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No.300  2003.07.14

母(大谷政子)を偲ぶ

無相庵ホームページは、3年前の7月6日にアップしました。そして、このコラムコーナーは7月13日に『雪印事件に想う』と言うコラムで始まりました。そして今日は300回目のコラムとなりました。当初は、これほど続けると言う強い気持ちは持っていなかったと思います。
しかし、たまたまコラムアップした翌日に、私の経営する会社の経営危機が突然やって来ました(主事業が中国企業に奪われると言う事が、取引先からの電話一本で通告されたのでした)。

中小零細企業の経営者に取りましては、会社のピンチは、個人のピンチであります。倒産と自己破産の文字が頭の中を駆け巡る日々が始まりましたが、このピンチの事は、それから約2ヶ月間は、従業員にも家族にも極秘に致しましたので、このコラムでも一切触れませんでした。コラムコーナーも止めようかとも思いましたが、経営危機、人生の危機に面した時の心境を赤裸々に書き残す事が、自分に与えられた役割かも知れないと、続けて参りました。

しかし、振り返りますと、このコラムを書く事は、自分の状況を冷静に見詰める貴重な時間を与えられたようですし、また苦しい中での私の生き甲斐にもなり、今日まで私の支えになって来たのだと思います。

そして、当初は、十数人だったコラムへのアクセスが、徐々に増えて、今では、1編のコラムに約百人のアクセスに増えました。そう言うコラム読者さんの無言・有言の励ましにも支えられて、今日まで続けられたのだと、本当に感謝しています。

経営も、個人も、その危機状況は殆ど好転していません。会社と個人の資金を合計しても、運良くて、余命数ヶ月の命です。しかし、不思議ですね、危機に麻痺して来たのだと思いますが、あまり悲壮感はありません。そのうちに騒ぎ出すかも知れませんが、その時はその時と言う、厚かましい心境です。この3年間で、精神的にも肉体的にも色々と苦難に遭遇し、 鍛えられたのかも知れません。

さて、3年300回と言う区切りとなる、この月曜コラムは、通常は仏教経典の解説と言う事にしていますが、まことに勝手ながら、先月の6月29日に17回目の命日を迎えた母、大谷政子(80歳にて没)を追悼する気持を込めて、母大谷政子の想い出を書き遺すものにさせて頂きます。
(私の母、大谷政子に付いての簡単な履歴は、無相庵ホームページの下記をご参照下さい。
http://www.plinst.jp/musouan/masako.html)。

写真は、亡くなる3年前、10名の孫全員と一緒に撮ったものです。

政子の子供には、私を含めて兄弟姉妹5人(女3人、男2人)いますが、この私が仏法に最も縁が深いと母は感じていたのだと思いますが、その末っ子の私に垣間見せた女性政子≠語り、親鸞聖人と共に歩み、報恩行に撤した母を語り遺したいと思います。

【母の一番大切なものは仏法でした】
私が小学校1年の時、母は既に、仏教の講話を月1回開催する垂水見真会と言う仏教グループを立ち上げていました。小学校から家までの帰り道に垂水銀座≠ニ言う商店街があったのですが、その商店街に「まつなが」と言う女性用整髪剤、ポマードを販売するお店があり、そこのおばさんが垂水見真会に参加されていた関係で、小学1年生の私は、しばしば立ち寄っていました。それは、コップ一杯のお水を貰いに寄り道していたと記憶していますが、それだけでは無く、友達にもお水を振る舞って貰う事で、私自身の自尊心を満足していたように思います。

母は、48歳(私は小学校5年生)で、私の父四郎(満52歳で没)を交通事故で失いましたが、大学4年の長女を筆頭に5人の子供を抱えながら、垂水見真会を休む事無く続けました。
母は常に『私の力で続けられたのではないんよ、仏様の不思議なお働きが、私をして、続けせしめられたんだよ』と申してました。

父が勤めていた会社(増田製粉株式会社、大証2部)からの手厚い支援はありましたが、何回か、家計のピンチにも遭遇したようです。そしてそのピンチの2度とも、父が残した増田製粉の株が急上昇し(買い占めがあった様です)、売却益でピンチを脱出したと聞きました。

母は、『私が垂水見真会を続けるように、不思議と、佛さまのお働きで……』とは、何回も聞かされました。

それはそうなのだと思わざるを得ませんが、一方、母は、子供を育て上げねばならぬ独り親の責任感も然る事ながら、今思えば、金銭感覚、経済運営感覚にも長けていたのだと思います、タイミング良く、会社の株を手放しました。当時、株買い占めに遭遇していた増田製粉の経営陣から、株を売らないように内々の説得があったようですが、自分の生活を守るために(いざとなれば、誰も助けてくれないからと)、説得に応じなかったところは、義理人情にのみ流されない、母の自立心の強さがあったからこそと思い、母の持っていた、凄い事業者感覚だと思い、脱帽している次第です。

しかし、それもこれも、すべては、仏法を世に伝え広める使命感が背景にあったのだと思います。仏法興隆の為には、何だってやると言う気迫が、今も私の心に鮮明に残っております。
母は、亡くなる直前まで、独り暮らしをしていました。母は、昭和61年6月9日に自分最後の主宰となる講演会を開催し、その20日後に亡くなりますが、糖尿病を患っていた母は、決して体調は良くなかったのだと思います。だからこそ、独り暮らしの気ままさを断念して、兄夫婦との同居を決意したのだと思います。

兄夫婦との同居は、垂水見真会の会場を敷地内の別棟に設営することを前提にしていましたが、それは、自分が亡くなった以降の垂水見真会の存続を確実にしたいと言う想いと、私への財産分与を担保したいと言う親心だったと思いますが、希望通りの独り暮らしのままで、希望通り『ある日、ふっと亡くなって』、ある意味では幸せだったのだと思います。

母は、結局、亡くなる最後まで、仏法興隆の為に心を砕いていた、そう言う想いが致しまして、その念力、即ち仏様のお働きで、今も垂水見真会を存続させているのだと思いますが、一方、折角心配りして貰った私が、現時点では譲り受けた財産をすべて失った事を申し訳なく思っています。しかし、何とか会社を再建致しまして、母心に応える状態にするのが息子としての責務だと思っています。

【母と仏教との縁】
母は、事業家である、私の祖父のもとで生まれ、仏教信仰も含めて、その祖父の血を受け継いだと思います(同じ姉妹の姉の方は仏教とは縁の無い一生のようでした)。祖父は、自分の会社にお坊さんを招聘して、従業員と共に、聞法もした常念仏(折りに触れては無意識的にお念佛が口に出る)の人だったようです。そして、臨終の時に、死水をくれる姉の娘婿(定市と言う名前)に対して出雲弁で、『ていいちゃ、下手だわ…』と言って、眠るが如く死んでいったと言う、生死を超えていた祖父でした。

そう言う祖父に育てられた母も、若い頃、そして結婚しても、仏法とは深い関わりを持たないままの生活を送っていたようです。多分、当時では滅多にいなかったであろうキャリアウーマン、あの大正時代に、島根県からは珍しく、単身、東京の高等女子師範学校(現、お茶ノ水女子大学)に進み、教師の道を歩みました。彦根市が新米教師の赴任地でしたが、結婚して、神戸に移り住み、長女を産んでも、教師の職は捨て難かったのでしょう、当時としては珍しい、職業婦人でした(子育ては、家政婦さんに任せていました)。

しかし、その長女を、小学1年生の入学まもない桜の咲く頃に喪います(死因ははっきりと聞いていませんが、肺炎か小児癌だと思われます)。

それから政子の心境は一変致しました。根拠無く持っていた人生を生き抜く自信は全く無くなりました。自分が歩んで来た人生に疑問を感じたのです。必然的に、祖父の常念仏の姿を思い浮かべて、浄土真宗のお寺の聞法の会を巡り歩き始めました。

