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No.310  2003.08.18

修証義に啓かれてー第16節ー

●まえがき:
親鸞聖人は、『信』を大切にされ、この修証義で説かれている『戒』に関して言及されていません。日本に伝わるまでの仏教におきましては、悟りに至るための修行道として、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)と言う三学が示されていましたが、親鸞聖人や日蓮上人などの鎌倉時代以降の仏教では、庶民の仏法と言うこともあるのだと思いますが、『戒』よりも『信』が強調されて来ました。

つまり、悟りに至るための修行として守るべき生活態度は如何にあるべきかと言うよりも、仏法を信じる心がどれだけ強いかと言うことのみを大切にして来ました。

ただ、鎌倉仏教の中で、道元禅師だけは、勿論、三宝に帰依することを第一にされており、信を大切にされていますが、他宗の祖師方とは異なって、生活態度を規定する戒を、特別に重んじられているように感じます。それは、道元禅師だけが戒を大切にしていた中国(当時の宋)へ留学されたからだと思われます。

浄土真宗に馴染んで育った私も、戒については、馴染みがなく、従って、この修証義も難解に感じています。

●修証義―第15節
受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰の智人か欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし已(おわ)る、真に是れ諸仏の子なりと。

●西川玄苔老師の通釈
以上の16条の戒法を受け終わったことは、過去・現在・未来の仏がたがご修行の果報として体得なされた最上最尊この上ないお悟りである。それを受戒した者は、過去世の善根功徳の因縁が熟しきって受けることが出来たのである。仏のお悟りたる戒をそのまま信受した受戒者は、金剛の宝のごとく、いかなる悪業きたるとも退かず、いかなる魔障害もぶちこわしていくという仏果を心身に体得することが出来るのである。だから、智慧のある者は誰であろうと、この仏の戒を受けるのを欣い(ねがい)求めるのである。釈尊は、以上のことを、はっきりと『梵網経』の中で、われわれ一切衆生のために説かれておられる。『いかなる衆生でも仏の戒法を受けるならば、即時に諸々の仏の境涯に入ることが出来る。仏がたの境涯は、そのまま仏のこの上なき悟りを成就されし世界であるから、戒を受けし者は、そのまま仏の悟りと同じく天地法界そのものを本来の私と身に証しうるのである。これが本当に仏がたの子となったということである』と。

●あとがき:
修証義が難解と感じるのは、馴染みの問題や、相性と言う問題もあろうかと思いますが、親鸞聖人と道元禅師の仏法に取り組む動機の違いによるものではないかと考察しています。

すなわち、親鸞聖人は煩悩に悩まされる自分が救われる道を仏法に求められたのに対して、道元禅師は仏法の最高位である悟りを求められてご修行に励まれ、終には中国にまで渡られたのだと思います。仏法の王道を求められたのだと思います。

どちらも、10歳未満で比叡山に預けられたわけですから、自らの意思で仏道に入られた訳ではありませんが、思春期から青年に成長するにつれ、仏法に求めるものが異なっていったのだと思われます。

ここで、どちらが正しいとか相性がよいとかと言うことを問題にしているのではなく、どちらも仏法であり、どちらに片寄るのではなくて、信も戒も同じように大切にする姿勢でありたいと思います。それが修行そのものが証(悟り)と言う修証一如(しゅうしょういちにょ)を意味する修証義の心、すなわち道元禅師の心ではないかと思います。

●次週の修証義―第17節―
諸仏の常に此中には住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、群生の長(とこしな)えに此中に使用する、各各の知覚に方面露(あらわ)れず、是時十方法界の土地草木牆壁(しょうへき)瓦礫(がりゃく)皆仏事を作(な)すを以て、其の起す所の風水の利益に預る輩、皆妙甚不可思議の仏化に冥資せられて親き悟りを顕わす、是を無為の功徳とす、是無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。


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No.309  2003.08.14

仏教にもコペルニクス的転回が必要か?

20世紀傑出の理論物理学者であるアインシュタイン(1879〜1955)は、『科学の無い宗教は盲目であるが、宗教の無い科学は不具である』と科学一辺倒の世界に警告を発せられていたと聞きます。現代は、まさにその警告通り、人類が科学を推し進めて生み出した、核をはじめとする大量破壊兵器や、炭酸ガスをはじめとする産業廃棄物が地球と人類に危機をもたらしています。

『科学と宗教』は、その立場と存在目的が異なるものとして論じられて来ましたが、私も、『科学は人間の欲望が生み出したものであるけれど、人間に真の幸福をもたらすものではない、しかし宗教は、欲望が満たされても解消しない人間の苦からの解脱を求めて生み出されたものであり、科学は人間に真の幸福をもたらすものではない』と、科学と宗教は全く逆と言ってよい立場であると考えます。

しかし、私は、立場は異なるものの、宗教と科学は全く無関係ではないとも考えて参りました。否、特に宇宙の真理を説く仏教は、宇宙の真実を解明すると言う面もある科学とは、無関係ではあってはならないとさえ考えて参りました。

人間の苦とされる四苦八苦(生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)は、何時の時代でも変わらなく存在するものであり、その苦の根源もまた、人間の無明(真理に明るく無い事)にあり、我執・自己愛にある事は、今後も人類が存在し続ける限り、不変の真理であることは疑いようも無いと思います。

また、仏教の説くところの、縁起の道理、無我と無常の真理は、科学の進歩と関係なく、むしろ科学を超えて、宇宙と共にあり続ける永遠の真理であると確信しています。

しかし、大乗仏教の経典の中に示される喩え話をはじめとする、お釈迦様の教えを説明する教典や論文の有り方は、科学の進歩と共に見直さねば、時代・時代の人々に受け容れ難いものも出て来るのではないかと思いますし、お釈迦様の真のお心が伝わらないのではないかと危惧して参りました。
ここ百年、否、ここ数十年の科学の進歩は実に目覚しいと感じますが、それは感覚的にと言う事であって、実は、ここ数百年の進歩が、その過去二千年に比較しますと格段に目覚しいのであります。

それを象徴的に表現するのが『コペルニクス的転回』と言う科学史上で決定的に有名な言葉でありますが、これは、『地球が宇宙の中心にあって、太陽や月や星が、この地球の周りを回っているのだ』と言う天動説から、『地球やその他の惑星が太陽の周りを回っている」と言う地動説に転回した事を言い、その提唱者であるポーランド生まれのコペルニクス(1473〜1543)のお名前を冠して『コペルニクス的転回』と言われています。【実証は、あの宗教裁判で、『それでも地球は回る』と言う有名な証言をしたガリレオ・ガリレイ(1546〜1642年)が致しました】。

