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No.440  2004.11.15

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第184条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―信の上はさのみ悪き事なし

●まえがき:
今日の聞書のテーマは浄土真宗と道徳についてであります。仏教には「諸悪莫作、修善奉行(しょあくまくさ、しゅうぜんぶぎょう)」という教えがあります、「悪いことをしてはならない、良いことを積極的にしよう」というごく当たり前のことであります。しかし、歎異抄の有名な言葉「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」があります事からでしょうか、浄土真宗では「諸悪莫作、修善奉行」と言う教えから少し距離を措いているように思われています。

私も永年浄土真宗に親しんで参りましたが、私達凡夫は極重悪人であり、良い事をしても、所詮は心の奥底に「私は良き事をなしている」と言う心を抱くものであり、清浄な心はないとまで言い切る人達もおり、また、それも否定し難く、どちらかと言えば、道徳との関係を論じる事さえ避けているようにも思うところがあります。

現在でも、明確に浄土真宗の教えと道徳の関係について明言出来得る方は限られているように思われますし、道徳と、と言うだけではなく、世間一般常識・儀礼・慣わしすら重要視しない方々もおられるようにお見受けします。

この聞書で言うところの"わろき事" とか"あしき事"が道徳・倫理に反した言動を指しているのかどうかは分かりませんが、今日の聞書がことさら取り上げられているところを見れば、当時の浄土真宗の人々の間でも、凡夫だから知らず知らず悪い事もしてしまうものだと言う風潮が芽生えていたのかも知れません。

それは少し了見が違っているのだと誡められたのが、本条ではないかと思われます。

●聞書本文
信の上はさのみわろき事は有間敷(あるまじ)く候。或いは人のいひ候などとて、あしき事などは有間敷く候。今度、生死(しょうじ)の結句をきりて安楽に生ぜんと思はん人、いかんとしてあしきさまなる事をすべきや、と仰せられ候。

●現代意訳
真実信心をこの身に戴くと、悪いことと知りながら敢えて悪いことするなんて事は出来なくなるものだ。そしてまた、他人からそそのかされて、ついつい悪いことをすると言うようなこともなくなるものではないか。輪廻を繰り返して来た我が身にして、この世においてついに生死を離れて極楽往生を遂げたいと思い立った人が、どうして悪い行為に及び得ようか、決してそんなことにはならないだろう、と仰せになりました。

●井上善右衛門先生の讃解
本条には浄土真宗と道徳の基本的な関係がはっきりと示されています。
信心の人が悪になびき得ない根本の理由を示して「今度、生死の結句をきりて安楽に生ぜんと思わん人、いかんとしてあしきさまなる事をすべきや」と語られています。「生死の結句」とは、無始以来生死の迷いを続けて来たが、この度の生を輪廻の最後とするの意です。結句は結び止めの句ですから、終極の意に用いられます。『口伝鈔』に「今生をもて輪廻の結句とす」とあるのも同じ用法です。「結句きりて」とはその最後の生を断ち切る意でありましょう。今生を迷いおさめとし、輪廻の流れを横に超断して往生を遂げ法性の常楽を期する信心の人がどうして悪事を企図するわけがあろうかと断定されている趣きが感取されます。

真宗と道徳の根本関係はここに明らかであります。悪の根源が仏智の光明に摂取されて根を断たれ、大悲心を住み家たらしめられるのですから、その生活実践の基盤が一転して如来真実の徳にうるおされてくる事は、まことに自然の趣くところといわねばなりません。それは人間の自我的努力による道徳とは全く立場を異にするものであります。そして自我意識に立つ道徳では果たし得ない新しい実践の場が開かれてくるのであります。

しかし信心まことなる人は稀れであり、逸脱の同期が多いため、浄土真宗があらぬ誹議(ひぎ、そしりと言う事)を蒙(こうむ)る結果となるのは最も遺憾なことであり、また捨ておくべきことではありません。しかし同時に憶(おも)わざるを得ません。真実なるものは稀であり、その稀なる真実に遇い得たものは至幸の身であることを。

●あとがき
歎異抄に、親鸞聖人のお言葉として「善・悪の二つ、総じて以て存知せざるなり。その故は、如来の御意に善しと思し召す程に知り通したらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召す程に知り通したらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめ・・・」とありますから、本当のところは何が善で何が悪かは私達凡夫には判らないというべきではありますが、だからと言って、世間で言うところの善悪をないがしろにしてよいわけではないと思います。

井上先生が末尾で申されている、「信心まことなる人は稀れであり、逸脱の同期が多いため、浄土真宗があらぬ誹議(ひぎ、そしりと言う事)を蒙(こうむ)る結果となるのは最も遺憾なことであり、また捨ておくべきことではありません」との仰せには耳を傾ける必要がありますし、浄土真宗の特に法を語り聞かせる立場にある人は、自らの誡めとしなければならないと思います。

講師先生方も人間だから至らぬところもあり、倫理・道徳に反することもあり得るとして、その人間性を問題にせず、その方の説くところを聞けと言うことが言われますが、一瞬成る程とは思えますが、やはり世間の慣わし・道徳に外れる方の法話はどうしても素直に耳をそばだてられません。

共に凡夫のみと言うことは確かでありますが、真実信心を得られた方は、世間的にも尊敬せられる人格になるというのが、自然ではないか・・・・、今日の聞書は、そこまで言いたいところではないでしょうか。

私も、親鸞聖人の教えを慕う者として、良く心得ねばならないと思う次第であります。


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No.439  2004.11.11

宗教と相性―その1

今日のテーマは、以前から感じて来ていたことでありますが、人間同士に相性があるように、宗教にも相性と言うものがあるのではなかろうかと思いますので、何回かにわたりまして、考察してみたいと思います。

私は、母の影響で、親鸞聖人の教えに親しんで参りました。宗派で申しますと浄土真宗と言う事になります。ある方は、浄土真宗は"落ちこぼれ" の為にある宗教だと言います。どの宗教でも救われない者のためにある最後の切り札とも言うべき教えだと言うことであります。仏教(浄土門)では、私達凡夫を機根に従って9つの段階に分けますが、その最下位の機根を『下品下生(げぼんげしょう)』と名付けられていますが、親鸞聖人の教えは、その『下品下生』を救うためのものであると言われております。

救いようの無い凡夫を救うと言う訳ですが、実際浄土門の祖師方は、自己を深く内省されて、源信僧都は『妄念のほかに別に心はなきなり』と自覚され、法然上人は『愚痴の法然』と自らを名乗られ、親鸞聖人は、『名利の大山に迷惑し、愛欲の広海に沈没する、地獄一定、極重の悪人』と慙愧されています。

浄土真宗では、念仏を称えれば往生出来ると申しますが、ただ"おまじない"みたいに念仏を称えればよいと言うものではなく、やはり自己の我執を深く慙愧する心が伴ったお念仏でなければならないのではないかと思います。実はこの表現も正しくはなく、むしろ仏様の光に照らされますと、慙愧の心が自然に湧き上がり、お念仏を申す心が沸き立つのは自然であるとお聞きしています。『下品下生(げぼんげしょう)』が自覚せしめられたその瞬間に救われ、お念仏も称えしめられると言うことだと思います。それは阿弥陀仏が私達凡夫、特にこの救いようの無い凡夫こそ救いたいと言う誓いを立てられたその本願によって助けられると言う他力本願の教えであります。