詳しくは知りませんが、先生の職を辞して、聞法の生活になったのではなかろうかと思います。そして、ある時に、『自分で生きていると思っていたけれど、生かされている命なのだ』と気付かされたと聞きました。

長女(公子、きみこ)が亡くなった後に聞いた法話の中で、特に印象に残っている譬え話として、下記2点があります。これは母から折りに触れて聞かされました。
『雪道を歩いて来て、後を振り返れば、その人は真っ直ぐ歩いて来た積もりでも、実際の足跡を確認すれば、ジグザグと曲りくねっているものだ』と言う事と、見世物猿軍団の劇の模様を説明して、『ある主役の猿が熊谷直実と言う武将を演じておった時、観客が一個のミカンを転げ落としてしまったところ、熊谷直実を演じるところの猿が、演技を忘れて、ミカンを拾いに舞台から下りた』と言う話があったそうです。
猿のみならぬ、人間の本性を言い当てた譬え話ですが、自己の欲望実現に心を奪われて、人生の大切なものを見失っていた自分を気付かしめられた法話の一つとして、私に語ってくれたのだと、今、思う次第です。

当時は、まだ30歳代だと思いますが、はっきりと人生観を転換し、価値観を逆転して、仏法に人生の宝を求めせしめられたその時から、母政子の半世紀が始まったのだと思います。

そして、母は、昭和25年に、仏教講演会『垂水見真会』を立ち上げます。垂水区仲田の2DKの借家で7人が生活している時です。当時の会場は、今はもう無くなっている垂水区公会堂と言うかなり広い建物を借りまして、数年続けたと思います。著名な講師(亀井勝一郎氏など)の時は、市立垂水小学校の講堂も借りて、開催していた事を私も記憶しています。 特定の宗教団体の講演会に小学校の講堂を貸すと言うのは、当時も難しい事だったと思いますが、校長先生の心の広さと、母の私心を離れた仏法への熱意がそうさせたのだろうと思います。今では考えられない事です。

【教育ママだった政子】
自分が頑張り屋であったから当然だとも思いますが、子供の教育と言いますか、子供達の学校の成績が上がることに強い期待と願いを持っていました。家が狭くて(2DKの借家に一家7人)、姉達の勉強の環境を確保するために、近所の家の一部屋を借りた事もありました。私が7歳、一番上の姉が高校三年、次の姉が高校一年生、二人の受験勉強の為だったと思います。

私が小学2年の頃、やっと移り住んだ新築一戸建ての居間の壁には、『いろは』とか英語のアルファベットとか、色々と勉強の資料が貼り出されていましたし、トイレにも英単語が貼られてもいました。その教育ママの努力の所為か、私以外の姉も兄も、学年でトップクラスの成績であった事を記憶しています。小学生低学年の私だけは、例外的に学級でも中程度でしたが、それでも、母が成績アップを何よりも喜ぶと言う事は、頭にインプットされていたように思います。

高度成長期の日本を生き抜いた母ですから、世間の雰囲気にも影響されて、すべてにわたって上昇志向だったのだとは思いますが、特に名誉欲は強かったように思います。衣食住での贅沢は決して無く、実に質素だったと思いますが、社会的地位、社会的名誉に関する欲望は強かったように思います。特に学歴には敏感だったと思います。それは、姉達の結婚相手も、私達兄弟も、結局は全員が一流と言われる国立大学卒である事に、如実に、母政子の学歴偏重が現れていると思います。

私は、自分が国立大学を出ているからこそ分かるのですが、勉強の成績と人格を含めた社会人としての優秀さは、全く別だと思います。むしろ、逆では無いかとさえ感じています。勉強さえしていれば誉められて育った人間よりも、若い時に、ちやほやされずに育った人間ほど逞しく、人の悲しみや辛さも分かり、人間的な大きさがあるように感じています。

現代の教育ママの問題も、そう言うところにあると思います。人生で一番大切なのが学校の勉強や成績ではない事を教えるのが、母親の本来の在り方だと思います(長崎の事件も、神戸の事件も、案外、そう言うところに問題点があったのではなかろうか……?)。

私は母のお陰で、当時、中学入学時に目指していたプロ野球選手への道を断念させられた訳であり、その点では、母政子の子供の教育の在り方には、頷けない部分があります。しかし、高度成長期の日本社会の母親としては、致し方無かったのだろうかと、今では理解していますし、その母も、自分さえ良ければと言う考えを極端に排し、社会の為、他人様へ誠意を尽くすと言う事は、自らの態度で、範を示していたと思います。

そして、第三者的に考察致しますと、母政子の強い上昇志向が、良い方面に現れたのが、仏法への傾倒と、垂水見真会を中心とする仏法活動だったのではないか、と私は考えています。

【信仰に生きた母】
48歳で未亡人になった母は、5人の子育てと垂水見真会を生き甲斐として、32年間を生き抜きました。色々と辛い事もあったのだと思いますが、須磨で5人の子供を抱えて、20年の3月にアメリカの爆撃に遭い、着の身着のままで小学校に避難し、そして島根県に疎開すると言う苦難を乗り越える事で養われた心の強さが一生を支えたのだと思います。

母は、仏教信仰に生きましたが、いわゆる生き仏のような物静かな人格ではありませんでした。感情豊かで、我も強く、二人の息子の嫁達とも、世間一般の嫁姑の関係も演じました。しかし、やはり世間一般の姑とは異なり、そう言う自分自身の煩悩を自覚して、一層、信仰を深めていた様に思います。

当時は、愚痴をこぼし、煩悩が無くならない母を私は批難していましたが、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)と言う意味が分かっていなかった私の至らなさが恥かしいと思っています。

厳しい世間の中、5人の子供を育て、生々しい人間関係も色々と経験しながら、死ぬまで、仏教の話を聞き続けた母は、文字通り、親鸞聖人の御教えと共に生きた人生だったと思います。


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No.299  2003.07.10

12歳の心の闇

長崎市で4歳児が全裸の死体で見付かった事件は、6年前の神戸の連続児童殺傷事件と同じ結末を迎えてしまいました。中学1年生、12歳の少年の犯行でした。

あまりにも痛ましい出来事です。加害者、被害者、加害者のご両親、被害者のご両親、何れも痛ましいとしか言い様がありません。痛ましく思うのは、恐らく、無意識の中に、我が身にも起り得る事件と感じているからなのだと思います。今までのところ、幸いにして、我が身(自分、子供、孫)には発生していませんが、起らないとは言えない事件だからだと思います。

こう言う痛ましい事件の再発防止に、私達はもっと関心を持つ必要があったのだと反省致します。神戸の事件の後、どう言う再発防止対策が実施されたのでしょうか。そしてその対策の結果評価はどのように為されているのでしょうか。

事件毎に、加害者に対する更正と言う形で個別の対策については為されているのだと思いますが、同じような事件を他の少年に再発させない為の取組みは、極めてお粗末と言うか、無責任な状態ではないでしょうか。だからこそ、神戸事件の被害者の父親が、今回の事件に関して、怒りのコメント(表面的には少年法の理不尽さに対してではありますが……)を出しているのだと思います。

企業における事故、品質不良、品質苦情に関する原因究明、再発防止対策には大変厳しいものがあります。私は、製造業に身を置いておりましたので、身に染みております。客先である大企業の品質監査には大変厳しいものがあります。大企業に納入する企業は、その対応に多くのエネルギーを費やしているのが現状であろうと思います。だから、日本の品質は向上して来たと言う面は否定出来ません。