地球が宇宙の中心であると言う考え方から、地球は太陽を中心に回る単なる惑星の一つであると言う、それこそ天地がひっくり返るほどの人類の持つ知識の転回でありますが、これは、実はたった400年少々前の出来事なのです。そして驚くべき事は、地球は球体ではなく、平面的なものとして考えられ続けていました。

考えて見ますと、仏教は、そのコペルニクス的転回の、約二千年前にお釈迦様によって説かれたものであります。

また、地球上の生命に関して、コペルニクス的転回とも言える『生物進化論』が唱えられたのは、更に、たった2百年位前ことです。人間は他の動物と無関係に存在するのではなく、十数億年かけて単細胞から進化した結果の存在であると言う科学的真実もまた、極々最近の事であります。

そして、大乗仏教国の日本に地動説が伝えられましたのは、1772年と言われています。そう致しますと、聖徳太子も親鸞聖人も、道元禅師も、蓮如上人も、白隠禅師も、一休禅師も、地球と言う丸い星に住んでいると言う感覚は持っておられず、人間は果てしなく平面的な世界に住み、太陽や月が天上とも言うべき空中を規則的に動いていると考えておられたのだと思います。

また、進化論が日本に紹介されたのは明治になってからだと聞きますので、親鸞聖人が、一切の生物は、すべて、私の過去、未来の父母か兄弟であると言われた事は、むしろ、どうしてそのような進化論的考えをなされたのかと不思議にさえ思います。

いずれに致しましても、お釈迦様や親鸞聖人の宇宙観と、現代の私が抱く宇宙観とは、コペルニクス的転回がなされた別ものであると言ってよいと思います。

こう考えますと、科学知識教育を詰め込まれ、宇宙は150億光年のとてつもない空間であり、無数の地球の様な星が存在する立体な空間であることを知り、日常生活では科学技術の恩恵を余すところ無く享受して瞬時に地球上のあらゆる出来事を知ることが出来る現代の私達が、お浄土であるとか、阿弥陀仏とか法蔵菩薩と言う私たちの五感で認識出来ない架空の存在を、容易に信じる事が出来ないのも又、致し方無い事ではないかと思います。

空中浮揚とか、予言が的中するとか、人間に生まれる前の世の姿を見通すとか言う非科学的な新興宗教であるとか、或は占いに傾倒する人々に関しましては、逆に、科学的な冷静さを取戻して頂きたいと思います。

阿弥陀仏の誓願・本願を素直に信じられず、従いまして、素直にお念仏が称えられない私は、現代の凡夫を代表させて頂きまして、なかなか信心を戴けない凡夫の弁解を申し述べた事になったのかも知れませんが、昔の人達に比べて、飛躍的に増大した科学知識が、信心の障壁となっている部分がある事は確かだと思います。

宗教も科学も、人間が五感(眼、耳、鼻、舌、身)で認識し、残りの第六感の『意』を総動員して生み出したものである以上、科学を無視した事柄を容易に信じる行為は、むしろ妄信・狂信に陥る危うさがあると考えて来ました。

浄土門は易行と言われますが、一方、信心を得る事は難中の難とも親鸞聖人はおっしゃっています。阿弥陀仏の本願を信じる事はなかなか大変な事だと思いますが、科学知識が邪魔をしている部分があると致しましたら、その部分を解消させる責任が、私達、現代を生きる浄土信仰者にあると思います。

私の最も尊敬する井上善右衛門先生は、浄土を大切にされ、その身に実際に浄土の光耀を感じられ、南無阿弥陀仏と一体になられた方だと思います。そして精一杯、その信心の世界と、それに至る道を説いて下さいました。勿論これは、井上先生だけではございませんが、そう言う祖師方の努力を引き継いで、誰にでも容易に信心が頂けるように、仏法にコペルニクス的転回をもたらす勇気を持つことも、現代の仏法者に求められているのではなかろうかと、恐れ多い事だとは思いつつ、しかし私は切実に思います。

浄土門で説くところの、西方十萬億仏土を越えたところにお浄土があると言う事は、この穢土から時間的・距離的に遠く離れたところにあると言うよりも、精神的な清浄さにおける距離感を表現されたものだと思いますが、表現そのものは、昔の宇宙観に影響されたものだと思います。

『弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて念仏申さんと思い立つ時、即ち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり』と言う歎異抄に引用された親鸞聖人のお言葉の中の、阿弥陀仏の誓願と言う表現も、般若心経に示されている観自在菩薩の悟りに至るためのご修行と言うことも、宇宙の立体的な知識や、数百万年にわたる人類の歴史に関する知識を得た私には、かなり現実離れした説明であり、その言葉を聴いただけで拒否反応を示す現代の知識人も多いように思われます。

そう言う科学的知識に拘る限りは、悟りへの道はほど遠いと言う立場が信仰の世界にはありますが、科学を忘れた宗教は盲目であると言うアインシュタイン博士の警告を仏法者として、見過ごす訳には参らないと、私は思います。

浄土門の多くの祖師方は、恐らくは、架空の浄土であるとか、阿弥陀仏であるとか、法蔵菩薩とか、そして誓願を信じる上で、かなりのご修行が必要だったものと思います。明治以降に生まれられた浄土門の先輩方(清沢万之師、金子大栄師、白井成允師など多数)は、大いなる研鑽を積まれたものと思います。

そのご苦労とご研鑽は、大いに称えたい思いますが、旧来の浄土経典の説明だけでは、現代人に取りましてはあまりにも理解し難く、説明の仕方におきまして、コペルニクス的転回を果たしませんと、仏教の中でも特に浄土門は、現代人から見離される道を歩むしかないと思われます。

縁起の道理、無我、無常の真理を現代の科学知識を踏まえながら、現代人にお釈迦様の御教え を伝えて行く、これは幸いにもこの世で仏法に縁を頂き、多少は科学に関係させて頂いている 私達の役割ではないかと考えています。

私に、今直ぐに、そのような能力が無い事が真に残念ではありますが、浄土教の先師の説かれ たところを勉強させて頂きながら、仏法が、今後、千年後、万年後の人々の生きる灯火になり 続けるために、コペルニクス的転換の一助になりたいと思います。


