No.290  2003.06.09

修証義に啓かれてー第7節ー

今朝早く歩いて5分の郵便ポストに行く途中、幼稚園の庭に咲いている紫陽花に目が止まりました。

●まえがき: 日本が陥っているデフレがドイツにもアメリカにも伝染しそうである。と言うよりも、恐 らくサミットに参加している世界の先進国すべてが当面デフレに向い、後進国との格差が ある程度縮まるまで(数十年)続くと考えるべきではないかと思います。

20世紀に生まれた資本主義と共産主義の攻めぎ合いは、共産主義の崩壊で終止符が打たれましたが、資本主義が勝利した訳では無かったと考えるべきではないでしょうか。ソ連の崩壊(1991年)と同時に、日本のデフレが始まり、あの同時多発テロも含めて、昨今の世界が抱える諸問題は、資本主義が人類を幸せに導く唯一のシステムではない事を私達に告げているように思われます。

私の会社も、私個人も、急激な資産デフレにより明日の命が保証されていません。こんな時代は、弱者が常に犠牲者となるのは、歴史で証明されています。道元禅師、親鸞聖人の生きた鎌倉時代がまさに、弱者が飢饉に疫病に戦乱によって苦しめられた時代です。

日本の宗教史上、世界的に評価されている親鸞聖人と道元禅師が、殆ど時を同じく鎌倉時代であった事は、偶然では無いと思います(親鸞聖人は1173〜1262年、道元禅師は1200〜1253年)。共に京都生まれで、公卿家に誕生した事もまた偶然ではないと考えます。

平家が壇の浦で滅び(1185年)、本格的な武家政治に移行し、京都を中心に戦乱絶える事がなく、1230年には大飢饉と、疫病が流行り、京都の市中では、餓死者、路傍や鴨川の河原に累々と重なったと言う、世紀末的な世相であった事と、二人の哲学的宗教家の誕生は、決して無関係ではないと思われます。

そして、お二人共に、人間であるがゆえに持つ宿業(罪とか悪)と、人間だからこそ持つ仏心、仏性と言う相反する両面を肯定し、その両面の間に必然的に存在する細い道に人間が救われる仏道を見出されたのではないかと考えます。

●修証義―第7節
仏祖(ぶっそ)憐みの余り広大の慈門を開き置けり、これ一切衆生を証入せしめんが為なり、人天(にんでん)誰か入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖(いえど)も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受(きょうじゅ)せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。

●西川玄苔老師の通釈
仏や祖師方は、衆生の苦しみ悩みを、自分の苦悩と感ぜられて、何とかその苦悩を救ってやりたいと、広大な慈悲の門を開いて、衆生を引き入れ、悟らせようとしておられる。だから誰でも、その門をくぐる事が出来るのである。善悪の報いを受けるのに三通りあるとは第一章で述べたが、今ここに悪の報いを受けて苦しんでいる者は、昔造った悪業により現在このような悪報を受けているのだと気付いて、仏前で懺悔するなら重罪は転じて軽くなり、やがては罪業消滅して、本来の清浄な身に帰るのである。

●あとがき:
仏前で懺悔すれば罪が消えると説くこの第7節を読む限りは、道元禅師の教えは、神様の前で懺悔を求めるキリスト教的な趣きがあります。

親鸞聖人は、阿弥陀如来の前で懺悔すれば、罪が消えて本来の清浄な身になると言うような事は決して言われませんでした。むしろ本当の懺悔が出来ない罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫だとご自分を断じられました。そして、だからこそ阿弥陀仏がこう言う凡夫を救い取ろうと言う願いを立てられたのだと確信されました。

親鸞聖人と道元禅師の教えは全然違うもののように思われがちですが、私は、説き方は異なるけれども、他力念佛によって救われるためには、阿弥陀仏の願いを信じて一切をお任せする清浄な心にならないと救われない訳ですから、自力的表現をするか他力的表現をするかの、表現の違いだけではないかと考えたいと思います。

道元禅師は、『自己を運びて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり』とおっしゃっていますが、このお言葉を私なりに解釈しますと、『自分の小賢しい考えでこの世の中の真理を究めようと言うのを迷いと言い、宇宙の真理によって生かされて生きている自分に気付かしめられるのを悟りと言う』と言う事だと思いますので、これは正真正銘の他力の考え方ではないかと思います。

混迷の時代の始まりに生まれた親鸞聖人と道元禅師の教えは、共に他力の教えだと思います。まえがきで申し述べましたように、人類も世界規模の混迷の時代に入っていると考えるべきだと思います。そしてこの数十年の間に新しい精神文化(哲学思想、宗教)と経済システムが産声を上げるのではないか……。

私は、この厳しい弱者受難の混迷時代を生き抜く心の支えとして、親鸞聖人、道元禅師の教えを学びたいと思います。そして、一方、生存競争にしっぽを巻いて逃げる事なく、世間の勝者をも目指して、この逆境を乗り越えたいと思います。 今日から、夜勤のアルバイトを始めます。

●次回の修証義―第8節(第二章懺悔滅罪)
然あれば誠心(じょうしん)を専らにして前仏に懺悔すべし、恁も(いんも)するとき前仏懺悔の功徳力我を掬いて清浄ならしむる、此功徳能く無碍の浄信精進を生長せしむるなり、浄心一現するとき、自侘(じた)同じく転ぜらるるなり。其の利益普ねく情非情に蒙ぶらしむ。


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No.289  2003.06.05

何の為に生まれて来たのか

『自分は一体何の為に生まれて来たのか?』、ふと、そういう想いがよぎった事があるという方は結構おられるのではないでしょうか。一方『そんな事考えても仕方がない。人間も自然の中の一生物や、生まれて来たからには、生きるよりしようがない。悩んでいる暇があったら、仕事、仕事することや』と言う勇ましい考えの人もいる事も確かです。

後者の考えの方には、真実の宗教は必要ないと思われます。真実の宗教と申しましたのは、真実ではない宗教もあるからです。真実ではない宗教とは、人間が根本的に有する欲望を叶える事を謳い文句にしている団体のものを言います。例えば、信仰すれば病気が治るとか、商売繁盛するとか、災難に遇わないとかと勧誘し、多額の寄付を必要としたり、団体のシンボルである建物が異常に豪勢であったりする団体の教えは、私の定義から致しますと、真実の宗教ではないと思います。

『何の為に生まれて来たのか』と、ふとお考えになる人は、食べて寝て起きて仕事をして適当に遊んでと言う生活に、どうしても充実感を抱けないものです。本当の生き甲斐を見付けられないものだと思います。生き甲斐を持つと言うことは『ああ、私はこの為に人間に生まれて来たのだなぁー』と思える状態です。

勿論人間は、ふとそう言う瞬間もあります。何かに集中出来た時は、そう感じる事もありますが、決して持続するものではありません。例えば、親しい友と楽しいひとときを持っている時とか、得意な趣味に没頭している時とか、それこそ、自分の能力を発揮して仕事が順調に進んでいる時とかは、生き甲斐を感じると思いますが、それは飽くまでも一時でしかありません。

卑近な例で恐縮ですが、今、大リーグで活躍している野茂投手、イチロー選手、松井選手、彼達こそは、野球選手と言う職業に生き甲斐を持っていそうに見えますが、果たして如何でしょうか。日本中の人々から注目されていますから、遣り甲斐はあるでしょうし、生き甲斐でもあるかも知れませんが、不調になって、マスコミから叩かれたりした時は、ふと『自分は何の為に生まれて来たのか、何の為にアメリカまで来ているのか』と言う想いがよぎる事はあるのではないかと思います。

再三再四取上げて来ました豊臣秀吉の辞世の詠『露とおき、露と消えぬる我が身かな、なにわの事は夢のまた夢』は、日本の歴史上でも最高の権勢を誇った秀吉にして、結局は、生き甲斐が見付けられなかったと言う反省と後悔の詠であります。でありますから、この競争社会、この生存競争の激しい世間を勝ち抜いても、決して生き甲斐にはならないと言う事は間違いのない事であります。
勿論、世間の生存競争に勝つ事は素晴らしいですし、その努力は社会に役立つものである限り、社会を構成するメンバーとして積極的に努力しなければなりませんが、ただ、それが本当の生き甲斐にはなり得ないと言う事も頭に置いておかねば、精神的に悲惨な結末しか待っていないと言う事ではないでしょうか。