この日本企業の再発防止システムと比較しますと、政治の世界、官僚の世界、教育の世界の再発防止システムは、あまりにも甘いものであると感じて来た事は確かです。政界の色々な不祥事は、繰り返し起り過ぎていると思います。

前回の木曜コラムで、『命の尊さ』をテーマとして書きました。今回の事件に付きましては、警察、法律の問題としてではなく、家庭教育、学校教育、社会教育の在り方に間違いがあるとして、具体的な再発防止対策を講じなければ、今回の事件、池田小学校、神戸の事件と類似の事件がますます増えるものと思います。

今朝のテレビで、長崎県教育委員長の『命の尊さを教えて来たのに、どうしてこんな事になったのか、衝撃を受けている』と言うコメントを紹介していましたが、単に『命は尊いものだよ』と言って来ただけではなかったのか?そんな安易な思考力で反省されても、決して問題は解決しないと思う。本当の優しさがあれば、そんなコメントにはならないと思います。

もう既に、今の少年法が12歳の場合には刑罰が科せられないと言うことが問題視されたコメントもあります。神戸の事件を契機に、3年前にやっと16歳から14歳に引き下げられたばかりです。
被害者のご両親のお気持ちとしては、犯人が罰せられないと言う事では納得がいかないと思いますので、凶悪犯罪を犯し得る最低年齢に引き下げる必要はあると思いますが、そう言う表面的な対応が再発防止対策として終わって来た事が一番の問題である事も確かだと思います。

企業でも、品質クレームが発生した場合、往々にして、検査を厳しくする事で事足れりとする傾向も見受けます。品物を仕上げ包装する最後の工程での検査を厳しくして、不良品が流出するのを防ぐと言う愚を冒します。本来は、不良品が発生する原因を追求して、不良が発生しないように品物を造る際の作業方法や機械や使用する材料を改良する事が再発防止対策で無ければならないのに、不良品を見逃した作業者の責任にして、作業者を叱責して終わりとする企業がありますが、少年法のみの改正にエネルギーを使うのは、それと全く同水準の愚かさだと言えます。

私も、今回の事件や、神戸の事件、池田小学校の事件の原因を詳細に知り得る立場にありませんので、再発防止対策を論ずる事が出来ませんが、せめて、原因究明に力が注がれ、且つ情報が開示されて、再発防止への仕組みが作られていくのかどうかを見守りたいと思います。

約30年前、岡真史と言う12歳の少年が自殺しました。多くの詩を書き遺して亡くなりました。その詩は、『僕は12歳』と言う本にご両親の手で編集されています。このお父さんは、高史明と言う、今では作家であり、浄土真宗の信仰者として著名な方です。今回の12歳の少年と言う事から、思い出しました。12歳にして、こんな詩が書けるのかと言う難解なものでしたが、心の闇を感じた記憶があります(高史明氏は、我が子の自死を契機として自らの救いを仏法に求められました)。

殺人と自殺では、全く現象は異なり、同レベルで論じてはなりませんが、12歳と言いますと、児童から少年へと、自我も芽生え、周りの扱いも急変します。それでいて、問題解決能力は備わっていません。自らの心の闇に踏み迷っている子もいるのだと言う前提に立って、親も教師も、そして社会全体が、再発防止の契機としなければならない、そうしなければ、今回、言い知れぬ怖さと不信を擁きながら立体駐車場の屋上から突き落とされた駿君≠ノ申し訳ないと思います。

今、私に出来る事は、一人一人が夫々固有の大切な素質を持って生まれて来ている三人の孫達に、一杯の愛情を表現してやる事だと思っています。それが孫達に命の尊さ≠教える事でもあると思うからです。

また、心の闇に踏み迷っているのは、少年達だけではありません。私も、58年間の人生で何回か心の闇に踏み迷いました。このコラムを書き続けて来た3年間にも経験致しました。しかし、その心の闇から救われて来たのは、その時々に優しさを表わして下さった方がいたからなのだと、改めて思った次第です。


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No.298  2003.07.07

修証義に啓かれてー第11節ー(これより第3章受戒入位)

●まえがき:
この第3章は、仏法は、仏法僧の三宝に帰依することだと説かれているのですが、仏法僧の三宝と言いますと、私は、中学校の社会科で勉強した聖徳太子の十七条憲法を先ず思い出します。

中学生の時は、仏法僧と言う事は、試験勉強のためにのみ覚えた三宝であって、意味も何も分かりませんでしたし、また、分かろうともしませんでした。今も正直に申しまして、何故仏法僧の三宝なのか、何故、『法』一宝だけではいけないのかが理解出来ていませんが、道元禅師よりも600年も前の日本におられた聖徳太子が、既に、篤く三宝を敬えと言われていた事、しかも国の憲法の第2条(第1条は、有名な、和を以って貴しと為す)に謳われていた事に、聖徳太子こそ日本のお釈迦様と言われる所以(ゆえん)が理解出来ます。

参考までに、十七条憲法の原文と読み方、そして現代語訳を以下に掲載致します。

【十七条憲法第2条、原文】
二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。
【同上、読み方】
二にいわく。あつくさんぽうをうやまえ。さんぽうとはぶっぽうそうなり。すなわちししょうのおわりのよるところ。ばんこくのきょくしゅうなり。いずれのよのいずれのひとこのほうをとうとわざる。ひとのはなはだしくあくなるはすくなし。よくおしえればこれにしたがう。それさんぽうにきせずば。なにをもってかまがれるをただせん。
【同上、現代訳】
二、心から三宝を敬いなさい。三宝とは仏法僧のことです。人生、生老病死の間で最後に行き着くところは。どこの国でも究極の宗教です。どの時代でも、どんな人でも仏教を尊ばないものは無い。人間に悪人は少ない。良く教えれば宗教に従う。仏教に帰依しないで。何で曲がった心を正すことが出来ようか。

●修証義―第11節
次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、生を易(か)え身を易(か)えても三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし、西天東土仏祖正伝(さいてんとうどぶっそしょうでん)する所は恭敬(くぎょう)仏法僧なり。

●西川玄苔老師の通釈
懺悔の力にて、本来の清浄心が開発(かいほつ)された次には、宇宙古今不変の真実の働きである仏法僧の三宝を深く敬い奉るべきである。いかほど生まれ変わり死に変わっても、仏法僧の三宝にすべてを捧げ尽し、敬い申し上げることを願ってゆこうではないか。インド、中国、日本と歴代の仏祖方が正しく伝えられたのは、この仏法僧三宝を恭敬するという道であったのだ。

●あとがき:
この第3章で、道元禅師は、仏法僧の三宝に帰依することの意味について、詳しく説かれています。
親鸞聖人は、『ただ念仏して』と言われており、仏法僧の仏だけを採られたように思われますが、篤く三宝を敬えと言われた聖徳太子を讃嘆されている親鸞聖人ですから、この念仏の仏は、三宝を意味したものであることは間違いありません。

宗派に拘わらず唱えられる三帰依文(礼讃文)は、三宝に帰依致しますと言う誓いの言葉とも言うべきものですが、三宝以外には帰依致しませんとの誓いと受け取る方が良いのではないかと思います。

私達は、宝と言いますと、財宝や子宝と言う言葉が思い浮かびます、地位も屋敷も含めて、私達が宝と思うものは、何れも永遠の頼りとなるものでありません。間違ったものを宝とせずに、仏法僧の三宝、即ち、真実なるものを頼りとしようと言うのが仏法である事を、お釈迦様も、聖徳太子も、道元禅師も、親鸞聖人も私達に言い残されているのです。

【三帰依文】

人身受け難し、今已に受く、仏法聴き難し、今已に聴く
此の身今生に向って度せずんば、更にいづれの生に向ってか此の身を度せん
大衆もろどもに至心に三宝に帰依し奉るべし