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No.308  2003.08.11

修証義に啓かれてー第15節ー

●まえがき
戒と言いますのは、日常生活において、守るべき規律です。しかし、内容を見ま すと、如何にも当然守らねばならない事柄に思えますが、よくよく吟味し、わが 身を振り返りますと、到底守れていないものが殆どと言って良いものです。
先ずは殺生してはいけないと言う第一番目の戒ですが、私達人間は、生き物を食 べないと生きていけません。毎食のメニューを思い起こせば、他の生命でないも のはありません。自分自身が手を下してはいませんが、これでは、戒を守ってい るとは言えません。
ウソを言ってはいけないと言う戒も、私は絶対ウソを言った事が無いと断言出来 る人は稀でしょう。
私は、仏教の戒は、煩悩具足のわが身を気付かしめるために用意されたものでは 無いかと思いますが、どうでしょうか。

●修証義―第15節
  次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒、次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪淫戒偸盗戒、第三不邪淫戒、第四不妄語戒、第五不?酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀侘戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、上来三帰、三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。

●西川玄苔老師の通釈
懺悔の徳、帰依三宝の功徳により、本来わが身に備わっている大清浄心が開発されたので、次の三通りの清浄な戒を受けることにより、目覚めたる尊き働きとなる。第一に、清浄心は、本来の真実の道そのものを進んでいくから悪へ脱線しようがない。第二に、清浄心の行いは、やることなすこと善行となる。第三に、清浄心の働きは、生きとし生きるものにおのずから大利益を与える。次いで、この本来の清浄心は、十種の重い犯してはならぬ戒を受けることにより、目覚めたる尊き働きとなる。第一は、天地一切のものをわが命と感ずるから、何ものも殺せない。第二は、天地一切のものはそれぞれ尊き福分を持って存在していると感ずるから、盗めない。第三は、天地一切のものは、清浄な身であると感ずるから、淫らな心がおこりようがない。第四は、天地一切のものは、真実の言葉より出ていると感ずるから、うその言いようがない。第五は、天地一切のものは、天地本然の智慧の働きによっていると感ずるから、自分の了見の勝手なモノサシで分別しない。第六は、天地一切のものは、もとより真実の法で働いているから、過(とが)の言いようがない。第七は、天地一切のものは、本来真実の体そのものであるから、特別誉めたり、そしったりする必要はない。第八は、天地一切のものは、そのまま法の財宝であるから、わが物というものはなく惜しむということはあり得ない。第九は、天地一切のものは、慈悲心のあらわれたものだから、腹の立ちようがない。第十は、天地一切のものは仏法僧の功徳そのものだから、謗りようがない。今まで述べた三帰、三聚浄戒、十重禁戒は、あらゆる仏がたが信受し相続されたもうたものである。

●あとがき
しかし、なかなか戒律を守れない凡夫であると開き直るのはどうかと思います。
お釈迦様が、苦、集、滅、道と仏法の道筋を示されていますが、最初に苦、即ち 苦を認識せよと言われ、そして苦の原因を見極めよと説かれ、苦から解脱した世 界を説かれ、最後に八つの正しい道を示されています。
最後に正しい生活のあり方を示されたのは、仏道を歩む者に、こうあらねばなら ないと示されたのではなくて、仏道を歩めば、自然と至るであろう生活態度を示 されたのだと思います。守れないかもしれないけれども、そうありたいと心の底 から願う正しい生活、または戒律をしめされたのでは無いかと思います。
仏教は、難行苦行を強いたり、戒律でがんじがらめに人を縛る教えではありませ ん。しかし、戒律を守りたくなる程に、自己を見詰め直す人にしか、扉は開かれ ないのではないでしょうか。簡単そうで、簡単ではない。易行道でありそうです が、易行道ではない、そんな気が致します。

●次週の修証義―第16節―
受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰の智人か欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の為に示しまします、衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし已(おわ)る、真に是れ諸仏の子なりと。


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No.307  2003.08.07

過ぎ去れるを追うことなかれ

玄関先の琉球朝顔が、遂に花を咲かせました。毎年こうして、同じ時期に同じように花を 咲かせる自然の営みは、私たち人間が理論的に説明出来ない不可思議な生命の実体です。

以前のコラムで幽霊のお話し(No.287 2003.05.29)を致しました。青山俊董尼のお話から拝借させて頂きましたが、同じお話の中に、次の様なお釈迦様のお言葉を引用されていました。

過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来らざるを念(おも)うことなかれ
過去 そはすでに捨てられたり
未来 そはいまだ到らざるなり
ただ今日 まさになすべきことを 熱心になせ
たれか明日 死のあることを知らんや

(『中部経典』131「一夜賢者経」

かなり有名なお言葉ですので、ご存知の方もおられると思いますが、実行出来ているかと言いますと、なかなか徹底出来ないものではないでしょうか。そう言う私自身、『過ぎ去れるを思い煩い、来るか来ないかも知れない未来を心配して、只今為すべき事は上の空、そして、明日も必ず生きている積もり』と、お釈迦様の教えに背いているのが現状であります。

私たちの本当の落ち着きどころは、『今日まさに為すべきことを熱心に為そう』と言う事だと思います。実際に我が人生を振り返りましても、自分が予想し、希望した通りに事が運んだ事は殆んどありません。また、逆に心配した通りになった事もまた、殆んどありません。しかし、そう言う経験を数多く積み重ねながらも、未だに、来らざる未来を心配していると言うのが現実でございます。

3年前から私自身の身に始まった経営危機と個人の危機は最終局面を迎えています。この3年間まさに色々な出来事、乗り越えねばならない決定的な危機も何回かありましたが、予想しなかった注文があったり、予期しない方から支援を貰えたり、何とか今日に至っております。今も常識的に予想すれば、精々3か月位で破綻の運命にありますので、良い事が起こるとはどうしても思えません。所謂マイナス思考が勝ってしまいます。

現実は、なかなか、お釈迦様のお言葉通りには参りませんが、そう言う現実生活の中で、仏法に触れて、この言葉を思い起こせば、今出来る事を精一杯果たすしかないと心が定まり、積極的な行動が取れます。そして、今受けている苦難があるからこそ、こうして、お釈迦様の言葉に真正面から出遭えるのだと考えています。

