No.280 2003.05.05
修証義に啓かれてー第2節ー
私の抱えている問題は未だ決着していません。しかし考えて見ますとこの世の中で決着と言う事はあるはずも無く、何事も常に変化しながら流れて行く訳でありますから、因縁果の連鎖の中で、むしろその変化を楽しんで行こうと言うのが仏教的考えでは無いかと思います。
道元禅師の典座教訓の中に『四運は一景に競う』と言う言葉があるそうです。道元禅師のご心境に至りますと、季節で言いますと春夏秋冬、人生におきましては生老病死の夫々を同じ一つの味として受け取れると言う事だと思われます。これが良い、あれは嫌と言う人間の分別がなくなると言う自他一如(じたいちにょ)の世界が開けるのでしょう。
この状況で道元禅師のお言葉に接すると言う事は有り難い事です。●まえがき:
この第2節で、値(あたい)を遇う(あう)と言う意味で使用されていますが、私にはこの値を遇う(あう)と読む事について、私がお教えを被った先師のお一人、井上善右衛門先生の想い出があります。
値遇(ちぐう)と言う一般的には聴き慣れない単語があります。広辞苑では簡単に『出遭う事』とありますが、私は故井上善右衛門先生から、『稀にしか出遭う事はないけれども出遭うべくして出遭う』と言う意味だとご法話の中で教えて頂いたことがあります。井上先生ご自身がこの世において仏法に出遭われた悦び、善き師に出遭われた慶びを値遇と言う言葉で語られていた表情と共に、この値遇と言う言葉は懐かしく、また印象深く忘れられません。
この世で仏法に縁があったと言う事は、まさに値遇(ちぐう)と言うべきだと思います。そしてそれさえ心身ともに感得し得たならば、この修証義、いや道元禅師と同じ心境になったと申しても過言ではないのではないかと思います。● 修証義―第2節
人身(にんしん)得ること難し、仏法値(お)うこと希(まれ)なり、今我等宿善(しゅくぜん)の助くるに依りて、已(すで)に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遇い難き仏法に値(あ)い奉れり、生死の中の善生(ぜんしょう)、最勝(さいしょう)の生なるべし、最勝の善身を徒(いたず)らにして露命(ろめい)を無常の風に任すること勿(なか)れ。● 西川玄苔老師の通釈
人として生まれ得ると言う事は、大変至難なことである。その上に仏の教えを聞き、仏の法を行ずると言う事は、稀のなかの稀なることである。今そのような身になれたのは、私どもが過去世において善い行を積み重ねて来た、その報いの結果として、生まれにくい人間に生まれ、あい難い仏法に出会うことが出来たのである。生死流転のいのちの流れの中で、これほど善い勝れた生き方はないではないか。このような素晴らしい善い身に生まれながら、ただ無益に人生を過ごして、露のようにもろい命を無常の風に吹かれ、ぽとりと落としてもよいものであろうか。● あとがき:
人間が確認出来ている地球上の生物は150万種と言われています。確認出来ていないのは、1億種とも言われています。炭酸ガスしかなかった40億年前の地球、そしてその原始の海に現れた単細胞原始生物から細胞分裂を繰り返し、20億年位かけて、太陽の光を得て炭酸ガスを吸収して酸素を吐き出す微生物(光合成する)が出現し、それからまた20億年かけて人類が誕生したと言われています。
これから20億年後の地球上の生物がどう進化しているか、或いは絶滅しているか、興味のあるところですが、無限とも言える宇宙的時間と無限ともいえる宇宙空間の中で、人間としての生命を今の瞬間に受けていると言う事実は、奇跡としか言い様がないのではないでしょうか。
それを道元禅師は『人身得ること難し』と表現されている訳です。
また、人として生まれた事の価値がどんなに重いことかを説く仏法との出遭いは、更に稀の中の稀であるとも表現されていますが、これは一体どう言う事でしょうか。キリスト教やイスラム教では駄目で、仏法が最も優れていると言う事を言われているのでしょうか。そうではないと思います。
史実と致しましては、道元禅師の生きておられた西暦1200年頃には未だキリスト教もイスラム教も日本には伝来していなかったからこその表現だとも思われますが、そう言う史実的表現も然る事ながら、私は、中国(当時の宋)にまで渡られて仏法を求められた道元禅師が、仏法がお釈迦様のインドから中国そして朝鮮半島を通って日本に伝わった歴史的事実と、三ヶ国をまたがっての多くの祖師方がオリンピックの聖火リレーの如く、法の灯火を細々と、しかし確実に移し伝えられて来た重みを表現されたものだと解釈したいと思います。
そして更に、道元禅師の言われる仏法に値遇すると言う事は、仏教の存在を知ったとか、単にお寺参りをしたり、法話を聞いたりお念佛を称えたりする事を以って、『仏法に値う』とはおっしゃっていないと思います。
お釈迦様が発見された宇宙の真理としての法の真髄に値うと言う事であって、これは禅宗的表現では『悟る』、浄土真宗的には『安心(あんじん)を得る』と言う事を差しておられるのだと思います。
そして、折角得た人身を無駄に終わらせては実に勿体無いではないかとおっしゃっています。折角人間と生まれて、決して満たされる事の無い欲望の満足を追いかけて死に行く事は、他の動植物の生死と変わらないではないかとお諭しになっておられます。
私も今回、これまで得て来たものすべて、有形無形に関わらずすべて失うのではないかと言う状況に遭遇し、我執との闘いにエネルギーを費やしました。お釈迦様が『一の矢を受けても二の矢を受けるな』と言うお諭しがあります。これは白隠禅師が『三合五勺の病に、八石五斗の気の病』と言われていますが、病は病として素直に受け取れ、病を受けてこれからどうなるかとか、治らない病気でこのまま死ぬのかとか、思い煩う精神病にまで冒されるなと言う事ですが、今回の私は、病に罹る(かかる)前から病の病名を推測して苦しむと言う、一の矢を受ける前に、既に一本の矢を受けていると言う、お釈迦様もびっくりされる位の愚か者であろうと恥かしい想いが致します。
しかし、私がこうしてお釈迦様の教えに出遇う事がなければどんな人生を送っているのかを思います時、お釈迦様はじめ高僧方がこの世に現れられて仏法を相続され伝えられた事を『親鸞一人がためなりけり』と言われた親鸞聖人のご心境を我が身のものとして受け取れる事が出来ます。
福井県にある曹洞宗の大本山永平寺の山門を入るとすぐ右手の築山に『峰の色、渓(たに) の響もみなながら、わが釋迦牟尼の聲と姿と」の歌が刻まれた大きな石碑が建っているそ うです。 その心は、親鸞聖人のお心そのものだと思ったことであります。道元禅師はたまたま山奥 の景色を詠われたのでしょうが、都会のネオンサインも、雑踏の嬌声をも、お釈迦様の声 と姿と詠まれた事だと思います。
No.279 2003.05.01
自力無効(じりきむこう)
今、私が遭遇している状況は、個人に対する貸し剥がしにより家を出て行かなければならないかどうかの瀬戸際と言うものです。先週末には家に住み続けるための条件が金融機関から提示されるはずでしたが、何の連絡もなく日にちが過ぎました。針のむしろに座らされている胸苦しさと胸騒ぎ、金融機関の無礼さ狡猾さ、客を客とも思わない尊大さに対する腹立たしさが入り混じった嫌な1週間を過ごしました。
そんな1週間の間に、自分の我執や、自然の成り行きに任せられない自分と否応なく向き合わされました。自分の力ではどうする事も出来ないのに、自力を捨て切れない訳です。自力が役立たない、即ち自力無効である事は頭で分っているけれども、その僅かな自力を手放せません。所謂(いわゆる)他力に任せ切れないのです。
自力に頼ると言うのは、自分の力で何とかしたいと言うだけではなく、自分以外の人の力を借りようとする事も、神仏にすがってお祈りする事も含めて、自力に頼むと言います。他力に任せる、他力に委(ゆだ)ねるとは、自分の一切の計らいを外して、天地自然のままに任せると言う事です。自分の想いを入れないと言う事が他力に任せると言う事です。
しかし、この他力に任せる事がなかなか出来ません。他力に任せ切ると言うのが、極限の状況に追い込まれ、自力が何の役にも立たない事を肌身で感じて初めて可能になることだと致しましたら、今の私の状況はまだまだ極限状況ではないかも知れません。
自力無効と言う言葉は、『修証義のこころ』を書かれている西川玄苔老師が使われた言葉です。老師は54歳の時に交通事故に遭われ九死に一生を得られたのですが、その手術の時に感じられた痛三昧(つうざんまい)と自力無効を今思い出しています。