 みずから仏に帰依し奉る、将に願わくば衆生とともに、大道を体解して無上意を発さむ

みずから法に帰依し奉る、将に願わくば衆生とともに、深く経倉に入りて知慧海の如く ならむ

みずから僧に帰依し奉る、将に願わくば衆生とともに、大衆を統理して一切無礙ならむ

無上甚深微妙の法は百千万却にも相遇うこと難し、我今見聞受持することを得たり、 願わくば如来の真実義を解し奉るらむ

●次週の修証義―第12節―
若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり、何(いか)に況(いわん)や帰依し奉ることを得んや、徒(いたず)らに所逼(しょひつ)を怖れて山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多(せいた)に帰依すること勿(なか)れ、彼は其帰依に因りて衆苦を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて、衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。


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No.297  2003.07.03

命の尊さ

写真は、我が家の庭に咲いた槿(むくげ)と言う花木です。今は槿(むくげ)の季節、我が家の庭の槿も今が盛りである。槿については、芭蕉の有名な一句がある。槿は韓国の国花でもある。

       道のべの木槿(むくげ)は馬に食はれけり

   芭蕉は馬の上。前方に槿(むくげ)の花が咲いている。芭蕉の目はここに放心したように吸い付けられている。世界はただ一輪の槿の花だけしかない。とそのとき、それまで彼の視界には全くなかった馬の長い口がひょこっと現れて、瞬間槿の花が消えていた。消え去った槿の鮮やかな白さが残像として前より強烈に瞼に映じている。芭蕉、中期の最高傑作の一句。
ムクゲは、「キハチス」とも言う。朝顔に似た花をつける。朝に咲いて夕方には萎んで落ちる。

さて本論に入ります。
『死ぬ事をびびっていない』と言い、『遺族に謝罪もしない』とも言い、あの池田小学校の殺人事件の犯人は結審を迎えるらしい。殺された児童の遺族の心情は、私達の想像を超えるものだろうと思う。犯人は、良心の欠片(かけら)も無い極めて稀な人間である。普通の人間ならば、自分の冒した罪の重さに気付き、謝罪もし、如何なる刑にも服すると言う心境になるはずであるが………。

しかし、彼も、殺人鬼の遺伝子を持ってこの世に生まれ出た訳ではなかったはずである。多分、幼い時から両親に愛される事も、その他、誰からも愛される事無く育ち、むしろ苛められ、邪魔物扱いを受け続け、怨みと恨みに満ちた人生だったのだろう。ある意味では憐れであり哀れでもある。
今後、このような事件が再発しないように、せめて、心理学的な原因究明をし、教育(家庭、学校、社会)の在り方を見直して、再発防止に努力する事が、幼くして亡くなった命への、われわれが出来る唯一の償いだと思う。

殺人を犯す人間には、色々な事情があるにせよ、人の命の尊さ≠ニ言う感覚が極めて希薄である事は勿論であるとともに、自分の命の尊さ≠キら持ち合わせていないのだと思う。折角、色々な可能性を秘め、他の動物とは比較できない位の知能を与えられた人間と言う尊い命を与えられながら、殺人鬼として一生を終わるのは、何としても勿体無く、残念である。残念であると言うのは、この人間社会の在り方の間違いが彼を殺人鬼に育て上げたと思うからである。

間違いとはどう間違いかと言うと、この今の日本社会には、命の尊さを教える土壌が無いと言う事である。最近、学校教育で命の尊さを教えると言う考え方も芽生えて来てはいるが、その教え方、その考え方の背景に、安易且つ浅薄なものを感じる。

地球上の生命はどんな生き物でも尊いものであるが、人間の命は格別尊いと思う。しかし、いくら口で命の尊さを説いても、幼い子供には伝わらないと思う。一人一人を尊く想う心で幼子や児童に接すべき親や教師の側にこそ問題があるのだと思う。私は、この命の尊さは、仏教的な見地を背景とした教育改革によってしか、達せられないと思う。

私も、一人の子供として育ち、また親として二人の子供を育てた。その結果に関してはまだ 結論は出せないが、その経験も踏まえて思う事は、乳飲み子、幼児期、学童期に、大切に大切に育てると言う事であるが、その意味は、子供夫々に固有の素質・才能があり、それを親子或いは教師と生徒共同作業によって見付けてあげると言う姿勢が必要だと言う事である。

あらゆる可能性に網を張って、その子のキラリと光る才能を見付けてあげる事が、延いては命の尊さを教えることだと思う。学問が得意な子もいれば、スポーツが得意な子もいる。芸術面に優れた子もおれば、もの造りの技能に秀でた子もいる。更に学問でも様々な分野がある。スポーツも色々な競技がある。野球が得意な子、水泳が得意な子、サッカーが得意な子、絵が得意な子、歌の上手な子、ダンスの上手な子、漫画書くのが得意な子、一人一人生まれ持った個性があり、夫々に異なった素晴らしい素質を持っていると思う。誰でも、何かで天才だとも思う。その素質を一緒に探してやるのが真の教育だと思うのである。そしてそれは学校教育、家庭教育、更には企業内教育も含めた社会教育の何れにも言える事だと思う。それが命の尊さ教育だと思う。

私は、幼い時、どちらかと言うと勉強の出来は悪かった。しかしスポーツは得意だった。小学校の体育の時間は、先生に代って模範演技をさせられていた。野球も得意で小学校ではスタープレーヤーだった。だから、中学校では野球部に入って、野球の名門高校(当時は育英高校か滝川高校)に進学して、甲子園そしてプロ野球選手になりたい夢を持っていた。

しかし、母親の願いは、受験進学校に行き、出来れば国立大学の理工学部へ行き、学者になるか、一流企業への就職であった(と感じていた)。当時の日本では、それが普通の親の切なる願望だったと思うし、本当は背も低いからプロ野球の選手になれる程の素質はなかったかも知れないので、今が私の歩み至るべき道だったのだとは思うが、ほんの少し残念な想いは今なお残っているのである。

小・中学校では勉強の成績は悪かったが、母は常に『あんたは大器晩成、やれば出来る、今に芽が出る、必ず芽が出る』とおだてて育ててくれた。そして、成績が上がれば欲しいものを買ってくれた。中学1年の時、はじめて学級で10番になった時、待望の自転車を買ってくれた事を今でも覚えている(丸石と言うメーカー品だった事も)。結局、母の作戦に引っ掛かり(有り難いことだったと思うが)物欲に釣られて、そこそこ勉強の成績は上がったが、やはりスポーツの方が得意であった。中学入学の時、散々迷った末に、野球を諦めて始めたテニスが生涯のスポーツになり、仕事で移り住んだ大阪府、熊本県、兵庫県で何れもトッププレーヤーになり、仕事より輝く存在だった事は間違いない。だから今でも、プロスポーツ選手になっていればと言う想いがほんの少し残っているのである。

逆の立場の親としての二人の子育てにおいては、私自身は、子供にそんなに勉強を強制した積もりはないし(子供達は結構プレッシャーがあったらしいが)、色々な習い事もさせたけれど、しかしその子にしかないであろう素質を見付け出してあげようと言う積極的な考えも持っていなかったように思う。その事には若干の反省と後悔があるが、やはり今でも夫々に固有の素質を持っている事を感じるので、まだまだこれから素質を開発して磨けば良いと思っているし、親として精神的な面で応援し、励ましたいと思っている。

それに今、私には三人の孫がいるが、そう言う(君は天才だと言う)想いを持って接して行きたいと思うし、また58歳の私も、まだこれから能力を開発して、私にしか出来ない仕事をしようと思っている。それが、自分の命を尊く扱うと言う事だと思うし、そう言う考えを持って、教育するのが、命の尊さを教える事ではないかと思う。

