せないことも確かだと思います。日本国民の殆どが、過去に他国に与えた自国の非道・横暴・残虐さを知らされてはいませんし、また忘れてしまってはいないかと・・・・北朝鮮の不実さに驚きつつも案じている次第であります。

不実な相手に対して、その不実さを責めても逆効果になることは容易に想像出来る事ではないでしょうか。私は、日本が単独で行う経済制裁は、北朝鮮をいよいよ無法国家に追いやり、拉致問題の解決が頓挫するだけではなく、日本にとって決して良い結果にはならないのではないかと危惧しております。やはり、アメリカ、中国、ロシアの援護射撃を上手に引き出す外交努力を必要としているのではないかと思います。


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No.448  2004.12.13

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第206条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―冥加にかなうは弥陀をたのむ事

●まえがき
今日の聞書の表題にあります"冥加(みょうが)"の"冥"は"くらい"と訓読みしますと、"目に見えない"と言う意味であり、"加"は加護の加でありまして、冥加は"目に見えぬ神仏の加護" と言うことで、冥助(めいじょ)とも言い換えられます。

仏法を信仰する者には、私達には分からないけれども、仏様のお護りがあると言われ、信じられていますが、蓮如上人の時代にも、"冥加"と言う言葉が良く使われていたのだと思います。本文中の、兼誉・兼縁とは、蓮如上人のお子さんということですが、ある時、冥加、冥加と言うことを良く聞くけれども、一体、冥加とはどういうことかと蓮如上人に尋ねたと言うのが本条のようであります。

私達凡夫は、神仏のお助け、お護りと言いますと、直ぐに、お金が儲かるとか、病気にならないとか、何か名誉なことが起るとかを思い浮かべてしまいます。多分、兼誉・兼縁という蓮如上人のお子さんも、上人が病気で伏せっておられるのは冥加を受けてはいないからではないかと言う疑問を持ちながら質問してみたのだと思います。

私達に取りましても、これは重要な問題ではないでしょうか?私達が信仰する気持の何処かに仏様のご加護を期待する心はないでしょうか?

●聞書本文
前々住上人御病中に、兼誉兼縁御前に伺候して、あるとき尋ね申され候。「冥加といふ事は何としたる事にて候ふ」と申せば、仰せられ候。「冥加に叶ふというは弥陀を頼む事なる」由仰せられ候。

●現代意訳
蓮如上人がご病気で伏せっておられた時、兼誉、兼縁と言うお子さんがお世話されていたのですが、ある時、上人に「冥加と言うことを言うけれども、これはどう言う事ですか」と尋ねましたところ、「冥加をこの身に受けるというのは、阿弥陀仏に一切をお任せすると言う事だ」と言う意味のことをお答えになられたそうです。

●井上善右衛門先生の讃解
冥加という言葉は日本人には、小さい時から聞きなれた言葉です。しかしその真の意味に気付き、それが生活に融けている人は、現代では案外少ないのではありませんか。有限な人間の眼に見えることだけを相手にして生きる生き方、それで人間が本当の人間になってゆくことが出来るでしょうか。この頃では完全犯罪とか言って、誰にも気付かれず、証拠を残さないように悪事を為すことを手柄のように考える人があると聞きますし、事実人間の利巧さが、何事においてもそうした方向に向っているように感じるのです。

冥加の"冥"とは、人間からは見えないという意で、冥(くらし)という字が用いられています。 冥加の"加"とは、加護で、恵みを蒙っているという意味です。人間は大きな宇宙天地の中に生を受け、人間の気付かないような恵みに支えられている存在であるいう情感が、この冥加という言葉に表されていますが、それは決して古人の幻想ではありません。否、そこにこそ人間存在が自己の真相に目覚めてゆく道があるというべきです。人間が自己の今ある真の位置に気付かずして、どうしてまことの人間となる道を辿ることができましょうか。

現代人は、身体的には色々自然の恵みや他人のお陰を蒙って生きていることは、説明すれば理解します。しかしこれは知的に思考出来るような分析判断であって、真の冥加の自覚とは言い難いものです。英国のラッセルが「人間は大地の一部である。だから大地の恵みと何等かの面で接触しているのでなければ、人間は生きてゆくことが出来ない」といった言葉は、自然保護の立場からよく宣伝されますが、これはむしろ合理的思考から出る理解というべきでしょう。それで事足るでありましょうか。

冥加とは、ただ天地自然の恩恵を思う心に止まるものではなく、さらに深く如来の真実に私の生命が摂取され、正定不退の身の上たらしめられているという目覚めに至って、始めてその真実性を発揮するものとなります。

冥加の心が単に慎ましい生活に尽きるのではなく、人間がまことの人間となる生命にまで高められなければなりません。弥陀の本願はその道を誓うていて下さることを、本条は確かと示しておられるのであります。

●あとがき
私も含めまして、宗教を求める殆どの人は幸せを求め、或いは苦しみを克服したいと言う願いを抱いて信仰の門を叩くのではないでしょうか。苦しみ、悩みを感じない人は、宗教を求めないと言い切ってもよいと思います。

しかし、信仰の出発点がそうでありますから、どうか致しますと、信仰の篤い人が交通事故に遭ったり、大病したりすると、信仰心が足らないからではないかと思う人も多いのではないでしょうか。更には、交通事故に遭わない、病気が治る、商売が繁盛することを売り物にしている宗教団体すら存在しているのが現状であります。

お釈迦様のお説きになられた仏教はこれらの立場とは全く異なりますので、もしも苦に遭遇したくない為に仏教の門を叩いている方がおられたら、それは甚だ見当違いであると申さねばなりません。しかし、私達凡夫は、仏法を聞き、頭ではそれが見当違いであるとは理解出来ましても、苦難・苦労・不幸に遇いたくないと言う気持ちを如何ともし難い事もまた現実であります。

そう言う私達に蓮如上人は、はっきりと、冥加に叶う、即ち仏様のお護りに預かるというのは、天地・宇宙のお働き(浄土真宗では阿弥陀仏)に総てをただ委ねる身とならせて頂くこと自体を冥加というのであるとおっしゃられているのであります。