しかし、誰でもがこのように深い内省に至り得るかと考えますとき、人間には内向型と外向型があると言われますように、やはり向き不向きがあるのではないかと思われてなりません。私は、もう40年前になりますが、臨済宗の高僧・名僧と言われた山田無文老師と柴山全慶老師に親しく接する機会がありましたが、浄土真宗の信心深い先生方とは大いに異なった雰囲気を感じたことを覚えています。 やはり、臨済宗の高僧方は外向的でメリハリが利いている趣を感じ、浄土真宗の先生方は内向的と言うか物静かな雰囲気があるように感じておりました。そう言えば、キリスト教の方々の物腰と仏教のものとは何処か大きく異なるようにも感じますのは、私だけではないと思います。

どのタイプが良いとか悪いとかではなく、夫々の縁に従って宗教の門を叩かれた結果ではありましょうが、そこに、人間のタイプから来る相性と言うものも少なからずあるのではないかと考察しております。誰もが浄土真宗で救われると言うものでもなく、誰でもが座禅によって、悟りに至ると言うものではないのではなかろうか・・・・・。恐れ多い表現でありますが、そのような気がしてなりません。

そういう意味から、一つの教えに偏ることなく、広く宗教に接して見ると言う姿勢も人によっては必要かも知れません。私は、仏教で言えば、至る心境は禅宗も浄土真宗も変わらず、自然法爾(じねんほうに)、無心の世界であろうと思いますが、回心(えしん、心の転換、価値観の転回)を引き起こすキッカケに関しては、人夫々に相性というものがあるのではないかと思います。そして、極端には、教えや雰囲気を全く受け容れられない場合もあるとも思います。それは、宿世の縁によると言ってしまえばそうかも知れませんが、私は、少し、心理学的アプローチをしてみたいと考えております。次回の木曜コラムで、心理学的に人間性をタイプ分けして、対人関係のあり方を分析研究している分野を参考にして、更に考察してみたいと思います。


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No.438  2004.11.08

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第174条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―人は皆な耳なれ雀なり

●まえがき:
アメリカ大統領選挙は、結局ブッシュ氏の再選となりました。選挙前から互角の闘いと言うことでしたので別に驚く結果ではありませんが、私は、「やっぱりアメリカ国民は勇ましい方の人物を選んだのだな、日本人の感覚ではないな」と言うのが、私の妻にしゃべった感想でした。イラク攻撃の大儀であった大量破壊兵器も見付からず、そしてイラクも未だ戦争状態にあり、イラク市民も、自国の戦闘員にも犠牲者が出ていると言う現状を考えますと、もしこれが日本の国民投票ならば、確実に政権交替と言う結果になったのではないかと思います。

しかしある意味では、世界平和に向かう為の反面教師的第1歩になるかも知れません。世界が本当に平和に向かう為には、神仏のおはからいで、ブッシュ大統領に突っ走らせ、中東地域の混迷が深まり、小泉首相も共に退陣を余儀なくされて、世界全体が一大転換点を迎えると言うことになるのかも知れません(本当は私の読みが当たらず、中東が平和を迎えることを願っています)。

さて、今日の聞書は、私達に極めて厳しい反省を求めているものだと思います。『耳なれ雀』とは、勿論、私の事を言われているのです。耳馴れであり、眼馴れでもあります。親しい人が亡くなってもそれは他人事で、私が死ぬのは未だ未だ先であり、また、今回の新潟地震でも、悲惨な状況をテレビで眼に見て耳で聞いても、震度7の地震は他人事でしかありません、神戸で大震災を経験している私でも、当分私達は大丈夫だろうと・・・他人事であるというのが正直なところです。

聞書本文中にある鳴子(なりこ)とは、もう現代では見られませんが、右の絵のような使われ方をしていたもので、ロープに雀がとまると、ロープが揺れ、ぶら下げてある鳴子が振動によって音を出します、鳴子とは、農作物が食い荒らされないように、雀を追い払う為の道具であります。

しかし、鳴子が鳴っても、別に自分に何も影響が無いと学習した雀達は、厚かましくも、ロープではなく、鳴子にさえ乗って、チッチッとさえずるようになります。人間の智慧が馬鹿にされた瞬間です。「耳なれぬれば鳴子にぞ乗る」とは、如何にも調子に乗った姿を率直に表現したものであります。

蓮如上人が古歌を引用されたお心は、聞法に関するもので、ご法話を知識として聴いていると、「これも知ってる、これも以前の法話で聴いたこと」と、耳歳増になるだけで、信体験に至る方向から外れてしまうことを誡められるためのものだと思われますが、法話のみならず、あらゆる事に対して「驚く心」を失い、緊張感の無い惰性の日常生活を送ってしまうことをも、誡められたものであると受け取りたいものであります。

●聞書本文
前々住上人「おどろかす甲斐こそなけれ村雀、耳なれぬれば鳴子にぞのる」此の歌を御引ありて折々仰せられ候。ただ人は皆耳なれ雀なりと仰せられしと。

●現代意訳
蓮如上人は常々、「おどろかす甲斐こそなけれ村雀、耳なれぬれば鳴子にぞのる」という古歌を引用されまして、「総じて人というものは皆、耳馴れ雀になってしまうものだ」とおっしゃいました。

●井上善右衛門先生の讃解
おおよそ人間は誰しも何らかの生きる思いというものの上に乗って生きています。その生きる思いを広い意味での人生観といってよいでしょう。言い換えると、人生はこんなものだと各自が決め込んでいるその思いであります。ところが人間が当然と思うて構えているその思いは、自分の気付かないところに、いろいろ勝手な前置き(前提、仮定)をしているのです。

人間の心は「無常」な世界を「常」と思うてその上に乗っていると言われますが、如何にもそうであります。たとえ理屈で人は死ぬものと知っていても、自分の感情は決してそうは思うていません。そしてせっせとわが所有をかき集めているのです。その生き方を支えているのはたしかに「常」の意識です。俺が俺がと何か確かな自分があるように前置きして、わが思いを主張し行動しているのですが、その気分的な土台をなしている「我」とは何なのかと追及してみると,捉えどころがないのです。

しかも同時に人間は誰しも、何となく心もとない頼りない不安の感情と同居しています。その不安ははっきりとした内容や対象があるのではなく、漠然とした無対象な不安です。なぜそのような不安の気分をいだかざるをえないのでしょう。それはすなわち真実ならぬ虚構の思いに乗っていることから来る避けられない気分への反映であるといわざるをえません。

かくて人間は矛盾した要素を共に胸に抱きながら、それを末徹って始末することもなく、ただなんとなく生きている、そのような生き方をせずにおられない情勢に流されて生きて行く、それが人間の背負う業というものでありましょう。

さらに加えて現代人は、極めてかたくなな理知常識の中にうずくまっています。現世主義、実利主義、合理主義の殻の中に己れを閉じ込めているのです。そういう隠れた土台に腰をすえて仏教を聞いても、外形的な理解に止まって心のしんには触れません。現代の知識人は仏教を評価することはあっても、それは陳列された品を外から窓越しに覗いているようなものです。しかし人間が人間である以上、虚構の土台は揺るがざるを得ない日が来るでありましょう。

天地の真実が絶え間無くわれわれに喚びかけているにもかかわらず、なおかたくなに虚構の殻に閉じ篭って、真実の声を聞こうとしない悲しい姿を目の前にして、蓮如上人が「おどろかす甲斐こそなけれ村雀、耳なれぬれば鳴子にぞ乗る」と古歌に託して言われたのであります。村雀(むらすずめ)は正(まさ)しく群雀(むれすずめ)でありましょう。