無相庵カレンダーの中に、二宮尊徳の詠があります。
        『この秋は、雨か嵐か知らねども、今日の勤めに田草とるなり』

これは、多分、二宮尊徳が冒頭のお釈迦様のお言葉を意識されて詠ったものだと思います。

私たちは、どうしても、未来を予測してしまいます。これは多分死ぬまで続く人間の業だと思います。だからこそ二宮尊徳が自分を戒める想いから前述の詩を詠まれたのだと思いますが、今日出来る事を今日し尽くすと言う事の一点に絞ろう、一日区切りの一日を意識して生きようと言う、二宮尊徳の気持ちが痛いほど伝わって参ります。

お釈迦様も二宮尊徳も、人間になかなか出来ないことだからこそ、人生の生き抜く理想・目標として、斯くありたいと言う事を詩として遺されたのだと思います。忙しさと苦悩に満ちた日常生活の中で、こう言う先師のお言葉を味わう瞬間を持つことが仏道を歩む在家庶民のあり方だと思います。

そう言う想いもありまして、私は技術開発と言う仕事の傍ら、仏法の種を撒く仕事をしようと考えました。仏法は、死者を弔う葬式や法事のためにあるのではありません。お経は、死者に手向ける内容ではありません。この事を一般家庭に伝えたいと思い、お寺さんとの関係が構築されていない都会の核家族を対象として、読経と一口法話を引き受けるサービスを始めようと思っています。


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No.306  2003.08.04

修証義に啓かれてー第14節ー

●まえがき:
道元禅師(1200〜1253年)と親鸞聖人(1173〜1262年)が同じ時代に生きておられたと言う事は実に奇跡的ですが、接触・交流が無かった事は、致し方ないにしても、お互いの存在すら知り得なかった事を私は残念に思います。

鎌倉時代に日本の仏教は、貴族社会のものから、一般庶民のものに変貌を遂げたのですが、それは、道元禅師と親鸞聖人が、自らが救われ、そして在家の一般庶民が救われる道を開発されたからであると言ってよいでしょう。お二人は、本人にその考えが無かったかもしれませんが、日本の仏教史上、双璧の改革者であると言って良いと思います。そして、さらに言えば、インド、中国、日本と伝わった長い歴史の中で、仏法をお釈迦様の仏法に回帰させた功績はまことに甚大であると思います。

修証義を読み進むに従って、親鸞聖人と道元禅師とは、念仏と座禅と帰依の姿は異なりますが、自力・他力と言う見方をするとしたら、道元禅師も他力信仰だと言って良いのではないかと言う想いが確かになりました。

この節では、感応道交と言う言葉が使われていますが、これは、歎異抄の冒頭にある親鸞聖人のお言葉、『弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまうなり』と相通ずるものだと思います。

●修証義―第14節
此帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交(かんのうどうこう)するとき成就するなり、設(たと)い天上人間地獄鬼畜なりと雖(いえど)も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、已(すで)に帰依し奉るが如きは、生生世世在在処処に増長し、必ず積功塁徳(しゃっくるいとく)し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、世尊已(すで)に証明しまします、衆生当に信受すべし。

●西川玄苔老師の通釈
さてこの仏法僧に帰依する功徳は、どのようにして起こるかといえば、それはなんとしても救い遂げたいという三宝からの慈悲の呼びかけの念と、なんとしても助かりたいという衆生の応ずる念との呼吸がぴったりと合った時に発起するのである。それ故、たとい天上界や人間界の善衆生でも地獄界や鬼畜の悪衆生の念との波長が合えば必ず三宝に帰依するのである。そのように帰依しおわると、いくたびうまれかわり死にかわろうと、又いかなる土地場所へゆこうとも、帰依三宝の功徳はますます成長してゆき、雪だるま式にその徳は積み重なり、広大となり、遂にはこの上ない悟りである仏の境涯にまで成就していくのである。このように帰依三宝の功徳は最尊最上で、我々の言葉で言うことも、心で思いはからうことも出来ない程、深く不可思議なものと知るべきである。このことは、遥か以前に釈尊が御証明になっておられるから、なにも解らない私どもは釈尊の御証明をそのまま信受すべきである。

●あとがき:
そして、私達が浅はかな知識を振り回すことを止めて、お釈迦様の言われる通りのままに信受しようと言う呼びかけは、『よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別に仔細なきなり』と言われた親鸞聖人の信仰姿勢、至られた境地と全く同じであることに、感動を覚えます。

そして、自分が親鸞聖人と道元禅師の後の時代に生まれた事に幸運を感じます。このお二人がいなければ、お釈迦様の真実の教えに触れることは出来なかったと思うからです。

●次週の修証義―第15節―
次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒、次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪淫戒偸盗戒、第三不邪淫戒、第四不妄語戒、第五不?酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀侘戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗三宝戒なり、上来三帰、三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。


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No.305  2003.07.31

夕べには白骨となれる身なり

仏教で言われる四苦、即ち、生・老・病・死の苦は、私達人間だけではなく、生物すべてが受けるものです。前回のコラムで、人間はこれらの苦痛を苦悩に変えて、苦痛の度合いを倍増させてしまうと申しました。

生老病死と並べてはいますが、なんと言っても、死は別格であろうと思います。どんな苦に悩まされていても、死を宣告されましたら、すべての苦悩は死一点に絞られるはずです。また、如何に幸せの絶頂にあろうとも、死を宣告されますと、すべての富も名誉も地位も愛も虚しいものとなり、ただただ死の恐怖におののき、何も手が付かないことになるものと思われます。

私も一度下腹が痛くて、総合病院で超音波検査を受けた事がありますが、検査担当者が首を傾しげただけで、癌を宣告されたような想いをした経験があります。ましてや、癌を告知されたならば、どうなるでしょうか。これは他人事ではありません。

もう約40年前の事ですが、顔の軟骨が腐ると言う病気で、21歳と言う若さで亡くなり、『愛と死を見つめて』『若きいのちの日記』と言う著書を遺された、大島みち子さんと言う方が、その著書の中で、『病院の外に、健康な日を三日下さい。一日目、私は飛んで故郷に帰りましょう。そして、おじいちゃんの肩を叩いてあげて、母と台所に立ちましょう。父に熱燗を一本つけて、妹達と楽しい食卓を囲みましょう・・・』と、慎ましい願いを遺されました。
私は死を目前にして、こんな安らかな願いを抱けないと思います。

人間にとって『自分の死』は天地が引っくり返る程の問題であり、且つ誰一人として避け得ることなく必ず遭遇致します。それは理屈で分かっているはずなのに、何故、私達は、死と言うものに真剣に目を向けないのでしょうか。いやむしろ積極的に避けていると言って良いでしょう。