甚だ分かり難いところでありますが、宇宙の真実に目覚めれば、総てが恵みの中に生かされていることに感謝しかなくなり、その感謝の気持ちは、周りの人々のため、社会のため、世界のため、人類の為に何か役に立ちたいと言う行動に現れ、自らの苦が苦で無くなると言う日常生活になるのだと思われます。それこそが冥加であると言うのが、本条であろうと思います。


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No.447  2004.12.09

得るもの、失うもの

昨日の8時35分からのNHK番組『生活ほっとモーニング』に女優の小山明子さんが出演され、ご主人の映画監督でもあり、テレビ番組のコメンテイターとしても活躍されていた大島渚氏との闘病・介護生活を語られていました。

現在、介護に取り組まれている世帯がどの位あるかは存じませんが、介護を必要とされている方の苦しみも然ることながら、介護しなければならない配偶者或いはご家族の方々の苦労は想像を絶するものがあります。当番組の企画はその方々への励まし、或いは苦しみから脱出するヒントを提供したいと言うものであったと思われます。

大島渚氏は8年前に脳内出血で倒れられて右半身の麻痺が治らないまま現在に至っておられますが、初めて倒れられた9年半前には、小山さん自身、うつ病にもかかられ自死まで考えられたそうであります。しかし、大島渚氏の強い意志力により、懸命のリハビリで言語障害と右下半身の麻痺を克服されて、カンヌ映画祭に入賞されると言う1本の映画を完成されたと言うことであります。その夫、大島渚氏の回復、そして介護の病院の図書館で手にされたドイツの哲学者の著書から『執着を手放す』と言う教示も得られまして、小山明子さんご自身も心の病を克服され、2度目に倒れられた時には、すべてを現実のまま受け容れられ、大女優と有名映画監督と言う"重し"は何時の間にか無くなっており、明るくご主人の介護にいそしんでおられると言うことでした。

女優であった時には見えなかった様々なことが見えるようになられたと言うことも印象的なお言葉でした。今は、ご近所の方々とのお付き合い、海岸の掃除などのボランティア活動、テニス、ダンスなどの趣味を介護の合間に楽しまれ、その小山さんの日常の楽しみ振りが、介護を受ける側の大島渚氏の安らぎでもあるらしいと言うお言葉は、介護に実際に取り組まれて来られた小山さんでしか言い得ないものだろうと思った次第です。

小山さんは、経済も、健康も、生甲斐も失ったけれども、得たものも大きいと言われていましたが、得たものは心安らかな自由ではないかと想像致します。最近、44回目の結婚記念日を迎えられ、記念に回転寿司屋に初めて行かれ、その後、ベッドに横たわる大島渚監督に、戯れのインタビューをされたそうです。「監督、これまでの44年間は如何でしたか?」と。その時の大島渚監督の答えが、「得した」と言うことでした。妻に、妻と結婚してこの44年は、得だったと言える大島さんも、そう言われた小山さんも、苦しみを通して、初めてこの人生の幸せを噛みしめられているのだなと思いました。そして、私も、そのような人生の最終章を迎えたいと、切に思った次第です。

そして、小山さんの話から、改めて、人生は得たものがあれば、必ず同時に何かを失っているし、何かを失った時には、必ず同時に得ているものがあるのだな、と思ったことでした。

さて、昨日から新しく、『もう一人の私との出遭いー唯識の世界』(こちら)を開設致しました。仏教の深層心理学とも言われる『唯識(ゆいしき)』は、物質文明と資本主義に行き詰まりつつある私達人類を救う智恵でありますと共に、私達個人個人の人生を生き生きとさせ、そして豊かにしてくれるお釈迦様からのメッセージだと思います。是非コラムと共にご覧頂き、ご感想も頂きたいと思います。


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No.446  2004.12.06

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第198条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―出ずる息は入るをまたず

●まえがき
この蓮如上人御一代記聞書の勉強は、丁度1年前、奇しくもお釈迦様の成道会(じょうどうえ、お悟りを開かれた日)である12月8日に始めました。後18条残っておりますので、当初の予定通り、来年の4月11日に最終回を迎えそうです。人生何が起るか分かりませんし、その上、私の境遇が境遇だけに予定は飽くまでも予定ではありますが、生命ある限りそしてパソコンがある限りは、このコラムを発信し続けたいと考えております。

さて、今日の聞書はそう言う意味でも良く理解出来る内容であります。そう言う意味と申しますのは、会社の危機、個人生活の危機の最中に仏教書の解説どころではなかろうと言う考え方もあると思いますが、だからこそ私自身が仏教の教えを深める時だと言い聞かせていますから、今日の聞書に共感を覚えるのだと思います。

今日の聞書はこの人生何が重要かと言う事がテーマでもあります。私は日頃車の運転をしていてよく経験する事ですが、走っている前方の信号が赤信号に変わりそうになりますと、無意識のうちに車のスピードを上げてしまいます。別に1分1秒を争う用事が待っている訳でもないのに制限速度を破ってまでスピードを上げてしまう事がままあります。「何を急いでいるのか?」と、思わず苦笑してしまいますが、その愚行を繰り返しているのが、我が身・我が心の実態であります。

仏教の教えでは、私達が最も急がなければならないことは、折角の人間に生まれた意味を知る事、この世の真実を知ること、即ち、浄土門では"信心を獲得(ぎゃくとく)する"、禅門の言うところでは"見性を得る""悟りを開く"と言うことであります。また、一つの具体的な心の顕れとしては、一瞬先に訪れてもおかしくない"死"に対する覚悟が定まることだと思います。

この聞書で出て来る仏法者の一人は、まさにその急ぐべき問題の解答を求めるべく、普通の人から見れば奇異な行動を取ったということでありますが、それに対する実如上人(蓮如上人の五男、第9代本願寺留守職)のお答えが示されています。

この条の井上先生の讃解文は、この人生を "時と一瞬"との関係で実に丁寧に解き明かして下さっています。抜粋する訳に参らない気持ちから、全文を掲載させて頂きました。長文となりましたが、私達が平生漠然と捉えている"時"と言うものの錯誤を見直し、仏教の真髄に触れる機縁にしたいと思います。