ここに一つ注意したいのは「耳なれぬれば」という意味です。これは仏法の縁を豊かにいただいて、聞法の機縁に恵まれてきた人の事に違いありません。それを受けて上人は「ただ人は皆耳なれ雀なり」と結んでおられます。そうすると、この一条の主眼はそうした人々に対して、やみがたい思いを述べられたものと窺われます。『御文章』に、

当時はさらに真実信心をえたる人至りて稀なりと覚ゆるなり・・・・いつも信心の一通りをばわが心得顔の由にて、何事を聴聞するにも"その事とばかり思いて耳へもしかじかとも入らず"、ただ人真似ばかりの体たらくなりと見えたり
きびしい誡めの言葉であります。「その事とばかり思いて」とは、聴聞に耳なれてしまい「ああまたその事か」と聞き流すことです。それを「耳へもしかじかと入らず」と申されているのです。我が身に引き当て、我が闇を照らして下さる光として聞くのでなければ、むなしい言葉の素通りに終わるのは当然です。仏縁に恵まれているもののよくよく心すべきところでありましょう。なぜそうなるかといえば、人間が日常的生活に埋没して、驚きの心を忘れるからです。

その埋没して横に寝た心を立たせるものは無常という現実を視つめることが第一だと思います。仏法は横になって聞くと素通りする、立って聴くと必ず胸のしんに当たるものです。ところが人間はとかく横になり勝ちで、縁が豊かになって慣れるといよいよ横になる。「灯台もと暗しとて、仏法を不断聴聞申す身は御用を厚く蒙りて、いつものことと思いて法義におろそかなり」(聞書第129条)という誡めもこのことにほかなりません。

それに対して思い合わすべきは「法敬坊九十まで存命さふらふ。この歳まで聴聞まふし候へども、これまでと存知たる事なし、あき足りもなき事なり」(第48条)とある法敬坊の事や、「一つのことを聞きていつも珍しく初めたるように信の上はあるべきなり」(第130条)という教示を忘れるべきではないと思います。それは一(いつ)にかかって仏法を聞く「聞」の根本的姿勢にあることであります。

●あとがき
耳なれ雀というのは、私の事だと思います。思えば、物心(ものごころ)がついた頃には、毎朝夕、仏壇の前で、お経と南無阿弥陀仏を母に習って家族6人合称しておりましたし、中学生の頃には、既に煩悩具足の凡夫という言葉も、およその意味を知っておりました。小学生から大学を卒業するまでは、母が主宰していた毎月の仏教講演会に何と言う目的意識もないままに参加していました。聴講される方々のために椅子並べとかの準備の手伝い程度のことをしていた記憶がありますが、当時の子供達の遊びの種類も限られていましたから、まぁ暇潰しだったと思います。しかし、何とはなしにお聞きした法話の回数は300回をこえますから、仏教言葉の殆どは、一度は聞いたものであり、今では殆どが耳なれた言葉であります。

従いまして、私自身が知らず知らずのうちに耳なれ雀となっていたように思います。今もその雀のままであると思います。時として、物心ついた以降に仏教に縁を持たれた方が、私よりも信心を得られていることに接し、ある意味では、物心つかないうちから仏教に接したことが、逆ハンディのように思った事があります。

素直に「南無阿弥陀仏」と称えられない今も、その想いは完全に払拭されていませんが、信に至る道筋は人夫々であると思い直し、また、親鸞聖人も、9歳の時に比叡の山に登られて、恐らくは、法然上人にお出遭いになられるまでの20年間、仏法に浸られながら、なかなか信心に至り得なかった焦りと歯がゆさを経験されたものと思い、私には親鸞聖人以上の時間が必要なのだと、自らを励ましているところであります。

そしてまた一方、仏法を我が人生の杖として選び取らしめられ、きっと覆ることはないと思われる現在の境涯を思います時、いわゆる回心(えしん)の自覚はないものの、仏様に掴まえられ、もう逃げ出せることはないであろうと言う想いを抱いております。

しかし、親鸞聖人がおっしゃっておられる、浄土真宗における悟りの境涯と思われる「正定聚の位」には程遠く、今は、その正定聚の域に是非とも至りたいと思っている次第です。そのためには、今一度、初心に還りまして、耳なれた事も含めて、幅広く、そして深く仏法を学び直さねばならないと思っている次第であります。他力は自力を尽くして後の他力であろうと理屈をつけて、自らを励ましているところであります。


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No.437  2004.11.04

一つの命を守る勇気

先月末、相次いで"一つの命"の危機を日本国中が固唾を飲んで見守りました。相次いで発生した2件の"一つの命"の危機は、片方は奇蹟の生還と言う結果となり、もう一方は、残忍な処刑による遺体発見と言う結果となりました。

余震が続く中、地震で崩落した岩場に閉じ込められた2歳11ヶ月の命は、数十名の地元消防隊員と東京都から派遣されたレスキュー隊員達の、それこそ命懸けの連携作業によって助け出されました。我が身の命の保証がない中、隊員達を救助に衝き動かしたのは、人命救助と言う仕事のプロ意識も然る事ながら、それ以上に、尊い"一つの命"を見捨てられないと言う、これまた人間が有する尊い心であったのではないかと推察しています。

母親とお姉さんを失った優太君のこれから先の人生は決して楽観出来るものではありませんが、病院の集中治療室の明るい表情を見るとき、一つの命を救った人々の、人間だからこそ持ち合わせる尊い心に想いを馳せ、心暖まる次第であります。

しかし、一方の香田証生さんの悲報は、あまりにも対照的で、武装グループと日本政府高官達に見られる人間の心の奥に潜む暗い冷たいエゴのようなものを見せ付けられた想いがして、私は悲しく暗い気持ちに沈み込まされました。政府が渡航自粛地域に指定していたイラクに無防備・無計画に入った香田さんの行動に対しては、政府のみならず世間にも厳しく非難する人々がいるように見受けられます。そして、非難する人以外にも、今回の結末は止むを得ないと思う人も多いものと思われます。

私も当初、止むを得ないと言う考え方をしていましたが、実際に遺体となって発見されたことを聞いて後、「自衛隊は撤退しない、テロには屈しない」と言う小泉首相の今回の対応は本当に止むを得ない正しい選択だったのか、と再検討せずにはいられませんでした。それは、香田さんの命も、優太君と同じく、尊い"一つの命"ではないかと思うからです。

優太君は地震と言う不可抗力によって、一方香田さんは死に至る危険を承知の上で自らの意思によって、夫々"一つの命"の危機に遭遇したと言う相違点はあるでしょう。常識的・客観的には、優太君を救出するのは当然であり、香田さんは見殺しにされても致し方ないと言う考え方を全く否定は出来ないかも知れません。

しかし、私は香田さんの尊い"一つの命"を救えなかった我が日本国は、自国が守るべき大切な魂すらアメリカに抜き取られてしまっているのではないか・・・と、ふと我が日本国は知らず知らずのうちに、とんでもない方向に向い、とんでもないところに来てしまっているのではないかと不安感を抱きました。

そしてその不安感は、小泉首相が拉致された情報を知った直後のインタビューの時に少し感じ始めたものでもあったように思います。それは小泉首相が武装グループの要望する自衛隊の撤退に対して「自衛隊は撤退しない、テロには屈しない」と、さも「勝手な行動をした一人の命よりも、アメリカとの約束の方が大事だ」と言わんばかりに、インタビューを打ち切るようにマイクから離れて行きつつ放ったコメントに、私は人間としての感情を少しも持ち合わせない、極めて冷たい心を感じ取り、香田さんを見殺しにすることにいささかのためらいが無い我が日本国トップの言葉に言い知れぬ寂寥感を抱かざるを得なかったのです。そんな簡単に前途有る若者の命を見殺しにしてもよいものかと、心に引っ掛かりを覚えたと同時に、私は心の中で、「もし小泉さん、あなたの息子である孝太郎君が同じ事態に遭遇しているとき、同じ様なインタビュー対応が出来るのですか?」、と少々意地悪い質問をしてしまった次第でした。