明治の宗教家であり、親鸞聖人の教えを現代に甦らされた清沢満之師が『宗教の基本は自己を問い直すことから始まる』と言われたそうですが、自己の心の有り様を、自らが見詰め直すべき事を説かない団体は、私は宗教団体ではないと思います。いえ、そういう教団は、少なくとも仏教に属する宗派ではないと言えます。

お釈迦様がお亡くなりになる時、遺言として『自らを灯火とせよ、法を灯火とせよ』(2灯2依、にとうにえ)という言葉を遺されたと伝えられています。他人を頼りとせず、『自分を頼りにしなさい』と説かれているのですが、この言葉のお気持ちは、『自分自身に焦点を絞って、自分の心の有り様がどうかをテーマとして生きて行きなさい、そうすれば、きっと法(宇宙の真理)を頼りにせざるを得ない』と言う教えではなかったかと思います。

信仰と言いますと、得てして、この世、この宇宙を創造した神様に身と心を委ね、如何に信じ切られるかが信仰度合いの評価となったり、無心でお念佛を称えられたり、只管打坐と言って、ただ何も求めずに座禅する事を求められたり致します。
しかし、私はこれは結果的にと言う事でありまして、信仰の入り口の最初の段階から『神有りき』とか、『お念佛有りき』、『ただ座れ』と言う事を強調して説き聞かせる手法は、『何の為に生まれて来たのか』と自己を問い直したい求道者の疑問に答えるものではないと思います。

そして、『何の為に生まれて来たのか』に対する答えも、自己の心を深く見詰める努力(精一杯の自力)をして、ああでもない、こうでもないと苦しんだ果てに、もう結論も得られず、絶望の淵に立つまでに追い込まれて、やっと、自らの心が『これだ!』と感じた解答でなければ、自分にとっての正解にはならないのではないかと思います(これを『汝自らを灯火とせよ』と言うお釈迦様のお心だと思います)。

最初は、神様を拝めなくて当たり前、お念佛を称えられなくて当たり前です。自己を真剣に問い直し続けるならば、何れは、神様を拝まざるを得ない日が必ずやってきますし、お念佛が知らず知らず口に出てしまう日がやって来ざるを得ないのであります。

『何の為に生まれて来たのか』に、はっと気付いた、その瞬間がやって来た時の感懐を、私が尊敬申し上げるお二人の師が、下記の詠に託されています(何れも無相庵カレンダーのお言葉にあります)。恐らくは、仏法に出遭って、20年以上経過した後のものだと思います。

『西川玄苔師』
ながながの月日をかけて弥陀仏は、そのみ心を届けたまえり

『井上善右衛門師』
慈しみ、汝がその胸に徹るまで、悲しみ堪えて立たすみ仏

何の為に生まれて来たのかと言う問いに対する解答は、夫々が求めねばなりませんが、親鸞聖人のお心は、『阿弥陀仏の本願』を聞きに生まれたのだと申されています。その意味は『折角、生まれ難い人間に生まれたのだから、この世で仏の真実(宇宙の真理)を知って、生死を乗り越えて永遠の生命に気付き、自由自在な人生と命を満喫して欲しい』と言う宇宙からの呼び掛け(これを阿弥陀仏の本願と言います)に応えると言う事であります。

今週の月曜日から無相庵ホームページのメニューに、『法話』コーナーを設けました。当面は、私の最も尊敬申し上げる仏教の師のお一人である、井上善右衛門先生のご法話を順次紹介させて頂きます。難しい表現が多いと思いますが、『何の為に生まれて来たのか』に対する自分自身の解答を出す手掛かりになると思います。

井上先生は90歳でお亡くなりになられましたが、83歳の時にNHKテレビ『心の時代』に出られた時のビデオテープを収録しています。衰えられている事は確かですが、先生ご自身の師である『白井成允師』のお詠を紹介されている表情は、実に悦びに溢れ、『何の為に生まれて来たのか』を実感されているご様子は、いつ拝見しても感動させられますが、同時に、私も、ああなりたいと言う生き甲斐を与えられています。


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No.288  2003.06.02

修証義に啓かれてー第6節ー

台風4号に翻弄されて空中をさ迷っていた琉球朝顔の蔓(つる)の先端は、今朝漸く、レンガタイル塀に乗り上げていました。2、3ヶ月かけて、この塀を蓋い尽し、クリスマスの直後、一挙に枯れ、地中に命を隠すまでの約半年、我が家の表看板として存在感を示します。

私は植物の知識が恥かしい位に全くなく、『植物の成長というものは先端で光合成が行われる事によってどんどん伸びて行くと共に、根元からの茎も光合成して太って行くのだ』と初めて確認しました。そして光合成は細胞の増殖だと思うのですが、それは地中の水分・養分と光だと思うのですが、しかし、夜の間の方が、蔓の生長は激しいように感じるのです。もう少し観察してみたいと思います。

●まえがき:
修証義にはこれまで善悪(ぜんあく、ぜんなく、ぜんまくとも読む)と言う言葉が何回か出て参りました。あの歎異抄にも『悪人』と言う言葉がありました。一体、仏教で言う悪とは何でしょうか?
仏教では、十悪(じゅうあく)と言いまして、下記の10項目にまとめられています。

@殺生(せっしょう)生き物を殺す行為
A偸盗(ちゅうとう)他人の物を盗む行為
B邪淫(じゃいん)配偶者以外との性行為
C妄語(もうご)嘘(うそ)をつく行為
D両舌(りょうぜつ)二枚舌を使う行為
E悪口(あっく)他人の悪口を言う行為
F綺語(きご)真実に背いて巧みに飾り立ててしゃべる行為
G貪欲(とんよく)非常に欲の深い行為、欲望にまかせて執着する事。
H瞋恚(しんに)自分の心に違うものを怒り怨む事
I邪見(じゃけん)因果の道理を無視する事
悪人とは、上記十悪の何れかを犯した者を言うのだと思うのですが、皆さんは、自分は悪人ではないと言い切れますでしょうか?言い切れる人は先ずはいないと思います。

私自身はどうかと言いますと、殺人をした事は勿論ございませんが、動物・植物を殺生し続けています、自分の手で殺さなくとも、業者の方に殺して頂いて、動物の肉や魚を食べています。人の物をあからさまに盗んだと言う記憶はありませんが、持ち主不明の品物をそのまま拝借して使用した記憶があります。邪淫の経験はありませんが、考えた事も無いと言いますと嘘になります。妄語・両舌・悪口・綺語に付いても、具体的に例を挙げられませんが何回と無く犯している事は間違いありません。貪欲・瞋恚・邪見と言う事になりますと、もう日常茶飯事です。
ですから私は十悪すべてを犯しているのですから悪人中の悪人で、これを親鸞聖人は極悪人(ごくあくにん)と言われたのでしょう。

親鸞聖人はまた、ご自分の事を『罪悪深重、煩悩熾盛の凡夫』と言われ、『私の地獄行きは間違いない』とまで自己を裁かれましたが、恐らくは、この十悪を思い浮かべられてのご発言だったのではないかと推測致します。

私の尊敬申し上げた、故井上善右衛門先生が、他所から届いた封筒に貼ってある切手に消印が無かったり、消印の位置が外れていた時、『この切手を剥がしてもう一度使おうと思った事がある、別に生活に困っている訳ではないのに、ふと無意識に思ってしまう』と、自己の罪深さの例として話されていた事を思い出します。

善人ぶってはいますが、私も中味は極々お粗末な者であります。

●修証義―第6節
当(まさ)に知るべし今生(こんじょう)の我が身二つ無し、三つ無し、徒(いたずら)に邪見に堕(お)ちて虚しく悪業(あくごう)を感得せん、惜からざらめや、悪を造りながら悪に非(あら)ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。