●聞書本文
善従申され候ふとて前住上人仰せられ候。「或人善従の宿所へ行き候処に、靴をも脱ぎ候はぬに仏法のこと申しかけれられ候」又或人申され候ふは「靴をさへぬがれ候はぬに急ぎ斯様には何とて仰せ候ぞ」と人申しければ善従申され候ふは「出づる息は入るをまたぬ浮世なり、もし靴をぬがれぬ間に死去候はば如何候ふべき」と申され候。ただ仏法の事をばさし急ぎ申すべきの由仰せられ候。

●現代意訳
善従坊が言われたということで、実如上人が次のようなことをおっしゃいました。「或る人が善従坊のところへ行ったところが、靴を脱ぐ暇もなく、善従坊に仏法の質問をされた」と。それに引き続き、また或る人が「靴さえ脱がないでそんなに急いでまでして何を質問したのか」と聞いたところ、善従坊がおっしゃった事は、「出る息は入る息を待たずと言う容赦の無いのがこの人生である、もし靴を脱いでいるうちに死んでしまったら、どう言う事になる?」と言うことであります。と言う事は即ち、仏法の事は急がなければならないのだと言う事をおっしゃりたかったのです。

●井上善右衛門先生の讃解
小さな人間世界に生きている私どもは、この世界の常識や観念に慣れて、それを当然のことと思い込んでいる錯誤が随分と沢山あるものです。その一つが"時"に関する思いでありましょう。私どもは時というものがそれ自体としてあって、過去現在未来と連続して流れているように感じます。今日の時が延びて明日になる、時が現在を未来へと運ぶ。そうした思いで生きていますと、今日の仕事でも明日があるからと先へ延ばします。そうすると思わぬことが生じて、とうとうそのことが出来なくなってしまうという経験を私どもは持っているものです。時に対する思い誤りについては既に第102条に「仏法には明日と申す事あるまじく候」と戒められ。第103条に「今日の日はあるまじきと思え」と語られていることについて、先に述べたところです。

われわれは現在にも長さがあるように思うのですが、一刹那の後は過去であり、一瞬の先は未来であるということになれば、現在に長さがある訳がありません。明日どころか、今日さえもない。ただあるのは現在の只今のみです。現在は現在の因縁で成立し、未来は未来の因縁で成立する。花は花で散り、実は実で結ぶ。連続した時間があるのではなく、生滅する刹那刹那の事物があるのみです。

その事物の変化する相状の上に仮に時という独立したものがあると人間が考える。これを『唯識』の教学では分位仮立といいます。道元禅師の『正法眼蔵』には「有時」という一篇があり、存在と時との関係に高邁深遠な洞察が示されていますが、われわれの理解の容易に達し得るところではありません。しかしとにかく連続して流れる時があるように思うているのは、架空の観念であることだけは確かです。

仏法の教えは目覚めの教えです。目覚めを求める心は自己の不実に気づくことに始まります。不実なるものは闇と不安の中にあり、迷いと誤謬(ごびゅう)、煩悩と苦悩とがつきものです。その不実を離れたい、解決したいと願わずにおられないのが、聞法という行為に顕れます。それは既にその不実なるものが真実なるものに喚びかけられている証拠です。聞法者の心はおのずと真実に促され催されているのです。悠長な時間意識が消えて、無常転変の人生の真実相が強く念頭に迫って来ます。そうした心情が時として通途(つうず、ありふれた、並みのと言う意味)の常識に生きる人には奇異に感じられるのです。

いま或る人が、善従の宿所へ訪ねて行ったところ、「履き物をも脱ぎ候はぬに仏法のこと申しかけられ候」とあり、「又或る人」とは、その場に居合わせた他の人が、それを見て驚いて、「履きものさえ脱がれ候はぬに、急ぎ斯様には何とて仰せ候ぞ」と問うたのも無理からぬことであったのでしょう。それに対して善従が「出ずる息は入るをまたぬ浮世なり。もし履き物を脱がれぬ間に死去候はば、如何に候うべき」と答えたのは、まことに鋭く人間意識の盲点を衝いた言葉といえましょう。これを過剰な無常の意識と世人はいうかも知れませんが、そうではなく、時の目覚めと、無常の実感から出た自然の言葉というべきです。この精紳が現在をしてまことの現在たらしめるものではありませんか。

一期一会という言葉は、日本に生を受けた私どもに親しい言葉でありますが、それは一生に一度の出会いということであり、現在を真に生きた現在たらしめる言葉です。それは究極の真実を凝視する人には必ずやそうならざるをえない意味があります。風景画家として人の知る東山魁夷氏は幼な友達ですが、かつてしみじみと次のように語ったことがあります。「無常なこの自分と、無常な大自然、この無常なるものと無常なるものとの奇しき出会の一時、二度と繰り返すことの無い触れ合いの瞬間、それより外に真の美の顕現する場所はない。永遠は現在の今の中に姿を現わすと気付かされた」と語った印象が忘れられません。彼もまた一期一会に生きる美の追求者であります。

無常を疎んじ真の時をおろそかにして仏法を求めても、それは空しいことであるといわねばなりません。「ただ仏法の事をばさし急ぎ申すべきの由仰せられ候」とはその意を語られている言葉と思います。念仏の努力を継続して臨終の往生を期する念仏者は、まことに殊勝な人でありましょうけれども、どこかに人間的な観念にわざわいされた隙間が残ってはいないでしょうか。『歎異抄』第14章に「業報かぎりあることなれば、いかなる不思議の事にもあい、また病悩苦痛せしめて正念に住せずして終らんに念仏申すこと難し、その間の罪をばいかがして滅すべきや」と申されています。

努力継続の時が臨終まで続くという保証はない。人生はもっと切迫したものです。人間の行く手は誰にも分かりません。往生決定(おうじょうけつじょう)を未来に託すへきではありません。弥陀の本願に遇いまつり、本願に摂取せられまいらするのは、現在只今を措(お)いては無いのです。現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)、平生業成(へいせいごうじょう)の道がなければわれわれはどうして落ち着き得ることが出来ましょう。一度び摂取せられた身は、如何なることが起ろうが生じようが、如来の摂取不捨の中にある身なのです。