『人間は、どうしたって死を免れることは出来ない、死の瞬間は、意識も薄れて、恐怖心すら抱けないだろうから、元気な今からわざわざ思い悩む必要は無い、生きている間に人生を存分に楽しめば良い』と勇ましいことを言われる方もおられるようですが、生の期間がある程度保証され、その後に死が訪れると言うものならば、或はそう言う考え方も出来るかもしれません。

しかし、私たちの生と死は、死を抱きながらの生であります。そして、決して年齢の順番に死を迎える訳ではありません。私達の生は『朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身』を抱えての瞬間・瞬間の連続であります。

仏法が最も基本的に説くところは、修証義の冒頭にありますように、生死を諦(あき)らかにする事にあります。『死を超越する』と言いますと誤解が生じますし、言葉で表現する事は難しいと思いますので、どの祖師方も、明確に表現されていませんが、『死にたくはないが、死も一つの自然な出来事として受け容れられる』と言う心境にまで到達出来るのではないでしょうか。

自力聖道門と言われる禅の祖師で、道元禅師、白隠禅師はご自分の死が三日後に迫っている事を予見され、その通り、安らかに亡くなられたと聞いていますし、山田無文老師のお師匠は、自ら死の装束を召されて、立ち姿のままあの世に旅立たれたと聞きました。

一方、浄土門は、死ぬと言う事は、お浄土に生まれ往くと言う事であるとして、死ぬ事はゼロになる事ではないと説きます。浄土門の方で、私が最も敬愛する井上善右衛門先生は、死に関する最も代表的な心境を現したものとして、白井成允先生の詠を紹介されています。
『何時の日に、死なんもよしや、弥陀仏の、み光りの中の、御命なり』がその詠です。

自分の命を『御いのち』と尊く想える事こそ、永遠の命と一体となった証ではないでしょうか。これは、法然上人も、親鸞聖人も同じ心境であったでしょうし、お釈迦様も、自分の命が宇宙に満ち溢れる命と一体である事を実感されて、安らかに往生されたと思います。

安らかな死を迎え得る人の生は、不安の無い、生き生きとした日暮しに違いありません。そんな生と死に転換されなければ、仏法を聞く甲斐は無いのではないかと、私は思います。

そして、私の様な在家の煩悩生活を送る者でも、仏法を聞き続けることによって、何れは白井成允先生のお詠の心境にまで辿り着けるのだなと、希望を感じます。
『夕べには白骨となれる身』であるからこそ、死を見詰め、生を見直す一日にしたいと思います。


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No.304  2003.07.28

修証義に啓かれてー第13節ー

●まえがき:
この修証儀も、三宝に帰依するという仏法者としてとるべき行(ぎょう)に関するところまで参りました。仏道を歩む者は、仏法僧に帰依しなければならない、或は、自然と仏法僧に帰依するようになると説かれます。なかなか分かり難いところではないでしょうか。

【これまでの要旨】

●修証義―第13節
其の帰依三宝とは正に浄信を専らにして或は如来現在世にもあれ、或は如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えていわく、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は、良薬なるが故に帰依す、僧は、勝友なるが故に帰依す。仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば即ち三帰に依りて得戒あるなり。

●西川玄苔老師の通釈
その仏法僧三宝に帰依することは、純心なまこと心をひと筋に、釈尊ご在世の時であろうと、滅後幾千年経過しようとも、掌を合わせ、頭を低く下げて、口に唱えて『仏に帰依し奉る。法に帰依し奉る。僧に帰依し奉る』というのである。仏は真実の大道へ導いて下さる最上の先生だから帰依するのであり、法はいかなる難治の心の病でも癒す良薬であるから帰依するのであり、僧はお互いに手を取り合い助け合いながら、仏の道を行じてゆく勝れた友であるから帰依するのである。今、ここに幸いにして仏の弟子となったら、必ず仏法僧三宝に帰依するのである。そして、それ以後いかなる戒法をうけようとも、必ずこの帰依三宝が土台となって受けるのである。だからこの帰依三宝の功徳により、すべての戒法が身に備わり成就するのである。

●あとがき:
私も、なかなか素直に仏法僧三宝に帰依することは出来ません。これは、私が未だ素直に、高らかにお念仏を称えられない原因と同様のところに私自身の問題があるからだと思います。

この修証義でも、帰依三宝の前段階として、仏前での懺悔を説かれています。信心・信仰を科学的分析思考することを許されるならば、親鸞聖人のお念仏も、我が身の罪悪深重(ざいあくじんじゅう)に気付かされて、何とか救われたいと阿弥陀仏の本願を信じせしめられる事が前提であろうと思われますので、やはり、帰依三宝も、お念仏も、救いがたい自己の罪深さ、驕慢さ加減を深く深く感じられ、慙愧(ざんぎ)せざるを得ない心境が前提なのだろうと思います。

『われ賢き想い』が少しでもある限りは、仏法僧にも帰依出来ないし、お念仏も称えられないのだと思います。
しかし、それでは何時まで経っても、安らかな心境には成り得ないのではないかと思います。私達は、いや私は少なくとも、自分の至らなさ加減、煩悩の深い事、自己中心さ、それに驕慢さにも慙愧する瞬間があります。しかし、それは瞬間であって、常には煩悩が主体の凡夫です。この繰り返しは、これからも永遠に続くとしか思えません。

ただ、最近、読んだ観無量寿経解説書で、下品下生(げぼんげしょう)と謂われる往生を願う人間の最下級の悪人は、声を出して念仏する事によってのみ、浄土往生することが出来るという下りがありました。

善人は、この世で為した善行が因となって往生出来るが、悪人は、臨終において仏様を念じることで仏様の来迎があり、浄土往生出来るものの、悪人の中の悪人は、念じるだけでは駄目で、口に念仏を称えることではじめて、阿弥陀仏の来迎があって浄土往生出来るというのです。

一生造悪の凡夫は、すべて下品ですが、その中でも救いようのない悪人が下品下生と言われています。実に示唆に富んだ解説であり、ここに私の救いがあるかも知れないと思いました。
帰依三宝も、下品下生の自覚によって自然に為される行ではないでしょうか。

●次週の修証義―第13節―
此帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交(かんのうどうこう)するとき成就するなり、設(たと)い天上人間地獄鬼畜なりと雖(いえど)も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、已(すで)に帰依し奉るが如きは、生生世世在在処処に増長し、必ず積功塁徳(しゃっくるいとく)し、 阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議なりということ、世尊已(すで)に証明しまします、衆生当に信受すべし。