両足を骨折されて受けられた手術は、足の付け根をゴム紐で縛り上げ、血管を絞り込み、血の流れを止めての手術、下半身麻酔はされてはいるものの、通常は30分が我慢の限界だそうで、手術も30分以内で終わる予定だったらしいですが、意外と手間取り、30分を越す手術になったそうです。その時、30分を越えると痛みがだんだん増し、あらゆる精神的な葛藤をされたそうです、助けてくれと言うお念佛も称え、南無観世音とも称えられたそうですが、助けにはならず、最後には痛いからどうしようと言う意識も働かなくなり、何かにすがろうとしても何も助けになら無い、ただ『痛いっ!』と言う事実そのもの、自力無効のご心境を経験されたと言う事です。それを痛三昧と説明され、痛いと言う事実が真実そのものであり、真実がそのまま如来だと感得されたそうです。
痛三昧と言うのは、ただ痛いだけ、人間の何の想いも受け付けない混じり気の無い痛さだと思います。自分の力ではどうしょうも無い、自力無効の世界を経験されたのだと思います。
私達凡夫は、何の力も無いのに何故か自分の力で何とかなると思っています。そう思っていなくとも、成り行きに任せ切る事が出来ず、いざと言う時はジタバタと致します。いわゆる他力、即ち自然の計らいに任せ切る事はなかなか出来そうで出来ません。
私の今回の苦悩は、今住んでいる住居を失いたくないと言う想いから出発しています。その源には資産を失う事の惨めさ、恥かしさがあります。50歳を越えた妻に肉体労働をさせ、色々と辛い目に合わせている申し訳なさがあります。そして、人助けなんて毛頭考えていない金融機関の姿勢から感じる世間の冷たさ加減とが入り混じって、私を追い込んでいます。ここまで来れば、私の過去の学歴、経歴、知識、技術、技能、人脈も何もかも、自分の助けになるものは一切ありません。私にとっては、これが痛三昧だと思います。
私はこうして漸く自力無効に思い至りましたと言いたいところですが、なかなか……私は今も他力に任せられない自分をもどかしく思います。それも胸苦しさの一部ではないかと……。
こう言う時に、無相庵カレンダーのお言葉に接しますと、何れも私には到達出来ない心境だなと思いながらも、そう言う境地に至られた先師がいらっしゃる事に救いと励みを感じさせて頂くしかありません。私にも、そう言う時が来るかも知れないと……。
何れのお言葉も凄い境地を表わしたものです、帰するところ何れのお言葉も他力に任せ切ると言う心境を詠っておられるのですが、私は白井成允先生の『いつの日に、死なんもよしや、弥陀仏の、み光の中の、御命なり』(15日)と言うお詠が凡夫に抱ける心境ならば、是非とも到達したいゴールだと思います。
現在の心境を出来るだけ率直に書き記して参りました。そして、今も胸苦しさはありますが、こうして、今回も木曜コラムを更新出来ると言うのは、私の心の何処かで、どんな結果でも受止めて行く心積もりが出来ているのだと思います。それが私には未だ未だ実感出来ていない他力、即ち仏様の働きなのだと思います。
No.278 2003.04.28
修証義(しゅしょうぎ)に啓(ひら)かれてー第1節ー
私の家から1分も歩けば、写真の様な池と小高い山が眺められます。最近ちょくちょくその小高い山の中にある散歩道を歩き、自然に親しんでいます。木々、草花の移ろいは足早です。
1週間も経てば、すっかり様子が変わる事に気が付きました。これを無常と言うのですね。●まえがき:
修証義の冒頭の『生明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり』は有名でもありますが、この言葉の中に、仏教のすべてが表わされていると言っても良い位に深い意味が含まれています。
生まれ来る事も無常であり、死んで行く事も無常、その間にある人生も無常であります。無常、即ち変化して止まる事が無い世界です。そしてその変化を素直に受け取れないからこそ苦悩が満々ています。自分の思い通りにしたくて苦悩します。無常は頭で理解は出来るけれども、この心身が納得致しません。
出世すると言う言葉がありますが、本来は、世間を出ると言う『出世間』を略した言葉であると聞いています。そして、世間とは私達が生まれ来て、そして死んで別れを告げる場を言い、それを生死(しょうじ)と言います。生死=世間と考えれば良いと思います。
ですから、本来の出世とは生死の世界を出る事であり、悟りの世界へ生まれ出ると言う事であります。
世間はある意味ではとても厳しい場です。最愛の我が子を亡くす事もあり、夫を妻を奪い取って行く事もあります。今日の私の様に破産に直面する事もあります。破産よりも厳しい死の宣告として癌を告知される事もあります。
このような厳しい人生をどう生きるべきか、どうすれば出世できるのかを示されたのが、どうすれば心身が無常を受け容れるようになるのかを説かれたのが今日から勉強して参ります修証義であります。私自身が現に経験している状況を踏まえながら、皆様と共に人生を考えて参りたいと思います。
あとがきでは、私が向き合っている世間の有り様を通して、西川玄苔老師の通釈を私になりに味わいたいと思います。●修証義―第1節
生(しょう)を明らめ死を明らむるは仏家(ぶっけ)一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死即ち涅槃(ねはん)と心得て、生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣う(ねごう)べきもなし、是時(このとき)初めて生死を離るる分(ぶん)あり、唯(ただ)一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。●西川玄苔老師の通釈
人として生まれ来たり死んで行くのに、どのような深い意義があるかを明らかにするのが仏教の根本問題である。生まれ死んでいく人生の中で、仏法に出会い本当の自己(天地とぶっ続いている)に目覚めた人は、人生の苦悩がありつつも、その苦悩に煩わされない人生となる。ただ、目覚めた人の人生は、どちらへ転ぼうとも、びくともしない不動の安らぎに落ち着いている。だから、この人生を嫌って、人生以外のところに安住の地を願い求める必要はないのである。このように目覚めてこそ、初めて生死の中にありながら、生死を脱け出た者といってよい。だから、もっぱらこの生死の根本問題一つを明らかにするよう究めつくすべきである。●あとがき:
私達は、自らの意思でこの世に生まれたのではありませんし、自分の意志で死んでいく事もありません。これは他の動植物も変わらない点でありますが、他の動植物は、自分の生まれて来た意味や、死とは何か、死ねばどうなるのかと、考えはしていないと思います。 人間だけに与えられた能力だと思います。
この生と死について、それも自分の生死について、こうなんだと言う結論を得る事が仏法を志す者の一番大切なテーマだと明言したのがこの第1節ではないかと思います。
この世に生まれて来た意味、生きる意味、死をどう受け取るかと言う事が分れば、この世の苦悩も苦悩とならず、この世がそのままお浄土と思える、そこまで言われているのだと思います。
人生は楽しいと思う時もありますが、昔からこの人生を忍土(にんど)と言ったり、苦の土(くのど)とも言い、厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)と言って、この世間が楽園だと言う言い方をあまり致しません。
しかし、仏法を聞き続けて、生死の問題が解決出来れば、通俗的表現を取りますと、この世がそのまま地上の楽園となると道元禅師はおっしやっているのだと思います。そして世間を逃れて山の中に平穏を求めても、山の中にも平穏はない、世間を離れて悟りは無いと言われているのだと思います。そして、そうなるのが、仏家即ち幸いにも選ばれて仏法に足を踏み入れる事が出来た者が果たすべき責任だとまでおっしゃっているのではないでしょうか。それを仏家一大事の因縁と言われているのだと思います。
私が直面している世間における危機も、生の意味、死の意味が分れば、ただ素直に、はい分りましたと受け取れる様になるのだと思いますが、私が未だ分っていないから、苦しいのだと思います。修証義のスタートと共に、我が人生を仏家として再スタートさせたいと思います。
金融機関の宣告は今日出る予定ですが、人生の岐路に直面して、どちらに転ぶか分らない時にはどうしても悪い方を想定します。これを自己分析致しますと、良い方の結果を期待して、悪い方の結果が出た時のショックを回避しようとする自己防衛本能ではないかと思われます。これを世間ではマイナス思考と言う訳ですが、これも自己愛、我執の変形でしようね。どこまで自分を愛したら気が済むのでしょうか………。