耄碌(もうろく)すれば信心も消え失せるのではないかと不安を訴える人がありますが、然しその思いは、信もまた意識と共に時の流れの中で継続するものと思うからではありませんか。信はそのようなものでありましょうか。

身体に関する意識は耄碌とともに消え失せましょう。然し信は意識が保持するものではないのです。意識を超えた絶対真実が時間観念を破って、私の生命に入り込んで下さる事実なのです。その時すでに時間を超えた摂取の体験を得ます。それは時間の意識とは異なるものです。それを真宗の学匠は「信は非意業なり」と言われました。禅に「前後祭断」というのもこうした超時間的体験ではありますまいか。

「憶念弥陀仏本願、自然即時入必定」とは親鸞聖人が御身の上に信の体験を語られたお言葉であります。『一念多念証文』には「即得往生」を釈されて「即はすなはちといふ、時を経ず日をも隔てぬなり。また"即"は"つく"といふ、その位に定まりつくといふ語なり。得はうべきことをえたりといふ、真実信心をうれば即ち無碍光仏(むげこうぶつ)の御心のうちに摂取して棄てたまわざるなり 」と申されています。

超時間的な真実が、常識の時間意識の中に埋没しているわれわれに警鐘をならして下さっているのが本条であります。

●あとがき
これまでこのコラムでも何回か私達の人生で最も重要なものは何かを探り論じて来ております。幸せの青い鳥探しもして参りましたが、皆さんの結論は定まりましたでしょうか?私自身未だ定まったとは言えませんが、五欲の満足に関わるものが最重要事項ではないとはおぼろげながらですが、はっきりしつつあります。しかし、しつつありますと言う表現をする心の底には、やはり未だ、徹し切れていないものが残っているからであります。

頭では、人間に生まれた限りは、人間でしか至れない心になりたい、この世の真実に出遇いたいと思っていますが、私の場合では目前の経済的危機の方が最重要課題になっている自分をどうする事も出来ません。私にとっても皆様方に取りましても極めつけのマイナス思考は、"自分の死"であるはずです。しかし、私の頭の意識は、3ヶ月以内に死ぬ確率よりも3ヶ月以内の経済破綻の方が確率が高いと思っているので、死よりも経済破綻の方に恐れを持っているのだと思います。

ですから、先ずは経済破綻の問題を片付けてから、人生の真実に出遇う事にチャレンジしようと言う魂胆だと自己分析出来ます。しかし、今日の聞書の話題の主人公である仏法者も、そして善従坊も、それを語る実如上人の最重要課題は、何はさて措(お)き、仏法を我がものにする事、即ちこの世の真実を求める事だったのだと思います。

確かに、真実を説き聞かせて下さっているお釈迦様の仏法を我が身、我が心がしっかりと受け止めて、我がものとする事が最重要である事は間違いのないところだと思いますが、では、その真実とは何かと言う事になりますが、前述の井上先生の讃解全文に示され尽くされていると言ってもよいのですが、最近の木曜コラムで連続して言及している仏教の深層心理学とも言える『唯識』が、この世の真実を、人間の言葉で可能な限界まで語ってくれていると思います。

『唯識』は、現代人の為の仏教入門案内として大変有用だと思いますので、無相庵ホームページの一つのアイテムとして、唯識コーナーを設けまして、一般の方々に分かりやすく紹介させて頂きながら、私も勉強したいと思います。


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No.445  2004.12.02

宗教と相性―その4

今日は『宗教と相性』の結論コラムとしたいと思うのですが、当初はかなり安易に性格タイプと宗教との相性を論じられ得ると思っていましたが、性格タイプがかなり表面的な心である事に気付かされまして、ついには深層心理の勉強をする羽目になり、この2週間は仏教の深層心理学と言われる『唯識(ゆいしき)』の知識吸収にかなりの時間を費やすことになりました。本当は、もう少し時間が必要ですが、それも限の無いことにもなりますので、現時点での、『宗教と相性』、言い換えまして、『仏教宗派と性格タイプの相性』と言うことにして私の見解を申し述べたいと思います。

ただ、今回の結論は、統計的データーに基づいておりませんし、根拠となる文献がある訳でもありません。極論すれば、私の独断と偏見による仮説でありますことをお断りさせて頂きます。しかし、仮説ではありますが、私と致しましては、この提言を機縁として、私自身は勿論のことでありますが、現在皆様方が属しておられる宗派だけが絶対的なものではないと初心に還って頂き、仏教の教えを今一度広い視野で捉え直して頂いて、その上で本当に自分の救いとなり得る教えに出遇って頂けたら真に幸いでありますし、その意味ではかなり重要なテーマであり、コラムであると思っております。

また、今回、私の娘婿の企業内教育が機縁となって、私自身、永年の宿題でありました『唯識』の知識習得に立ち向かえた事は、何よりだったと思っている次第です。私は、これを機会に、更に唯識を勉強致しまして、一般の皆様にも分かって頂けるようにしたいと思っています。いやむしろ、現代の一般の人々に仏教の扉を叩いて頂くには、この唯識の存在を知って頂く事が何よりも大切ではないかと思いました事を付け加えたいと思います。

さて、下表は、性格タイプ別に相性と考える仏教宗派を導き出した表であります。
性格タイプ4大根本煩悩開祖 宗派
理論タイプ我癡※白隠禅師 臨済宗
協調タイプ我愛親鸞聖人 浄土真宗
厳格タイプ我慢道元禅師 曹洞宗
感性タイプ我見空海 真言宗

※日本の開祖は栄西禅師ですが、一般的に親しまれている中興の祖としての白隠禅師とさせて頂きました。

結び付ける方法と致しましては、前々回のコラムで紹介した性格診断表の内容から、4大根本煩悩、祖師の性格、宗派の教義との組み合わせを試行錯誤しながら、且つ消去法などを用いて、かなり強引に選択決定致しましたが、その思考過程を下記にお示ししたいと思います。