●西川玄苔老師の通釈
よくよく知るべきことは、今生の我が身は二つも三つもあるものではない。ひとたび身命を失えば、もうとりかえしがつかない。それをただ漫然として因果の道理を無視した、よこしまな考えに陥って、ただ無益に悪の因果応報に引きずられていくということは、惜しみてもあまりあることではないか。悪を為しながら悪でないと思い、その悪の果報もないと、よこしまに思い考えたりしたところで、悪の報いを受けないというものではないのである。必ず因果の道理で悪の報いを受けるのである。

●あとがき:
道元禅師は、因果の道理によって悪の報いは必ずあるから、悪を犯すなと言われています。 悪を犯しながら、悪を犯していないと思っている私達は善人の積もりでいますから、悪の報いが無いと勘違いしているのだと思います。
道元禅師の説かれ方は親鸞聖人と異なっていますが、親鸞聖人と同様に人間の悪性を深くそして厳しく見詰められていた事は間違いないと思われます。

●次回の修証義―第7節(第二章懺悔滅罪) 仏祖(ぶっそ)憐みの余り広大の慈門を開き置けり、これ一切衆生を証入せしめんが為なり、人天(にんでん)誰か入らざらん、彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖(いえど)も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受(きょうじゅ)せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。


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No.287  2003.05.29

幽霊のお話し

仏教と幽霊はお墓を介して密接な関係にあるのでしょうから、幽霊と言う唐突な言葉には驚かれ無かったと思いますが、仏法とは、幽霊が人間になる教えだとすると、えっ?と言う事になりませんでしょうか。しかし人間が幽霊になるのではなく、幽霊が人間になる道を説くのが仏法と言っても良いのでは無いかと、下記の事から私はそう思うようになりました。

最近のコラムでご紹介した青山俊董尼のご講話集(CD10巻)の中に、幽霊の話があります。このお話を聞きますと、私は人間として生きている積もりですが、実は幽霊なんだと思いました。青山俊董尼の幽霊話しは、石川県松任市にある本誓寺と言う浄土真宗のお寺にある幽霊の絵にその源(みなもと)があります(写真はその絵ではありません)。

幽霊のお話しは本誓寺の松本梶丸住職が新聞に投稿されたコラムに説明されておりますので、是非そのコラム( http://nfukui.hp.infoseek.co.jp/sub1-1-10.htm)をご覧頂きたいと思いますが、以下がその要約です。

幽霊には三つの特徴があるそうです。

乱れ髪が後ろに長く引いているのは、済んでしまってどうにもならないことをああするんじゃなかった。こうすればよかった、といつまでも心をひきずり、心が後ろにばかり向いていることを表わしているのだそうです。

両手が前に出ているのは、来るか来ないか分らない未来のことに対して、ああなってもらわないと困る、こうなってもらわないと困る、と取り越し苦労をする姿を示しているそうです。

足が無いと言うことは、今ここに足をちゃんとついて立っていながらも、心が過去や未来に飛んでしまって、大事な今ここを取り逃がしてしまって、本当は足が地に付いていない姿だと言うことです。

こんな説明を受けますと、私は、幽霊の姿は私そのものだとしか思えませんでしたが、皆さんはどうでしょうか?

幽霊は、現在、今の瞬間を大切にしていないと言う喩え話ですが、確かに上の空で今の瞬間を過ごしていないでしょうか?、先々の事をむやみに気遣ったり、心配したり、あらぬ夢・希望を抱いたり、或いは過ぎ去った事を悔やんでみたり、腹立ってみたりしています。

勿論、人間は将来に備えて、過去を反省してより良き未来の為に、現在為すべき事を考えます。将来を考えずに刹那、刹那だけでは人間は生きられません。幽霊のお話しは、そう言う姿勢を否定しているものではありません。

過去を反省するのは良いけれど、それが愚痴になってはいけない、ああすれば良かったとか、あんな事をしなければ良かったのにと言う、後ろ向きの姿勢を否定している訳です。未来に付いても、ただ目標に向って希望を持てば良いのに、こうなったらどうしょうとかと言う取越し苦労を止めなさいと言う事で、未来の為に、現在ただ今、為すべき事に全力を尽くせと言う事であります。

しかし、なかなか人間は『はい、そうですね』と幽霊を廃業出来ません。幽霊を廃業する道を説いて下さっているのが、修証義をはじめとする祖師方の仏法であり、その源はお釈迦様の説法であります。

このコラムで再三再四ご紹介した豊臣秀吉の辞世の詠『露とおき、露と消えぬる我が身かな、浪花の事も夢のまた夢』は儚い(はかない)人生を振り返ったものですが、秀吉に限らず、考えて見ますと、人生が空しい儚い(はかない)と感じるのは、過ぎ去ってしまった過去と未だ来ない未来に心を奪われ、かけがえのない今の瞬間を取り逃がし続ける幽霊人生を送るからではないかと思いました。あれだけの権勢を誇った秀吉も、次はどうしよう、次はこうしたいと、現実に向き合っている瞬間・瞬間を取り逃がした果てに、62年間の人生を無駄にした気持ちになったのではないでしょうか。

仏法を聞いて、現在に精神集中出来る(仏法では三昧に入ると言います)瞬間の割合を、せめて5割にでも高められたら、この世と分かれる時に、いい人生だったと思えるのでしょうし、現時点でも、幸せな人生になるのではないでしょうか?

幽霊のお話しは他人事ではないと思いました。

琉球朝顔は、遂にレンガタイルの塀に触手を伸ばしています。


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No.286  2003.05.26

修証義に啓かれてー第5節ー

最近、日曜日の昼食は我が家から歩いて数分のところにある小高い丘で摂ります。途中のスーパーで弁当を買って、夫婦水入らずのささやかなハイキングです。写真は、弁当を食べるベンチ周りの風景と、ベンチから眺める遠景です。自然に親しみながらの昼食は、私達にとっては、日常の辛い事を一瞬忘れられる貴重なひとときです。
下にある花の写真は、庭に咲き始めたカルミヤと言う花です。

● まえがき:
私の命がこの世だけのものであり、死んで肉体が亡びれば、すべて無に帰すと言う考え方をする人には宗教は無価値なものです。そして、その人の命は、他の動植物と何も変わる事がありません。今日の修証義は、人間の命を生きるか、他の生物と同じ命を生きるか、どちらを選択するかの踏み絵と言っても良いと思います。

アインシュタインと言う、相対性理論で有名な物理学者が『科学の無い宗教は盲目であるけれど、また、宗教の無い科学は不具である』と言い遺されています。

宗教と科学は共に人類であるからこそ持っている文化だと思いますが、地球上に人類と言う高等な頭脳を持った生物が生まれた事自体、宇宙の不可思議なところだと思われます。しかし宗教と科学のバランスが取れないようですと、数億年前に絶滅したと言われる恐竜が辿った道を歩み、地球の歴史から表現すれば、僅か数百万年で人類は絶滅する運命にあるのでは無いかと思われる昨今です。

『科学の無い宗教は盲目である』と言う事は成る程そうであると思います。新興宗教の教祖の空中浮揚を信じる事は盲目だと思います。しかし一方、宗教の『信じる』と言う根拠を科学的に説明出来ない事も確かです。科学を絶対として宗教に取り組みますと、宗教は永遠に私の頼りにはならない事になってしまいます。

そう言う宗教と科学の関係があるのにも拘わらず、偉大な科学者であるアインシュタイン博士が、冒頭の言葉を遺されていると言う事を私達は重んじなければならないと思います。即ち、宗教と科学は、同じ土俵には無いと言う事です。

そして、宇宙の真実、宇宙の真理と言う面から考察致しますと、人間が宇宙に生まれる前から既に宇宙の真理は働き続けており、そう言う真理の中から生まれて来た人間には、宇宙の真理を云々出来る資格は無いと考えるのが極自然であります。人類が存在しようとしまいと宇宙の真実は働いている訳です。