No.277 2003.04.24
我執(がしゅう)と仏心(ぶっしん)
今週、私は大変厳しい現実に直面しています。金融機関からの電話の内容によりましては、 すべての個人資産を処分し、会社も整理しなければならない事態に至るかも知れません。金融機関の判断一つで決る事柄です(金融庁の検査を想定した判断だと思われます)。こう言う状態になりますと、なかなか心の平静を保てません。保てていません。
私が頼りとする仏法は、私の心に平穏を与えてくれていないように思います。しかし、心の何処かで、仏様が助けてくれないのかとも思ったりもしています。苦しい時の神頼みならぬ、仏様頼みをしています。そして、こう言う時にこそ、仏法が私の支えにならなければ、何の意味もないではないか、苦悩する人の心の支え、救いにならなければ、仏法の価値がないのではないかと思ったりしています。これが今の偽らざる気持ちです。
蓮如上人は『仏法を主(あるじ)として、世間を客人(きゃくじん)とせよ』とおっしゃっていますが、「世間の苦しさに押し潰されそうな人を救う為の仏法でなければならないはずであるが、どう言う考え方をすべきだろうか」等と色々と考察してみました。そして最終的には一つの落ち着きどころを得られたような気持ちが致しましたので、私の心の動きを詳述したいと思います。
私の今の苦しみは、今の社会的地位(決して高くはない普通の生活)から転落する事の惨めさ、恥かしさと妻に対する申し訳なさ、将来が見通せない不安、そして、何故私がこう言う目に遭わねばならいのかと言う無念さが重なり合うところから来ていると思います。
そして、この苦の根源は、ただ一つ、自分可愛いさ、即ち自己愛、即ち我執(がしゅう)であると、はっきりと自覚出来ます。我執が無ければ、どんな事が我が身に生じようと、苦になるはずがありません。今、妻の親友が目前にしている死も我執が無ければ怖くも何とも無いはずです。
我執さえ無くなれば楽なのになぁと思います。しかし、我執は、そう簡単に消え失せません。 仏法で言う3大煩悩(貪欲、瞋恚、愚痴)も、我執から発生しています。親鸞聖人も、煩悩を断ぜずして涅槃を得る(不断煩悩得涅槃)と言う事をおっしゃっていますが、我執を取り除かずに、心の平安、安心(あんじん)が果たして得られるのであろうかと疑問も湧いて参ります。
しかし一方、私がこの世に生を受けた母の胎内から胎外に出て臍(へそ)の緒を切られた瞬間から、母から独立した個人となり、睡眠欲、食欲に目覚めさせられ、不満な時は泣いて自己主張する事を覚えました。そして、誉められる喜び、欲しいものを獲得する喜びを繰り返し繰り返しの訓練で埋め込まれ、努力する事の楽しさ、大切さも知りました。また性欲の芽生えによって、動物としての3欲(睡眠欲、性欲、食欲)と人間の2欲(名誉欲、財産欲)を認識し、限りなく我執が育ち上がりました。
この様に、我執を抱くように訓練され続けて大人になったとしか思えない私から、我執を取り除くのは一朝一夕では不可能である事が分ります。しかし、この我執がある限りは苦悩も失せない事も確かである一方、元々はこの世に生まれてから身に付けた我執である事も確かです、何とかして、この我執を消し込む事は出来ないであろうかと考えても見ました。
仏法は、この我執を消し込む方法を教えなければならないと思います。でなければ、私のみならず、苦悩する人間を救うことが出来ないと言う事になります。永年の聞法により信心を得なければ無理とか、何十年と禅の修業をして覚りを開かないと救われないのだと言うならば、現に今苦悩の最中にある人を助ける事が出来ない無力な宗教になってしまいます。世間を生きる私を救うものではなくなります。
しかし、そうでは無いと思います。そんな世間を離れたところに生きる仏教ならば、お釈迦様のインドから中国へ、中国から韓国を経て我が国まで伝来し、2500年を経て今の私にまで伝わって来なかったと思います。仏教は苦しむ人を救うにおいて無力な宗教ではないはずです。世間を離れたところで生きる仏法ではないと思います。
現に私は我執が苦の根源であると教えられ、成る程そうだと自覚出来ています。私が仏法を聞いていなければ、反省と言う事は学校で学び得ても、根本的に顧みるべき『我執の自覚』と言うところには辿りつかなかったと思います。
もし我執に気が付いていなければ、私はどんな事をしでかしていたか分りません。数十名の従業員を失い、工場を失った原因、そして苦悩の根源をすべて他者に帰し、発注元を怨み、客先を怨み、政治を怨み、どんな行動に出ていたか知れません。仏法に出遭ったお陰で、「苦悩は私の我執から来ているのだ」と思わせて頂き、今この状況でもこうしてコラムも書かして頂いているのだと思い至りました。
そして、この私の心の中の我執に光りが当ったのは、私の心の中に取り戻した清浄無垢な心、仏様の様な心が、仏法を聞かせて頂いたお陰で芽生えたからだと思います。
心の中に、我執と仏心が同時に生まれたと言っても良いと思います。我執は元々抱えていたのですが、我執とは気が付いていなかったのです。また逆に、仏心は元々心の中にあったけれど、我執から来る煩悩のお陰で自分の仏心に気が付かされたと言うべきではないかと思います。
我執の自覚が大きくなるに従って、私の心の中の仏心も大きくなり、確実なものになって来たと言えるでしょう。
仏法を聞いて、我執を取り除いて行くと言うよりも、仏法を聞き進むに従って、自分の我執の大きさに気付いて行くのだと思います。
しかし、我執の実体は、底知れぬ深いものではないでしょうか?従いまして、それを知らない間は、と言う事は、自分の我執の実体に気付いていない間は、何とかして、苦の根源である我執を取り除こうと七転八倒するのだと思います。今の私がその状態であります。
この我執の大きさと深さは、仏法を聞いて、頭で理解するだけでは本当のところが分らないのだと思います。仏法を聞きながら、且つ世間での生きた修行を積む事によってしか、分らないのだと思われます。聞・思・修(もん・し・しゅう、【聞いて考え実践する】)と言われる由縁(ゆえん)だと思います。
どうしょうも無い自分の我執の大きさ、深さ、醜さの極限を知らしめられた時、即ち、宇宙一杯の仏心が自分の心を満たし切った時、逆に救われるのだと思います。その瞬間を親鸞聖人は、念仏を申さんと思い立ったその時であり、直ちに救われる(『摂取不捨』【せっしゅふしゃ】)のだとおっしゃったのだと思います。
そして、それを親鸞聖人は『不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)』(正信偈)と申され、白隠禅師は『衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)』(白隠禅師座禅和讃)と申し、道元禅師が『生死の中に仏あれば生死なし』(修証義)と申されたのではないでしょうか。
仏法では、私の心身を『法の器』だと申します。仏法即ち宇宙の真実・真理を入れる器だと言う訳です。決して、名誉心やら財物を入れる器ではないのだと説きます。
仏法を聞き続けて、心一杯に仏様を育てようと言う訳です。世間の色々な現象はあろうけれど、それを教材として、自己の我執を徹底見詰めなさいと言う事だと思います。それが蓮如上人がおっしゃるところの『仏法を主として、世間を客人とせよ』と言う事ではないかと思います。
そして、更に仏法は、世間の現象は因縁果の道理を外れるものではなく、自分が関与出来る因は兎も角も、縁は私がコントロール出来るものではない、また、その因縁果は無限に連鎖して行っているものであると共に、私の果が他の人の因にもなり縁にもなり、そして、他の人の因や果が私の因になり縁となって、複雑に絡み合って世間は留まる事なく流れているものであると説きます。
今受けている苦も楽も、将来受けるであろう苦も楽も、すべてを我執を自覚する機縁と受け止めながら、仏心を開発して行きなさいと言うのが、仏法の説くところだと思われます。
まな板の鯉である私の比較的穏やかな心情を吐露して来ましたが、しかし今回の金融機関の結論が世間で言う悪い方向に出た場合、妻ともども大ショックを受ける事は間違いないと思います。そして私と言う人間がどう言う行動を取るか、これも分りません。出た行動、それが私の実力であり、業であると思います。
我執と仏心に付いて考察して参りました。最後に自己の我執を徹底的に見詰められ、ご自分の吐く言葉の裏に存在する我執を書き残し、戒めとされた、良寛様の90箇条があります。あの良寛様にして?と言う感じが致しますが、ここまで自己の我執に出遭わないと、仏様にも出遭うことは出来ないのだと思います。