結論として私は、小泉首相の対応は次のような言葉であって欲しかったと思っています。すなわち、「テロには屈したくはないが、人命は地球よりも重たい、一人の命を救う為に自衛隊は時期を限って撤退する、従って香田さんの処刑は待って欲しい」と。

今の日本の状況は、アメリカの意向に逆らうような言動をすることは必ずしも国益にならないと言う 現実的な意見があることも充分理解しています。もし、武装集団の要望に沿って自衛隊を撤退したら、テロとの闘いとしてのイラク攻撃を支持した小泉首相の立場は無くなることも承知しています。しかし、大量破壊兵器の存在が当事者のアメリカによって否定された今、そして、軍隊を派遣していた多くの国々も撤退を表明しつつある今、更にはイラクが戦場になっている今、軍隊を持たない日本が自衛隊を撤退することには世界全体が異議を唱えることは無いと思うのです。但し、アメリカのブッシュ政権はべつですが・・・・。

私は、小泉首相は国益よりも、どうも自分のこれまでの立場を守ろうとして、自衛隊撤退を拒否し、香田さんを見殺しにすることにためらいを持たなかったように思います。トップは孤独ではありますが、物事を判断し決断するに当たっては、人間にのみ与えられた、"他を慈しむ尊い心"を失ってはならないと思います。我が身の危険を冒して、優太君を救出しようとした隊員達の行動は日本国民に例外無く感動を与えたと思います。感動を与えると言うことは、誰が見ても正しい行為だからであると思います。政治はそんな理想主義では片付けられないと言う声も聞こえますが、その理想主義を失っているところに、世界の不幸が存在しているのだと思います。「和を以って貴しと為す」と言う聖徳太子の統治に当たっての理想は、人類にとって重たい言葉として見なおされるべきものと思います。 この言葉は、アメリカを支配する大方の人々(共和党、民主党関係無く)の頭には全く無い考え方だと思います。この考え方がこの60年間で我が国に浸透してしまったように思われます。

前回の人質事件の時に自己責任と言う言葉が溢れかえりましたが、自己責任の下で死の危機に遭遇した人を助ける必要はないと言うのは、あまりにもアメリカ的発想ではないかと思います。今日の日本は政治の世界だけでなく、世間一般にいわゆる二元的・対立的考え方、つまり善悪・正邪・可否をはっきりさせると言う欧米の考え方に染まり切った感があります。「共に是れ凡夫のみと言う」聖徳太子の人間洞察、「一寸の虫にも五分の魂」、「和して同ぜず」、「動の中に静あり」と言う日本古来の一如・一体と言う考え方は、すっかり消え失せてしまった感が、この度明らかになったように思います。

アメリカと言う国及び指導者達は、自らが正義である事を示す為には、一般市民の命を何とも思わない、だからこそ、日本の広島と長崎に原爆を落とせた人種である事を忘れてはならないと思います。そしてその延長線上に、一方的なイラク攻撃があったし、現在も、ファルージャ空爆が為され、多くの市民の命が奪われているのだと思います。そして、自国の若い尊い多くの命をも犠牲にして、自国の正義を貫こうとしているのだと思わざるを得ません。勇ましさはありますが、恐ろしさ、非情さも持ち合わせているのがアメリカと言う国なのだと考えるべきではないでしょうか。弱肉強食を社会の正しい有り方としているアメリカを手本にすることはそろそろ止めるべきではないかと思います。

私達日本は、勇ましさよりも優しさを優先する国を目指すべきではないでしょうか。そして「テロに屈しない」と言う勇ましい考え方よりも、「テロが起らない世界を目指して頑張る」と言う考え方をしなければ、この地球上から永遠にテロと戦争(国家主導の大規模テロと言うべきだと思います)はなくならないと思いますし、その事を何よりも証明しているのが、イスラエルとパレスチナ問題ではないでしょうか。

日米の指導者はテロは非道と言いますが、アメリカが空爆で市民を巻き添えにするのは非道ではないのでしょうか。それに対して、明確なコメントを出せる政治家はいないと思います。

私は、香田さんの死を無駄にしないためにも、日本はテロに屈しないと言うアメリカのアジテーションに踊らされる事を止めて、"一つの命"を大切にする国家再構築に向かって、国民一人一人が考え方を改めるべきだと思います。今こそ、私達は"一つの命"を大切にする勇気と共に、自らが変われる勇気を持たねばならないと思います。

今、ちょうど、アメリカ大統領選の結果が逐一報道されています。ケリーが勝つにせよ、ブッシュが再選されるにせよ、日本は、日本自身が変わらなければ、これからの21世紀に向かっての国家の繁栄はあり得ないと思います。もうそろそろ、アメリカの動向・意向によって我が国が翻弄される状態から脱出したいものです。過去の日本の総てが良かったというのではありませんが、アメリカ追随の自由競争社会、悪は悪、正義は正義と二元的対立思考による政策を良しとし続けるならば、古き日本の良いものも悪いものも総て失い、日本国家と言うもの自体が早晩滅亡すると危惧するものであります。


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No.436  2004.11.01

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第171条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―往生は一人のしのぎなり

●まえがき:
「大無量寿経」というお経に、「人在世間・愛欲之中・独生独死(どくしょうどくし)独去独来(どっこどくらい)」 (人は、世間、愛欲の中にあって、独りで生まれ、独りで死に、独りで去り、独りで来る) という言葉があります。端的に申しますと私達は皆孤独だと言うことであります。悲観的に受け取りますと、この世は誰も助けてくれない淋しい世界だと言うことになり、厭世的になりかねませんが、そう言うことを説いているのではなく、だからこそ、自己を確立し、積極的に生きて、この人生を無意味なものにしてはならないと言うことであります。ただ、この自己とは、民主主義が教える自己ではなく、我執を離れた本来の自己であります。本来の自己とは、この無相庵法話集に連載中の鈴木大拙師が説かれているところの『無心の自己』『天地の心を戴いた自己』であると思います。

今日の聞書の表題は『往生は一人のしのぎなり』でありますが、『人間と言う得難く尊い命を戴いたこの人生を意味あるものにするのは他の誰でもない、あなたがどう考えどう生きるかにかかっているのだ』と一般的な言葉に言い換えてもよいと思います。そして、この私の明日知れぬ命に気付き、一刻も早く、生まれ来た意味と永遠の命に目覚めねばならないと説いているものだと思います。そして勿論それを教えてくれ目覚めさせてくれるのが仏法なのだということであります。

●聞書本文
往生は一人のしのぎなり、一人々々仏法を信じて後生をたすかる事なり、よそ事のやうに思ふ事は且は我身をしらぬことなり、と円如仰せ候ひき。

●現代意訳
「往生は誰の力を借りれるものでなく、一人一人の努力で為されるものである。また、一人一人が夫々に仏法を信じて、この世において揺るぎ無い安らかな心がえられることである。死というものが他人事としか捉えられず、この世に生かされている我が命は何時までも続くと思っているということは、我が身の現実に気付いていないことといわねばならない」と円如上人がおっしゃいました。