そう言う謙虚な立場に立たないと、今日の修証義を、そして道元禅師を、更には仏教を理解し信じるまでには到底至らないと思います。

● 修証義―第5節
善悪の報に三時(さんじ)あり、一者(ひとつには)には順現報受(じゅんげんほうじゅ)、二者(ふたつには)順次生受(じゅんじしょうじゅ)、三者(みつには)順後次受(じゅんごじじゅ)、これを三時という、仏祖(ぶっそ)の道(どう)を修習(しゅじゅう)するには、其最初(そのさいしょ)より斯(この)三時の業報の理を効(なら)い験(あき)らむるなり、爾(しか)あらざれば多く錯(あやま)りて邪見に堕(お)つるなり、但(ただ)邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時(ちょうじ)の苦を受く。

● 西川玄苔老師の通釈
善悪の果報を受けるのに三通りの時期がある。一つには、この世で善悪の種をまいたのが、この世でその善悪の果報を受けるのと、二つには、この世で善悪の種をまいたのが、次の生でその果報を受けるのと、三つには、この世で善悪の種をまいたのが、次の次の生以後でその果報を受けるのと、この三通りの受け方がある。仏祖方の歩まれた仏の道を学んで行こうとする者は、先ず最初にこの三通りの因果業報の道理をよくよくわきまえ信じてから出発しなければならない。もしそうでなかったら、殆ど間違ったよこしまな考えですべてを判断すると言うだけではなく、悪道に迷い込み、長く長く悪の苦しみから脱け出られないのである。

● あとがき:
私に霊魂があって、前の世があり、死んだ後にはまた次の世があると言う事をなかなか素直に信じる事は出来ません。信じられる人もいるでしょうが、何かの証拠が無い限り、現代の教育を受けた者にはなかなか信じられないのが普通だと思います。

道元禅師は、霊魂の存在を信じているとか信じていないとかと言う事ではなくして、因縁果の道理は、今こうして生きている私の上に働いていると言う自覚ではないでしょうか。そして、この世でどんな悪い事をしても、その報いは無いと言う考え方をしてはいけないと言うのが、先ずは仏道の入り口だと道元禅師がおっしゃっているのです。

道元禅師が、善悪の報いはこの世であるか次の世であるか、次の次の世であるかは別にして、必ず果報があると言われています。その証拠に、お釈迦様をはじめとしてこの世に多くの祖師方が生まれ出て来られているではないかと言われます。

私の持つ科学的知識からその因果応報を納得する事は出来ませんが、一方、人間夫々に素質が異なり、夫々全く異なった人生を歩むと言う現実を、生まれ育った環境の違いだけで説明する事もまた出来ません。個人個人の寿命の違いも科学は説明出来ません。科学を進めて、宇宙の現象を解明して行く努力がすべて無意味とは言えませんが、科学で解明出来ない事もあると言う謙虚さが無ければ、人類は滅亡しか無いと思いますし、個人としても、人生において安らぎを得られないと思います。

私達は、生まれ落ちて以来、人間の智慧・知識で育てられ、言わば、思考能力・智慧・知識と言う面で言えば、両親のコピー人間であります。ですから、私が見る世界は、人間の持ち得る智慧・知識と言うフィルターを通してしか見れない事になっています。世間を生きる上では、むしろそのフィルターを通して、そしてその智慧と知識を前提に生きる方が無難であると言う面も確かにありますが、私達を苦悩から救うと言う面から言えば、逆に、その様な人間の智慧・知識と言うフィルターは私達を実に不自由に縛るものとなっていると言わざるを得ません。

つまり、私達は、生まれ落ちたその日から、常に自己愛を持つ様に持つ様に仕込まれています。そして、自己愛を育てる様に教育をされ続けます。競争に打ち勝つように育てられます。自己愛こそ、私を縛り、不自由にする真犯人であります。

そして、その自己愛は、私が見える世界だけを信じているところを出発点としています。 人間が信じている科学的知識を拠り所しています。

科学知識を絶対的な頼りとしていては、永遠に仏法の扉は開けないと道元禅師は言われているのだと思います。科学知識絶対と言う考え方を仏法では邪見と言うのだと思います。

●次回の修証義―第6節
当(まさ)に知るべし今生(こんじょう)の我が身二つ無し、三つ無し、徒(いたずら)に邪見に堕(お)ちて虚しく悪業(あくごう)を感得せん、惜からざらめや、悪を造りながら悪に非(あら)ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。


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No.285  2003.05.22

宗教の革命者―親鸞―

先週のコラムで琉球朝顔が芽を出しガス管に巻き付いて伸びて来ているところの写真を掲載致しましたが、ガス管の側に竹の棒を差し込んだ植木鉢を置いてやったら、一晩でガス管から20cmも離れている竹に巻き付きました。そして、次の蔓も竹に向って伸びているところです。まるで目を持っている動物の様です。感情すら持っているのではないかと思える程に不思議な自然の営みに毎朝驚かされています。

さて本論です。
私は宗教学者でも仏教学者でもありませんので、詳しく検証出来ている訳ではありませんが、親鸞聖人が仏教の革命者であると共に、世界の宗教史上でも比類なき革命者であると言って良いと思っています。

何故かと申しますと、親鸞聖人は、ご本人はその様なお積もりはなかったと思いますが、結果としては、仏教でもキリスト教でもイスラム教でも救われない者が救われる道を自らが求め、そして究められた唯一人の方だと思うからです。
また一方、世界の三大宗教の信者数は約20億にも達すると思いますが、何れの宗教の信者さんも、心から救われたと思えている信者は、そんなに多くは無いのではないかと思うからなのです。

しかし私がその様に親鸞聖人を絶対評価するのにも拘わらず、親鸞聖人に対する一般の方々の理解と親鸞聖人の至られた境地とのギャップはあまりも大きいと思います。親鸞聖人が亡くなられて数年後の1270年頃でさえ、親鸞聖人の教えと一般の受け取り方のギャップを嘆かれた歎異鈔が直弟子唯円によって書き遺されています。ましてや、親鸞聖人が亡くなられて丸740年を超えた今現在、更に異なった教えに変質して伝えられていても致し方無いと言うべきかも知れません。

親鸞聖人を開祖とする浄土真宗の信者さんの中にも『罪の深さを反省して、お念佛を称えれば、浄土へ往生出来る、或いはこの世において既に救われるのだ』と誤まって受け取られている方もおられるように見受けます。ましてや仏教徒ではない一般の方々は、南無阿弥陀仏と言うお呪(まじな)いによって救いを求めるのが浄土真宗の教えであると受け取られているのではないかと推察しています。
しかし、親鸞聖人のお教えはそう言う教えとは根本的に違います。いえ、私はごく最近になって、根本的に違うなと思うようになりました。

浄土門が大切にしている経典(浄土三部経)の一つに『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』と言う経典があります。この経典では、人間を上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生(じょうぼんちゅうしょう)、上品下生(じょうぼんげしょう)、中品上生、中品中生(ちゅうぼんちゅうしょう)、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生(げぼんげしょう)の9段階に区別されています。そして、下品下生以外の人間は、色々な戒律を守る事によって、浄土往生出来るとされていますが、下品下生の人間は、とても戒律を守る事が出来ないとされて、お念佛を称えるだけで救われるのだと諭されています。

親鸞聖人以前の浄土門の祖師方(善導、源信、法然、)は、ご自分の下品下生(げぼんげしょう)振りをはっきりと認識・自覚されて、念仏によって救われた方々であります。そしてその祖師方は、一般大衆にも、ご自分の体験から、念仏を称えれば救われると説かれました。 しかし、親鸞聖人は、下品下生とさえ自覚出来ない自分、また救われたいとさえ思えない自分、念仏を称えても一向に救われたと思えない自分はどうすれば救われるかを問い求められ、さ迷い続けられました。

そして、迷いに迷った真っ暗闇の中で、ふと、そう言う下品下生にも値しない最下等の自分一人を救う為に、お釈迦様が地球上にお生まれになり、達磨大師もインドから中国へ仏教を伝えられ、そして今こうして法然上人にもお出遭いせしめられたのだと、その背後に広がる大宇宙の無限の空間と無限の時間の働きも親鸞一人を救う為にあったのだと言う、自分の力ではない、他力としか言い様が無い働きによって既に救われている自分に気が付かれたのだと思います。

これを卑近な言葉で表現するならば、大逆転の大発想です。お釈迦様が因縁果と言う真理を発見されたのが、ニュートンが引力を発見されたのと同じだと言われますが、親鸞聖人のこの大逆転発想の『他力による救い』も、全く同等に評価されるべき大発見だと思います。