青山俊董尼が90箇条から選択された戒め例を幾つか掲げました(ご著書「悲しみはあした花咲く」より)が、すべて思い当たり、私自身の心の中を抉(えぐ)られる想いが致します。●ことばの多き
●よく心得ぬ事を、人に教える
●人の隠す事を、あからさまに言う
●憎き心を持ちて、人を叱る
●悪しきと知りながら言い通す
●手柄話
●自慢話
●くれて後、人にその事を語る
●しめやかなる座にて、心なく物言う
●客の前にて、人を叱る
●下僕を使うに、言葉のあらき
●いやしきおどけ
●学者くさき話
●好んで唐言葉(外来語)を使う
●悟りくさき話
●酒に酔いて理屈を言う
●かえらぬことを幾度も言う
●人のいやがるも知らず長話
●人の物言い切らぬうちに物言う
●この人に言うべきを、あの人に言う
●人の器量のありなし
今、野山で見掛ける草花は、次から次と主役が変化しています。月曜コラムの写真は、自宅から2、3分のところにある丘の様子です。
今日の写真は、自宅の庭木達です。アカシヤ、ハナミズキ、花蘇芳(はなずおう)と花咲くタイミングが微妙にズレます。ツツジがもうそろそろ咲こうかと言う風情です。
このコラムは、毎回、妻が校正してくれています。誤字脱字だけでなく、一般読者の立場から表現のあり方についても助言してくれています。今日も妻の助言で内容を一部追加訂正致しました。馴れないパート勤務を続ける中、この状況でも校正を続けてくれる妻の背中を見ながら、有り難く思いました。
No.276 2003.04.21
修証義(しゅしょうぎ)に啓かれて ―はじめに―
前回の月曜コラムで、『修証義に学ぶ』と致しましたが、『学ぶ』と言いますと、どうしても頭で理解すると言うニュアンスとなり、私の本意ではないと考え、心身ともに開発されたい、導かれたいと言う気持ちを『啓かれて』と言う言葉にこめさせて頂きました。
『修証義に啓かれて』は31回の月曜コラムとなる予定でございます。何事も無ければ、今年の11月24日に完了致します。約7ヶ月にわたりますが、その間には私個人も、私の会社も色々な状況に遭遇するものと想定致しますが、事情が許される限り続けさせて頂く積もりでございますが、お励まし、応援の程を宜しくお願い致します。●私の近況報告:
最近のコラムでは触れませんでしたが、私の会社(株式会社 プリンス技研)の状況は、この半年、新しいスタンプ商品が立ち上ったり、毎年冬季に注文が寄せられる製品の生産があったりして、多少好転しつつあるものの、元々が赤字採算でしたので、依然として苦戦が続いています。
ますます先の見通しが付かないこの経済状況の中では、辛抱しかないと思って堪え忍んでいるところですが、手持ち資金にも限りがあります。そして、国が保証してくれている借金は細々と返済していますが、そう待ってくれるものではないでしょう。
ギリギリ一杯の事業縮小をした今、新製品開発、新しい顧客の開拓が進まない場合、自らをリストラするしかないと言う瀬戸際にいます。
この4月は、会社も個人も資金的にはこれまでで最も厳しく、金融機関の出方によりましては、自宅の競売を含めて、厳しい局面を迎える可能性を否定出来ません。詳述は致しませんが、個人も会社も極端に貧乏致しますと、色々な支払を銀行通帳による自動引き落としに頼っていたのをすべてストップせざるを得なくなります。そして郵便受けには督促状が毎日のように届けられると言う事態になります。
昨年10月から妻には昼から夜に至るパート勤務に出て貰っていますので、昼と夜の食事の準備と日用品の買い物は、時間の自由が効く私がすべて行っています。大根の値段、玉子、牛乳の値段は各スーパー毎に1円単位で把握して、1円でも安いお店で買うと言うスーパー主婦業もしています。
1年前までは、会社の経理・そして家計にも全く手を染めていなかった私ですので、失敗も多いのですが、社長として、家長として知っておかねばならなかった事を知っていなかった事も多く、倒産・自己破産と言う足音を聞かないと気が付く事が出来なかった自分の甘さを大いに反省させられているところでもあります。
私達は、人生で色々な苦に出遭います。色々なレベルの苦に出遭い、乗り越えながら人生と言う海を渡っています。しかし、考えて見ますと、苦のレベルは『死』を終着点に至るまで、どんどんと大きな苦になっている事に気付きます。決して、前よりも小さな苦は現れません。それは、乗り越えられないと感じるのが苦でありますから、以前に出遭い、乗り越えた苦と同レベルの苦は苦と感じられないからだと思います。
乳幼児の頃は、おもちゃをお兄ちゃんに獲られた事が大きな苦でした。そして、小学校・中学校と進みますと、友達との仲違い、いじめ、親との断絶、高校生からは、受験、就職、出世と言う競争社会の苦しみと悔しさ、そして職場の人間関係に悩み、仕事とのミスマッチ、行き詰まりにヤリガイを失います、それに失恋の胸苦しさ、嫁姑の闘い、離婚の危機、隣近所とのトラブル、遺産相続を巡る親族との葛藤・断絶、親の死、家族の不治の病、自分の病気、家計の破綻、家族の死、老いの寂しさと肉体の衰え、配偶者の死、そして、自分の死と、苦は、年齢と共に増大致しますが、想像も付かない位に大きく、しかも誰にも必ずやって来る『自分の死に対する恐怖心』からの苦が何と言っても、最大、超ど級の苦でありましょう。
私は、苦のレベルにも幼稚園から小学校、中学校、高校、大学、大学院と進級して行くのだと思います。そして、最期が『自分の死』と言う博士過程なのではないかと思います。そして、お釈迦様は、この自分が死ぬと言う苦を先ず解決せよ、これを解決しないと、自己愛、我執から発生する諸々の苦から逃れられることはない。安心を得る事も無い、本当の幸せは得られないのだと、今もお浄土にあって、説き続けられているのだと思います。浄土真宗の中興の祖、蓮如上人も『後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)』と言う表現で、生と死の心構えの決着を急げと説かれています。
私が今出遭っている苦が高校か大学かは別と致しまして、博士過程ではない事は確かです。
私の苦は、『死の恐怖』に比べれば大したことではないと思います。そして、今、妻の親友が向き合っている苦(癌の告知)の現実を観る時、これは親友の苦として観るべきものではなく、自分自身の苦でもあるではないか、倒産・自己破産よりも厳しく、いずれは乗り越えるべき課題があったのだと気付かされました。
妻の親友と共に、博士過程を一緒に一気に修了したいと切実に思っています。その博士過程に最も相応しいのが、これから学ぶ、修証義ではないかと思います。
前回の月曜コラムで『阿含経を訪ねて』が終わり、状況も状況だけに、一旦、筆を置こうかとも思い、その由のコラムまで用意していましたが、こう言う状況の中で『修証義』を味わい、『死』と言う博士過程に飛び級せよと言う仏様の計らいと思い、皆様と共にチャレンジしたいと思いました。●まえがき
これまで、この無相庵コラムでは、般若心経、歎異抄、白隠禅師座禅和讃、法句経、阿含経とお経の勉強をして参りましたので、一般の方にも、お経は決して死んだ人に手向(たむ)けるお呪い(おまじない)ではなく、今現に生きている人が人生を歩む上での考え方・生き方を著わしたものである事を理解して頂いているものと存じます。
修証義も、曹洞宗のお葬式では必ず読まれるお経ですが、やはり、生きている間に確立すべき人生観が説かれたものでありまして、決して死者を冥土に送る言葉が書かれているのではありません。
むしろ生きている私達を安心して冥土或いは浄土へ参る事が出来る心構えを説き、人生で本当の幸せに出遭うための教科書がお経なのだと言って良いと思います。
すべてのお経が人生の生き方・考え方を示してくれているのですが、お経によりまして、切り口が異なります。その人その人により、自分にピタッと来るお経があると思われます。また、同じお経でも読む心境、読む年齢によって変わって参ります。そう言う意味で、多くのお経を勉強する必要があります。
今回、修証義を勉強致しますが、解説している私自身が、前述の苦を受けながら、七転八倒していると言うのが現状でございまして、最終博士過程を修了していない私が人々の苦を和らげられ、方向を指し示す事は出来ません。しかし、人生の苦悩から私を救ってくれるのは、私にはこの仏法以外には無いと考えていますので、私自身が勉強しながら、その勉強過程を皆様にお知らせして、皆様方の人生にも何らかの参考になれば幸いと考えています。
今回の修証義を機縁とされまして、このコラム読者が私より先に博士過程を修了されるならば、それは望外の喜びであります。●修証義とはどう言うお経?