注)円如上人とは、実如上人の第3子。蓮如上人のお孫さんであって、蓮如上人の御文章80篇を選ばれた方のようであります。

●井上善右衛門先生の讃解
ながらく聞法して来られた方から、時に聞く言葉でありますが、聞いて解ったつもりでおりますけれども、どうもはっきりせぬものが胸の底にあって、結局解ったような解らぬような判然とせぬ覚束なさを感じます・・・・・と。

そうした言葉の奥には何か曖昧なものが残っていると言わざるを得ぬでありましょう。聞いて覚えて知って理解してと言う道をいくら積み重ねてみても、それでは信体験には達しません。仏法の真実に入るにはそれに向かう道があります。その道を教えの中に明確に位置付け、その道を確かと指示されているのが菩提心であります。「同発菩提心、往生安楽国」というのは周知の文で、われわれの朝夕に誦しているところですが、その菩提心ということがどうも忘れられているのではないかと思います。菩提とは言語bodhiの音写で"覚"と訳されていますが、それは究極の真実に対する"いのち"の目覚めを意味する言葉です。その菩提に向かう根本姿勢と心情を菩提心というわけです。

知って理解する知識の場に立つとき、眺める自己はそのものの外にあると言わねばなりません。これに対して宗教的信とは真実と自己との生きた関係の中に身をおいて、それを体験的に気づかしめられることでありましょう。
これを次のように譬えてみることも出来ましょう。今ここに一つの蜜柑がある。それを手に置いて、綿密に眺め観察し、色、形、艶、大きさ、重さ等を知ることが出来る。これも確かに知る方法でありますが、それだけが総てではないでしょう。それとは別の関わり方があるはずです。即ち親しく蜜柑を口にして言葉では尽くし難い味わいに接し、その栄養分を身に得ることです。

宗教的体験たる信はこの後者の世界でありますから、いくら仏とは何か、浄土とは何かと、知り得ても、それは知的理解であって、真実そのものに接する体験ではないわけです。だから、何か満たされないものが残るのは当然です。

さて仏道の原点たる菩提心をわれわれに迫るものは、まことに道元禅師の示されるごとく無常であります。われわれは無常を忘れて生活しています。そこに我に非らざものを我と執着する迷妄が起り、その我執にもとづいて我所執(我が所有とするものに対する執着)が生じます。そして果てしない迷執の世界が現出するのです。その迷執の根源を揺り動かすものは死の無常にまさるものはありません。死はわれわれの懸命に追いかけている一切を崩壊せしめます。夢の追求に明け暮れているわれわれを目覚ますこんな貴重な現実はありません。

一休禅師が「人死ぬと思うていたのに俺が死ぬ、これはたまらん」とわれわれの迷妄を諷刺して喚びかけられたということですが、まことに親切な言葉です。「これはたまらん」というところに捨ておくことのできぬ切羽つまった心情が吐露されています。道元禅師は「誠に夫れ無常を観ずる時、吾我の心生ぜず、名利の念起こらず、時光のはなはだ速きを恐怖す」といわれていますが、まことに然りでありましょう。真に無常を視つめるとき、我執や名利の念を起こしているいとまがない。未解決な闇をいだいたまま光陰の迅速に過ぎ行くことを恐怖せずにはおられないというのです。

●あとがき
"一人のしのぎ"と言う意味は、自分一人の努力という意味ではないと思います。いくらお経の言葉を覚えたり、法話を聴聞しても、それが確かに自分のものになっていなければいざと言う時には何にも役に立たないと言うことであります。読んだ仏教書の数も、法話を聞いた回数も年月も、それら自体には何にも価値がある訳ではなく、この現在の瞬間に何を大切に生きているか、そして死に対する心構えの本当のところが決まっているかと言うことだと思います。

幾ら聴聞しても、相変わらず名利を追い求め、愛欲に溺れ切った生活で良しとしているならば、人間に生まれて来た意味は失われてしまうのではないでしょうか。何時死んでも良いとまではゆかなくとも、死を受け容れる心の準備が出来ていなければ、他の動物と変わるところがなく、死に対して無自覚なままに命を終えることになってしまいます。

では、斯く言う私はどうかと振り返りますと、やはり未だ名利を追いかけ、家族親族の愛欲に引き摺られている毎日を送っている自分でしかないことに愕然と致します。ふと振りかえるとき常に「何とかこの借金地獄から逃れたい、事業を再興出来て会社の借金も返済し、この住居の住宅ローンの借金さえ無くなれば、安心で平穏な生活が来るのではないか、子供達夫婦、そして孫達を幸福にしてやれるのではないか」と考えているのです。従いまして、私は未だ、死に対しても覚悟が出来ているはずがありません。

しかし、こんな私ではありますが、救いは、仏法に救いを求めていることだと思います。そして仏法でしか本当の安心は得られないとも確信しています。そして求めている限りは、いずれは蕾が花を咲かせるように時節到来すれば必ず本当の安心が得られると確信しています。それは、この道を辿られて本当の安心を得られた先師・先輩を数多く存じ上げているからではないかと思います。

この仏法を修する道は、独り独りのしのぎであり、誤魔化しの効かない、妥協が許されない道であり、難中の難と言われる道でありますが、多くの先輩が既に渡られた道であり、また同じように歩みを運んでいる同胞も居られますので、自信を持って歩んで行こうと励まされている次第であります。


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No.435  2004.10.28

世間と仏法

世間と仏法の関係に付いては、このコラムでも度々ご紹介して参りましたが、聖徳太子の『世間虚仮唯仏是真』(せけんこけゆいぶつぜしん)、親鸞聖人の『火宅無常の世界は、よろずのことみなもて、そらごと・たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします』、そして蓮如上人の『仏法を主(あるじ)とし、世間を客人とせよ』等のお言葉が直ぐに心に浮かびます。

これらの言葉を表面的に読みますと、「世間というもの、所詮は凡夫同士の煩悩渦巻くとんでもないところで真実や誠も期待出来ないところだ。だから真実・真理を説く仏法を主体とした生活を送ろうではないか」と言う風に受け取ってしまいます。聖徳太子、親鸞聖人、蓮如上人ご自身もあるいはそう言う心も多少お有りになったのかもしれません。

私も以前はそう言う解釈しつつも、しかしどうも心にしっくりと響かないままに参りましたが、最近読んでいる鈴木大拙師の『無心ということ』と親鸞聖人の『自然法爾(じねんほうに)』に関する本を勉強している中で、仏法と世間を別ものと見てはいけない、聖徳太子も親鸞聖人も蓮如上人も決して別ものとは捉えておられなかったはずだと思い至りました。そして、世間を措いて仏法は無い、世間こそ仏法そのものだと捉えるべきであると言う気がして参りました。

最近の世間では、国内では犯罪の兇悪化と低年齢化、政治家の志の無さ、公僕達の汚職、警官・先生による犯罪等などに加えて、世界ではアメリカの一国強権化とテロの過激化、中国の経済発展に伴う先進国の経済の低迷等など・・・人間が自己の欲望に対する自制心を失っての動物化、そして科学的知性・理性を過信したことによる横暴化が目立ちます。これらを見ますと、世間虚仮と言う感じが致しますが、むしろこれは人類が科学的知性に溺れ過信し突き進んで来た結果としての真実が顕れている事態だと言えるのではないかと思います。