歎異抄に示されている有名な『善人なおもて往生をとぐ、言わんや悪人をや』と言う親鸞聖人のお言葉は、宗教は罪深い者をこそ救い取るためにあるものだとの強い想いが込められていると思いますが、親鸞聖人御自身、晩年に至っても『私親鸞においては、名誉を追い求める心も、愛欲から来る執着から解き放たれる事が無い、これはきっと死ぬまで尽きないだろう』『自分は煩悩の燃え盛る凡夫で、救われるどころか、地獄行きは間違いない』とまで言われて、自分の凡夫さ加減を嘆かれています。しかし、そう言う自分にこそ、阿弥陀仏の慈悲が注がれているのだと言う、揺るぐ事の無い、阿弥陀仏の願いを信じる心が沸き上がって来たのではないかと思います。

この親鸞聖人の心の大転換を頭で理解しようと思っても叶わないと思います。自分の本性に気付かざるを得ない世間の厳しさに出遭い、真正面から取り組む縁に回り逢い続けなければ、親鸞聖人のご心境には至る事は出来ないと思います。

実際、親鸞聖人は、亡くなられる約5年前、85歳の時に、ご長男の善鸞に裏切られます。そして、善鸞と親子の縁を切られます。親鸞聖人の面目は丸つぶれであったろうと思います。善鸞を責めるよりも、自分を責め続けられた事だと思いますし、そう言う悲しい目、辛い目に遭われなければならない自分の愚かさ、罪深さを見詰められると同時に、だからこそ、地獄行きしかない自分を救うための仏様の強い願いを感じられたのだと思います。

キリスト教では、神様の前で、過去に冒(おか)した罪を心の底から懺悔すれば許されると説かれているようですが、親鸞聖人は、心の底から懺悔すら出来ない自分を厳しく見詰められ、そう言う人間をこそ救う他力の本願に目覚められたのだと思います。

仏教でも、『小欲知足(しょうよくちそく)』と言って、『欲を小さくして或いは少なくして、今の状況に満足する事を知りなさい』とか、『過ぎ去った過去や未だ来ぬ未来に心を奪われるよりも、現在ただ今を精一杯生きよ』と教えますが、その通りに出来る人は素晴らしいですが、なかなか凡夫には徹底出来ないところがあります。徹底出来なければ、救われないとしたら、そう言う人はもう駄目だと言う事になりますが、親鸞聖人は、そう言う凡夫をこそ救わずにはおられないと言う他力(宇宙の働き、阿弥陀仏の願い)を感得し、心の底から信じられたのだと思います。

人間には生まれ持った性分と人格があると思います。禅の修業を究めて、お釈迦様と同じ悟りの境地に至られる方もおられると思います。キリスト様のように慈悲深く、どんな隣人をも愛する事が出来る人もおられると思います。マホメット師の様に、アッラーの神の僕(しもべ)として心底従える人も実際にいると思いますが、隣人を愛する事が出来なくて思い悩む人も、それ以上に多くいると思います。

こう言う者が救われる道を示されたのが親鸞聖人だと思うのです。

私のこう言う考え方に異論もあろうかと思います。特に東西本願寺教団に関係ある人々には、抵抗がある部分もあるかとは存じます。是非ご意見をお聞かせ頂ければ、有り難いと存じます。

月曜コラムで勉強中の修証義の基となっている『正法眼蔵』を著わされた道元禅師も、親鸞聖人と並び称せられる世界思想史上の比類無き大哲学者と評価されています。私は、お二人に究めて共通一致した思想があると感じております。


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No.284  2003.05.19

修証義に啓かれてー第4節ー

昨日の日曜日は天気も良く、昼食がてらハイキングがてら、野花、ツツジなどが咲き誇っている近くの公園などを散歩致しました。写真は何れもその時のものです。

●まえがき:
今日の修証義は、仏教の最もキーポイントとなる点がテーマとなっています。私達は、心と肉体が合さって命を生きていると思いますが、肉体が亡びれば、すべては無に帰すると考えるのか、それとも心とか魂とかが天国や極楽浄土に召されたりすると考えるかは、宗教の是否に深く関わる事だと思います。

今日の修証義のお言葉には道元禅師のお考えが明確に示されていますが、この問題に付きましては仏教信仰者の間でも混乱があるように、私には見受けられます。

『悪い事したら来世は犬や猫に生まれるよ!』とか『悟りを開かれた聖人と言われる方々は私達と違って、過去世(かこせ)の何代にもわたって修行されて来た方だから……』とか『ご皇室の方々は、私達とは前世(ぜんせ)が違う』と、仏法信者の母から聞かされていた記憶があります。

また、人間の命は犬猫の命より尊いと思いがちですが、お釈迦様は『涅槃経』に『一切衆生 悉有仏性』(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)と言い残されており、『地球上の命はすべて平等に尊い』とおっしゃっています。また、お釈迦様は、霊魂に付いては『無記(むき)』と言われたとお聞きしています。『無記』とは、私達が聞き慣れた言葉に直しますと『ノーコメント』、否定も肯定も出来ないと言うお立場を取られていたのだと思います。

それから、仏教には流転輪廻(るてんりんね)、六道輪廻(ろくどうりんね)と言う言葉があります。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界で、この世の行為によって、次の世は地獄へ行ったり、畜生に生まれたり、或いは天上界へ昇格したりと、また、その逆もあると言う輪廻思想です。しかし、お釈迦様はむしろ、輪廻を否定されるお立場であったように聞いています。

今ではお釈迦様の録音テープもありませんからお釈迦様が本当はどのようなお考えであったかは確認しようがありません。しかし私達人間に固有の魂(たましい)があって、肉体は亡びても魂は残って、新しい肉体に生まれ変わると言うお立場では無かったと、私はそう思います。

では親鸞聖人はどうお考えであったかと、遺されている文献を見開きますと、御和讃で次の様に詠われており、法然上人(源空とも言われる)が阿弥陀如来の生まれ変わりだと感じておられたようです。

阿弥陀如来化(け)してこそ
本師源空としめしけれ
化縁すでにつきぬれば
浄土にかへりたまひにき
また、歎異抄第五条で、一切の有情(うじょう)、即ち生きとし生きる生命体は、私と血の繋がっている父母であり、兄弟であるとおっしゃっています。そして、順次生(じゅんじしょう)即ち来世に仏になることが、父母への孝養だと言われています。
親鸞は、父母の孝養(こうよう)の、ためとて、1返(いっぺん)にても、念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって、世々生々(せせしょうじょう)の、父母兄弟(ぶもきょうだい)なり。いずれもいずれも、この順次生(じゅんじしょう)に、仏になりて、たすけそうろうべきなり。
そんな事も考え合わせながら、道元禅師の第4節のお言葉を拝聴したいと思います。

●修証義―第4節
今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世(さんぜ)を知らず、善悪を弁(わき)まえざる邪見(じゃけん)の党侶(ともがら)には群すべからず、大凡(おおよそ)因果の道理歴然(どうりれきねん)として私(わたくし)なし、造悪(ぞうあく)の者は堕(お)ち修善(しゅぜん)の者は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり)もたがわざるなり、若(も)し因果亡じて虚(むな)しからん如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来(せいらい)あるべからず。

●西川玄苔老師の通釈
この世において、因果の道理を知らず、善行をすれば善の報いがあり、悪行をなせば悪の報いがあるということに明らかではなく、過去・現在・未来へと善悪因果の報いの流れを理解せず信じないような間違った考えをいただいている者どもと一緒にまじわってはいけない。だいたい、原因があって結果が生ずるという道理は、古今東西、明白なることで、個人の考えでどうなるものではない。悪を造った者は悪道におちていくし、善を修めた者は善道へおもむいていくということは、ほんの僅かな狂いもない。もし因果の道理がないというなら、諸仏がたが諸々の善を修めたもうた果報として、仏になられ世に出られたということもありえないし、達磨さまがインドより中国へ仏法をお伝え下さった意義もなくなる。