『生明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり………』で始まる修証義は、道元禅師ご自身が制作されたお経ではなく、道元禅師が著された『正法眼蔵』の教えを、一般の人にもわかりやすく明治23年に編集されたものです。
全部で5章、31節(従って31回となります)、3704文字からなり、在家(一般家庭)を対象とした葬儀・法要に重用されています。
明冶の中ごろ、各宗派では時代に適応した宗旨の広報のあり方を開発しようとする気運が高まっていました。曹洞宗では曹洞扶宗会(そうとうふしゅうかい)が結成され、多くの僧侶や信者の人々がそれに参加しました。
そのメンバーであった大内青巒(おおうちせいらん)居士(1845〜1918)を中心として『洞上在家修証義』(とうじょうざいけしゅしょうぎ)が刊行されました。これは在家教化のためのすぐれた内容となっていたため、曹洞宗では、ときの大本山永平寺貫首滝谷琢宗(たきやたくしゅう)禅師と大本山總持寺貫首畔上楳仙(あぜがみばいせん)禅師に内容の検討を依頼し、1890(明治23)年12月1日、その名を『曹洞教会修証義』とあらためて公布したのです。その後、『修証義』と改名されて今日に至っていると言うことです。
道元禅師のお悟りとご提唱の眼目は、『只管打坐(しかんたざ)』であります。『ただただ座る事に尽きるのだ』と言う事です。そんな事は馬鹿でも誰でも出来ると言われるかも知れませんが、一度座って見られたら1分も立たないうちに、ただ座る事は出来ないとギブアップされることは間違いありません。頭の中に、いろいろな妄想が駆け巡るに違いありません。
悟りを求めて座禅をするのではないのかと考えられている方もおられると思いますが、悟りも求めず、何を求めるのではなく座ると言う、『無所得(むしょとく)の座禅』が『只管打坐』であります。
修業の中に既に覚り(証)がある、修即ち証と言う道元禅師のお悟りの心境を題名にしたのが、『修証義』だと思います。
浄土門では、『ただ念仏して』と言うことが言われます。何かを願ってする念仏ではなく、ただただ念仏する、御恩報謝をする念仏でもなく、ただ念仏するのだと言われましても、なかなか凡夫はそうは参りません。『仏様どう助けて下さい、この苦しみから救って下さい、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……』とか、『仏様のお陰でこんな良いことがありました。有り難うございます、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……』と言う、何処かに打算が混じってしまいます。
只管打坐、ただ念仏しては、同じ事だと思われます。この事も含めまして、私は道元禅師と親鸞聖人のご教義は、うり二つのようだと感じています。
只管打坐がどうして、『自分の死を克服する』と言う博士過程の卒業論文の結論になるのでしょうか。これを修証義を勉強しなから検証し、頭の理解だけではなく是非とも体得したいものと思います。● 私の修証義との出遭い
私の家は浄土真宗ですが、母が宗派に拘らない仏教徒でありましたから、毎日の朝夕のお経には、浄土真宗と臨済宗、曹洞宗のお経が入り混じっており、その中に『生明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり………』で始まる修証義があったのですが、意味も分らず、私はただ母に合わせて合唱していただけです。
『生きるのも諦めて、死ぬのも諦めるってどういうこっちゃ?』と漠然と疑問を持っていた程度でした。この『修証義に啓かれて 』の教科書として使用させて頂く、『修証義のこころ』を著わされた西川玄苔老師(経歴は後述致します)を垂水見真会に初めてお招きしたのが、昭和55年4月26日、私が35歳でしたが、以来、母のお経の中に修証義の回数が増えたような記憶があります。
しかし、私が修証義の内容について知ったのは、私の42歳位、母も亡くなり(昭和61年没)、2番目の無相庵カレンダーを宋吉寺(西川玄苔老師のご自坊)のご協力を得て制作した頃、西川玄苔老師から頂いた『修証義のこころ』を拝読させて頂いてからです。しかし、その頃、私がゴム化学メーカーの末端管理職になって、苦しみもがいている頃で、管理社会の心苦しさ、人間関係の苦しさを慰めてくれる即効性の本を求めていた私の救いにはなりませんでした。それは今考えますと、私の側にこの修証義と、西川先生の解説を理解する菩提心(ぼだいしん、正しい仏法を求める心)が芽生えていなかったんだなぁ、と想う次第であります。● 西川玄苔老師のご紹介
大正12年(1923年)12月15日に名古屋市に生まれる。東海中学から駒沢大学仏教学科卒業。久留米予備士官学校に入隊。大学時代より沢木興道老師に随身、約20年鉗鎚を受ける。宮崎安右衛門先生よりキリスト教、詩や石の話を教わる。稲垣錦箒庵先生(橋本関雪の高弟)より、南画の手ほどきを受ける。甲斐和里子女子、白井成允先生より、親鸞聖人の教えを聞く。富長蝶如先生より漢詩添削を受け、易経や荘子の講義を聴く。
名古屋、宋吉寺参禅道場を開いて50年、参洲足助山中に参禅道場竹林禅苑を開いて33年。
現在は、宋吉寺住職を長男慈海師に譲り、東堂として、執筆、講演に活躍されています。
無相庵カレンダーの表紙の色紙は、老師の筆によるものです。
西川玄苔老師が最初にNHKの『心の時代』と言う番組に出られた時、老師が、交通事故に遭われて、九死に一生を得られたご経験、食物を奪い合うようなギリギリの生活の場であった兵隊のご経験等をお聞きし、宗教と日常生活(妻子をもたれています)の不一致に悩まれた挙げ句、縁あって念仏の道を歩まれた経緯などもお聞きし、感銘を受けた事を今も記憶しています。
西川玄苔老師は、禅と念仏の両道を極められた、日本仏教史上でも希有なお坊さんであり、道元禅師と親鸞聖人の生まれ変わりとして現代に現れられたのではないかとの想いをますます強くしています。
『修証義のこころ』は、株式会社右文書院出版。
なお、この4月26日(土曜日)午後1時半、神戸市垂水区の舞子ビラ別館(磯辺の間)にて、『愚かな人・賢い人』と言う講題のご法話があります。 舞子ビラは、山陽電鉄霞ヶ丘駅より徒歩10分です。● 修証義の第一節
生(しょう)を明らめ死を明らむるは仏家(ぶっけ)一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死即ち涅槃(ねはん)と心得て、生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣う(ねごう)べきもなし、是時(このとき)初めて生死を離るる分(ぶん)あり、唯(ただ)一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。つづく・・・
No.275 2003.04.17
青山俊董(あおやましゅんどう)尼のご紹介
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No.274 2003.04.14
阿含経(あごんきょう)を訪ねて―最終回―
●今日の阿含経:『千里万里なるも我に近きものなり』
●まえがき:
11月3日にスタートした阿含経を訪ねる旅もいよいよ最終日を迎えました。私の会社の危機的状況、私自身の経済状況を考えますと、無事最終回を迎えられたことを率直に喜びたいと思いますが、今振り返りますと、11月8日のイラク決議1441から始まったイラク問題を横目に見ながら、人類と戦争と宗教について考えさせられながらの旅だった事に因縁を感じます。