タイプ分けテスト    タイプ別診断表

●理論タイプと臨済宗
理論タイプは、論理的・且つ冷静なタイプと言うことで、これは、大疑(たいぎ)をモットウとし、坐禅に公案を併用する臨済宗しかないと瞬間的に結び付けました。すなわち、臨済宗は修行のスタートは、総てを疑ってかかれと言う教えでありますし、信じると言うよりも、頭で考えて考えて最終的に真理を体得すると言うものでありますから、容易に理論タイプと結び付きました。ただ、根本煩悩の我癡(がち)との関係は、自分の理屈・理論に溺れる傾向が強い事から、本当の真実からかなり遠い位置にあると言う我癡と結び付けました。理論タイプは理屈屋だけに逆に真理に遠いのだと考えた次第です。

●協調タイプと浄土真宗
協調タイプは、表面的には他人と融和し、争いを好まないように思われますが、それは、他人に疎外されたり、傷付きたく無いと言う、我が身可愛さが協調と言う態度に出たものであり、心の底から融和を求めているものではなく、内面の葛藤は他の3タイプよりも激しいものと推測されます。我が身可愛さを抱いているタイプとして、根本煩悩は我愛とするのが自然だと考えました。そして宗派は、どちらかと言えば女性的なニュアンスの強いのではないかと思われる浄土真宗と結び付けました。親鸞聖人も、我愛との長い闘いを経て、信心に至られたようでありますし、争いは極力さけられ、強引な布教活動を良しとはされなかったようでありますので、それらのことも踏まえて、協調タイプと浄土真宗を結び付けました。

●厳格タイプと曹洞宗
私が厳格タイプですので、根本煩悩との関係はかなり自信を持って結び付けることになりましたが、厳格タイプは、何事に付きましても、「こうあらねばならない、あるべきだ」と言う自己の判断基準を正当化して、決め付けてしまう傾向にあります。これは、驕慢(きょうまん)そのものであります。このコラムで宗教と相性を論じている事自体が、その驕慢の為せるわざであります。従いまして、この厳格タイプは間違い無く根本煩悩"我慢"と強い関係にあると思いました。 そして、宗派との相性は、道元禅師が激しい性格で妥協を許さなかったとされておりますし、また厳格タイプの一つの性癖であるセッカチさは、あの時代に何としても悟りを開こうと中国留学を果たし、そして中国で師を求めて山々を訪ねた道元禅師に見出されると言う思いが致しました。また、私が存じ上げている曹洞宗の先師・先輩方は、最終的には、親鸞聖人に極めて近い信心の世界に生きておられますので、私の現在の想いからしても、厳格タイプは曹洞宗と言うことと致しました。

●感性タイプと真言宗
私には真言宗に関する知識は殆どありません。直ぐに思い浮かびますのは、『即身成仏』と言う事位でしょうか。そして、その意味も、禅宗の悟りとどう異なるかも理解しておりませんが、密教と言われる宗派だけに、私には、神秘的な教えだと言う認識が強いのであります。そう言う観点から、直感的、独創的な思考が出来る感性タイプと結び付ける事は、かなり妥当であると思っております。そう言う意味では、神通力を発揮されたと言う日蓮さんが開祖である日蓮宗とも無縁ではないかも知れません。そして、根本煩悩の"我見" は、我と言う存在、すなわち我が身を成仏させることに拘っていると思われる密教とは、組織に馴染まず我が道を行くと言う感性タイプを結び付けて良いと思いました。

振りかえって見ますと、かなり独断と偏見があることを改めて思います。前のコラムでもお断り致しましたが、人が宗教或いは、宗派との関係が出来ますのには、私達に計らうことが出来ない縁による面が強いことは申すまでもありません。しかし、縁が出来ても、その教えによって救われる、すなわち悟りに至れるかどうか、真実の信心を獲得(ぎゃくとく)出来るかどうかは、まったく別問題であります。

私は、特に科学的知識教育が浸透している現代、信仰は兎に角信ずる事であると言うスタートで救われる人は極めて稀であると思っております。私自身も未だ救われていませんが、是非救われたいと思っており、私の母の縁によって親鸞聖人に親しみは持っていますが、教団が主導する浄土真宗の教えで救われるとは思えないまま今日に至っております。親鸞聖人は間違い無く、今私が勉強を始めた『唯識』を深く勉強されております。唯識はかなり詳細に驚く程に人間の煩悩を分析しております。罪業感の強かったであろう親鸞聖人を理論的に支えたのは、この『唯識』ではなかったかと思います。そう致しますと、親鸞聖人の著述の中の言葉を親鸞聖人が意図されるところに近く理解するには、親鸞聖人と同じ言葉の知識・ニュアンスを習得しなければならないと思います。親鸞聖人が比叡山の20年間で勉強されたところを総てはしょって、ただ念仏を称えると言うところだけを説かれて、それを真似ても、我が救いには成らないのではないか・・・・そんなことを唯識を学びながら思っている次第であります。

今日のコラムで、性格タイプと仏教宗派の相性について、結論を示させて頂きましたが、このコラムを機縁として、菩提心を新たにして本当の安心を得るために、私自身も仏道を見直したいと思う次第であります。読者の多くの方々は既に『唯識』を勉強されているかも知れませんが、この木曜コラムで、私の勉強しているところを紹介させて頂こうと思っております。


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No.444  2004.11.29

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第193条

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―水よく石をうがつ

●まえがき:
無相庵カレンダーの25日目に「少水も、常に流れば、則ち能く、石を穿つが如し」というお言葉があります。また、今日よく使われる「継続は力なり」という言葉もございますが、この事は、人生において何事かを成し遂げようとすればどのような事でも"たゆまぬ努力・精進"が必要であると言う事を示していますと共に、たとえ何事かを成し遂げようと思わないままに何事かを継続していると、思っても見なかった力といいますか、成果と言いますか、道が開けると言うような事があると言う、古人からのメッセージだと思います。

私のこのコラムも、始めた動機は全く別のところにありましたが、何時の間にか、私自身の仏教の勉強の場になり、このコラムを書き始めた4年前(2000年7月13日)の仏教に関する捉え方と今の捉えているところは全く変化しております。自分で言うのも気が引けますが、仏教に対する理解と信ずる心は深まったと言ってよいと思います。

4年前の私は、ある程度仏教を我が物にしていた積もりでありましたが、今では、とんでもない事だったと思っております。そして、もっともっと仏教の造詣を深め、出来れば、先輩・先師、そして釈尊の境地まで自分を高めて、今苦しみの中にある私と同様に苦悩し、その苦悩を真剣に受け止めて、何とかこの"苦の人生"を乗り越えたいと苦悶している人々の助けにもなりたいと思うようになっています。