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No.303  2003.07.24

苦痛・苦難・苦悩

地球上の生物は、すべて、等しく苦痛・苦難を受けますが、苦痛・苦難が苦悩になるのは、私達人間だけです、そう言う想いと、この苦悩をどうすれば解決出来るかの道標を与えてくれているのが、仏法だろうなと言う想いから、今日のコラムを書かせて頂きました。

私は、今、経済的な苦痛・苦難に遭遇しています。勿論、12年前の脱サラ以降も、常に資金繰りに困窮し、毎年、心暗い正月を迎えていました。家の売却も2度程決断した事がありますが、その都度、思い掛けない融資を受ける事が出来たり、或は突然、仕事量が増えたりして、実際には家を売却する事も無く今日に至りましたが、今回は、少し様子が異なり、かなり厳しい状況にあり、今回の苦痛・苦難は心身に打撃を与えている事は否めません。

私達夫婦と子供達夫婦にとりましては、人生に於いて、そう何回も経験しないであろう苦痛・苦難に遭遇していると言ってよいと思っています。

しかし、この人生最大の苦痛・苦難は、私達家族だけではなく殆どの家族が遭遇していると思います。否、むしろ私達以上の苦痛・苦難に向き合っている方のほうが多いと思います。このコラムを読んで頂いている方々も含めて、この世に生を受けた者は、常に何らかの苦痛・苦難を抱えている事は、間違い無い事だと思います。そして、その苦痛・苦悩は、他の人には理解して貰えない程の大きさだと思います。

昨日の新聞に、長崎の少年による殺人事件の駿君の父親のコメントが掲載されていました。『少年は自分がしている事が何も分からなくなったと言うけれど、予めハサミを持っていたでは無いか、彼の言葉はすべて、刑を軽くして貰うための発言としか思えない、兎に角極刑にして欲しい気持ちは変わらない』。

この父親の気持ちは、私にも同じ年齢の孫達がいますから、もし孫たちが駿君と同じ目に遭ったとしたら、これ以上の激情に駆られると思いますので、胸が痛みますが、一方、加害者の両親の気持ちも慮(おもんばか)ってしまいます。私がもしその加害者の親だったらと想像しますと、生きていけない位の苦しみだろうと思ってしまいます。これは私が第三者だからこその想いでしょう。

私達は、まことに残念ながら、他人の苦痛・苦難を我がものとはどうしても受け取れません。そして、自分が今遭遇している苦痛・苦難が、最大のものなのです。

私の妻の幼馴染で、昨年末に癌を告知され、1年位の命と言われた人がいます。また、極々親しくしている娘さんで、結婚前の若さで、不治の難病と言われる病を告知された人もいます。そして、息子の親友で、自分も勤務していた父親の会社が倒産した人もいます。住宅ローンを抱えなから、リストラされ、就職先も見付からない友人もいます。苦痛・苦難は実に千差万別です。

しかし、癌を告知された妻の友人は言います。『あなた達は、未だ命があるじゃない!』。確かに、やはり、私達の経済の破綻よりも、癌告知の方が辛い事は間違い無いと思いました。苦痛・苦難の張り合いでは、完全に負けだと思いました。しかし、ここが人間の悲しさでしょう、やっぱり、自分の苦痛・苦難が最大の問題である事には変わりが無いのです。 それは、多分、人間の場合、苦痛・苦難が苦悩となって、心を占領するからだと思います。

考えてみれば、苦痛・苦難は、私達人間だけでなく、動物も植物も遭遇致します。しかし、苦痛苦難に遭遇した時の反応は、人間、他動物、植物は、全く異なります。動物は、苦痛・苦難を、致し方無く、そして無防備、無批判に受け入れるでしょう。植物は、苦痛と思う感情さえ無いと思われます。

しかし、人間だけは、苦痛・苦難を苦悩に変換して、更に苦しみを倍増させます。『何故、私がこう言う目に遭わなければならないのか?』、『何故、苦しいのだろう?』『苦しみとは何だろう』『苦しさから逃れる方法はないものだろうか?』と、色々と懊悩(おうのう)致します。苦痛・苦難が苦悩になる瞬間です。

この苦痛・苦難が苦悩になるところに、人間として生まれた訳があると私は思います。多分、人間以外の動物には、苦痛・苦難はあっても、苦悩は無いだろうと思います。

そして、苦悩があるからこそ、人間は宗教を求めるのだと思います。お釈迦様は、生・老・病・死の苦痛を知り、その苦痛を致し方無いものだとは思われませんでした。苦痛から逃れ得る道を求められて、皇太子の地位を捨てて、出家されたのだと思います。

そしてお釈迦様は、悟りを開かれた最初の説法で、苦・集・滅・道と言う仏法を歩む道筋を示されました。はじめに苦を明らかにしなさい、即ち苦を自覚しなさいと説かれたのだと思います。そして、苦の原因は何かを明らかにしなさいと説かれました。

長崎の少年の事件を短絡的に解説してはなりませんが、あの少年は自分の心に湧き上った言い知れぬ不安(即ち苦)が何であるかを認識出来なかったのではないでしょうか、従って苦痛が苦悩にまで至らず、苦の原因追求へと言う道筋を踏み外してしまい、自分自身も訳の解からない凶行に突き進んだのではないかと思います。

また、反面、現在受けている苦痛・苦難は、当人としては、避け得るべくも無く、凌ぐしかありませんから、苦悩にはならないと言う面もあると思います。
苦悩は、これから起こり得るであろう、苦痛・苦難に対する不安感とも言えるのだと思います。

従いまして、苦悩は、人間だからこそ遭遇し、人間だけが持ち得る、人生の階段の踊り場だと思います。この苦悩を機縁として、仏道への扉を開かれると言うのが、人間としての生まれ甲斐だと言ってもよいと思います。

それを、『煩悩即菩提』とか『衆生の外に仏無し』と祖師が申されたと思うのです。

私も、今は苦痛・苦難の中に、どっぷりと浸かっています。決して楽しくはありません。しかし、かなり負け惜しみ的な発言ですが、今この時でしか味わえない心境を、どう受けとめて行くべきかを人生の課題として考察させて頂く、またと無い瞬間として捉えるべきだと言い聞かせています。

最近、浄土真宗関係の偉大な先師であるところの金子大栄師のご著書を拝読しています。そのご著書の中で、人間は、人として経験する悩みと、人であるが故の悩みを抱くと言う事を述べられています。