先週の金曜日の朝日新聞に、戦争と宗教と言うテーマで、仏教徒としては瀬戸内寂聴さんが、キリスト教徒としては曽野綾子さんが、イスラム教徒としては鈴木紘司氏が、ご自分の見解を述べられていました。何れの見解も、飽くまでも個人のものであり、それぞれの教徒を代表するものではない事は勿論ですが、戦争は政治が起すものであり、政治と宗教は関係ないというのが、曽野さんと鈴木さんの見解でした。曽野綾子さんは、日本政府が早々と米国支持を打ち出した事に関して、『外交のまずさだと言うのは簡単ですが、そうさせたのは国民とマスコミです。なにしろ、日本は自分で自国を守る方法を持っていないのですから。日米安保だって信じられるものではありません。日本も、自国を守るだけの最低限の軍備を持つべきです。私は自国は自国で守らねばならないと考えています。それが国というものでしょう』と述べられていました。今回のイラク、そして北朝鮮問題は、日本の平和憲法の見直し、抑止力としての軍備の必要性についての議論が始まる機縁となり、日本の新しい業の始まりとなるのかも知れません。
この中で、瀬戸内寂聴さんは、仏教にはもともと殺生戒(殺すべからず、殺させるなかれ)と言う教えがあるから、殺生をする戦争には反対だと述べられていました。寂聴さんは、単に戦争反対と言う声明を出したり、断食をしてアピールするだけではなくて、一般の方々を対象とした法座を開き、仏法を世に広める活動をされており、私には及ぶべくも無いご立派な仏教徒ですが、今回の見解内容に関しては、私には少し消化不良でした。
宗教界の大半は、ブッシュ大統領、ブレア首相を戦争犯罪人の扱いをしていますが、彼らも殺生を好んでいるはずがありません。今回の武力行使が正しいか正しく無いかの議論は別として、武力行使致し方無し、民間人や兵士の犠牲も致し方無しと言う、一国を代表する彼等なりの立場と状況と理由があったのだと思いますし、またブッシュ大統領一人やネオコン派の人々の決断だけで武力行使が為されるはずがないと言う仏教の因縁果の考え方も必要だと思います。
もし、3年前の大統領選挙で破れた平和路線、国際協調派のゴア氏が勝っていたら、同時多発テロも、今回のイラク問題も勃発しなかったかも知れません。最後の最後までもつれた選挙で選ばれたのがブッシュ氏だった訳であり、ゴア氏が選ばれても不思議ではなかったものでした。仏教的に考えますと、今回の武力行使は一人の大統領の意志だけで為されたはずは無く、色々な縁(条件、状況、環境)が重なり合って起ってしまったものであり、人類が避ける事が出来なかったフセイン政権の崩壊ではなかったかと思います。そう考えますと、武力行使に反対した国連安保理理事国を含め、人類全体が受止めるべき業であったとして、アメリカのみを批判するのではなく、これ以後、アメリカを国際協調の枠組に引き戻す努力が必要だと思います。
親鸞聖人は歎異抄で、人間は、然るべき業縁がもよおせば、如何なる事でもする。殺したくなくても千人でも殺すとおっしゃったと言う事が伝えられています。条件が整えば、或いはその立場に立てば、自らの希望するところでない過ちをも犯してしまう。自分が殺人しないのも、自分が清く正しいからしないのではなく、そう言う縁に遭遇していないから殺人と言う罪を犯していないだけだと言うお考えです。
『だから殺人も戦争も因縁だから致し方ないと言うのか』と言う声が(私の心の中からも)聞こえてきますが、お釈迦様、聖徳太子、親鸞聖人は、世の中の平安、民の平穏・幸せを願う気持ちは私達以上に切実でありますが故に、私達に無我を説かれ、無常を説かれたのだと思います。私達一人一人が、無我と無常を観じることでしか、本当の平和の実現は無いと、生涯を仏法の伝道に尽くされたのだと思います。
阿含経の最終回として選ばれた今日のお言葉は知恩(ちおん、恩を知る)がテーマとなっていますが、知恩は無我を言い換えたものなのです。
浄土宗の本山である京都の知恩院と言うお名前には、そう言う深い意味があることに気付かされました。●阿含経(増一阿含経11):千里万里なるも我に近きものなり
もし衆生(ひと)ありて恩を知らば、この人は敬うべし。たとへ、この人、我をへだつる千里、万里なるも、なほ遠しとなさず、まことに我に近きものなり。若し衆生(ひと)恩を知ることなければ、彼は我に近かからず、我は彼に近からず、たとへ、僧伽梨(ころも)をまとひて吾が左右(そば)に在るも、この人は我に遠きものなり。●現代意訳:
もし、人が恩をうけることを知るならば、この人を尊敬しなければならない。そう言う人がたとえ自分の側に居なくて、もし千里、万里も遠いところに居ても、この人は自分のすぐ近いところに居るのと同じ事である。もしそれと反対に人が少しも恩と言う事を知らないでいるならば、その人がたとえ私のすぐ側に居ても、実は私の側には居ないのである。私もその人の側には居ない。その人がたとえ立派な法衣を殊勝気(しゅしょうげ)に纏って(まとって)私の側にいたとしても、彼は決して私の側に居るとはいえない。私からずっと離れた遠いところにいるのである。●あとがき:
『恩を知りなさい』と言う事はよく聞かされて参りました。親の恩、我が師の恩と言われますと、恩とはどう言う事であるかは何となく分ります。
しかし、今日のお言葉にある恩とはそう言う恩も含んでいるとは思いますが、お釈迦様はもっと根本的な恩、普遍的な恩を考えておられると思います。
社会の恩恵と言う事に近いと考えて良いと思いますが、もっと広げて、私の生命を生かしてくれている地球の恩恵、太陽の恩恵、宇宙の恩恵、そして宇宙全体を動かしている力=仏様 の恩を知ろうではないかと言う事が知恩であります。
私達は自分が自分の意志で生きているのだと思っています。極端には、自分一人の力で生きているのだと傲慢(ごうまん)な想いに囚(とら)われがちです。しかし我一人で存在しているのではなくて、宇宙の一切のものとの関わりの中ではじめて生命が維持され、日常生活を送る事が出来ている事は、誰しも否定出来ません。それを仏教では無我と言うのだと聞かされて来ました。『我一人では存在しえ無い』と言う無我の教えです。私の生命を生命たらしめている一切のお陰を知ろうではないかと言う教えが、無我であり、知恩だと思います。
以前ご紹介した青山俊董(あおやましゅんどう)尼のご本のお言葉をお借り致しますと、無我とか知恩を下記のように説明出来ると思います。
私達は、寝ているときも自分の意識ではない力の働きで呼吸をしています。そして酸素が準備されているから生命があります。静かに寝ていられるのも地球の引力があるからです。
更には、地球が太陽と程良い距離があるからこそ、程よい温度の中で生命が維持されています。地球より一つ近い金星の表面は、摂氏500度、一つ遠い火星ではすべての液体は氷のようになり、どちらの星でも生命は存在し得ないと言いますし、更にその地球も大気の存在がなければ、直接太陽光線を受けると地球表面は100℃以上になり、太陽が沈むと零下100℃以下になると言われます。地球が自転や公転をしているからこそ、地球全体に夜と昼があり、睡眠も出来、私達日本人は四季を楽しむ事が出来ます。
私のチッポケな生命は、天地いっぱい、宇宙いっぱい総がかりで生かされているのだと言う事ですね。お釈迦様のお言葉として伝えられている『天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)』と言うお言葉は、宇宙いっぱい総がかりで生ましめられ、生かされている我が命は実に尊いものであると言うことなのです。
上述の事をお聞きしますと、私達が当たり前と思っていることは、実は当たり前でないことに気付かされます。目に見えて、肌で心で感じる親の恩、師の恩は、分りますが、目に見えない宇宙の働きにはなかなか気が付きません。こう言う宇宙一切の働きの恩を知れば、感謝するしかありませんし、そして恩に報謝して、世の中の為に私の出来る限りを尽くすしかないのではないかと言う、お釈迦様、親鸞聖人(お念佛は、ただ御恩報謝の南無阿弥陀仏とおっしゃっています)のお諭しだと思います。
恩を知らない人は仏に最も遠い人だとおっしゃったお釈迦様のお心を私自身が大切にし、そして未来に伝えて行く努力をする事が、仏教徒が踏み出すべき人類平和への確かな一歩だと思わずにはいられません。
『阿含経を訪ねて』のご愛読有り難うございました。次に学ばして頂く経典は、曹洞宗の開祖、道元禅師が著わされた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の中から抜粋され、曹洞宗の布教標準と制定された『修証義(しゅしょうぎ)』にさせて頂きます。