これは、4年前の7月13日から、たゆまず月曜と木曜の週2回のコラム発信を続けて来たおかげだと思います。しかし、これは私の努力だけではなく、経済的苦境の中、何とか健康にも恵まれ、妻とそして既に一家を構えている長男、長女の協力と、そして心の支えのみならず経済的にも何かと支援下さっている友人・知人のお陰無くして、このコラムは継続出来なかったと思っています。

そう思う時、今日の聞書のテーマ「水よく石をうがつ」は、まさに実感として受け取れる次第であります。

●聞書本文
至りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、水よく石を穿つ「心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成(じょう)ぜざらん」といへる古き詞(ことば)あり、いかに不信なりとも聴聞を心に入れ申さば、御慈悲にて候ふ間、信を獲べきなり、只(ただ)仏法は聴聞に極まることなりと云々。

●現代意訳
私達の身の回りで極めて硬いと言うと"石" 、反対に軟らかいものと言えば"水"と言うことになる。その軟らかい"水"が"石"に孔をあける様に「悟りを求める心が本当のものならば、必ずや成就するであろう」という昔からの言葉がある。私達が阿弥陀仏の本願を信じられなくとも、聴聞をこの心に入れてゆけば、仏様のお慈悲によって、いつかは信心を獲得(ぎゃくとく)する身となるのである。ただただ仏法は、聴聞に尽きるのだと言われるところである。

●井上善右衛門先生の讃解
第152条に「凡夫の身にて後生助かることはただ易きとばかり思えり」と言われているのは、易行ということを取り違える心を戒められる言葉でありましょう。既に述べたように、人間には易きを好み、難きを厭うという性向が本来根深く宿っています。この心が易行という言葉を得手にきいて、安いのは結構なことだと思うのですが、このように安易を求める心は、聞法精紳とは反対の方向を向いている人間本能であるといってよろしいでしょう、易行道は決して安易道ではありません。それとは全く本質を異にするものです。安易を好んで易行につくなら、それは横着道に転落することになりましょう。 「水よく石を穿つ」とは、聞法精紳の根本を示されたものです。

信という精紳の開明は、私が切り開くことではありません。大いなる真実心に摂取されることなのですが、久遠劫来我執に凝り固まっている人間の心は、如来の真実心に背を向けて「我」の角を振り立てて、真実の大悲から逃げ回っているのですから、如来の摂取のご苦労は容易なことではありません。

その逃げるものをどこまでも追いかけて、この真実の御名を受け容れてくれよと、如来が私を拝んでおいでになる。これが我執に固まった私の側からいえば、また容易に受け容れられぬのであります。しかしその至難である原因は私自身の側にあるのであって、与えて下さっている大悲の道にあるのではありません。

また聞法はわが力で獲得することではありません。聞法は闇が光に照破され、迷妄が智恵に調伏され、かくて次第に不信が大悲に慈育を蒙ることなのです。この事実に決して間違いはありません。「いかに不信なりとも聴聞を心に入れ申さば、お慈悲にて候う間、信を獲べきなり」何とたのもしく勇みの湧くお訓(さと)しでありましょう。タゴール翁が「宗教は真実に所有される身になることだ」といった言葉にも同じ響きを感じる思いがします。

●あとがき
しかし、何事も継続すると言う事は、本当に難しい事であります。皆様もそれは否定されないと思います。三日坊主は当たり前、一日で志が破れることも私は何回も経験しております。

しかし、今思いますに、他の事は三日坊主でも人生は大した変化は無いと思われますが、この仏教の道は何としても"たゆまぬ努力"が必要だと思います。"たゆまぬ努力"無くして、信心は得られない、悟りは開けないと思います。

私は平易に「信心は得られない、悟りは開けない」と申しましたが、信心(しんじん)とか悟りには数百段の段階があると思います。従って丁寧に言い換えますと、「私がもしこの人生の苦悩から救われるとしたら、仏法に依るしかないという確信を得るにもたゆまぬ努力が必要ではないか」と言う事であります。

そう言う意味からも、仏教の先師が『発菩提心』すなわち"苦から解放されたい"、"悟りを開きたい"という願いを抱くことが最も大切だと言われた意味がよく分かります。

私は、この人生で苦悩に直面していない人は皆無であると思っております。例として挙げることは如何がとは思いますが、私達凡夫が求める名聞(みょうもん、名誉)、利養(りよう、お金、財産)、勝他(しょうた、他人より優れたい)と言う幸せを総て兼ね備えた、皇后"美智子様"、そして皇太子妃"雅子様"ですら、苦悩から心の病にかかられ、またかかられています。

その苦悩の原因を自分の外に求めるか、自分の心の内に求めるかによって、人生は大きく変わります。はっきり申しますと、外に求めている限りは苦悩から解放される事はないと思います。しかし一方、自分の心の中に求めます(すなわち菩提心を発する)と、道は険しく永く、継続が困難でありますが、私の歩む道の先達(せんだつ)としての先師(たとえば、釈尊、親鸞聖人、道元禅師)や、私の手を取って伴走して下さる先輩(私の場合は、井上先生、青山老尼)、そして、共に歩んでくれる仲間があれば、継続が期待出来ます。

「仏法は聴聞に極まることなり」と言うことは「仏法を成就するには菩提心を継続することだ」と言い換えてもよいと思います。


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No.443  2004.11.25

宗教と相性―その3

前回のコラムで、私は、自分の厳格タイプと親鸞聖人を結び付けた結論を述べて、今回、その考察を述べると申しましたが、それはもう少し時間を頂かねばならなくなりました。それは、性格診断テストの結果は、かなり表面的と言いますか、心理学的には、意識の表層が公にされただけであり、深層心理学的な考察が必要だと思い直したからであります。従いまして、結論は今しばらくお待ち頂くと致しまして、今日は、その深層心理学的考察が必要と考えた経緯を申し述べたいと思います。