今、日本の企業は成果主義に走りつつある。一人一人の仕事を、どれだけ頑張ったか、努力したかではなく、お金にどれだけ結び付く仕事をしたかと言う結果評価主義に変わりつつある。これは、学校の通知簿教育の導入である。従業員の仕事振りを5段階評価的な処理をするもので、仕事に表れる以外の個性は全く無視するものなのだと思う。また結果的には、チームワークを否定し、人間関係を希薄なものにし、企業への帰属意識は希薄化され、延いては日本の社会を破滅させるものだと思う。

仕事は、色々な人との関わり合いで為されるものである。この成果主義に移行する日本企業の姿勢は、人間の及ばない諸条件によって結果は異なるものであると言う仏教の無我思想からも外れているし、人間には固有の素質があり、力量も状況によって移り変わると言う仏教の無常思想からも外れた考え方であり、命の尊さを無視した方向への転換であり、教育が向うべき方向と逆行しており、日本の将来を案じざるを得ない。

私がこのコラムに掲載して来た花々は、夫々に個性があって、どれも美しい。比較出来ない固有の美しさで、尊い生命の状態をしめしている。槿(むくげ)の花より、バラの花の方が美しいとは言えない。好き嫌いはあるにしても、それぞれがかけがえの無い生命体である。

一人一人の人間の命も、そう言う意味で、かけがえの無い命なのである。その視点を失った社会に希望は見出せないと思う。池田小学校の殺人事件の裁判の内容を伝える新聞ニュースを見て、こんな事を思った。


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No.296  2003.06.30

修証義に啓かれてー第10節ー

このコラムを書いている今日は6月29日(日曜日)です。昭和61年(1986年)の6月29日も日曜日でした。今日は、母の17回目の命日です。母は、その月の19日に満80歳になっていましたが、本人の希望で独り暮らしをしていました。しかし、やはり衰えを感じていたのでしょう。近々、私の兄家族と同居する計画で、新居の設計図も出来上っていたと記憶しています。

亡くなる前日の土曜日、私は毎週の事ではありましたが、母の住んでいる実家から歩いて1分のところにあるテニス倶楽部でテニスをしてから、夕方、母と一時間程度の世間話をして帰りましたが、その日は何故か、今から思えば翌日の死を予感していたとしか思えない、少々高価な形見の品とも言うべきものをくれました。

私が財産相続の権利を放棄していましたので、母のその行為は、自分が兄家族と暮らす事にした事と無関係ではなかったと、今、思う事ですが、母親の次男への切ない愛情だったのだと思います。「今にして、知りて悲しむ父母が、我にしましし、その片想い」と言う詠が身に染みます。

私は今、母の願いからかなり外れた生活を送っており、申し訳ない気持ちもありますが、母の生き甲斐であった仏教講演会、垂水見真会(昭和25年スタート)は、母が亡くなってからも姉達の手で17年間も存続しており、336回だった講演会は先月500回を迎えました。

私は、今もなお、母に心配を掛けている事は間違いないですが、この無相庵コラムも、7月14日で満3年300回目のコラムとなります。怠け者の私が、毎週2回、3年間、一回も休む事なく続いたのは、母すなわち仏様の働きだとしか言い様がありません。

お浄土にある母も、かなり心配しつつ、苦笑しつつ、微笑んでいると思います。 写真は、亡くなる20日前(6月9日)、母が最後に開催した336回目の垂水見真会のご講師である竹下哲先生ご夫妻等と撮った写真です(一番左が母政子)。

●まえがき:
私は、キリスト教の懺悔がどのようなものか正しくは知りません。仏教における懺悔、特に親鸞聖人の懺悔は、慙愧(ざんき)であります。慙も愧も恥かしく思うと言う意味の漢字であり、他者との関係において頭を下げて謝るとか反省すると言うものではなく、自らの心の中に否応なく湧き上がって来る恥かしさであり、情けなさであり、神様の前とか仏前で態度で示すものでもなく、密かに深く自分自身に羞じるものだと思います。

道元禅師が用いられている懺悔も、やはりその慙愧だと思います。しかし、道元禅師は、心の中で、密やかに懺悔するのではなく、口に出し、態度に出せと仰せになっておられます。

本当に慙愧の念が起れば、自然と態度に出ざるを得ないと言う事だと思います。私は、臨済宗の山田無文老師の礼拝される姿に接した事があるのですが、全身を投げ出しての礼拝の姿に痛く感動した事を覚えています。また、その姿が、そのまま曹洞宗の西川玄苔老師の礼拝の姿でした。仏道を極められた方の礼拝には、懺悔、慙愧も然る事ながら、深い感謝の念と共にあるんだなぁと、今日の修証義を読みながら、思い出した次第です。

●修証義―第10節
我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり。心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。

●西川玄苔老師の通釈
『私が昔より、造り造ってきたもろもろの悪業は、すべてわが身可愛さの想いよりいつとはなしにおこった、むさぼりといかりとおろかさの煩悩により、身体と口と意とで行ったもので、それに気付いた私は、今、ここに懺悔いたします』と、この懺悔文を唱え唱えて懺悔するならば、必ず仏祖がたにより、見えざるところより、知らず知らずのお助けをこうむるものである。だから、心には懺悔の念(おもい)を忘れず、身では合唱礼拝して懺悔の姿をあらわし、仏の前にて、包み隠さず罪状を申し上げるべきである。このように、すべてを投げ出して懺悔した力は、あらゆる罪業の根をたって、朝日をうけた雪のごとく、解けてなくなってしまうのである。

●あとがき:
ですから、懺悔には、或いは慙愧には、必ず感謝・報謝が伴なっていると思います。慙愧即感謝とでも言うべきなのでしょう。

むしろ感謝の無い懺悔は、他人向けのデモンストレーションだと言っても良いかも知れません。

更に、親鸞聖人の慙愧について申しますと、慙愧即感謝即慶び即讃嘆であったと思います。
すなわち、それは、恥かしい自分であるけれど、こんな自分がこうして生かされている事への感謝、そして、そう気付かせて頂いた事への感謝と、仏法に出遭えた遠き宿縁に関する慶びと、お釈迦様とお釈迦様をこの世に送り出した他力への讃嘆が殆ど同時となった礼拝だと思います。
また、そこまで到達しなければ、本当の懺悔では無いのだと、私は思います。私には、未だ未だ至り届けない懺悔の姿です。

●次週の修証義―第11節―(第3章受戒入位)
次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、生を易(か)え身を易(か)えても三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし、西天東土仏祖正伝(さいてんとうどぶっそしょうでん)する所は恭敬(くぎょう)仏法僧なり。

今日の午前中に、妻と二人でお墓参り致しました。既に新しいお花が供えられていました。
色々な想いを込めて、合掌致しました。


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No.295  2003.06.26

急勝は煩悩の生みの親?