●あとがき:
このコラムで何回も因縁果(いんねんか)と言う言葉を使って来ました。私は、他宗教の教義を詳しく勉強していませんが、私が知り得る限りは、この宇宙が因縁果の道理(真理、法則)によって動いていると明言するのは仏教だけだと思います。そしてその真理を発見し発表されたのは、人類史上、お釈迦様が初めてだとお聞きしています。

他宗教、特に仏教と共に世界の三大宗教と言われるキリスト教とイスラム教でも、恐らくは因縁果の道理を否定される事は無いと思います。しかし、ある結果(生じている現象或いは存在)に関して、明確に真因(主たる原因)や縁(条件、附帯的要因)を特定出来ないが故に、すべてを神のお計(はか)らいとされているのではないかと推察しています。

確かに、いくら科学が進歩したと申しましても、命とは何かについては未だに説明出来ませんし、命を人工的に生み出す事は出来ていません。死んだ人を生き返らせる方法に科学的アプローチをしたと言う報告さえ無いと思います。私は、人類が生命体を使って別の生命体を造る事は出来ても、地球上の有機物質や無機物質をどのように反応させても、永久に生命は創り出せないと思っています。従いまして、神様を創造主とされるイスラム教、キリスト教の考え方を即否定し難いところがあります。

仏教も因縁果の道理は説きますが、私達が何故生まれ何故死んでいくのか、肉体が無くなって、私と言う存在がどうなるのかを科学的には説明致しません(出来ないと言う事でもありますが、むしろ科学を超えた領域と捉えています)。しかし、私がこの世に生まれたのには必ず何らかの因がある。そして、私達の肉体が無くれば、すべて終わりであるはずが無い、必ず続きがあるはずだと考えます。『死んでしまえばそれで終い、生きている時にしたい事すれば良い』と言う立場を取りませんし、『この世は苦しいもので、死んでから楽しい極楽へ行きましょう』と言う立場も取りません。

道元禅師は、この第4節で、この世で私が為した善悪は次の世かその次の世で必ず結果となって現れると断言されています。受け取り方によりましては、霊魂があり、私には今の私と言う命を頂く前に、過去世と言う前の生命体があり、また死んで後の来世があるような表現をされていますが、この点は非常に取り扱い方とか、説明するのに非常に難しい問題であります。

しかし、私はむしろ、この点がアヤフヤである仏教徒は、仏教の信仰段階と言う観点から申しますと、『信心には至っていない』と申さねばならないと思います。仏教には帰依しているけれども、真実の信心が頂けていないので、未だ救われていない』と言わざるを得ないのではないかと考察しています。

定期的にご法話を聞かれるお立場であられても、定期的にご法話をされるお立場であられても、また、お念佛を称える事が習慣化されていても、自分自身の命の受け取りとして、『私の命は私が望もうと望むまいと生じたものであり、私は死ぬと同時に肉体も心もこの世で終わり、後に残るものは何も無い』と言う考えである限り、浄土門で言う信心を得ていないし、禅宗で言うお悟りも開けていないと言えるのではないかと思います。

私自身はどうかと申しますと、因縁果の道理は認めざるを得ませんし、過去・現在・未来の因果応報も分りますし、善行を積み重ねたいと思いますが、今日の第4節の道元禅師のお言葉をそのまま『その通りでございます』とは頷(うなづ)けてはいません。

この世で起る事は、一番不幸な戦争に関しても因縁果の道理でほぼ説明は付きます。しかし、突発事故で命を奪われたご家族に因縁果をご説明してもとても納得はして貰えないと思います。池田小学校で犯人にご子息を殺害されたご両親に『これは、過去の世からの因縁だからしっかり受止めて、これを機縁として仏法をお聞きください』とはとても言えませんし、申し上げても納得して貰えないと思います。

では何の為に宗教が、或いは仏教があるのかと言う問いに関しましては、他の人の人生に生じた諸々の問題を批評家的に見解を述べる為に宗教があるのではなく、自分自身の人生を考えるための道標、人生の運転免許を取るための方法を教えているのだとおもいます。

死ねばそれでお終いと言ってしまえば、それで解決がつくならばもう宗教は必要がありません。『生きている中のこの世だけ幸せになれたらそれで良い、死ぬ時は死ぬ時、どうなるものでも無い』と達観出来る方には宗教は必要無いと思います。

仏教と共に世界の三大宗教と言われるキリスト教、イスラム教は、神様が宇宙を創造し、私達人間も神様によって生まれた存在であると言う教えだと思います。神様お望みの善行を積めば、そして罪を犯したならば、心から懺悔すれば、許されて天国に召されると言うお教えで、やはり『肉体が亡びれば、それですべてはお終い』と言うものではありません。

そう言う意味では、基本的には仏教もキリスト教もイスラム教も変わらないと思います。地域によって、気候も変わり、言語も変わり、肌の色も異なるように、宗教も発祥した土地によって説き方は変わっていますが、真理は一つだと思います。

そして、宗教にも相性があると言う事も否定出来ません。真理は一つではありますが、説き方は異なります。相性を否定し合う事を止め、尊重しあうべきだと思います。

宗教は本質的に排他的であると言う方もおられますが、私は、三大宗教に関する限り、お釈迦様もキリスト様もマホメット様も排他的では無かったと思います。ただ、信者と自称する方の中に一部排他的な方がおられるだけであると確信しています。

掲示板に書き込まれた前田様の『みなさんは他の宗教にたいし、どういったお考えをお持ちですか?』と言うご質問のお答えになりましたでしょうか?

最後に、祖師の西来ついて、少し。
私達が知っているダルマは、達磨大師と言うインドで生まれ、仏法を学び、西暦520年頃、中国に仏法を伝える為に趣いた禅僧をモデルとしたものです。禅宗の開祖とも言うべき方で、面壁9年と言われ、9年間同じ壁の前で座禅を続けられたと伝えられています。少林寺憲法の創始者とも言われてもおり、150歳まで生きられたとも伝えられていますが、この達磨大師がインドから中国へ趣いた事を祖師の西来(せいらい)と言います。

達磨大師が中国に趣かれなかったら、日本に仏教は伝わらなかったと思われます。道元禅師はその事を因縁果の道理だと言われているのです。

●次週の修証義―第5節
善悪の報に三時(さんじ)あり、一者(ひとつには)には順現報受(じゅんげんほうじゅ)、二者(ふたつには)順次生受(じゅんじしょうじゅ)、三者(みつには)順後次受(じゅんごじじゅ)、これを三時という、仏祖(ぶっそ)の道(どう)を修習(しゅじゅう)するには、其最初(そのさいしょ)より斯(この)三時の業報の理を効(なら)い験(あき)らむるなり、爾(しこるか)あらざれば多く錯(あやま)りて邪見に堕(お)つるなり、但(ただ)邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時(ちょうじ)の苦を受く。


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No.283  2003.05.15

デフレは私の善知識(ぜんちしき)

最近、自然の移ろいに目を凝らすようになりました。庭の木、花達が刻々と主役の座を変えていく様(さま)に関心が生まれたのは、歳かも知れません。玄関先の庭の隅にあるガス管の側に芽を出し巻き付き始めたのは、琉球朝顔(マリンブルー)ですが、秋を迎える頃には、レンガ塀を蓋い尽くすようになります。蔓が巻き付いて行く不思議さを毎朝覗き込んでいます。庭先の薔薇は今日が一番綺麗かも知れません。

今日5月15日の午前11時から、家の売却手続きが金融機関、司法書士、仲介不動産業者、買い主の立ち会いのもと銀行の一室で行われます。この3ヶ月間、私に気を揉ませ、悩まし続けた案件が落着致します。

これから私のデフレとの挑戦が本格的に始まる訳であり、決して一件落着ではありませんが、この苦しみ抜いた3ヶ月間は、私にとっての善知識であり、デフレが無ければこの日を迎えなかったと言う想いが強く、『デフレは私の善知識』と言うコラムを残そうと思いました。

広辞苑では、善知識とは『正法を説き、人を仏道に入らせ、解脱を得させる人』とありますが、仏法者の間の一般的な表現としては、正法を説く人ではなく、むしろ逆に自分を苦しめ仏道を深め究める機縁を与えた人や遭遇した一つの出来事にまで拡大解釈する事があります。