曹洞宗のお坊さんとして存じ上げているお二人、西川玄苔老師と青山俊董老尼は共に、禅門を歩まれた方というよりも、親鸞聖人の教えを行持されているのではないかと感じて参りました。実際に西川玄苔老師は、憚られる事なく、お念佛も称えられます。
この修証義も、親鸞聖人の教えを聞いて来た者にとりましても、何の違和感もございません。そう言う意味では、行き着くところは同じとしても、禅宗のもう一方の宗派である臨済宗とは若干趣きが異なるように思います。
西川玄苔老師のご著書『修証義のこころ』を拠り所とさせて頂きまして、来週から『修証義に学ぶ』として、月曜コラムを続けさせて頂こうと思います。
No.273 2003.04.10
イラク問題と世間虚仮唯仏是真
今、世界の注目はイラクに集まっています。テレビのトップニュースはイラクです。私も関心を持ってテレビを見ますが、我が身の危険からは程遠い問題であり、正直なところ観客の立場で見ている自分に気付かされます。
そして、テレビで映る悲惨な目に遭遇しているイラクの幼子に対して何も出来ない自分、まさに小慈小悲も無い自分、何も出来ない自分とは一体何だろう?神のご加護をと言うブッシュ大統領を見ながら、宗教とは何だろう?仏教とは何だろう?こんな時、お釈迦様なら、親鸞聖人ならばどう言う行動に出られるだろうかと半ば自虐的に考えざるを得ません。
日本でも戦争反対とデモする人もいますが、所詮は遠いところで起っている戦争に対して、第三者的な表明に過ぎないと私は思っています。そして、あの9.11のテロで最愛の妻とか大黒柱の夫を失った人々の立場に立ちますと、今回のアメリカの先制攻撃を絶対反対とは言えない部分がある事を否定出来ません。
イラクは遠いですが北朝鮮は隣国です。もし、北朝鮮が東京に、神戸にテポドンを落としたら、私は、どう言う言動を取るかを考えますと、テレビを見たり戦争反対のデモをしているとは思えません。ましてや、妻子・孫を失ったとしたら、報復の血が滾(たぎ)り、冷静に戦争反対の表明をしているかどうか……。北朝鮮への報復の術(すべ)を考え、行動してしまうかも知れません。いざとなれば、どう言う行動をとるか分りません。
『世間虚仮唯仏是真(せけんこけゆいぶつぜしん)』と言われた聖徳太子は、曾我・物部の争いを収める事は出来ませんでした。だからこその世間虚仮唯仏是真と言うお言葉が遺り、『和を以って貴しと為す』と言う悲痛なお言葉を17条憲法の1条に謳われたと思うのです。
世間虚仮とは『世間で起る事すべては、人間の妄想、即ち3毒(貪欲、瞋恚、愚痴)から起ることであり、どんな事が起るか予想すら出来ない』と言う事だと思います。では唯仏是真とは、どう言う事でしょうか。私はこの言葉が今回のイラク問題に対する、聖徳太子と親鸞聖人のお答えだと思います。
そして、それが私達の『落ち着きどころ』だと思います。今日の様な場合を想定されてお示しになられたとは思いませんが、私なりの解釈を下記に申し述べたいと思います。
聖徳太子の唯仏是真、和を以って貴しと為すのお心は、親鸞聖人の『念佛のみぞ真(まこと)にておわします』と同じお心だと思います。世間は人間同士が色々と関わり合う社会です。そしてすべての人間が、貪欲(むさぼり)・瞋恚(自制の効かない怒り)・愚痴の3つの煩悩を持っており、その煩悩に突き動かされて名聞・利養・勝他を求めて、言葉を発し、行動を起します。
そして、互いに壊し合い、自分の縄張りを確保しようとします。ですから、世界は激しく移り変わっていき、いつまで経っても不安定です。これが世間、これが人間社会であります。これは永遠に変わることは無いと思われます。
しかし、そんな世間にありながら、私達には、そんな事を続けていて良いのかと言う魂の奥底からの囁き(ささやき)が聞こえて来ます。永遠なるもの、真実なるもの、善意なるもの、美しいものに憧れ、それらと一体になりたいと言う心が芽生えます。この心が仏心(ぶっしん)と言うものだと思います。菩提心(ぼだいしん)と言ってもよいかも知れません。
この世にお釈迦様を生ましめ、仏教を日本にまで伝えしめた大きな力=仏こそは、永遠に変わる事が無い真実だと言う表現が『唯物是真』だと思います。そしてそれが『南無阿弥陀仏』であると法然上人、親鸞聖人は確信されたのだと思います。
法然上人、親鸞聖人が生きておられたとしたら、この戦争に対して、ただただお念佛を称えられるだけなのかも知れません。お念佛を称えて何になると言う一般の意見もあるかと思いますが、世間の平穏を願い、ただ念仏を称えるだけと言う境地は、自己の真実に気付かされた人にしか分らないのだと思います。
キリスト教の対応として、下記のニュースが流されましたが、私は、これはキリスト様のお心から離れたものであり、間違いだと思います。神の愛も仏の慈悲も、たとえ犯罪者であっても、心を翻して真実に目覚めさせるべく、排除せずに待たれるのではないかと思います。『イエス・キリスト生誕の地として知られるベツレヘムの聖誕教会は、イラクに対する攻撃を行なっているリーダーへの抗議として、ジョージ・ブッシュ米大統領、ドナルド・ラムズフェルド同国防長官、トニー・ブレア英首相及びジャック・ストロー同外相に対し、キリスト教徒にとって最も重要な聖地の一つである聖誕教会聖堂への立ち入りを禁止する決定を下しました。教会区のパナリティウス神父は、「彼らは戦争犯罪者であり子どもたちを殺した張本人だ。しかるに生誕教会として、彼らに対し神聖なる聖堂への立ち入りを永遠に禁止する」と語り、正教協会によって組織された大規模な抗議デモの折、聖誕教会前でこの決定を公表しました』バクダットが制圧されたと言う報道を見ましたが、これからイラクに平和が訪れるまでには、紆余曲折があるのだと思います。武力行使に反対して来たフランス、ロシア、ドイツも、黙っているはずがありません。人類が平和に向って歩き始められるかどうか、この数ヶ月で見えて来ると思います。人間に煩悩があるかぎり、歴史は繰り返されるものだと思います。
No.272 2003.04.07
阿含経(あごんきょう)を訪ねて―13―
●今日の阿含経:『紫金(しこん)の華(はな)いまだ供(く)となさず』
●まえがき:
現代において人気があり、繁盛して、威風堂々の建築物を誇っている宗教は、我が教団に入れば、お金持ちになるとか、病気が治るとかと言う現世利益(げんせりやく)を説くものです。
そして、先祖供養を勧めて、多くの寄付を求めます。
ご先祖を大切にすると言う事は、悪いことではありませんが、お釈迦様のお説きになられた 仏教ではありません。
仏教は、人が幸せになる道を教えるものですが、それは、人間の5欲を満たして得る幸せではありません。ですから、お金が儲かるとか、病気が治ると宣伝する教団とか宗派があるとしたら、それは仏教の宗派ではありません。
今日の阿含経でお釈迦様が私達におっしゃっている事は、そう言う事だと思います。
たまたま明日4月8日は、お釈迦様がお生まれになった日です。浄土真宗では『お花祭りの日』とか『降誕会(ごうたんえ)』と言って、お祝いの行事をするところがあります。こう言う行事をお釈迦様は、微笑みを浮かべて見ていらっしゃるとは思いますが、そのお心は、今日のお言葉の通りではないでしょうか。●阿含経(長阿含経3):紫金の華いまだ供となさず
紫金の華、輪の如くなるを仏のうえに散らすとも、いまだ供となさず。この現身(うつしみ)に無我に入るもの、乃ち(すなわち)、第一供と名づく。●現代意訳:
綺麗な紫がかった金のような花輪を仏の上にハラハラと散らしても、それは仏を供養(くよう)するものであろうか。供養の一つには違いはないが、本当の供養にはならない。それよりも、その当人の現実の日常生活の上に、本当に正しい無我の生活を味わうこと、それが一番の仏への供養である。●あとがき:
私は幼い時から、この様な仏教のあり方・考え方を教わって参りましたから、まことにその通りだと思います。親鸞聖人も、生きておられる間、ご自分のお寺をお持ちになりませんでしたし、親鸞聖人のお師匠である法然上人も、お亡くなりになられる時、お弟子さんが、何処(どこ)を遺跡とすれば宜しいでしょうかと尋ねられた時、『念佛が聞こえるところは全て我が遺跡なり』とお答えになられたと聞きます。仏法の繁盛は、立派な寺を建立するとか、多額のお供え物をすると言うものではないと示されています。