この一週間、さすがに梅雨と言うだけあって、よく降りましたが、今朝は梅雨の晴れ間、朝の日差しに琉球朝顔も久し振りに晴れやかな表情です。

『急勝』はセッカチと読んで下さい。セッカチは、急勝【せきがち】が変化したものと国語辞典の説明にあります。

14、5世紀のヨーロッパのある思想家が、『セッカチは人間の原罪だ』と発言していたと何かの本で読みました。私自身が自他共に認めるセッカチ人間ですから、『どう言う事なのかな?』と心に引っ掛かっておりましたが、最近、程度の差こそあれ、殆どの人間はセッカチと言う遺伝子を持っており、3大煩悩と言われる、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに;怒り)、愚痴(ぐち)も、セッカチなるが故の煩悩なのかも知れないと思い始めました。

慌てず、時の流れをゆったりと待てる性格ならば、欲を満たす事に我を忘れて貪欲になる事は無いでしようし、瞬間湯沸器の如き怒りも起らないし、失敗・失態・後悔も時が解決するものだとなれば愚痴も無くなりましょう。

私は、食事も風呂も、5分と掛かりません。ゆっくりしても10分。妻から32年間にわたって注意を受けて来ましたし、私も是正しようと何度となく努力致しましたが、常に三日坊主ならぬ1日坊主です。私は正真正銘の生まれ付きのセッカチ人間だと自覚して参りましたが、9.11の同時多発テロからアフガンそしてイラク戦争へと突き進んだ最近の世界情勢や、日本社会で起きている様々な事件を見聞きしますと、どうやら私だけが特別にセッカチではなく、人間社会で起きる色々な事態・事件・紛争は、セッカチを産みの親とする煩悩から発生しているのではないかと考えるようになり、『セッカチは人間の原罪だ』と言う思想家の発言の意味を納得する事が出来ました。

そして、考えてみれば、動物と言うものは総じてセッカチで、待つ事が苦手な生き物である事にも気付きました。食物や獲物には直ぐに反応致します。庭に遊びに来る鳥達も、セカセカしており、落ち着きがありません。自らの命を防御する為にだとは思いますが、きっと動物には時間と言う概念・感覚がないでしょうから、本能的に瞬時に反応しているだけだと思いますが、それをセッカチと言うのではないかと思います。

更に進めて、セッカチ度が動物の高等下等の評価基準になるかもしれないと思うと共に、人間は他動物よりはセッカチではないけれども、人間の中にもセッカチ度に差が認められ、人間の高等下等も、セッカチを評価基準として決められるように思うに至りました。
そう言えば、喋り方もゆったりされている皇族方には、品格があり、高等な人間だなと感じます。私などは、あのような落ち着いた喋り方にはなりませんし、毎日毎日、何かに追われているように、セカセカとした生活を送っています。人間の中でも下等なんだなと思わざるを得ません。

人間は動物から進化して、セッカチ度合いは多少改善されているのですが、他動物から更に進化するように、セッカチを更に改善する努力が必要なんだと思います。自制心とは、セッカチを自制する心と言えるかも知れません。勿論、セッカチであるからこそ、移動手段も、鉄道、飛行機、ロケットと開発され、情報伝達手段も、飛脚、郵便、電話、FAX、メールと、今は、世界各国の人と、瞬時に連絡が取れます。セッカチだから物質分明、生活文明は進化(?)したのでしょう。

しかし、一方、セッカチだから、ゆっくりとした話し合いの時間を持てずに、問答無用と、戦争に突入すると言う愚かさは現代になっても全く解消されていないのだと思います。身近な出来事を見ても、お金に困ると、短絡に殺人まで犯して獲得しようとします。セッカチだからこそ、自制心を持てずに、セクハラで社会的地位を瞬間に失うような愚かさを繰り返してしまうのではないでしょうか。
セッカチで無くなれば、戦争も殺人も闇金事件も、すべての悪は一掃されるのではないかと思います。

3大煩悩は、我執(自己愛)から来ている事も間違いありませんが、その自己愛にセッカチと言う本能が呼応して、はじめて生じているのではないかと考えてもみました。
そう言う意味では、座禅はセッカチを矯正し、自制心を取り戻す良い方法かも知れません。人間性を根本的に変える効能があるのかも知れません。私も、取り敢えず、朝・昼・夜の3回、たとえ5分でも、静かに座禅をしてみようと思います。

無相庵カレンダー、6日の【喫茶去】(きっさこ)は、まさに、『まぁまぁ、そう慌てずに、お茶を一服飲んで行きなされ』と言う、禅門の言葉であります。


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No.294  2003.06.23

修証義に啓かれてー第9節ー

●まえがき:
禅宗のもう一方の宗派である臨済宗では、私の知る限りでは、自己を、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫と言う言い方はしません。無常とか無我を悟る事に力点があるように思います。曹洞宗の青山俊董尼、西川玄苔老師、そして、武井哲応師に師事された相田みつをさんも、何れも自己の罪深さを問題にされているところは、禅宗と言うよりも親鸞聖人が歩まれ至った仏道に近いように思います。

禅宗は、座禅宗の座と言う文字を取り除いた名称だと聞きます。そしてお釈迦様が菩提樹の下で座って、長い時間瞑想された後に悟りを開かれたところから、座禅こそ、お釈迦様の悟りの心境を体験する唯一の道だと言うのが、禅宗サイドの立場だと思います。

鎌倉仏教では道元禅師は座禅を、親鸞聖人は念佛を、日蓮聖人は法華経を、仏道は、これでなくてはならない、救われないとして選択されました。これは、平安時代までの仏教は、どちらかと言いますと、公卿社会の為の宗教でしたが、鎌倉時代になって、それまで公卿社会の犠牲者として甘んじていた一般庶民の幸不幸に関心が向った故の、必然的な宗教改革では無かったかと思います。

平成の大不況と言う感が深い今日、闇金融、貸し剥がし、増税と、弱者受難時代の再現は、宗教改革によってしか、庶民が救われる道は無いのかも知れません。

昭和20年の敗戦以降、日本は奇跡的な経済復興を成し遂げは致しましたが、日本の良き精神文化も失い、精神の支柱も見失い、拝金主義に毒されて来たように思います。社会の為にと言うような崇高な志を持つ事は、むしろ時代遅れであると言う風潮の日本になってしまった事は、道元禅師ではありませんが、国民が総懺悔しなければならないのではないかと思います。

●修証義―第10節
その大旨は、願わくは我設(たと)い過去の悪業多く重なりて障道(しょうどう)の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我を愍(あわれ)みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其(その)功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸(みりん)せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。

●西川玄苔老師の通釈
さて、その懺悔の大切な趣旨というのは、『どうか仏様よ、わが過去世に於いて、悪業を積み重ねて来た報いによって、現在、真実の道を修行しようとするのに種々様々な障害の因縁が起ってきまして、どうも苦しみ悩んでおります。仏道修行を円満に完成為された仏祖方よ、どうか私を憐れみ下さり、罪業のわざわいから脱け出させて下さい。そして真実の大道をさわりなく修行出来るようにさせて下さい。仏祖方の慈悲の功徳は天地一杯にゆきわたり充ち満ちておりますから、どうぞ罪障深き私を憐れみ、お慈悲の糸すじで救って下さい。仏祖方も、昔は凡夫であられたでしょうし、私どもも仏道精進に退転なければ将来は仏祖となることが出来ましょうから』と願い、次の懺悔文を唱えるのである。

●あとがき:
私だけではなく、今も苦しい家計と苦しい会社経営を続けている中小零細企業経営者は多いと思います。これは政治に責任があるのだと言う思いはありますが、これも結局は、政治のあり方、政治家の姿勢に無関心で来た私達国民に問題があったのだと思わねばなりません。

バブルに踊らされ、バブルが弾けた資産デフレに翻弄されている自分自身を反省(懺悔)しなければ、またしても同じ過ちを冒すのだと思います。すべての面で、足を地に着けて、自分の足取りで歩まなければ、自分も国も危ない未来しか待っていないのだと思います。

日本人は、昔から『お上(おかみ)』には弱いところがあります。そしてお上に引き摺られて、明治以降も戦争を繰り返し、挙げ句の果ては、敗戦による屈辱を経験しました。その屈辱を経験したにも関わらず、日本の行く末を、またしても一握りの政治家とか官僚に委ねようとしています。