文明を持った人類の歴史は、これからの途方も無い未来を想像致しますと、未だ数千年程度しか経ていません。お釈迦様の頃からは未だ2500年程度であり、地球上の人類の歴史は未だ緒についたばかりだと考えてもよいと思います。人類がこれからも地球上に存続する為には、これからもかなりの紆余曲折があるものと想定しなければならないと思われます。

もし、数万年、数百万年後にも人類が存在して、その人類が歴史を振り返ると致しましたら、この数千年は、人類が自己の科学的知性と理性を過信し宇宙の真理に逆らい、大自然に逆らって生きて来た年代であったと言うことになるのではないでしょうか。逆説的に申しますと、凶悪犯罪の激増、犯罪の低年齢化、自殺者の増加、交通事故、自然災害、テロ・戦争、エイズ問題は、悉く自然の法則に随った結果生じたものであり、自然が人類に発した警告であると受け取らねばならないと考えます。そして、そう受け取る人々もぼつぼつと出て来ているように思われます。

人類の科学的知性・理性にブレーキをかけるのは、宗教的知性・理性だと思います。この世間で生じている現象の根本的原因、即ち科学的知性と理性の限界に気付くのは、道元禅師の言われた"万法に証せられる"事、言いかえると"宇宙の真理に目覚める"事でしかないと思います。

仏法者が世間と仏法を別に見て、仏法は法話を聞く時だけとし、日常生活と仏法が離れ離れになっていると致しましたら、これからも人類は永久に救われないのではないかと思いつつ、私自身の日常生活を見直さねばならないと反省している次第であります。

世間即仏法、"世間を生きることが仏法を行じることである"と肝に銘じたいと思うこの頃でありますが、その第1歩は、自分の本当に欲するところは何かと常に問い直す事ではないかと思います。事に当たって"ふと心に浮かぶ事"は我が欲望の満足であるかも知れませんが、それと共に我々人間には我が欲望の充足だけでは決して満足し得ない心が、心の奥底のまたその奥底に芽生えているはずであります、これを私は仏心だと思っております。この仏心に耳を傾けて生きたいと思います。この仏心をより明確に認識するためにこそ、仏法の話を聞くことは大切なことであります。

一方、私の偏見かも知れませんが、総ての人間がこの仏心を持っているとは限らないと言うことも事実ではないかと思います。動物間に頭脳の発達具合の差がありますように、同じ人間でも、やはり宗教的知性・理性の発達具合においてのバラツキがあってもしかるべきであり、また、育つ環境に依りましてもその発達が促進される場合もあれば、後退せしめられる場合もあり得ると思います。

人間総てに同じ水準の仏心が備わっていると考えるのも真実ではないように思われます。そう言うことも含めまして、宇宙的真実・真理を求めながら生きることが仏法とともに世間を生きることではないかと思うこの頃であります。


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No.434  2004.10.25

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第160条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―人に負けて信をとる

●まえがき:
私達の言動を決める基になっている心持ちを仏教では、名聞(みょうもん)・利養(りよう)・勝他(しょうた)を求める心であると申します。すなわち、人に良く思われたい見られたい、先ず自分の得になることを考える、そして人にはどんな事においても負けたくないと言う気持です。私達の言動の総てについてその心の奥底を訪ねれば、この煩悩に行き着くしか外無いと思われます。どのような人のどのような言動にも、その心の奥底にこの三つの煩悩が潜んでいる事は否定出来ないでありましょう。

しかし、この私達を衝き動かすこの煩悩は全面的に否定されるものでは無いとも仏法は説きます。この煩悩がエネルギーとなって智慧工夫が生まれ、文明文化の進歩発展があり、更には弱者への思いやり、援助、寄付、ボランティア活動が展開される訳でありますから、それも実に正しい見解であります。

しかし、一方では、この煩悩のエネルギーが間違った方向に向かいますと他を不幸に陥れ、且つ結局は我が身をも不幸に到らしめます。異論があるかも知れませんが、端的な例をアメリカのイラク攻撃に見られると言えると思います。テロとの闘い、テロの再発を防止しなければならないという世界の盟主としての正義感があることも否定できないと思いますが、ブッシュ大統領個人としての名聞を求める心、アメリカ国家としての利養・勝他を求める心が奥底にうごめいたこともまた否定出来ないと思います。このイラク攻撃が真理にそぐわなかったことは、攻撃するに当たっての国連決議において、ロシア、フランス、中国、ドイツ等の主要国の賛同を得られなかったこと、現状のイラクの混迷振りが端的に物語っていると考えなければならないと思います。

今日の聞書は、勝他の心を誡めるものでありますが、これは恐らく一般に言うところの世間(日常生活)に生きる上での心得に言及しているものではなく、宗教・宗派間の論争を念頭においたものではないかと思われます。

●聞書本文
総体、人に劣るまじきと思う心あり。此の心にて世間には物をし習ふなり。仏法には無我にて候ふ上には、人に負けて信をとるべきなり。理をみて情を折るこそ仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。

●現代意訳
総じて我々には人に負けまいと言う気持ちが強い。この気持ちがあるからこそ勉強もし精励努力するとも言える。しかし、仏法は無我であると言うのが根本的な考え方であるから、世間におけることは人に負け譲ってでも、真実の信心を第一とすべきである。真理を第一として凡夫の感情を抑制させて頂けると言うことにこそ、仏様のお慈悲が現れているものと考えたいとおっしゃいました。

●井上善右衛門先生の讃解
人間の行動や生活の拠り所となっているのは自我意識と我情であってこれが人間活動の原理であるとも言えましょう。これは人間の業で、誰が教えたものでもありませんが、人間本能の中に深く根ざしている先天的な活動の原動力であります。

その自我と我情が普通には「人に劣るまい負けまい」という意識となって働きます。これは子供でも大人でも本質的には同様です。従ってこの心の旺盛な者はよく活動します。世に「負けじ魂」というのもこれであって、これがよき事柄に向うて、大いに精励努力して大成をもたらすことにもなります。ですから人間の自然状態としては、大切なエネルギー源といってもよいでありましょう。

しかしその底には、必ず我情という勝他の根本性格が潜んでいることを忘れてはなりません。そのために一つ違うと、他を蹴落としても自分が勝利者になろうとします。それが競争の名の下に荒れ狂うて、人間が相互にねたみ争い傷つけ合うという悲惨な事態を引き起こします。努力奮発の原動力となることは結構ですが、それが同時に勝他の煩悩と分かつことの出来ない一体性をもっているところに大きな問題があります。

教育ママの被害や、試験競争の痛々しい弊害もここに帰因しているものです。これは制度の改変だけで救えるものではありません。制度を変えてもまた必ず別の形で現れて来るでありましょう。現代人は自己自身の内なる本質を放置して、外に原因を問い救いを要求するのが常ですが、それで人間世界の難問題が解決するとは思えません。外の改革は常に内なる心の脱皮と表裏並行するのでなければ道は開けぬでありましょう。

人間行動の本質原理と、そこから生まれる葛藤と苦悩とに対して、仏法の活動原理は無我であります。この無我ということが誤解される場合が多いようです。即ち、自我の根性が無くなれば、骨を抜かれたように中心がなくなって、積極性を失った無気力な状態になってしまうかのように考えられることです。これは通俗観念の大きな間違いです。無我とは、我でないものを我と思うて執着している迷いの殻から脱して、人間存在の真実相に立ち帰ることです。即ち真実の自己に目覚めることに外なりません。

無我といわれる場合の我は執着している幻の我を指し、それから脱却した状態を無我と言い表したのです。このとき一切の自己矛盾を離れた美しい秩序が生まれます。そして躍動する自由と創造の世界の主体としての活動が顕現するのです。その活動を隠蔽し閉鎖しているのが我執であり我情でありますから、無我はまさしく人間存在の主体的解放であります。