日本のデフレは、平成に入る前の昭和62年(1987年)土地価格高騰を抑制するために設けた総量規制と時を同じくして始まりました。それは私が今日の個人の危機と心の転換を迎えるスタートでもありました。以下に私が辿った最近17年間の年表を記します。

昭和61年(1986年)母が80歳で没
昭和62年(1987年)総量規制(土地価格高騰を抑制する監視区域設定)開始
昭和63年(1988年)マンションから建て売り一戸建て(今日の売却物件)に引越し
平成01年(1989年)住んでいた実家を売却(売却代金を手に入れる)
平成03年(1991年)20年勤務したゴム会社を退社
平成04年(1992年)株式会社 プリンス技研を設立
平成07年(1995年)神戸大震災、長男結婚マンション購入
平成08年(1996年)口紅印鑑発売、マスコミ殺到を経験
平成11年(1999年)多孔性体製造技術開発・特許出願、今の住居に引越し
平成12年(2000年)長女結婚、主要製品の生産ストップを客先から通告予告される。
無相庵コラム開始
平成13年(2001年)義母逝去
平成14年(2002年)4月従業員全員解雇、7月愛犬リトル死去、8月義父逝去、生命保険解約、10月、10年間操業続けた工場を返却・引越
平成15年(2003年)住宅ローン滞納始まる

母が遺してくれた多額のお金を元手に、一戸建てを購入し、会社を設立し、不動産を増やしましたが、この15年間のデフレ進行により、母の遺産をすべて失った上にそれを上回る借金が残りました。辛うじて今住んでいる住居も、お金を足さないと売却出来ない負債でしかありません。高度成長期ならば、今日売却する家の売却差益で、今住んでいる家のローンを支払い終え、住宅ローンから解放されたであろうと思われます。

私は敗戦の年に生まれ、高度成長期に育ち、社会人になり家庭を持ちましたが、母が亡くなった満41歳を境として、41年間かけて獲得したすべての有形無形の財産をその後の17年間で徐々に、しかしすべてを失い、そして常識的には挽回出来ない程の借財を背負う事になりました。

この半年、生活資金が底をつき、結婚以来一度も働いた事がなかった妻にパートに出て貰いました。昨今は共働きが普通ですが、子供達を結婚させ、普通はむしろ働きに出るのを止める年齢で働き出さねばならなくなった事は、妻にも私にも酷な事であります。
私は会社の事務所とした自宅で会社事務と主婦業をしながら製品開発に努力するも、パートに出て稼ぐ程度の収入にしかならない状況が続いて来ました。デフレ不況の中、就職先を探しても、55歳を過ぎた男の仕事は、殆ど見当たりません。
そんな中、ローン地獄を少しでも解消すべく、賃貸にしていた家(15年前購入)の売却に際して、金融機関の自己防衛の為の厳しい対応に遇い、世間の厳しさを思い知らされました。
今住んでいる家のローンを組むのに、金融機関が古い家を追加担保として抵当権を設定していたからです。この3年間で私の不動産価値は約5000万円下落していますから、売却しようとする家の抵当権抹消は、金融機関にとっては今住んでいる家に関する融資の担保不足(約1000万円)を容認することになるからです。従って、最悪の場合は2件の家共に手放させられる可能性が最後まで消えませんでした。

そして、ひょっとすると妻にも娘にも、長男(妻子5人)にも、自己破産、会社整理の局面を迎えさせるかも知れず、夫としても父としても一人の男としても、世の中で最低・最悪の位置にある自分を認識しました。私が聞いて来た仏法も、この局面にある私を平常心にしてくれず、私には何の力も無い、世の中で最低の無価値な人間だと思うようになりました。しかし同時に、私は何でもするから助けて欲しいと言う素直な気持ちも湧いて参りました。

世間的にも何も力が無い、そして仏法信者としても救い様が無い自分ではありますが、それまで阿弥陀仏やお浄土を知識でこねくり回していた自分ではない、素直に信じせしめられた自分に気付いた瞬間でもありました。

昔、加藤辨三郎師(協和発酵の創業者、在家仏教会創始者)から『我賢しと言う想いがあるからお念佛が素直に出ないのだ』とご指導頂いた事がありますが、お念佛を称えようと称えまいと、『我賢し』と言う想いは、もう何処かに飛んで行ったような気がしています。

そして、自分のものだと思っていたものをすべて失ない、最低の自分に気付いた時、そんな私を精一杯支えようとしてくれている妻と子供家族、そしてこんな状況の私を見捨てずに励ましてくれる数人の友人の存在に感謝せずにはいられませんでした。そしてやはり最後の最後には救ってくれた仏法の為にも、『これからは、私に出来る事は何でもして、厳しい世間にも負けないぞ』と言う強い意志が生まれて来た事を感じています。

私は、デフレですべてを失ったと言いましたが、確かにデフレは一つの条件ですが、今日の私の状況は、私の金銭感覚、経営能力、技術力、人間関係力に問題があった事は間違いありません。世間の闘いに負けたのです。今回の金融機関の対応に付きましても、当たり前と言えば当たり前で、私の金融に関する無知・不勉強から来たものであります。仏法の道理、因果応報そのものを身を持って証明した想いが致します。

それも含めまして、デフレは私の善知識なのです。

会社を復興しないと今住んでいる家のローンが支払えなくなります。そうなればこの家を早晩出て行かなければなりません。猶予は1年も無いかも知れません。あらゆる智慧を絞り、あらゆる人のお知恵もお借りして会社の利益を上げようと思います。また金融機関、金融の仕組みも勉強して、会社を守り家を守りたいと思います。
それは、私の家族、友人、そして仏法興隆の為だけであります。


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No.282  2003.05.12

修証義に啓かれてー第3節ー

先週の木曜日の午後に漸く金融機関から解答があり、当面の貸し剥がしは回避される見通しとなり、今週の木曜日に一応の決着が具体的な形となりますので、一先ずホッとしたところです。ただ、未々事業と個人の借財は大きく、一件落着には程遠いのですが、取り敢えず一つのハードルを越えたと言うところでしょうか。
しかしこのハードルは私の人生に取りましては非常に大きな壁であり、自我・我執との闘いでもありました。

●まえがき:
私達人間は死を目前にした時にはきっと自分の力が何の役にも立たない事を思い知らされるに違いありません。つまり、幾らお金を積んでも、幾ら多くの親しい人達に囲まれていても、死を回避する事は出来ません。死を待つ瞬間は独りで身悶えしながら死を否応なく受け容れざるを得ないのだろうと想像します。

そしてその時初めて、自分が人生で追い求めて来たもの(名誉、財産など)が如何に空しいものであったか、また自分が最も頼りとしていた自分が最も頼りにならない事(これを自力無効と言います)にも気付かされるのだと思います。
私達が一番嫌な、そして避けて避け続けて来た死を目前にしないとその事に気付かないのが普通の人生であろうと思います。

仏法は、早くその事に気付こうではないかと説きます。『死を目前にした時では間に合わないし、それでは人間として生まれて来た意味が無いではないか』、今日の道元禅師のお言葉は、そこのところを言葉を尽くして私達に叫ばれているのだと思います。

●修証義―第3節
無常憑(たの)み難し、知らず露命いかなる道にか落ちん、身已(すで)に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停(とど)め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡(しょうせき)なし、熟(つらつら)観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちに到るときは国王大臣親ジツ従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉(こうせん)に赴くのみなり、己れに従い行くは只是れ善悪業等のみなり。

●西川玄苔老師の通釈
すべてのものは、常に移り変わっていく。とどめんとしても、とどめることは出来ない。この露のごとき命は、いつどのように人生の旅路の道草より落ちるやも知れない。この身は、もとより天地の運行の中より出来ている身であるから、この命も日月の動きと共に移されていって、片時も停まってはいない、だから真っ赤な頬をした可愛い子供の頃も、どんどん過ぎ去っていき、どこへいったのやら跡形もない。よくよく思いめぐらしてみると、往ってしまった事は二度とあともどりしてはこない。無常の風がひとたび吹いてくると、たとい国王大臣の権力をもってしても、親友や従者や妻子や宝物の助けをもってしても、力及ばない。ただ、わが身独りあの世へ旅立っていくだけである。わが身が往くときには、この世でつくりなした善悪等の行為の集積が因となって、次に生まれる果報となってついていくだけなのである。