選挙の投票率があまりに高いのも異常だと思いますが、50%を切る投票率は、無責任、無防備な国民の集まりの異常な国家だと思います。私は、イラクへの自衛隊派遣を目指す法律に反対ではありませんが、過去を懺悔して、国民の意思が国策に反映される国家にならなければ、日本は救われないのではないかと思います。

1200年に生まれた道元禅師は、国を救う為に、庶民を救う為に、中国にまで渡って、仏道を極められました。その志を尊く思います。

●次週の修証義―第11節―
我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり。心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。


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No.293  2003.06.19

46億年目の発見

仏法と言うのは、お釈迦様が発見された宇宙の法則です。それまでの人類は、世の中の現象や存在は、神と言う絶対者が創造したものであるとか、霊魂と言うものを信じていました。
それをお釈迦様は否定され、6年間の苦行の後、菩提樹の下での長い瞑想の末に、夜明けの明星を見上げられて、はたと『縁起の法則』に気付かれました。

これは、ニュートンがリンゴの落ちるのを見て万有引力の法則を発見した以上のものだと思います。

『すべては縁によって生じまたは滅する』と言う縁起の法則があるからこそ、無常であり、無我であると言う、この誰も否定出来ない法則と思想は、46億年目の地球でやっと見出された宇宙の真理であり、法則なのです。

私は、キリスト教の神様を否定は致しませんが、私には、やはりお釈迦様が見付けられた宇宙の法則としての『縁起の法則』がしっくりと受け取れます。そして科学的知識に自信を持つ現代人に対しても説得力があるように思います。

しかし考えて見ますと、このお釈迦様が法則を見付けられたのは、地球の歴史から考えると、極めて直近の事であります。もし私が、お釈迦様以前に生を受けていたら、この法則を知らないまま人生を渡ることになっていましたから、どんな人生を送っただろうかと思います。

地球が誕生して46億年。そして生命らしきものが誕生したのが、38億年前、人類の祖先らしき猿人の誕生は約700万年前、そして100万年前までに原人、旧人へとバトンが渡され、現代人のような高等頭脳を持った新人は20万年前になって誕生したと言うのが、地球上の生物の歴史であり、人類の歴史でもあります。

46億年と聞きましても、なかなか実感出来ません。そこで46億年を1年間に換算してみますと、現代の新人と言われる人類は、12月31日大晦日の午後23時37分頃になって、やっと産声をあげたと言う位に地球の新参者だそうです。新参者であるのに、現代の私達は、地球は自分のもののように勝手放題をしていますが、数億年前に全盛を誇り、そして絶滅した恐竜達の運命を忘れてはなりませんし、これから数百万年後には私達の想像を絶する高等な超人類とでも言うような生き物が地球を支配している可能性を否定出来ません。

お釈迦様が、この世のものは、すべて縁に依って生じたり滅したりすると言う法則に気付かれたのは、上記と同様に、46億年を1年間に換算した場合、その法則を発見されたのは、大晦日の年が変わろうとする14秒前と言う事になります。

縁によって生滅する法則がある限り、我々人類も、永遠に存在すると言う事にはなりません。
しかし、このお釈迦様が発見された縁起の法則は、宇宙の真理であり、人類の有無とは関係なく、存続し続けるものです。

折角、そして前述の如くに漸く発見されたこの法則(仏法)に出遭った幸運を、私達は無駄にしては勿体無いと思います。達磨大師、善道大師、親鸞聖人等、そう考えられた多くの祖師方が、お釈迦様の仏法を色々な形で説き直されて、今日にまで仏法が受け継がれています。

架空の神様がすべてを支配するのではなく、宇宙の縁起と言う法則に従って、この世のすべての現象が起ると言う事を知れば、生き方は自ずから転換するものだと思います。

つまり、無常であり、無我であるからこそ、やがて死すべきこの命の尊さに気付かされます。
そこから人生の大転換が為されるのは、これも又、自然な事だと思います。


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No.292  2003.06.16

修証義に啓かれてー第8節ー

玄関先の琉球朝顔は、かなり存在感が出て来ました。やはり丸い棒の様なものの存在が分かるのでしようか、位置的には結構離れている門灯の尖がり帽子に2本の蔓が巻き付きました。DNAに埋め込まれた植物の本能と言うべき遺伝子の為せる業(わざ)なのでしょう。

●まえがき:
親鸞聖人は、『心からの懺悔が出来ない罪悪深重の凡夫である』とご自分を慙愧(ざんき)されています。懺悔出来ないと言われながら、立派に懺悔されているではないかと思います。心理学では表層心理と深層心理と言う表現をしているようですが、感情とは別に、その感情の動きを見詰めるもう一つの心があると考えれば良いと思います。それは、人間にのみ与えられた固有の能力であり、他の動植物には与えられていないと言って良いと思います。

感情は、動物的本能によって突き動かされる精神の動きで、瞬間、瞬間に喜怒哀楽、貪(むさぼ)り、妬(ねた)み、嫉(そね)み、驕(おご)り、後悔、反省などなど……休む事なく湧き起こっています。その感情を見守るもう一つの心の中にある仏心(ぶっしん)に目覚める事が、信心ではないかと思います。

感情面で懺悔をする事はあっても、直ぐ自己弁護の感情が湧き起こります。そこのところを親鸞聖人は、『心からの懺悔が出来ない罪悪深重の凡夫である』と慙愧(心の奥深いところでの懺悔)されたのだと思います。

●修証義―第8節
然(しか)あれば誠心(じょうしん)を専らにして前仏に懺悔すべし、恁も(いんも)するとき前仏懺悔の功徳力我を掬(すく)いて清浄(しょうじょう)ならしむる、此功徳能く無碍(むげ)の浄信精進を生長せしむるなり、浄心一現するとき、自侘(じた)同じく転ぜらるるなり。其の利益普ねく情非情に蒙ぶらしむ。

恁も(いんも)は、
宋の時代の俗語で、日本の禅僧の間で使用された言葉で、『かくのご とし』と言う意味。

●西川玄苔老師の通釈
そうであるから、少しのいつわり根性もなく、純真無垢の心をもって、何としても助けたいと念じておられる仏の前で懺悔しようではないか。そのように仏の前で懺悔するとき、懺悔する自分自身の懺悔の功徳力で、我が身を救って清浄になるのである。この懺悔の功徳の力は、一切の罪障をはねのけてしまって、本来自分自身に備わっている大清浄心が開けてきて、真実の大道をまっしぐらに進んでいく。この本来の大清浄心が、ひとたびあらわれると、自分も他人もその他あらゆるものが、その大清浄心に転ぜられてゆき、その利益は人畜虫魚から国土草木にまで及んでいくのである。

●あとがき:
感情と仏心の関係は海に喩えられます。海の表面は、常に小波、大波で静まる事がありません、しかし、海底には、全く静寂の世界があります。私達人間も、たとえ悟りを得ても、生身の体を持つ限りは、感情が湧き起こる事を止める事は出来ません。しかし、仏心に目覚める事により、感情が暴走する事が制御されます。

罪悪深重の凡夫と言うのは、あらゆる感情が湧き起こる人間の業を見詰められて言われた慙愧の言葉であり、そこに阿弥陀仏の本願を確信されたのが親鸞聖人だと思います。

この修証義の7節、8節で使われている『懺悔』は、まさに、親鸞聖人の使われている『慙愧』の意味であると受け取るべきだと思います。

●次回の修証義―第9節(第二章懺悔滅罪) その大旨は、願わくは我設(たと)い過去の悪業多く重なりて障道(しょうどう)の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我を愍(あわれ)みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其(その)功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸(みりん)せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。