そして人として生まれたが故の悩みは、人として経験する悩みを貫き通すと言うことをおっしゃっています。その意味を、今、私は領解することは出来ませんが、最終的には、人として生まれた意味が分かり、我が命が宇宙全体の命と同根と感じ、死を超越出来るようになれば、苦悩から解脱出来るのだと思います。


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No.302  2003.07.21

修証義に啓かれてー第12節ー

先週の木曜日に4年間使用して来たノートパソコンが動かなくなりました。どうやら、ハードディスクが壊れたようです。息子に言わせれば、酷使によく耐えて働いて来てくれたと言えるようです。パソコンが使用出来無くなって、社会と断絶させられた想いが致しました。久し振りに、手書きの文書を作成し、FAXすると言うことも致しました。月曜コラムを中断しなければならないかとも覚悟しましたが、故障して休止していたデスクトップを息子が生き返らせてくれたお陰で、何とか間に合いました。パソコンに強い息子が居なければ、コラムは中止せざるを得なかったと思います。

ただ、私のパソコン知識の至らなさで、これまでのデーターは殆んど消失させてしまいました。メールアドレスはすべて無に帰しました。これまで、交信させて頂いていた方々には、こちらからメールが出来ない事をお詫び申し上げます。

● まえがき:
2週間振りの修証儀です。
『三宝に帰依すべし』と説かれている章に入っていますが、その帰依とは、私が死んで帰えるところ、生きている間の拠りどころがはっきりとしていることですが、その帰依するところが、間違っていると大変なことになります。道元禅師は、この節で、帰依するところを間違うと取り返しがつかない人生になってしまうと叫ばれています。

今の日本の大方の人々の帰依するところは、一体、何でしようか。
多分、死んでゆくところは、何もなく、死ねば何も無い、そして生きている間の拠りどころは、お金なのだろうと思います。渋谷の小学生女児の事件も、お金が簡単に貰えると言う動機で発生したもののようです。お金さえあれば、何とかなる、お金がなければ人生に価値は無いと言う大人の社会の人生の価値観が、子供に投影されて起こった事件だったと言って良いかも知れません。

勿論、お金は大切ですが、お金そのものには価値が無いことも確かです。無人島に住んでいて、お金を幾ら持っていても、何も価値はありません。お金を何に使うか、何に変えるかと言う事がお金の価値を決めるのだと思います。

仏法では、三宝に帰依せよと言います。三宝とは、仏・法・僧です。道元禅師は、この三宝に帰依すれば、苦悩から解脱出来ると言われています。帰依すると言う事は、すべてを投げ打って大切にすると言う事です。

しかし、何故、仏法僧の三宝が大切なのかを理解する事は.難しいです。私も今は一般の方々に、うまく説明出来ませんが、仏法僧とは、宇宙の真理とか真実と言い換えて良いと思います。そして、真理とか真実も難しいとすれば、先ずは、私が持っている欲望のままに生きる事は、真実に反した事と考えてよいと思います。そして、それも欲望を否定しているのではなく、欲望を限りなく膨らますこと(むさぼり)が正しいことではないと言う事だと思います。

● 修証義ー第12節ー
若し薄福少徳(はくふくしょうとく)の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり、何(いか)に況(いわん)や帰依し奉ることを得んや、徒(いたず)らに所逼(しょひつ)を怖れて山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多(せいた)に帰依すること勿(なか)れ、彼は其帰依に因りて衆苦を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。

● 西川玄苔老師の通釈
そうであるから、過去世において善根功徳を積まなかった者は、もしも今生において福分も薄く、徳も少ない身分に生まれたら、仏法僧三宝にあえないだけでなく、その御名さえも耳に入らないのである。だから、どうして三宝に帰依することが出来ようか。そのような人々は、人生において色々な苦悩に出会うと、ただむやみに怖れおののいて、迷信邪教の山に祭られた神とか祟(たた)りをはらってやろうという霊神とか、或いは仏教以外の教えで何々の功徳を与えてやろうとかの殿堂に走り込んでいくが、そのような帰依は、いち早くやめるべきである。
何故ならば、そのような霊験功徳を求めて帰依し、お参りに行っても、決して種々 様々な苦悩から脱け出ることは出来ない。かえってますます迷うだけである。だから、早く仏法僧三宝に帰依し奉って、諸々の苦悩から脱け出すのみでなく、古今不変の真実の大法を体得しなくてはならない。

● あとがき:
帰依するとか、お念仏を称えるとか、と言われますと、私のように科学的知識が絶対とした教育を受けたものは、その根拠を求めてしまいます。頭で納得出来ないと、素直に従う事が出来ません。

しかし、仏道を歩み続けますと、それは実に驕慢(きょうまん)であって、お釈迦様とか、先師の言われるままに、素直にお念仏を称え、三宝敬うほかは無くなるのだと思います。念仏を称える意味とか、三宝に帰依する意味を詮索するのは、思い上がりも甚だしい事なのだと知らしめられます。

これは、盲信すると言う事ではなく、我が身の至らなさ、愚かさ、罪の深さを知らしめられますと、否応なく、頭が下がり、せめて、お念仏を口で称えさせて頂こうと言うことにならざるを得ません。

三宝を帰依する意味が分かったら、帰依します、念仏を称える意味が納得出来たら、称えますと言うのは、甚だおこがましいことであります。

交換条件有りの帰依であり、念仏だと言うことになります。道元禅師が、無所得の座禅、目的無しの座禅、ただ座るのみと言われたのは、その事だったのだと思われます。

ただ帰依する・・・・・ただ念仏する・・・・・。

● 次週の修証義―第13節―
其の帰依三宝とは正に浄信を専らにして或は如来現在世にもあれ、或は如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えていわく、南無帰依仏、南無消帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は、良薬なるが故に帰依す、僧は、勝友なるが故に帰依す。仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば即ち三帰に依りて得戒あるなり。


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No.301  2003.07.17

朝には紅顔ありて(あしたにはこうがんありて)

大谷光真氏(浄土真宗本願寺派の第24代門主、西本願寺住職)が、この春ご著書を出されました。その題名が、今日のコラム題名の朝には紅顔ありてです。この著書は、浄土真宗関係の本としては、珍しく、30万部を超えるベストセラーになっているようであり、少しびっくりしています。

大谷光真門主は、1945年生まれとありますから、私と同い年です。浄土真宗の教団を率いるトップの方でありますが、かなり平易に、仏教を説かれており、一般の方々には親しみ易いものです。ただ、少々平易に過ぎるところがあり、親鸞聖人の浄土の真宗から少し距離を置き過ぎていると感じました。