前回のコラムの性格テストで、厳格タイプ、協調タイプ、理論タイプ、感性タイプに分類されたと思いますが、この結果は飽くまでも、このタイプである傾向が強いという位に受け取るべきだと思います。何故かと申しますと、このテストで診断した時のその人の状況に依っても、かなり結果は変わるものと思います。また、日常生活が順境で精紳が高揚している時と、逆境で落ち込んでいる時とでは、結果に少なからぬ変化が現れても不思議ではありません。そして更に、このテストが誰にも知られる事のない、純然たる自己診断テストである場合は、結果が異なる事もあり得るからです。

また、更に重要なことは、人間の性格とか心情は、自分自身が把握しているものだけではなく、自分自身が気付いていない心の動きがあると心理学では考えているようですし、また仏教の深層心理学と言われる『唯識(ゆいしき)』でも、意識、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)と、人間の心を層別していますが、一般的な西洋心理学で有名なジョハリの窓理論をご存知の方は容易に理解出来るのではないかと思いますが、自己診断テストに顕れたのは、私は、下記のジョハリの窓のA部分の寄与が大きいと思われます。その証拠に、私が実施した知人・親族についての結果は、自他共に「そうだろうね」と肯定する結果でありました。

ジョハリの窓
より良い人間関係を構築するための企業内教育や講習会で良く使用される「ジョハリの窓」は、既に多くの方がご存知だと思います。
自分自身を大きな窓だと仮定し、そこには、以下4つの窓が存在すると考えます。
A:自分と他人に分かっている部分
B:自分には分かっていないが他人に分かっている部分
C:自分は分かっているが他人には分かっていない部分
D:自分にも他人にも分かっていない部分
Aの領域は、例えば、自分の事を明るい性格だと自分もそう思っているし、他人も認めていると言うものです。
Bの領域は、自分は、気前が良い方だと思っているが、他人には反対にケチな人間と思われている場合です。
Cの領域は、人間は皆俳優だ、人前では演技しているという部分があり、いわゆる二重人格的な領域と言ってよいでしょう。
Dの領域は、心のブラックボックスとでも言える領域で、君子豹変すと言われる場合がそうで、自分でも信じられない行動に出たりするのは、この領域からの指令によるものと考えられます。

私は、このジョハリの窓と、『唯識』の、意識、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)と直感的に結び付き、Aは意識、B、Cが末那識、Dは阿頼耶識と考えました。末那識、阿頼耶識とは、一般心理学で無意識と言われる、人間の心の領域ですが、表面に顕れる意識は、この無意識に支配されていると考えます。

そして、末那識は、自己愛とか我執の住処(すみか)で、自分に拘る心であり、煩悩の沸き出でる泉と言ってもよいでしょう。阿頼耶識は命に拘る心と言われていますが、見方を変えますと、生きようとする盲目的意志とも、また遺伝子情報DNAの世界、本能の世界とも言えるかも知れません。

性格タイプは、表面的な意識が顕れたものですが、それは、固有の末那識が顕れたものだと考えてよいと思います。そして、末那識の主(ぬし)である4大根本煩悩(我癡・我見・我慢・我愛)が個人個人その強さが異なり、それが意識としての顕れ方、すなわち性格タイプの別として顕れているのではないかと考えます。

根本煩悩を順に説明致しますが、すべてに我が付いていますが、これは煩悩というのは仏教の無我ではなく、我であるからです。

我癡(がち)とは、癡は痴の旧字体で愚かと言う意味ですが、世間で普通使用する愚かと言う意味ではなく、この宇宙で、私も他人も動植物も木石も、夫々が単独で存在しているものは何も無い、すべて関わり合いで存在し得ている、すなわち無我である事を分かっていない事を言います。

我見(がけん)とは、私と言うものに囚われている、私とはこういうものだとはっきり思っている事です。

我慢(がまん)とは、通常使用される「痩せ我慢」の我慢ではなく、慢は驕慢(きょうまん)の慢であって、根拠も無く私と言うものを頼りとし、誇る心であります。他人よりも自分が優れていると言う自我意識と言ってよいでしよう。

我愛(があい)とは、自分に愛着・執着し、どうしょうもない「我が身可愛さ」を秘めている「深層エゴイズム」と表現されるものであります。

これら4大根本煩悩は、総ての成人が抱いているものです。生まれたての赤ちゃんにはこの煩悩はありませんが、成長するに随って、両親家族からの家庭教育で、そして教育現場で末那識と言う心の領域に刻み込まれます。それはこの末那識が無明(無我を知らない)と言うブラックボックスの阿頼耶識に繋がっているからであります。そして遺伝子情報を蓄えていると考えられる阿頼耶識に繋がっている故に、個々人で、我癡、我見、我慢、我愛の煩悩の強さに濃淡が出るのは必然であり、それが、表層の意識の一つ、すなわち性格に顕れるものと考えられます。

次回は、性格タイプとこの根本煩悩との関連について考察したいと思いますが、近々更新致します法話コーナーで、鈴木大拙師の『無心と末那識・阿頼耶識』に関する考察をご紹介したいと思っていますので、ご興味のある方は、ご覧頂きたいと思います。


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No.442  2004.11.22

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第189条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―「我」という事あれば悪きなり

●まえがき:
親鸞聖人の教えには、善悪と言う事が度々出てまいります。度々と言うよりも、これが教えの入り口と言ってよいと思います。私は、親鸞聖人は、もともと罪悪感が強い方だったのだと思っています。そしてご自分の心の中に住み着いている悪を何とかして取り除こうと、29歳までの20年間を比叡の山で努力されたのではないかと思います。
そして、それは80歳を過ぎられてからも、その心の中から悪を追い出すことは適わなかった訳であります。むしろ年齢を重ねる毎に、ご自分の心の中に宿っている悪性を掘り起こされて、見詰められていたことは、晩年の『悲嘆述懐和讃』の中で詠われた歌で窺えます。

悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる
しかし、親鸞聖人は、救われなかった悪人かと言いますと、29歳の時に法然上人に出遇われて悪人だからこそ、阿弥陀仏の救いの対象であると確信され、一生報謝の念仏一つで生き抜かれました。

親鸞聖人にとっての善は、他力の本願に身を委ねられて、報謝の念仏を称える事しかなかった事が分かります。それを受けて、今日の聞書では、悪しき事をしても、心中を翻して、本願に帰すれば、悪しき事が善き事になると言われているのだと思います。