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No.291  2003.06.12

道元と親鸞、禅と念佛

道元
親鸞

前回のコラムで、道元禅師と親鸞聖人は同じ鎌倉時代を生きておられた事を申し上げました。
道元禅師は1200〜1253年、親鸞聖人は1173〜1262年であります。共に京都のお公卿さんの生まれ、しかも道元は12歳、親鸞は9歳と言う共に幼年期に比叡山に登られ、天台宗の勉学・修行から仏門に入られたと言うところまで一致しております。

更に、共に当時の天台宗の教義では救われず(悟りを得られず)、道元は14歳(1213年)、親鸞は29歳(1202年)で、比叡山を後にしました。道元は2年間、親鸞は20年間、ともに仏教経典を網羅した大蔵経5千巻を読破し、仏教哲学、密教も勉強されたと伝えられています。天台宗は南無阿弥陀仏と称えますので、恐らくは、道元もお念佛を称えたと想像致しますが、道元は禅に、親鸞は念佛の道へと、仏道としては、対照的に異なる道を選択されました。

一般には、禅は難行道(なんぎょうどう)の自力宗、念佛は易行道(いぎょうどう)の他力宗と言われますが、禅の人々が我が宗は難行道の自力宗だとは決して申されません。私も、禅も念佛も何れもお釈迦様の教えを源とする仏教であり、切り口が異なるだけであり、富士山の頂上に向う登山ルートが異なるようなものだと考えています。

私は、これまでのコラムで、宗教にも縁と相性と言うものがあると申し上げて来ましたが、 道元と親鸞にも当て嵌まると考えています。道元が比叡山を下りて、訪ねたのは、姻戚筋の園城寺(天台宗門宗の総本山、通称三井寺として有名)の座主(ざす)公胤(こういん)僧正でありますが、大陸禅に今後の仏教のあり方を見出していた公胤座主は道元に禅を勧めました。そう言う縁により道元は、日本の臨済宗を開いた栄西禅師のいる建仁寺を訪れ、禅の道を歩み始めたのです。

一方親鸞は、聖徳太子の六角堂参籠をする中、夢のお告げにしたがい、法然上人を訪ねられ他力念佛を選択されました。公胤座主と法然上人は、有名な大原問答で、宗教討論を戦わさせた間柄であった事が物語るように、進む道が自ずと異なった事が頷けます。これが縁と言うものだと思います(大原問答は、1183年京都の勝林院で念佛の法然上人と旧仏教宗派との間で公然と行われた宗教討論であり、親鸞は、比叡山での修行中に既に法然上人の事も念佛の教えについても十分知っていたと思われますが、法然上人を訪ねたのは、比叡山に登って20年経過してからでありますから、親鸞もなかなかの頑固者であります)。

そして、宗教や宗派を選択するのには性格も関係しているのではないかと考えます。真理を追究し安易な妥協はせず、粘り強さを心の内に秘められているのは両者に優劣は付けられないと思いますが、表面に現れるものは、道元禅師は外向的性格で行動的、そして激しい性格、親鸞聖人は内向的性格で思索的で控え目な性格だと思われます。このような性格の違いが、禅と念佛と言う異なる道を選ばしめと推察しています。これは飽くまでも私見です。

道元禅師の歩まれた求道の一部を紹介します。行動的性格が現れていると感じます。
道元は、公胤座主の勧めもあって、大陸禅に憧れ、当時の中国、宋への留学を志し、比叡山を下りて9年後(1223年)、念願の入宋を果たしたのです。そして約5年後の1227年、生涯の正師である如浄禅師に出会い、悟りを開き、勇躍帰国しました。道元28歳の時であります。

中国における道元は、中国各地に名の知れた数多くの禅師を訪ね求め、修行をしなから、お釈迦様の悟りを求め続けました。そして最終的には天童山と言うところの修行道場を開いていた如浄禅師のもとで修行すること2年、参禅中のある時、共に座禅中の修行僧が疲労の為に眠ってしまった。これを見た如浄禅師が、『一切の煩悩や執着を捨て、全身全霊を打ち込んで座禅に専念しなければならないのに、、眠ってしまうとは何事か』と大喝一声した、その時、夢中で座禅していた道元は、その天雷のような大音声(だいおんじょう)を聞いて、忽然と悟ったと言います。
『肉体も精神も、一切のあらゆる煩悩や執着から逃れて、自在になることが出来たのです。これこそ本当の悟りの境地だと思います』と如浄禅師に伝え、悟りを認められたと言います。

親鸞は29歳、道元は28歳で、悟りを開かれました。若いと言えば若いですが、仏教の勉強、修行、そして、戦乱の中の経験を思いますと、現代の私達と比べようが無いと思われます。そして共に、登山ルートは大いに異なったのですが、同じ富士山の頂上、即ち、お釈迦様のお悟りの境地に辿り着かれのだと思います。
これは私自身が悟りに至らないと断定出来ませんが、多分、お釈迦様の至られた境地は『無我と無常』の体得だと思います。無我、即ち、すべてのものはそれ一つで存在しているのではない、我も宇宙のすべてとの関わりがあって初めて存在していると。無常、即ち、すべてのものは固定した存在ではなく、縁(あらゆるものとの関わり合い、条件)によって移り変わって行くのだと言うこと。これは頭では理解出来ますが、体で納得するには、修行・実践・経験が必要なのだと思います。

例えば、南極について、いくらテレビで南極の寒さや厳しさを見たり聞いたりしましても、実際に南極で生活しないと、南極の厳しさ、あるいは清清しさも含めた厳しさなのかも知れませんが、決して頭と知識の世界では実感出来ません。耳で聞いたり、目で見たりして知る事と、経験する事とは全く次元が異なるのと同様、悟ると言う事も、同じだと思います。

禅門では、お釈迦様の悟りと同じ境地を得るために、座禅を重ね、思索を重ねます。煩悩や執着との精神的葛藤を続けます。煩悩や執着を消し去ろうと努力致します。煩悩や執着を持つ自分とは一体何かとも問い続けます。煩悩を消し去ろうとする自分は何かとも疑います。蟻地獄に陥ったような苦しみを味わうと思います。そう言う努力を難行と言い、自力と言うのだと思います。従って勇猛心がなければ悟りまで行き着きません。しかし、最後は、そう言う疑っている自己も、仮に現れている自己であり、自己は無い、自己を忘れ果てて、本来の真っ沙羅な自己に出遭う瞬間が来るのだと思います。無我、無常を悟った瞬間だと思います。

一方、念佛の方は、勿論、禅門と同じ努力を致しますが、それらの努力も、要するに我執、自己愛を出発としている、どこまで行っても、罪悪深重の凡夫であると、自覚せしめられます。そしてこの煩悩も執着も、すべては、私を救わんが為に他力(宇宙の働き、阿弥陀仏)から与えられたもので、すべては与えられたものだと言う事に気付かされ、南無阿弥陀仏と称えせしめられます。それは称える自己がなくなった瞬間です。無我、無常を悟った瞬間だと思います。

当時、もし、親鸞聖人と道元禅師が直接会い、心境を語り合う機会があれば、私は、手を取り合い、涙を流す場面もあったのではなかろうかと、これも想像ではありますが、残念に思います。もし、そうであれば、日本の仏教史もかなり異なったものになっていたであろうし、 現代の仏教界、宗教界も様子が変わっていただろうと思います。

私が日本曹洞宗を開いた道元禅師に近しい想いを抱くのは、座禅と念佛を我が物にされた曹洞宗の西川玄苔老師との出遭いがあったからかも知れません。

禅と念佛、私は、共に他力(宇宙のお働き)により、生かされて生かして生きている自分を実感するところに、悟りとか安心(あんじん)があると思います。


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