すでに第80条に、仏法は無我であることが示されており、それをうけて今、「仏法は無我にて候ふ上は・・・・・」と述べられているのです。無我が仏道を貫く根本原理であり、その無我による利他の真実が大悲の名号となって廻施されるのが浄土真宗でありますから、その大悲を領受する信心には法爾として無我の徳が含まれています。この無我の真実に浴して我執我情の生活が転じ、無我の世界原理の中に位置付けられるのが念仏者であります。もちろん業を背負うかぎり、我情の惰勢は存続せざるを得ませんが、その我情を貫いて無我の光が染み出て下さるのは有難い極みです。

かつての生活の中では考え様もなく、工夫のしようもなかったその事に、新しい光と安らいが現れて下さるよろこびを知らしめられます。その一例が「人に負けて信をとる」という事柄として示されているのです。我情に立つ限り、ただ負けてはならぬの一途で、その外に道はなかったのです。ところが広大な信徳に浴して、さらりと負けることが出来るようになる。それは我情が徳に融かされるお陰です。有難いことだという感銘が「負けて信をとるべきなり」という述懐となって語られています。なぜ負けることができるのか、それは勝つことに勝(まさ)る世界の人になるからであります。世に「負けるが勝ち」という諺もあるように、我情を張って勝つことが勝ったことではありません。真実の世界に摂め取られることこそ最勝の事柄であります。

●あとがき
聞書本文中にある『人に負けてをとるべきなり』は、『人に負けてをとるべきなり』と言うことでもあると思います。真実・真理に勝るものはないということであります。最終的には真理に適った者が勝つと言ってもよいでしょうし、真理に随って物事は進んで行くと言ってもよいでしょう。

真理に随っていない限りは、世界から戦争もテロも無くならないだろうと思います。では、イラク問題に関する場合の真理とは何であったか、どうあるべきであるのが真理に適っていたかと言うのは、簡単に結論は出せないでありましょう。イラク攻撃に反対したフランス、ロシア、中国にも夫々の立場があって、この国々がブッシュ、ブレァー、フセインの三者共に説得し得る案を出せなかったところにも大きな問題があったのではないかと思います。

米英がイラク攻撃の根拠とした大量破壊兵器が見付からなかった現時点で思うことは、フセイン大統領が本当に大量破壊兵器を保有していなかったならば、フランス、ロシアがイラクの大量破壊兵器の査察対応姿勢についてフセイン大統領に妥協を働きかけておれば、米英による性急なイラク攻撃は防止出来たのではないかと言うことです。

世間は、名聞・利養・勝他を追い求める者同士の競争社会であります。この競争社会で起こる問題や紛争の解決は、これまた人間の持つ"性急"と言う本能をお互いに誡めて、何処かに妥協点を見出すと言う努力でしか為し得ないものだと思います。国連がその妥協点を見出す場にならなければ人類に平和は永遠に訪れないでしょう。

鈴木大拙師は、西洋の二元的・対立的思考では世界平和は為し得ない、東洋の一元的・一如思考に依らねばならないと力説されていましたが、世界の盟主と自負するアメリカ大統領に『人に負けて信をとる』と言う考え方があることを教え諭し得るのは仏教国日本の役割であろうと思います。

そして、私自身の日常生活に今日の聞書の『人に負けて信をとるべきなり』を実践する為にも、先ず私自身が仏法の信心を確立しなければならないと思ったことであります。


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No.433  2004.10.21

無心・自然法爾・他力・仏様

現在も引き続き鈴木大拙師の著書『無心ということ』を繰り返し読んでいるところですが、なかなか難解な内容であります。浄土真宗の集まりの法話会での筆録であり、鈴木大拙師としては、かなり平易に述べられたものだと思いますし、師が至られた悟りの境地を、悟りに至っていない私達に少しでも理解出来るように説明されていることが言葉の端々で十分に伝わって参りますが、それでも体験していない者に取りましては、最後の一点が分からないというのが正直なところです。

鈴木大拙師の悟りの境地を頭で理解し、私自身が悟りに至ることは不可能であると言うことだけは明確になったように思います。しかし、人間には考えると言う能力が与えられておりますから、与えられた能力の限り、悟りに近づきたいと思うことは自然な願いだと思います。聞・思・修(もん・し・しゅう)と言われるように、お話を聞き、自らの頭で考え、そして修養し体得すると言う段階は仏教の信を深める上での王道であると思いますので、このコラムは、私自身が聞と思を深めて行く過程を公にして、皆様の聞・思・修の何らかの参考になれば幸いと思って続けて参りましたが、今後もその努力を続けさせて頂こうと考えています。

従いましてコラム内容は出来るだけ平易を心掛けておりますが、難しい部分がありましたら、掲示板に問い合わせて頂ければ幸いであります。

さて、コラム表題の『無心・自然法爾(じねんほうに)・他力・仏様』は、言い換えますと、無心=自然法爾=他力=仏様であります。鈴木大拙師の『無心ということ』と浄土真宗の先生方のご著書を併せ読みますと、これは間違い無いところではないかと思われます。

平易に申しますと、この世、つまり地球上で起こる様々な自然現象も人間社会の出来事も、宇宙で起こる総ての現象は、人智を超えた、人の力ではどうしようもない働きと法則に随って生じているということであります。それは人類というものがそもそもその働きによって地球と言う星に生まれ出たものでありますから、人智を超えた働きというのは極当たり前のことだと思わざるを得ません。

仏教で使われている無心、自然法爾、他力、仏様と言う言葉はすべて、この世で起こる事は人の"はからい心"では何ともならないと言うことを表している言葉だと言ってよいと思います。そう致しますと、私達は自然の為すがままを受け容れて生きるしかないと言うことになります。事実、地球に存在する木石(ぼくせき)は、自然の為すがままであります。動物にしても、人間から見れば不自由に思われることにも何一つ不満・不平を言うことなく、本能のままに生き、そして静かに死を受け容れているように思われます。

それでは人間も、木石の如く、また他の動物の如く、何もはからう事無く、無心に自然のままに生きればよいということになりますが、考えると言う能力を与えらた人間は、木石や他の動物のようには参らず、それが人間の苦悩としてあらわれているのだと思われます。

しかし、その苦悩も自然法爾として人間に与えられたものであると言えます。人間には他の動物に与えられていない想像する能力、創造する能力、自己を見つめる能力、自己の命を考える能力等、沢山の能力を与えられていますが、苦悩することも与えられた能力の一つであると考えて、総てを受け容れて、今この瞬間に与えられている生命に感謝して、能力の限りを尽くして生きるのが、鈴木大拙師がおっしゃる"無心に生きる"ということではないか、また親鸞聖人の他力本願に生きるということであり、自然法爾と言うことではないかと考察している次第です。

ただ、"無心に生きる"こと、自然法爾の中に生きることが親鸞聖人の他力の南無阿弥陀仏にどう転換されるのか、報謝の念仏と言うことなのかも知れませんが、未だ私の心にぴったし来ないと言うのが正直なところであります。

今日から新しい法話として鈴木大拙師の『無心ということ』からの抜粋をアップ致します。上述の私の考察の背景となっている箇所でもあります。ご参照の上、私の考察へのご批判を頂ければ幸いであります。