また、親鸞聖人は、お葬式や法事のお経をあげられた事は一度もなかったそうです。お釈迦様と全く同じ事をおっしゃっていたに違いありません。
阿弥陀如来も、仏様も、極端な話、お供え物は要求されていません。ただただ、私が無我の生活を送ることを念願されているのだと思います。
この無我と言うことを一般の方々は誤解されているむきがあると思われますので、少し説明させて頂きたいと思います。
『無我の境地』と言いますと、無念無想、自分の存在をも忘れ果てたような境地と言う意味で使われます。剣道とか、華道・茶道では、そう意味合いも含まれているのかも知れませんが、仏教で言う無我は、若干異なると思います。
仏教では三法印(さんほういん)と申しまして、仏教精神を『諸法無我(しょほうむが)』『諸行無常(しょぎょうむじょう)』『涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)』の三つの言葉で表わします。無我は、この中の諸法無我の無我であります。
そして、無我とは、『私は決して自分一人だけで出来ていない』と言う事で、『周りのあらゆるものがあっての自分だ』と言うことです。我(われ)と言う独立したものが無いと言うことから、無我と言う訳です。静かに考えて見ますと、今日の自分の身分、位置、生活、思想、信仰の一切が自分の手一つでこしらえたように考えていますが、自分一人で出来たものは一つも無いことに気が付きます。両親はじめ周りの人々、そして過去に溯(さかのぼ)れば、無数の方々の恩恵を被って、初めて今日の自分があることに気が付かされます。
これに気が付き、自分のエゴを捨てて、世間に尽くして行く生活をすることが『無我に入る』と言う事です。そして、それが一番の仏への供養だと言われているのです。
お釈迦様や親鸞聖人がお慶びになるのは、お寺を綺麗に改築したり、お寺に寄付をしたり、お葬式や法事を盛大にする事では決してありません。自分自身が無我の生活に目覚め、そして一人でも多くの人々が無我の生活に目覚めることだと思います。
勿論、心を形として表わすことも大切であります。明日は、お釈迦様を偲びつつ、仏前に供養したいと思います。
No.271 2003.04.03
人類転機?
1989年11月、ベルリンの壁と共に共産主義が崩壊致しました。その12年後の2001年9月11日、アメリカ資本主義の象徴である世界貿易センタービルがテロに依って崩壊しました。そしてその1年半後の今年3月20日、アメリカとイギリスの連合軍がイラクの武装解除を求めて武力行使を開始致しました。
極最近のブッシュ大統領及びネオコンと言われる大統領側近達の言動とそれに対する世界規模の反発を見聞きし、そして昨今の世界同時不況と世界的同時株価下落を考え合わせますと、ひょっとすると、あの9.11のツインタワー崩壊は、競争原理を基本として世界を席捲して来た資本主義の崩壊、国連による安全保障を頼りとする民主主義の崩壊として歴史に刻まれるかも知れないと思うようになりました。
しかし、私はアメリカ資本主義と民主主義に問題があるとしても、根幹にある個人の尊厳、個人の自立と個人に許される自由を大切にする考え方こそは守って行かなければならないと思います。そして、そう言う考え方をアメリカに助言し説得する役割は、同盟国として運命を共にする日本、唯一の仏教国であり聖徳太子の『和の精神』を受け継ぎ、核の脅威を体験した日本が果たさねばならないと思うのです。
私の個人見解と致しましては、今回アメリカがイラク国民の独裁からの解放と謳って始めた武力行使は致し方ないし、日本政府が支持した事も容認致しますが、アメリカが本当に、イラク国民に自由を与える為に武力行使したかどうかは、フセイン亡き後のイラク復興に際してのアメリカの姿勢・態度を見れば、明らかになると考えます。
つまり、復興には多額の費用が掛かります。10兆円とも数十兆円とも言われています。この費用負担をどうするかも問題ですが、どの国のどの企業が復興工事を受注するかと言う利権問題の方に各国の関心と思惑が寄せられている様です。
アメリカやイギリスも今回の武力行使には多額の国費を使い、国民も生命と言う犠牲を払っていますので、勿論、アメリカやイギリスと武力行使に反対した国々が同等であってはおかしいとは思いますが、イラク復興に関する安保理協議で、またしてもアメリカが強引な意見主張をするとなると、今度こそ国連自体の崩壊と世界の無秩序化が一気に進むと言うだけでなく、アメリカが今日まで主導して来た民主主義とは一体何だったのかと言う、民主主義思想見直しの波が一気に高まり、21世紀は主義思想混迷の世紀になってしまいます。
こう言う事態にならないように、今度こそ日本は、アメリカ追随ではなく、国連安保理での協議に委ね従う姿勢を明確にし、且つアメリカを諌めなければ、日本と言う国の尊厳も名誉もすべて失い、世界各国から軽蔑されるだけに留まらず、21世紀を人類にとって悪夢の世紀に変えてしまう事になりかねません。
今回のイラク戦争に付いては、前の湾岸戦争とは異なり、世界各国で反戦、反米デモが繰り広げられています。でも本当はサイレントマジョリティーと言って、反戦・反米デモに参加せずに沈黙を守っている人々の方が断然多いと思います。その人々は、12年間国連決議を無視して大量破壊兵器廃棄を証明して来なかったイラクとイラクを独裁統治するフセイン大統領への不信と不審、そしてあの9.11同時多発テロ再発防止の為の武力行使と捉えているのだと思います。
私も今回の武力行使に賛成か反対かの二者択一を迫られれば、消極的賛成派の一員でした。何がなんでも戦争反対と言う立場ではありませんでした。しかし、当初短期で終了すると予想していた戦争が、意外と長期化するのではないかと言う見方に変わり、また、戦争後のイラク復興に関して、国連主導かアメリカ主導かと言う対立が表面化しつつある現在、今回のアメリカの武力行使に対する正当性に若干の疑念が湧き上がって来た事も確かです。
そして、いわゆる『ネオコン派』の独善性と強引さがクローズアップされ、その御輿(みこし)に乗っかっているブッシュ大統領とアメリカに対して少々不安を感じつつあるのは、私だけではないと思います。
ネオコンは、ネオコンサーバティブ(neo-conservative)の略です。neoは新しいとか現代的と言う意味で、conservativeは保守的と言う意味ですので、neo-conservativeは、新保守主義と言う最近作られた単語だと思うのですが、次のように説明されています。
ブッシュ政権で台頭するネオコン派とは:
ネオコンとはネオ・コンサバティブの略で、新保守主義のことを意味します。アメリカ的な民主主義や人権、市場主義などの価値観を絶対として、他の国にもその価値観を押しつける傾向があります。イラク問題に関しても、ネオコン派の狙いはフセイン政権打倒はもちろんですが、その先にはイラクの民主化をきっかけに中東全体の民主化を目指しているというのだという見方があります。
ネオコン派といわれる人々としてはチェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ウルフォウィッツ国防副長官らがおり、国際協調的な考え方で米外交をリードしてきたパウエル長官と対立してきたと言われています。
報道で知る限り、確かにイラクは恐怖政治が行われ、国民に自由が与えられていない国であり、北朝鮮と同様、危ない国家であり国家体制そのものを変えて貰う必要を感じますが、アメリカも圧倒的な軍事力を持っているだけに、ネオコン派が暴走するとなるとアメリカは世界の暴君になる可能性があり、イラク・北朝鮮以上に厄介な国家になります。
武力行使に際して沈黙を守った私達は、この戦争終結後のアメリカの姿勢を注視し、公平な戦後処理が為されそうにない時は、今度こそ、沈黙を破って立ち上らねばならないと思います。そうでなければ、民主主義の良いところまでも失いかねないと思うのです。