●あとがき:
世の中の物も現象もすべては常に変化して行くと言う事を仏教では『諸行無常(しょぎょうむじょう)』と言う言葉で表現致します。無常と言う言葉は何処かもの悲しい響きがありますが、それは無常の譬えとして『人の死』が使われますし、また一番身に沁みて分るからでしょう。しかし、私がこの世に生まれて来たのも無常だからこそ生まれて来た訳ですから、諸行無常は暗い思想表現ではない事を知って頂きたいと思います。

修証義を最後まで勉強致しませんと断定出来ませんが、『諸行無常』と、この次の第4節で出てる『因果の道理』は仏教思想の中の根本的教義です。道元禅師は、世の中の移り変わりは、無秩序ではなく、必ず原因があって結果があると言う法則に従うものである事を強調され、私達の命もこの世で終わるのではなく、前世・現世・来世と、因果の道理によって永遠に続くものだと説かれています。

そう聞きましても、自分が見聞した事実しか信じられない現代人は、人間は死んで焼かれれば、炭酸ガスと水とカルシュウム(骨)になるだけだとしか思えません。お釈迦様も、霊魂とか、過去世については、ノーコメント(『無記』と言われています)と言う立場だったようです。

『唯独り黄泉(こうせん)に赴くのみなり、己れに従い行くは只是れ善悪業等のみなり』 と言う道元禅師のお言葉をどう受け取れば良いのかは、今後の修証義で明らかになると思われます。

●次回の修証義―第4節
今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、善悪を弁(わき)まえざる邪見の党侶(ともがら)には群すべからず、大凡(おおよそ)因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕(お)ち修善の者は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり)もたがわざるなり、若し因果亡じて虚しからん如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来(せいらい)あるべからず。


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No.281  2003.05.08

やはり親鸞聖人

金融機関から貸し剥がしを匂わされてから2ヶ月経過しました。何回となく問い合わせをして来ましたが解答が貰えません。何故結論が出ないのか、何時になったら結論が出るのかさえ返事を貰えない状況は、針のむしろに座らされた心境で、実に精神的に辛いものがあります。

普通の企業なら、お客さんに納期を明示しない事は有り得ない事であり、政府に保護され顧客無視で生きて来られた金融機関の体質を見せ付けられている想いがして、デフレに喘ぐ日本の状況を招いた政府と金融システムの責任の重さと世間の厳しい事実に触れた想いがしています。

そして片方では我が事の如くに心配をして頂く方の暖かい心にも触れさせて頂いており、金融機関の冷たさとは対照的に、人生の真実に触れている想いもしています。
こう言う状況の中だからこそ、人生における宗教、仏教について考察出来るのだと思いますし、この時の心境を大切にしたいと思います。

宗教を求める人は永遠の幸せを求める人だと思います。また現在抱えている苦から脱出したい人であると思います(私が正に張本人です)。2500年前、永遠の幸せを求められ、経済的には何も問題が無い皇太子の座を捨てて出家されたのがお釈迦様であります。

お釈迦様以後も、同じ様に永遠の幸せを求めて、或いは苦からの脱出を試みて出家された方はインド・中国・韓国・日本に数多くいらっしゃいます。そしてお釈迦様をはじめとして、中国、日本の歴史上に、所謂悟りを開かれた仏法の先師は数え切れない程数多くいらっしゃいますし、現在の日本にも沢山おられます。

お釈迦様も含めて、どの方々も素晴らしい方である事は間違いありませんが、私にとりまして一番心親しく近しく感じるのは、やはり親鸞聖人です。そして私はその親鸞聖人が至られたご心境をそのまま相続された井上善右衛門先生、西川玄苔老師との出遭いを拠り所として頑張れているのだと思っています。

法然聖人も道元禅師も素晴らしい方だと思います、そして現代の禅門の名僧、故山田無文老師、故柴山全慶老師も慈愛溢れる素晴らしい禅僧でありますし、最近ご紹介した青山俊董尼も同様に私達が目標にしたい先達ですが何れの方も在家ではありません。西川先生が、出家は易行、在家は難行と言われておりますが、世俗で生活するのは、煩悩の燃え盛る場であり、修羅場と言う様に実に火宅無常の世界であります。

そう言う観点から申しますと親鸞聖人に致しましても、井上善右衛門先生、西川玄苔先生も共に結婚されて妻子を持たれた仏法者であります。私達在家の仏法者の中でも救い難い凡夫(下品下生、げぼんげしょう)は、親鸞聖人が身を以って行じられた浄土の真宗の道でしか救われないと私は思います。

親鸞聖人は、9歳でご両親とお別れになり、幼くして比叡山延暦寺に預けられました。当時公卿の長男以下の就職先であった寺院での出世は貴族社会の階級がそのまま投影され、親鸞聖人が望む出世は為し得なかったでしょうから名誉欲との凄じい葛藤、妬み心に悩まれた事だと思います。また思春期を迎えた親鸞聖人は性欲との闘いにも心身を削られたものと思われます。
29歳で比叡山を下りられ、法然聖人のもとに参じられて漸く自分が救われる道は念仏しか無いと確信された親鸞聖人ではありますが、それから90歳でお亡くなりになられるまで、35歳で法然上人との別れと越後への流罪、飢饉の中の越後から関東への移動、60歳を過ぎてからの京都への移動、妻恵信尼との別居、85歳での長男善鸞の義絶(勘当)と苦難を経験されました。

世間を離れて山に篭もって座禅に励む事も、凡夫私にはとても出来る事ではありません。結婚せずに、独身を続ける事も出来なかったと思います。上述した禅僧の方々は、所謂下品下生ではなく、生まれながらに高徳な人々であり、私達に身を以って理想を示される役割を持ってこの世に現れた方々だと思います。

在家で愛欲の広海に沈没し、名利の大山に踏み迷った私を救う為に敢えてご苦労をされたのが親鸞聖人だと思います。

苦難を乗り越えるにはかなりのエネルギーが必要です。そして出遇う苦難は大きくなるばかりで、乗り越えるエネルギーもそれなりに大きくなりますが、親鸞聖人も、阿弥陀仏の本願力を信じて、お念佛一つで乗り切られたと思われます。

私も、どんな苦難が来ても平気と言う心境を求めて来ましたが、この度の地獄の苦しみを経験しながら、苦難が平気になるのでは無しに、苦難と共に信心を深めさせて頂くのが仏道なのかなと思っています。

井上善右衛門先生が敬愛された白井成允先生も、多くの苦難に遭われながら、お念佛一つで乗り越えられたとお聞きしています。私達凡夫は、仏法を学べば、極端には苦難が来ないと誤解したり、そうではなくとも、どんな苦難が来ても平常心で受け取れるようになると思い勝ちですが、そうでは無しに、苦難は苦難として苦しいけれども、逃げる事無く、正しく乗り越えられると言う事ではないかと思います。

しかし、仏法を行じる者は世間の波に翻弄されっぱなしで良いかと言うとそうではありません。親鸞聖人も、35歳の流罪には終生憤りを持たれていたと聞きます。宇宙の道理から判断しての間違いは見過ごす訳にはいかないと言う強い意志を親鸞聖人はお持ちで、勇気を持って時の権力に敢然と立向かわれた記録もあります。

宗教と言うものが、あのオウム真理教とか、一部のイスラム原理主義のテロ行為によって、危ないものだと思われている現実がありますが、宗教は、倫理・道徳と相反するものではあってはなりません。一般常識から逸脱した宗教があれば、それは宗教ではないと思います。特定の宗教が一般の人々に迷惑を掛けていたり、不自由をもたらしていれば、それは宗教ではないと思います。

お釈迦様はじめ、多くの祖師方がいらっしゃいますが、私は、やはり親鸞聖人こそが、私の様に在家で七転八倒する凡夫の中の凡夫がその歩まれた道を辿るべきお師匠だと、改めて思う次第です。


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