しかし、この様な著書を機縁として、多くの方が親鸞聖人の御教えへと導かれて行くならば、実に喜ばしい事だと思います。

朝には紅顔ありては、浄土真宗中興の祖と言われる蓮如上人が制作した『白骨のご文章』と言われる中にある言葉で、『朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり』と続きます。
(浄土真宗の御教えを蓮如上人なりに感得した心境を平易な言葉で綴られた書き物を、『ご文章』と言います)

この『ご文章』は、浄土真宗の葬式、法事で必ず読まれるものであり、浄土真宗信者の方なら知らない人はいないと言えるものです。私も幼い時から、仏前で読んでいましたし、その『白骨』と言う、生々しく死を表現する言葉があり、幼心に何か恐ろしい気持ちも抱いた記憶があります。

今朝あんなに元気だった人のお通夜がその日の夕方に行われると言う事は、そう珍しい事ではありません。死は、私達が無常を最も身近に、そして深刻に感じる出来事です。蓮如上人は、その深刻な出来事を例に挙げられて無常を説かれ、私達に、先ずこの世の無常を知る事が、この苦しい人生から救われるスタートになるのだと白骨のご文章に示された訳です。

仏教は、縁起の教えであり、無常とか無我を説きます。すべては縁によって起るから、固定したものは無く、常に移り変わって行き(無常)、また、単独で存在し得るものは何も無い(無我)と教えてくれます。

しかし、それを頭で、知識として理解出来ても、それがそのまま私達の救い、即ち、安らかな心を与えてはくれません。宗教は、私達に安心を与えてくれなければ、その価値はありません。逆に言い換えますと、安心を与えてくれるのが宗教です。

安心を与えてくれる宗教を見付けて下さったのがお釈迦様であり、それを仏教と言います。そして、さらに現代の私達にも分かり易くお釈迦様の教えを説いて下さったのが、インドの達磨大師以降の中国の祖師方はじめ、日本の聖徳太子、法然上人、親鸞聖人、道元禅師、白隠禅師等の方々です。中でも、親鸞聖人は、私達と同様に妻子を持ち、煩悩生活をされる中で、安らかな心を得る道を開発されました。その道を訪ね、素直に聞き開くのが、私達在家の仏道だと思います。

浄土教では、厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)とよく言われます。この世を穢土(けがれた世界)と言い、あの世を浄土(きよい世界)とし、浄土に生まれゆく事を希求致します。

私は、科学に関係した仕事をして生きて来ましたし、現在も科学に携わっており、この人間の頭で獲得した科学的知識では、とても『お浄土』の存在は信じられませんでした。しかし、最近は、お浄土が無ければ、人間は救われないのかも知れないと思うようになりました。

この世は、聖徳太子が言われた通り、世間は虚仮【こけ、(偽りに満ちており、かりそめのもの)】であり、説明がつかない事が色々と起ります。理解を超える出来事に遭遇致します。私達現代人は、何でも人間の手で解決出来る、何でも達成出来ると考えて、真実に背いた事を平気で行ってしまいます。イラク戦争も、北朝鮮問題も、結局は、何が正しい事かは分かりません。正しいと思ってした事が、実は間違っていたと言う事にもなります。善かれと思ってした行為が、悪い結果になる事もあります。それを聖徳太子は世間虚仮(せけんこけ)と言われました。

翻って、私自身の心の中を覗いても、真実か、清浄かと問い直すと、誉められたものではありません。動物の闘争本能、攻撃本能も、盛んであり、煩悩は消える暇がありません。煩悩を吹き消そうと思っても、自分自身で制御出来ません。また、死ぬ事も怖くてたまりません。死も人間の知識だけでは超越出来るものではありません。
親鸞聖人も、『心は蛇蝎(じゃかつ、ヘビやサソリ)の如くにて』と懺悔され、『未だ生まれざる安養の浄土は恋しからず』と、生身の肉体を持った人間は、仏様の御心からは、まことに程遠いものである事を懺悔されました。

その様に、自分にもこの世にも絶望した人間が救われる為には、お浄土が無ければならないと思います。即ち、いずれは、差別も無く、動乱も、闘争も無い寂静の世界と言われるお浄土へ生まれる事が出来ると言う確信が得られる事によって、はじめて安心が与えられるのではないでしょうか。

そして、そう言う世界(お浄土)に生まれて来いよと願い続けて下さっているのが、阿弥陀様であるから、阿弥陀様に向かってお念佛を称え、浄土往生を頼めよ、それが阿弥陀仏の本願なんだよと言う教えが、法然上人によって、約800年前の日本で明らかにされました。

更に法然上人のお弟子であった親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を信じた、その時点で既に救われており、称える念佛は、頼む念仏ではなくて、感謝の念仏だと言い換えられました。そして、私が阿弥陀仏の本願を信じたのではなく、阿弥陀仏の方からの願いによって、信じせしめられたと、他力本願を徹底されました。

自分が現に生きているこの世は確かに穢土(えど)ではあるけれど、既に浄土往生が確定した身にとっては、身は穢土に有りながらも、既に浄土の風光を味わう事が出来る仏と等しい身にさせて頂けるのであると、慙愧と悦びの念仏に生きられたのが親鸞聖人です。

厭離穢土(おんりえど)と欣求浄土(ごんぐじょうど)と言う事も、この世が虚仮(こけ)であることを認識出来たからこその厭離穢土でありますが、虚仮である事を認識するには、真実の世界(浄土)が分からなければ虚仮が認識出来ない訳でありますから、厭離穢土と欣求浄土は、別の表現ではありますが、表裏一体のものであると言えます。

お浄土を語ると、科学的知識教育を受けて育った現代人は、時代遅れの妄想だと、首を傾(かし)げて遠ざかると危惧する風潮が浄土真宗教団にあるのだと思いますが、科学的知識を幾ら積み重ねても、この世での安心は得られません。浄土真宗は、やはり浄土思想が中心であり、浄土を離れて、親鸞聖人の教えは語れません。

浄土真宗は、お浄土を明らかにしなければなりません。お浄土が確信出来てこその安心だと思いますので、一般の方々にも、親鸞聖人の浄土の真宗に人生の安心を求めて頂きたいと思います。私自身も、お浄土に関する信心を深めて、このコラムで、現代に生きる方々にお浄土を明らかに出来たらと思います。


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