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No.432  2004.10.18

蓮如上人御一代記聞書讃解ー第155条ー

『れんにょしょうにん ごいちだいき ききがき さんかい』と読みます。

表題―世間の隙(ひま)を欠きて聞くべし

●まえがき:
大方の人は、忙しい忙しいと言いながら毎日を過ごします。私も特に車を運転している時などは、交叉点に差しかかって運悪く赤信号に変わる事が重なる時には、ふと「なんと運が悪い」といらいらすることがあります。「何を急いでいるのか」と、無意識のうちにせかせかいらいらと生活している我が身を反省致しますが、また知らず知らずその愚を繰り返してしまいます。

世の中で大事なことは何なのか、生きる上での中心を間違いますと、忙しい忙しいと言っているうちに、何も得ることなく人生を終わってしまうのだ、とは仏法の説くところです。

世の中の人の多くは、お金や名誉・地位を求め、果てしない闘いの日々を送っているものと思います。実は、私の現実も、朝目覚めますと仏法のことよりも家計と会社の資金繰りのことが先ず頭に去来するのが実態でありますが、幸いにも毎週2回書き続けているこのコラムのお陰で、かろうじて何とか仏法との縁が切れない生活が保たれていると言うところです。

「仏法を主(あるじ)として、世間を客人とせよ」と言う蓮如上人の言葉があります。また「仏法には明日と言うことはあるまじく候」と言う言葉もありますが、俗世間で生活する私達には極めて厳しい言葉であります。それゆえ、他力浄土門は易行道でありながら、信心を得ることは"難中の難"と言われるのでありましょう。

今日の聞書は、隙(ひま)を見付けて仏法の話を聞くという姿勢は、人生の最も大切なことを忘れて、世間のことを最優先にしてしまっているではないかと言う厳しい指摘であります。

●聞書本文
仏法には世間の隙を欠きて聞くべし、世間の隙をあけてきくべき様に思ふ事浅ましきことなり。仏法には明日といふ事はあるまじき由の仰に候。「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきく人はながく不退にかなふなり」と和讃にあそばされ候。

●現代意訳
仏法は世間において隙が無い中をおして聞かなければならない。隙(ひま)がないのに、隙が出来れば聞こうと言う考えはとんでもないことである。仏法には明日と言うことは無いのだといわれている。「私達凡夫の心を奪い、心を乱す色々な誘惑や困難がある人生の中で、自ら仏法を求めて仏に出遇う人にこそ、金剛の信心が与えられるのである」とは和讃にも示されていることである。

●井上善右衛門先生の讃解
おおよそ、この世には三種の人があると聞きます。その第一は。世事をもっと総てとし、世事にのみあくせくして全く仏法に志のない人です。第二には世間のことを八分通り営み、二分を仏法聴聞に当てる人です。第三には、聞法を生きる中心とし、世事はその仏法聴聞の資(かて)として営むという人です。そうした人は決して世務を軽んじるのではありません。却って第一類の人より執われることなく十分に務めを果たします。それは世事に対する執着を超えるからでありましょう。『聞書』第157条に、
       仏法を主とし、世間を客人とせよ。世間の事は時に随い相働くべき事なり。
という含蓄深い言葉がありますが、今の事柄と思い合されます。

以上三種の人の別は、根本的な生きる姿勢にかかわる問題であって、世務に関する問題ではありません。われわれにとって大切なことは、そのいずれが本当の人間の生き方かということです。『往生礼賛』に「人間怱怱として衆務を営み、年命の日夜に去るを覚えず、燈の風中に滅すること期し難きが如し、忙々たる六道定趣なし」とあるのは第一種の人を諷されたものでしょう。無意味に生まれ無意味に死し、果かない輪廻に浮沈するばかりです。このような人にはこの世の本能的享楽が総てであって、その果敢なさを感じることさえないのでありましょう。

●あとがき
今日の聞書は、勿論、「世間の事はどうでもよい、仏法を大切にしなさい」と言うことではありません。この世間に生まれた意味が何であるかを求めなさいということであります。この世に生まれたのはお金を儲けることではないでしょう、地位を求めることでもないでしょう、と言うことであります。

何を求めたらよいのかと言うことは仏法が説くところでありますが、試験問題に対する解答のように、今の私には「それは、こうこうです」とは簡単にまとめることは出来ません。そしてそれはおそらく私自身が求めつづけてゆくことでもあると思います。

孔子の有名な「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」と言う言葉の中の"道"というのは"宇宙の真理"とか"宇宙の真実"という意味であり、仏法における悟りとか信心のことであろうと思います。まさに仏道とは、真理を求める道であります。


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No.431  2004.10.14

インターネット集団自殺

昨日合計7名の集団自殺が報道されました。現在のところ、インターネットの掲示板で知り合ったと言う、私達から考えますと極めて希薄な関係の仲間であるようです。昨年も同様の経緯と見られる30数名の集団自殺があったと言うことです。

報道と言うのは世間のネガティブな部分の報道に偏っていますので、ある程度は割り引いて受け止める必要はあると思いますが、それに致しましても最近は、兇悪殺人、無差別テロ大量殺人事件が我が国だけではなく、地球の彼方此方で起こっており、昔より確実に危機的な状況が深刻化して行っていると言ってもよいのではないかと思います。あの9.11のアメリカ経済の中心地域ニューヨークで発生した同時多発テロは、まさに人類の危機的状況を象徴するものと考えるべきではないかと思います。

私達現代人が確認出来る歴史は、数千年でありますが、人類と言われる生物の歴史は数百万年だと言われています。環境問題が云々されていますが、これからも、人類には数百万年、或いは数億年の未来が待っていると考えてもおかしくはないでしょう。そう考えますと、この数千年を人類歴史のヒトコマと見る立場も容認出来ると思います。

その立場に立ちますと、この数千年の人類は、科学文明の発展と共に経済を発展させながら、地域間の貧富の差を拡大し続けて来たと言うべきではないかと思います。そして通信技術の進化によって、その貧富の差の拡大が世界中で共有化され、貧困層とその力を利用しようとする反体制派が不満を爆発させているのが世界の今日の状況であると思います。

総ては経済の不均衡、貧富の差から生じていると私は思います。そして、情報伝達手段の発展によって、その経済の不均衡と貧富の差が誰にも知らしめられるようになったことが、更に拍車をかけていると思います。

冒頭の集団自殺の原因も、直接的には貧富の差にあるとは言えないでしょうが、辿ってゆけば、物質文明、科学文明の発展に邁進して来た世界の縮図とも言える日本が生み出した事件であると考えねば、再発を防止出来ないと思います。

自殺は人間にのみ天から(言い換えますと、仏様から)与えられた能力であります。一方、科学する能力も、経済を発展させる能力も、仏様から与えられた能力であります。また、殺人も仏様から与えられた能力であります。

この千数百年は、これらの偏った能力だけが発揮されて来たと言うのが人類の歴史であると思いますが、人類には、別の尊い能力も与えられていると思います。生き物を慈しみ、育て上げたいと言う慈悲心を与えられていますとともに、総ては平等であり一如である事を願う心を与えられていると思います。だからこそ、2500年前に、お釈迦様がこの地球上に出られ、2000年前にキリスト様が出られたのだと思います。

人類は心を翻して、経済の平等、貧富の差の縮小を目指した方策を採って行かねばならないと思います。道は長く険しいですが、小さな努力の積み重ねが必要だと思います。そうしなければならないシグナルが最近の世界に見られる危機的状況であると思います。そして、冒頭のインターネット集団自殺事件の根っ子は、日本が歩んできた経済大国への道に咲く小さくも悲しい花ではないかと思われてなりません。


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