阿弥陀仏の本願に帰すると言うのは、「私が私が」「俺が俺が」と言う想いや、念仏を称えて仏様の救いを受けようと言う自力の心が翻ったことですから、すべては善き事に転化されて行くのだと想われます。

●聞書本文
善き事をしたるが悪き事あり、悪き事をしたるが善き事あり。善き事をしても、我は法義について善き事をしたると思い「我」という事あれば悪きなり。悪しき事をしても心中ひるがえし、本願に帰すれば悪き事をしたるが善き道理になる由仰せられ候。然れば蓮如上人は「参らせ心悪き」と仰せらるると云々。

●現代意訳
善い事をしてもそれが却って悪い事になることもある。反対に悪い事をしたのにそれが善い結果を招くこともある。善い事をしても、「私は仏法の教えにしたがって善い事をした」と思っているのは「私が」と言う意識があるので、それは悪い事になるのだ。もし悪い事をしたとしても、深く反省をして心を翻し阿弥陀仏の本願に気付く縁となったとすれば、それは悪い事が却って善い事になるという事を仰せになりました。だから、蓮如上人は「これをして仏様に気に入られようという心は善くない」と仰せになられたと言う事であります。

●井上善右衛門先生の讃解
「善き事をしたるが悪き事あり、悪き事をしたるが善き事あり」という書き出しには、いろいろの意味が含まれていることが思われます。世に言う善い悪いということは、決して当面の結果だけで決めうるものではありません。結果は更に次の結果を招く縁となり連続転回してまことに計り難いものです。「人間万事塞翁が馬」という故事は如実にそのことを物語るものとしてわれわれの胸に沁みます。

自分の行為が相手に対して善き結果をもたらすように意図することは、もとより大切ですが、これとても相手がその結果を如何に受け取ってくれるか計り難いのです。よかれかしと思うてしたことが、却って相手に甘え心を起こさせたり、逆用されたりすることもあります。だから善悪の決定的な拠処は結果に求めるべきではなく、行為の動機(こころね)に依らねばならぬという道徳説が生まれる所以です。

行為の動機というのは、如何なる意志をもって行為するかということであり、純粋な良心に従って行為するより外に道はないということです。人間には確かに良心と称せられる働きが意志の目覚めの中から生まれる事は事実です。ところが人間の意志には二重性というものがあって、良心の声を聞きながらも、一方利己心の欲望に誘われ傾く性質を脱しきることができません。だから人間の心は両頭の蛇となって争わざるを得ないのです。良心が目覚めれば目覚めるほど、この内面の葛藤は熾烈(しれつ)となります。

しかし、人間は良心と利己心との葛藤の場であるとのみ言えません。その良心そのものに更に自心の行為を手柄として誇る執我の性が潜んでいるのであります。西洋の思想家はこの意識を明確にはしていませんが、我(自我)と法(存在)の二執を迷謬(めいびゅう)の根源とする仏教の自覚では、最も厳しくこの点が指摘されます。

自分が善き事をしたと意識するとき、必ず「我」ということが鼻にかかります。そのときは同時に、他を自己から区別して軽蔑の心を生じているときです。いま本文に「善き事をしても、我は法義について善き事をしたると思い我ということあれば悪きなり」といわれているのがそれです。この「我」という執情から、心の濁りと汚れが源するのであります。

しかし「悪しきことをしても心中をひるがえし本願に帰すれば、悪き事をしたるが善き道理になる」とあるのは、たとえ悪しき事をしても、それが反省の縁となり、我が身のあさましさを知り、己れが心の底の濁りに気付いて、如来本願の悲心の中に立ち帰る身となれば、これほどめでたい事はありません。人間の究極問題がここに解決されるからであります。このとき始めて善悪の矛盾葛藤から解放されることが出来ましょう。善も悪もこれを越えて本願の真実心を畢竟依として生きる命が開かれるからであります。

●あとがき
倫理・道徳の世界から考えますと、損得の判断で行動を起こすよりも、善悪で判断して、善い事をして行こうと言う姿勢は大いに誉められるべきものであります。しかし、浄土真宗の考え方からしますと、なお、その善い事をする心の奥底に、名誉、金品を求める心は動いていなかったかと自己を問い直す余地があると申します。厳し過ぎると言う向きもあるかも知れませんが、逆に考えますと、それほど、人間の我執、自己愛の強さ深さは私達の通常の内省では自覚出来ないものだと言うことであります。

その自覚に至る道はただ一つ、仏法を聞いて行くしかないと思います。聞くと言うことは、法話会に参加してお話を聞くと言うだけではなく、書物からも仏法を聞くことも出来ます。世間の問題から仏法を実践も出来ます。最も望ましいのは信心を得た先生に出遇えることでありますが、これはなかなか稀有なことであります。それが適わなくとも、仏法を長年聞いて参りますと、この世に今の瞬間の生を受けていること自体がとてつもなく尊いことに気付かされます。そして、生かされて生きていることへの有難さとそれに気付くことをずっと待ちわびていた仏様の本願に気付かされるに違いありません。

善悪と言うことを通して、他力(仏様、阿弥陀仏)の本願(私を必ず救うという願い)に目覚めしめられることが、すなわち最高の善なのだと言うのが今日の聞書の説かれているところだと思います。


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No.441  2004.11.18

宗教と相性―その2

エニアグラムと言う、人間の性格を9つのタイプに分類する体系があります。かなり前に一度ご紹介した事がありますが、今回は4つに分類する体系を新たに知りました。出処は知りませんが、割と簡単に自分の性格タイプを知る事が出来、しかも数人に実施した結果から信頼度も高いと感じましたので、この宗教と相性に使用して見ようと思いました。

今日は4タイプと、その自己診断テストを紹介致しますので、興味のある方は、自分がどのタイプか、実験的に把握して見て下さい。
なお、私は厳格タイプでしたが、この厳格タイプこそ、宗教との相性としては、親鸞聖人の浄土真宗であると言う考察を来週のコラムで述べたいと思います。


タイプ分けテスト――結果は?―→タイプ別診断表


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